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第7話:持ち主の帰還。恋心とすれ違う時計師

おそらく稀に見る鈍感力。


 石橋の上を吹き抜ける風が、廃墟の冷たい空気を運んでくる。


 アリアはルーペを右目に固定したまま、掌の上の真鍮製懐中時計をじっと見つめていた。


 干上がった水路の底から立ち上る見えない魔力の渦。それに呼応するように、スモールセコンドの秒針は、カチ、カチ、と規則正しいリズムで左回りへの逆行を続けている。


「……アリア。暗号って、どういうことだ?」


 ケリーが緊張した面持ちで、アリアの手元を覗き込んできた。


「……よく見ろ。この秒針は、ただ無限に逆回転しているわけじゃない。特定の文字盤の位置で、ピタリと止まるように調整されている」


 アリアが指し示す通り、左回りに進んでいた秒針は、「45」秒の位置――つまり、時計の文字盤において九時の方角で、微かな金属音を立てて停止した。


 内部の歯車は右回りを続けているが、強力な魔力磁場による左回りのトルクと、意図的に設けられた見えない物理的なストッパーが拮抗し、秒針はその位置からピクリとも動かなくなったのだ。


「九時の方向。つまり、西だ。そして、逆行が始まってからストッパーに当たるまでの時間は、正確に十二秒だった」


 アリアは懐中時計の文字盤から顔を上げ、西の方角――崩れかけた貴族の館が密集している方向を見据えた。


「……西へ十二歩。それが、この時計が示している最初の道標だ」


「西へ十二歩……。よし、行ってみよう!」


 ケリーは弾かれたように歩き出し、大きな歩幅で石橋の上から西へと歩数を数え始めた。


 アリアも静かにその後を追う。足元のシルクは「面白いからくりじゃのう」と喉を鳴らしながら、しなやかな足取りで瓦礫を避けてついてくる。


 十一、十二。


 ケリーが十二歩目で立ち止まったのは、半ば崩落した石壁の前だった。蔦がびっしりと絡まり、一見するとただの行き止まりにしか見えない。


「行き止まりだぞ、アリア。何も見当たらないが……」


「……いや。下だ」


 アリアが視線を落とした先には、蔦と土砂に埋もれた、重厚な鉄格子のようなものが僅かに顔を覗かせていた。かつての地下貯蔵庫か、あるいは地下水路へのメンテナンス用の入り口だろうか。


 鉄格子の上には、崩れた石柱が重しのようにのしかかっている。


「……あの石橋で落とし物をした持ち主は、ここへ向かおうとしていた。だが、この惨状を見る限り、中に入った後に外の石柱が崩れ落ちて、閉じ込められた可能性が高い」


「閉じ込められた!? じゃあ、この下に誰かいるっていうのか!」


 ケリーの顔色が変わった。治安維持を担う騎士見習いとしてのスイッチが、完全に切り替わった瞬間だった。


「どいてろ、アリア。俺が開ける」


 ケリーは革鎧の袖をまくり上げると、鉄格子の上にのしかかっている巨大な石柱に両手をかけた。


 ふんっ、と短く鋭い呼気が吐き出される。


 彼の太い腕の筋肉が隆起し、分厚い胸板が張り詰める。並の大人三人がかりでも動かないような石柱が、ズズズ……と鈍い音を立てて持ち上がり始めた。


「……見事な筋肉の出力だ。まるで上質な鋼で打たれたメインスプリング(主ゼンマイ)だな。力の伝達に一切の無駄がない」


 アリアは、ケリーの騎士としての奮闘を、完全に物理法則と機械構造の視点から評価してボソリと呟いた。


「相変わらず色気のない褒め言葉じゃのう。少しは騎士の逞しさに胸をときめかせたらどうじゃ」


 シルクが呆れたように尻尾を揺らすが、アリアは「心拍数を上げる意味がわからない」と冷淡に返すだけだった。


 ガコンッ! という轟音と共に、ケリーが石柱を横に退けた。


 続けて、錆びついた鉄格子を力任せに引き剥がすと、地下へと続く暗い階段がポッカリと口を開けた。湿った土と、古いカビの匂いが這い出してくる。


「……おい! 誰かいるか! 王都騎士団の者だ!」


 ケリーが暗闇に向かって大声を放つ。


 静寂。


 しかし数秒後、奥の暗がりから、微かな物音が聞こえた。


「……だ、だれ……?」


 それは、怯えきった子供の、かすれた声だった。


「いるぞ! 待ってろ、今すぐ行くからな!」


 ケリーは躊躇うことなく暗い階段を駆け下りていった。アリアも革鞄をしっかりと抱え直し、シルクと共に慎重に段差を降りる。


 地下の空間は、外の光が僅かに差し込む程度の薄暗い貯蔵庫の跡地だった。


 部屋の隅、埃まみれの木箱の陰に、身を縮めるようにして座り込んでいる小さな影があった。年齢は十歳に満たないくらいの、茶色い髪をした少年だった。


 服は泥で汚れ、膝には擦りむいた痕がある。寒さと恐怖で、小刻みに震えていた。


「大丈夫か! 怪我はないか?」


 ケリーは大きな体をかがめ、少年の目線に合わせて膝をついた。その声は、先ほどの力任せに石柱を退けた時の荒々しさとは打って変わって、驚くほど優しく、温かいものだった。


「……おじ、ちゃん……? 騎士、さま……?」


「おじちゃんじゃないぞ、まだ若いんだからな。もう大丈夫だ。よく一人で頑張ったな」


 ケリーはそう言うと、自分が羽織っていた青いマントを躊躇いなく外し、震える少年の肩にしっかりと掛けた。さらに、腰のポーチから水筒と、清潔な布に包まれた焼き菓子を取り出し、少年の手に握らせる。


「まずは水を飲め。それから、ゆっくり息を吸うんだ。何も怖いことはない」


 その流れるような手当と保護の動作は、完全に手慣れたものだった。大柄な騎士の制服を着ていながら、その背中からは慈愛に満ちた母性すら漂っている。


「……相変わらず、見事なオカンっぷりじゃ。騎士というより、保育士の方が向いておるんじゃないか」


 シルクがアリアの足元で小さく笑う。


 アリアは無言のまま、革鞄から真鍮の懐中時計を取り出し、少年の前に歩み寄った。


「……お前が、この時計の持ち主か」


 アリアの抑揚のない声に、少年はビクッと肩を揺らしたが、彼女の掌にある懐中時計を見た瞬間、パッと目を輝かせた。


「ああっ! 僕の時計! よかった、おじいちゃんが作ってくれた、大事な時計なんだ……!」


 少年は焼き菓子を口にくわえたまま、ひったくるようにして懐中時計を受け取った。


「……落とし物をしたせいで、帰り道がわからなくなったのか」


 アリアが淡々と尋ねると、少年は少し恥ずかしそうに頷いた。


「うん……。僕のおじいちゃん、昔、魔法の道具を作る仕事をしてて。僕がこの廃墟を探検するのが好きだって言ったら、絶対に迷子にならないようにって、この『秘密のコンパス』を作ってくれたんだ」


 少年は懐中時計の文字盤を愛おしそうに指でなぞる。


「あの橋の上に行くと、魔法の川の力で針が逆向きに動いて、この隠れ家の入り口を教えてくれるんだよ。でも、今日遊びに来たら、入り口の上が崩れて閉じ込められちゃって……。外に出ようにも、時計は橋の上で野犬に追われた時に落としちゃったから、どっちに逃げればいいかわからなくて……」


「……なるほど。孫の探検遊びのために、わざわざ秒カナの摩擦係数を調整し、水精霊の魔力に共鳴する合金を配合したのか。大の大人が、ずいぶんと手の込んだ玩具を作ったものだ」


 アリアの言葉は冷たいように聞こえるが、その声の底には、名も知らぬ職人への確かな敬意が滲んでいた。


 時計の精度を犠牲にしてまで、孫が迷子にならないための道標を仕込んだ祖父。その執念と技術力は、かつて老婦人のために雨の日に遅れる時計を作った魔法具細工師の不器用な優しさに、どこか似ている気がした。


「……時計は、壊れていない。ただ、内部の油が少し乾き始めている。帰ったら、祖父にホゾ穴の掃除を頼むんだな。そうしなければ、いずれ本当に秒針が回らなくなる」


「うん! ありがとう、お姉ちゃん!」


 少年は満面の笑みで頷いた。


「よし、それじゃあお家に帰ろうか。親御さんも心配してるだろうからな。ほら、背中に乗れ」


 ケリーは少年に背を向け、しゃがみ込んだ。少年は嬉しそうに、ケリーの広い背中におぶさる。


 三人と一匹は、薄暗い地下貯蔵庫を抜け出し、再び地上の廃墟へと戻った。


 いつの間にか、空は燃えるような夕焼けに染まっていた。崩れかけた石壁も、干上がった水路も、すべてがノスタルジックな黄金色に包まれている。


 ケリーの背中で安心したのか、少年はすぐにスースーと規則正しい寝息を立て始めた。


「……しかし、驚いたぜ。アリアが時計の中身を見ただけで、暗号の意味まで解き明かしちまうなんて」


 帰り道、ケリーが背中の少年を起こさないように、少し声を潜めて言った。


「……構造を見れば、設計者の意図はわかる。物理法則は嘘をつかないからだ」


 アリアは前を向いたまま、淡々と答える。


「いや、それだけじゃないさ。お前はただ機械に詳しいだけじゃない。その時計に込められた『誰かの想い』みたいなものを、ちゃんと掬い取ってくれる。だから、この子もこうして助かったんだ」


 ケリーは立ち止まり、夕日に照らされたアリアの横顔を、真っ直ぐに見つめた。


 その琥珀色の瞳には、隠しきれない熱と、深い敬愛の念が揺らめいていた。


「俺……アリアのそういうところ、本当にすごいと思うし……その……すげえ、好きだな」


 最後の一言は、顔を真っ赤にしながら、絞り出すように呟かれたものだった。


 それは、鈍感な人間でも気づくような、明確な好意の提示。夕暮れの廃墟というシチュエーションも相まって、完璧な告白に近い空気がそこには流れていた。


 しかし。


「……当然だ」


 アリアは一切の照れも、感情の起伏も見せずに、ケリーの方を振り返った。


「私の技術と、この世界の物理法則を完全に読み切る演算能力。これを高く評価するのは、正しいことだ。私ほど正確に時計の異常を診断できる人間は、この王都には他にいない」


「えっ」


「……この少年が助かったのも、私の技術力があったからだ。お前が私の能力を好きだと言うなら、今後もせいぜい良質な油と工具の調達で貢献してくれ。差し入れのスープの塩加減も忘れるな」


 アリアは自分の技術力を純粋に褒められたと完璧に勘違いしたまま、堂々と胸を張って言い切った。


 そこには、恋愛感情が入り込む隙間など、ミクロン単位たりとも存在していなかった。


 ケリーはポカーンと口を開け、やがてガックリと肩を落とした。背中の少年が少しだけずり落ちそうになり、慌てて抱え直す。


「……う、うん。塩加減、気をつけるよ……」


「やれやれ。これだから機械オタクは……。岩よりも硬い心じゃのう。哀れな大型犬に、少しは優しくしてやれんのか」


 シルクが呆れ果てたように前足を舐めながら、ケリーに同情の視線を送った。


「……何か言ったか、シルク」


「いいや、何も。今日の夕飯は何にするかと考えとっただけじゃ」


 アリアは小さく鼻を鳴らすと、再び歩き出した。


 その時。


 ゴーン、と。


 夕闇の迫る王都の空に、六つの刻を知らせる大時計台の鐘が響き渡った。


 空気を震わせるその音は、やはり分厚い布を被せたようにくぐもっており、本来の澄んだ青銅の響きとは程遠い。


 アリアは立ち止まり、夕焼け空に浮かぶ巨大なシルエットを静かに見上げた。


 この手に持っている真鍮の懐中時計には、持ち主の想いと、それを叶えるための意図的な細工が施されていた。ならば、あの巨大な時計台が悲鳴を上げているのにも、何か理由があるのだろうか。


 ただの油切れか、摩耗か。それとも、もっと深い、誰かの想いが絡みついているのか。




 アリアは誰に聞こえるでもない微かな声で呟き、再び歩みを進めた。


 今はまだ、あの巨大な時間に触れることはできない。自分にできるのは、こうして目の前に現れた小さな時計の迷子を、一つずつ本来の持ち主の元へ返してやることだけだ。


 夕焼けの廃墟を抜ける三人の影が、石畳の上に長く伸びていく。


 路地裏の時計修理店に戻れば、またいつも通りの、静かな「チクタク」という駆動音が彼女を迎えてくれるはずだ。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【★★★★★】をいただけますと幸いです。


次回お楽しみに。

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