第34話:シルクの独白「時間は巻き戻らんが」
ガタゴト、ガタゴト。
揺れる馬車の中は、昼下がりの温かな日差しと、どこか気恥ずかしい静寂に包まれていた。
ワシはシートの上に前足を丸めて香箱を組み、微かに開けた金色の瞳で、目の前に座る二人の人間を観察しておった。
向かいの席では、銀髪の小娘——アリアが、膝の上の革鞄を抱えるようにして座っている。
不機嫌そうに唇を尖らせ、窓の外の木々を眺めているふりをしているが、ワシの目はごまかせん。その華奢な指先は、革鞄の隙間に忍ばせた小さな真鍮の小箱に、何度もそっと触れてはおずおずと引っ込めていた。
昨日、宿場で手入れを施した、あの貝殻細工の髪飾りの入った箱じゃ。
自分で「構造的補強だ」「物理的なテストだ」と散々理屈をこねくり回しておった癖に、一度手に取ったその感触が、どうにも忘れられないらしい。
そして、その隣に座るケリーの様子と言ったら、まあ目も当てられん有様じゃった。
アリアの指先が小箱に触れるたびに、大型犬のような琥珀色の瞳をキラキラと輝かせ、一人で顔を赤くして鼻の下を伸ばしている。アリアから「見るなバカ騎士」と冷たく睨まれると、大慌てで空を見上げて「い、いい天気だなあ!」と大声を出して誤魔化す始末じゃ。
まったく、見ていて飽きない阿呆どもじゃわい。
ワシはふっと鼻を鳴らし、しなやかに尾を揺らした。
大魔法使いアルドゥスという旧主に先立たれ、路地裏の片隅で野良猫になりかけていたワシが、この小娘——アリアに出会ってから、どれほどの月日が流れただろうか。
最初にあの小さな時計修理店の扉をくぐった時のことを、ワシは今でもハッキリと覚えている。
当時のアリアは、今以上に冷たく、硬く、まるで氷でできた人形のようじゃった。
透き通るような銀色の髪と、感情の起伏を感じさせない氷の瞳。その瞳の奥底には、幼い少女にはおよそ似つかわしくない、深く暗い「過去の影」と「死の匂い」が揺らめいていた。
高位の使い魔であったワシには分かった。
あの小娘は、ただの天才子供ではない。一度、命のゼンマイが完全に解け切り、止まってしまった時間をその魂に宿しているのだと。
前世で何があったのかは知らん。だが、あの頃のアリアは、まるで自分自身が壊れたアンティーク時計であるかのように、無機質に、機械的に誰かの時計を直し続けていた。
自分の時間を進めることを諦め、ただ静かな路地裏で、他人の止まった時間を巻き戻すことだけに没頭していたのじゃ。
——そこに、あの暑苦しい大型犬……ケリーが転がり込んできた。
騎士のくせに料理が得意で、お節介で、アリアが無理をすれば本気で怒り、泣きそうな顔でスープを持ち込んでくる男。
最初、アリアはケリーのことを「鬱陶しい不確定要素」として徹底的に突っ放しておった。だが、ケリーという男はどれほど冷たくあしらわれても、アリアの隣に立ち続けた。
アリアの体を心配し、強引に休日を与え、彼女が「時間の孤独」に呑み込まれないよう、その太い両腕でしっかりと彼女の世界を繋ぎ止めてきたのだ。
そして、今回の南の海への出張修理の旅。
腐食する船鐘、父親の想いが詰まったクロノメーター、そして古代の水門大時計……。
波と塩風の中で、二人は何十回、何百回と互いを支え合い、ついにはこの星の自転軸の傾きという、途方もない「世界の狂い」すらも、二人の手で正してみせた。
激しい水圧の中で、自らの肉体を「人間の足場」に変えてアリアを支えたケリー。
そして、その信頼に応えるように、コンマ数ミクロンの精度で星の歯車を打ち直したアリア。
あの大規模な海底遺跡の調律を終えた時、アリアの瞳から、あの暗く冷たい「過去の影」は完全に消え去っていた。
ワシは目を細め、静かに呼吸を整えた。
……人間という生き物は、つくづく不便で、愛おしいものじゃな。
魔法を使えば、失われたものを幻影として見せることはできる。
だが、過ぎ去った過去や、一度止まってしまった人間の命の時間を、巻き戻すことなど誰にもできん。
アリアもまた、前世の孤独や病室の寂しさを、完全に消し去ることはできんのだろう。
しかし——時間は巻き戻らんでも、未来へ向かって新しく進めることはできる。
冷めない温かいスープ。
くだらない軽口と、照れくさそうな言い訳。
不器用な男が買ってきた、真珠色に輝く小さな髪飾り。
ケリーが差し出し続けたそれらの温もりが、止まっていたアリアの時間の歯車に油を注ぎ、今、カチリと音を立てて未来へ向かって針を動かし始めているのだ。
「……何をニヤニヤ見ている、シルク。不快だ」
不意に、アリアの冷ややかな声がワシの頭上から降ってきた。
見上げれば、膝の上の小箱をサッと革鞄の奥へ押し込んだアリアが、耳の先をほんのり赤くしながら、むっとした表情でワシを見下ろしていた。
「くくく、何でもないぞい、嬢ちゃん。ただ……お前さんの顔色が、王都を出た時よりも随分と良くなったと思ってな」
「……当然だ。睡眠時間および栄養摂取量が適正値に達したためだ。感情的な変化ではない」
「はいはい、そういうことにしておいてやろう」
ワシが喉を鳴らして笑うと、隣のケリーが「おいおい、シルク。アリアをあんまりいじるなよ」と、これまた嬉しそうな顔で割り込んできた。
「俺たちの旅も、もうすぐ王都へ到着だ。帰ったら店の大掃除をして、久しぶりに街の市場で肉を買って、特製の大鍋煮込みでも作るか!」
「……肉の加熱調理は、灰汁の除去作業を徹底しろよ、ケリー。スープの透明度が濁る」
「へいへい! 任せときなって!」
二人の他愛もない掛け合いが、昼下がりの車内に心地よく響く。
馬車は街道を抜け、遠くに懐かしい王都のシルエットが見え始めていた。
時間は巻き戻らんが、新しい時間を紡ぐことはできる。
かつて過去の亡霊だった少女は今、不器用な騎士と老猫と共に、どこまでも広がる未来の時間を刻み始めておるわい。
ワシは満足そうに長目をし、二人の温かな気配に包まれながら、再びゆっくりと瞼を閉じたのだった。




