第32話:帰路の馬車と、海のお土産
ガタゴト、ガタゴト。
木製の車輪が踏みしめる乾いた土の音が、長閑な街道に規則正しく響いていた。
白亜の港町アルト・マリーナを後にしてから数時間。車窓の風景は、潮風の香る青い海原から、ゆるやかな起伏を描く青々とした丘陵地帯と深緑の森へと少しずつ姿を変えていた。窓から入り込む風も、海水を含んだ重く湿ったものから、草木の匂いを孕んだ爽やかなものへと変わっている。
定期馬車の揺れは思いのほか優しく、座席に敷かれた厚手のクッションが旅の振動を適度に吸収してくれていた。
「……ふぅ」
アリアは革鞄を膝の上でしっかりと抱え直し、深く腰掛けたまま窓の外へと視線を向けた。
鞄の奥深くには、ポルト・サリナで最後の一個が回収され、古代の水門大時計の心臓部で「真の調律」を果たした完全体『星図アストロラーベ』が静かに収まっている。
世界の時間のズレ、地軸の傾き、そして人々の魔力過剰使用という壮大な真相。そのあまりにも巨大な謎の片鱗に触れた疲労と、一つの仕事をやり遂げた職人としての静かな満足感が、アリアの小さな身体を心地よく包み込んでいた。
「ほらアリア、温かいスープができたぞ。冷めないうちに飲め」
向かいの座席から、ケリーの明るい声が飛んできた。
彼の手には、旅籠から持ち出した魔法保温容器と、素焼きの深皿。今朝、バルトロ船長から贈られた港町特産の極上エビや白身魚の干物、地元のハーブをたっぷり使って、馬車が揺れる直前に手早く仕込んできた特製の海鮮スープだ。
皿が手渡された瞬間、車内いっぱいにエビの香ばしい濃厚な出汁と、白ワインとハーブの甘く爽やかな香りが広がり、アリアの鼻腔をくすぐった。
「……車内での加熱および液体調理は、揺れによる火傷の危険性を伴う。非効率的だ」
「固形燃料の魔法具で安全に温めただけだろ。いいから飲めって。お前、水門大時計の修理からこっち、ろくに栄養摂ってないんだからさ」
ケリーは大型犬のような人懐っこい笑みを浮かべ、傍らに添えたカリカリのバゲットとともにスープ皿をアリアの手元へ押し付けた。
「ほれ、シルク。お前には塩分を抜いて細かくほぐした白身魚と出汁煮だ」
「うむ! 苦労をかけるのう、ケリー。馬車の中でこれほどの料理が食えるとは、実に良い助手を持ったわい」
シルクはシートの上で尻尾を機機嫌よくゆらし、自分の皿に顔を突っ込んでハフハフと喉を鳴らした。
アリアも促されるまま匙を取り、赤黄金色のスープをひとくち口へと運ぶ。
「……ッ」
口の中に広がったのは、圧倒的な海の旨味だった。
凝縮されたエビの濃密なエキスと、ほろほろに崩れる魚の甘み。そこに完熟柑橘の微かな酸味がアクセントとして加わり、長旅で疲れた胃袋へと温かく染み渡っていく。バゲットを浸して頬張ると、スープを吸った小麦の香ばしさが堪らない。
「……アミノ酸の抽出温度、および塩分濃度の調整が適正だ。栄養補給として評価する」
「だから『すごく美味い』って言えってんだよなあ。まあいいや、美味そうに食ってる顔を見ればわかるからな」
ケリーは満足そうに破顔すると、自分も大きな口でパンとスープを豪快に平らげた。
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食事が終わり、ケリーが手早く容器を片付けて布でテーブルを拭き終えた頃。
馬車は木漏れ日が差し込む静かな森の街道へと差し掛かっていた。
カチ、タク、カチ、タク。
膝の上の革鞄から漏れ聞こえる規則正しい精密な機械音。
静寂が車内を包み込む中、ケリーが不意に何かを思い出したように「あ、そうだ」と声を上げた。
「アリア。お前に渡そうと思って、港町で買っておいたものがあるんだ」
「……私に?」
アリアが不思議そうに眉をひそめると、ケリーは少し照れくさそうに頬をかきながら、革の上着の内ポケットへと手を差し入れた。
取り出されたのは、掌に収まるほどの小さな真鍮製の小箱だった。
「アルト・マリーナを出る前……お前が水門大時計の図面をノートに描いて没頭してた時、港の市場をちょっと散歩してただろ? その時に見つけたんだ」
ケリーは小さな小箱の蓋をパカッと開け、アリアの前へと差し出した。
「ほら。これ」
「……ッ!?」
小箱の中身を目にした瞬間、アリアの思考の歯車がガタリと音を立てて停止した。
深紅のベルベットの上に載せられていたのは、細やかな『貝殻細工の髪飾り(かんざし)』だった。
南の海の澄んだ真珠層を持つ美しい白貝と、淡い桜色をした桜貝の破片が、精巧な真鍮の金属線によって可憐な花の形に組み上げられている。金具の表面は塩害を防ぐための透明な樹脂コーティングが施されており、車窓から差し込む木漏れ日を浴びて、真珠特有の虹色の輝きを繊細に放っていた。
(な……なんだこれは……ッ!?)
アリアの頭の中で、前世の三十代男性としての自意識が猛烈な大パニックを起こして悲鳴を上げた。
(か、髪飾り……!? 女性用の装飾品だと!? この私が……前世はおじさんだったこの私が、こんな可憐で乙女チックなピンク色の貝殻細工など……っ!!)
一瞬で顔面が朱に染まり、耳の先まで真っ赤になるアリア。
しかし、表面上は冷酷な職人の仮面を必死で貼り直し、超早口で理屈を捲し立てた。
「不、不要だ! 物理的および機能的観点から言っても、このような装飾品は毛髪の保持力において何ら寄与しない! 単なる無駄な重量増加であり、作業時の視界の妨げになる可能性が——」
「堅いこと言うなよ。港の職人が『一番綺麗な貝を選んで作った』って自慢してたんだぞ」
ケリーはアリアの早口な反論など意にも留めず、優しく穏やかな目を細めて言った。
「お前、いっつも髪を適当な紐で結んでるだけだろ? ……それにさ。いつも無愛想でつっんどんどんしてるお前に、この綺麗な海のお土産がすごく似合うと思って買ったんだ」
「に、似合うだと……っ!? た、天文学的および光学的に言っても、私の銀髪の反射率とこの真珠層の波長は不調和であって——」
「いいから受け取れって。俺からの出張お疲れ様のプレゼントだ」
ケリーはアリアの細い手を優しく取り、小箱をそのままポンと彼女の手のひらの上へと載せた。
大柄な騎士の温かい手。そこに込められた純粋で真っ直ぐな好意と気遣い。
「……くくく」
向かいのシートで毛繕いをしていたシルクが、喉を鳴らして楽しそうに笑った。
「やれやれ、若い男からの贈り物か。顔を真っ赤にして理屈をこねくり回すとは、嬢ちゃんも実に初心で可愛らしいのう」
「し、シルク! 黙れ! 不確定な妄言を吐くと、今日の夕飯の白身魚を没収するぞ!」
アリアが耳まで真っ赤にして怒鳴り散らすと、ケリーも「な、なんだよシルク! 俺はただ、日頃の感謝でだな……っ!」と今更のように顔を赤くして大慌てで手を横に振った。
車内に広がる、気恥ずかしくも甘酸っぱく、温かな空気。
アリアは手の中の小箱を見つめた。
虹色に輝く小さな貝殻細工。前世の自分なら決して手に取ることのなかった、可憐な乙女のための贈り物。
拒絶の言葉を口にしようとしたが、ケリーのあの真っ直ぐな笑顔と思い出が胸をかすめ、どうしても「いらない」と突っぱねることができなかった。
「……っ。無駄な装飾品だ」
アリアは小さく呟き、逃げるように小箱の蓋をパタンと閉めた。
「……だが、せっかくの構造物を無駄にするのは職人の意に反する。……保管(仮受領)だけはしておいてやる」
「へへっ、おう! 大事にしてくれよな!」
アリアの照れ隠しの言葉を好意的に解釈し、ケリーは嬉しそうに破顔した。
馬車はガタゴトと心地よい音を立てながら、森の街道を抜けて王都への一本道を進んでいく。
膝の上の革鞄と、手の中の小さな真鍮の小箱。
前世で止まっていた少女の時間は、南の海の思い出と、隣にいる不器用な騎士の温もりを乗せて、ゆっくりと、けれど確実に未来へと時を刻み続けていた。




