第33話:無自覚な愛着と、髪飾り
ガタゴトと心地よい振動を立てていた馬車が、夕闇の迫る街道沿いの小さな宿場町へ滑り込み、本日の旅路を終えた。
白亜の港町アルト・マリーナから王都へと戻る半ばの旅籠。古びた木造の建物は、長年の風雨に耐えてきた飴色の柱と、どこか懐かしい薪ストーブの煙の匂いに包まれていた。大通りから離れた二階の客室には、静かな黄昏の光が格子窓から斜めに差し込んでいる。
「ふぅ……。今日はここまでだな。アリア、お疲れさん。港町で仕入れてきた干物と野菜で、温かいスープでも作ってくるから、部屋でゆっくりしてろよ」
ケリーは大きな旅の荷物を部屋の隅へ置くと、爽やかな笑顔を浮かべて一階の共同厨房へと降りていった。
部屋に残されたのは、アリアと黒猫のシルクの二人(一人と一匹)。
チク、タク、チク、タク。
アリアは革鞄から小さな懐中時計を取り出し、作業机の上に置いた。静寂の部屋に、規則正しい針の音だけが静かに響き始める。
アリアは旅用の帽子を脱ぎ、銀色の髪をふわりと解くと、静かに机の前の木製椅子へと腰掛けた。
そして、手元に置かれた革鞄の横から、一つの小さな真鍮製の小箱を取り出した。
昼間、移動中の馬車の中でケリーから唐突に手渡された、港町の『海のお土産』——真珠層の美しい貝殻細工の髪飾りである。
小箱の蓋をパカリと開けると、夕暮れの柔らかい光を受けて、桜貝の繊細な桜色と、白貝の透き通るような光沢がキラリと輝いた。
「……ふむ」
アリアは無言のまま右目にルーペ(キズミ)を嵌め込み、ピンセットでその髪飾りをそっと持ち上げた。
前世は三十代の無骨な男の時計職人。可憐な少女の装飾品など、本来であれば縁もゆかりもない代物だ。馬車の中では前世の自意識が邪魔をして顔を真っ赤にし、「不要だ」「非効率だ」と散々理屈を捏ねて突っ放した。
だが——一人静かな部屋になると、職人としての『性』と、胸の奥に芽生えた微かな愛着が、彼女の指先を動かさずにはいられなかったのだ。
「……やはり、素人の加工だな。接合部のハンダ付けに微小な巣(空洞)がある。金具の真鍮線も、研磨が甘くバリが残っているな」
アリアはボソボソと独り言を呟きながら、作業鞄から極小のヤスリとピンセット、そして自作の特殊な防腐・防錆オイルが入った小瓶を取り出した。
「桜貝や白貝の主成分は炭酸カルシウム……アラゴナイト結晶だ。酸性度や皮脂、空気中の湿気に弱く、このまま何の保護処理も施さずに放置すれば、数年で真珠層が劣化して表面の光沢が失われてしまう。……極めて不経済だ」
口では散々な批評を並べ立てながらも、アリアの手つきは驚くほど優しく、そして丁寧だった。
シャッ……シャッ……。
微小なヤスリの先端を用い、真鍮ワイヤーの僅かなバリを数ミクロン単位で削り落とす。貝殻を固定しているカシメ部分の角度をピンセットで微調整し、ぐらつきを完全に無くしてみせた。
さらに、綿棒の先に垂らした透明な特殊オイル——前世の知識を応用し、天然のオイルと高級密蝋を絶妙な比率で配合した自作のコーティング剤を、貝殻の繊細な曲面一枚一枚へと擦り込んでいく。
オイルが馴染むにつれ、桜貝のピンク色はより深くみずみずしさを増し、白貝の真珠層は夕日の光を浴びて、幾重にも重なる虹色の光を放ち始めた。
「……よし。これで皮脂による酸化と塩害は遮断された。強度も二倍以上に向上している」
アリアは満足そうに小さく息を吐き、ルーペを外した。
手のひらの上に載せられた髪飾りは、一時間前とは見違えるほど美しく、洗練された品格を漂わせていた。
「……くくく。口では散々文句を言っておった癖に、随分と丹念にお手入れをしておるのう、嬢ちゃん」
ベットの上で丸くなっていた黒猫のシルクが、半目を開けて喉を鳴らした。
「……誤解するな、シルク。私はただ、構造物として不完全な状態を放置できなかっただけだ。職人としての本能的処置に過ぎない」
「はいはい、そういうことにしておいてやろう。……で、せっかく直したんじゃ。自分の髪に付けてみたらどうじゃ?」
「っ……!? な、なぜ私がそんな無駄な行為をしなければならない! これはただの機能的補強であって——」
「ほれ、鏡が目の前にあるぞい」
シルクが前足で卓上鏡をトントンと叩いた。
アリアは耳の先をポッと赤くしながらも、チラリと鏡の中に映る自分を見つめた。
薄暗い部屋の中、月明かりを溶かしたような透き通る銀髪。その無防備に垂れ下がった髪に、自分でも驚くほどおずおずとした手つきで、補強し終えたばかりの貝殻細工の髪飾りに手を伸ばした。
カチリ。
サイドの髪をひとまとめにし、真鍮のピンをそっと挿し込む。
鏡の中に映し出されたのは——銀色の長い髪の上に、可憐な桜色と虹色の光を咲かせた、一人の美少女の姿だった。
氷のように冷ややかな青い瞳と、色素の薄い銀髪に、可憐な海の彩りが驚くほど見事に調和している。冷たかった表情にどこか柔らかい華やかさが加わり、少女としての可愛らしさが何倍にも引き立てられていた。
(あ……)
アリアは息をのんだ。
前世のおじさんとしての自意識を脇に置いても、一人の職人として、そして少女として——「不悪(悪くない)」と思わざるを得ない美しさがそこにあった。
「……不調和ではないな。光の反射角度および色彩のコントラストにおいて、一定の視覚的効果が認められる」
誰も聞いていないのに早口で言い訳をしながら、アリアは鏡に映る髪飾りに、そっと指先で触れた。ケリーが「お前に似合うと思ってさ」と言っていた真っ直ぐな笑顔が、頭の中に不意に蘇り、胸の奥が甘痒い熱を帯びていく。
まさに、その時だった。
トントン、と軽快なノックの音。
「アリアー、温かいポタージュとパンができたぞー」
返事を待つこともなく、両手に深皿を載せたケリーが、ドアを腰で押し開けて部屋に入ってきた。
「あっ……ッ!?」
アリアは大慌てで髪飾りを外そうとしたが、焦りのあまりピンが髪に引っかかり、外すことができない。
「な、なんだケリー! ノックをしてから三秒は待てと言っているだろう!」
「いや、返事がなかったから……って、え……?」
ケリーの言葉が、途中でピタリと止まった。
部屋の中に一歩足を踏み入れた大型犬騎士は、そのまま石のように固まった。
手に持ったスープ皿から温かい湯気が立ち上る中、ケリーの琥珀色の瞳が極限まで見開かれ、目の前に立つ銀髪の少女へと釘付けになっていた。
夕焼けの光が差し込む部屋の中。
アリアの艶やかな銀髪の上で、昼間自分が渡したあの貝殻細工の髪飾りが、誇らしげに虹色の光を放っていた。
「……ッ!!」
ケリーの顔面が、みるみるうちに爆発しそうなほどの鮮血の赤へと染まっていく。
昼間、「不要だ」「理屈に合わない」とあれほど冷たく突っ放していた少女が。
誰もいない部屋で、自分があげた贈り物をちゃんと大切にお手入れし、自分の髪に飾ってくれていたのだ。
(つ、付けてくれてる……ッ!! 俺があげた髪飾りを、本当に使ってくれてる……ッ!!)
ケリーの胸の中で、言葉にならない歓喜と感動が爆発した。
彼は必死で声を殺しながら、スープ皿を落とさないように片手でテーブルへ滑り込ませると、反対側の拳を力強く握り締め——アリアに見えないよう、己の腰の後ろで盛大な『ガッツポーズ』を何度も叩きつけた。
よっしゃああああっ!!と、心の叫びが部屋中に轟きそうなほどの勢いである。
「け、ケリー! 何をボケっと立っている! これは違う! 決して装飾目的で着用したわけではない!」
アリアは顔を耳の先から首筋まで真っ赤に染め上げ、猛烈な勢いで捲し立てた。
「この髪飾りは金具の強度が不足していたため、職人として構造的補強を施した! そして、補強後の耐荷重および重心バランスを測定するため、一時的に頭部に保持(装着)してみただけに過ぎない! 物理的なテストだ! 実験だ!」
「お、おう! 実験か! 分かってる、実験だな!!」
ケリーは顔を真っ赤にしたまま、ニタニタと抑えきれない笑みを浮かべて頷いた。
実験だろうがテストだろうが、アリアが自分の贈り物を大切にし、実際に身につけてくれたという事実は変わらないのだ。
「すごく似合ってるぞ、アリア! やっぱり、お前に買って正解だった!」
「っ……!! うるさい! 見るなバカ騎士! これ以上の視線的干渉は作業の妨げになる!」
アリアは照れと羞恥心の限界を突破し、慌てて髪飾りを外すと、小箱の中に放り込んでパタンと蓋を閉めた。
そして、むっとそっぽを向きながら、テーブルの上のポタージュへと手を出した。
「……冷める前に栄養を摂取する。お前はあっちへ行け!」
「へへっ、了解いたしました、アリアお嬢様!」
ケリーは鼻の下を伸ばしたまま嬉しそうに破顔し、満足そうに自分のスープを口へと運んだ。
アリアはふくれ面をしながらも、匙ですくったポタージュを口にし、その温かさに瞳を小さく細めた。
ベットの上では、一部始終を見ていた黒猫のシルクが、前足で顔を覆いながら「くくく……」とお腹を揺らして笑っていた。
「やれやれ。素直になれん小娘と、単純すぎる大型犬じゃのう。……まあ、退屈せんから良いが」
夜の静寂が、小さな宿場町の旅籠を優しく包み込んでいく。
チク、タク、チク、タク。
テーブルの上で時を刻む懐中時計と、小箱の中で大切に保管された真珠色の髪飾り。
焦れったくも温かな二人と一匹の時間は、南の海の思い出とともに、ゆっくりと、けれど確実にその距離を縮めながら、懐かしい王都へと向かって刻み続けられていた。




