第31話:港町の英雄と、静かなお別れ
朝のアルト・マリーナは、どこまでも澄み切った潮風に包まれていた。
水平線から上ったばかりの太陽が、昨日の大水害を乗り越えた白亜の街並みを優しく照らし出している。引き潮に乗って水門の外へと引いていった海は、本来の静けさを取り戻し、港の波止場には穏やかな小さな波が打ち寄せていた。
街の低地にある広場や市場では、朝早くから人々が集まり、清掃や復旧作業に精を出していた。だが、その表情に悲壮感は微塵もない。むしろ、壊滅的な水没の危機を免れた安堵と、沖合に浮かび上がった神秘的な古代の天文台遺跡への好奇心で、街全体が祭りの前夜のような熱気に満ちあふれていた。
「おい、聞いたか!? 船乗りギルドの長老たちが、今夜あの小柄な時計師さんのために、港一番の大宴会を開くらしいぞ!」
「当たり前だろ! あの水門の暴走を止めて街を救ってくれたんだ。街じゅうの魚と酒をかき集めて、最高の英雄としてもてなさなきゃバチが当たる!」
街のあちこちで交わされる威勢の良い噂話。
だが、その熱狂の中心人物であるはずの少女は、港を見下ろす古い旅籠の二階で、何一つ関心を示さずに黙々と作業を進めていた。
チク、タク、チク、タク。
静かな客室の中に、規則正しい時計の針の音だけが響いている。
アリアは作業机の上に広げた布の上で、今回の旅で使用した工具類を一本ずつ丁寧に拭き上げていた。
ピンセット、極小ドライバー、油差し、そして右目に嵌めていたルーペ(キズミ)。海水や塩風による微小な腐食を防止するため、自作の防錆オイルをしみ込ませた布で入念に拭き、革鞄の決められたポケットへと収めていく。その所作には、一切の迷いも無駄も存在しなかった。
「……よし。工具の点検、およびパッキング完了」
革鞄の金属フックをカチリと締め、アリアは小さく息を吐いた。
その傍らでは、ケリーが困ったような苦笑いを浮かべながら、大きな旅の荷物を抱えて立っていた。
「……本当にいいのか、アリア? バルトロ船長やギルドの人たち、今夜は大祝勝会をやるんだって意気込んでたぞ。シエラだって、お前に手作りの魚料理を振る舞うんだって朝から市場を走り回ってたのに」
「……無駄な狂騒に付き合う時間はない」
アリアは冷ややかな声で短く言い放つと、使い慣れた旅用の帽子を手に取り、銀色の髪の上に浅く被った。
「私は依頼を受け、壊れた機械の原因を特定し、修理しただけだ。街の英雄ごっこをするためにこの港町へ来たわけではない。大勢の人間に取り囲まれ、無意味な歓声や乾杯に時間を費やすなど、非効率の極みだ」
「相変わらずつれない奴だなあ。まあ、お前が大勢の人前に引っ張り出されたら、顔を真っ赤にして固まっちまうのは目に見えてるけどさ」
ケリーが「へへっ」と笑うと、ベッドの上で丸くなっていた黒猫のシルクが、長いあくびをしながら身を起こした。
「くくく、若いのの言う通りじゃな。ワシとしては、嬢ちゃんが船乗りどもに揉みくちゃにされて不機嫌そうな顔をするのを見るのも酒の肴として悪くなかったがのう。……まあ、この小娘の頑固さは今に始まったことではないわい」
「……余計なお世話だ、シルク。行くぞ」
アリアは鞄をしっかりと肩に掛け直すと、部屋の木製テーブルの上に一通の封筒をそっと置いた。
そこには、バルトロ船長とシエラへ向けた簡潔な書き置きと、シエラの父親が遺したマリンクロノメーターの「今後の定期メンテナンス指示書」、そして塩害を防ぐための特殊な非磁性オイルの小瓶が添えられていた。
口で直接別れを告げるのは気恥ずかしく、何より引き止められるのが目に見えている。だからこその、職人らしい不器用な去り際だった。
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早朝の薄暗い路地裏。
アリア、ケリー、そしてシルクの三人(二人と一匹)は、街の人々に気づかれないよう、静かに旅籠の裏口から抜け出した。
朝靄が立ち込める石畳を、サクサクと靴底で踏みしめながら進む。
湿った潮の匂いと、魚を焼く香ばしい煙の匂いが混ざり合う港町の空気。王都の石炭の匂いとは違うその心地よい風を、アリアは無意識のうちに深く胸へと吸い込んでいた。
街の出口へ続く大きな石造りのアーチ門。そこをくぐれば、王都へと続く街道の馬車乗り場へ出る。
だが——。
「……やっぱり、ここで待ち伏せされてたか」
ケリーが苦笑しながら立ち止まった。
アーチ門の陰から、ひょっこりと姿を現した二つの影。
大柄な身体を揺らす老船長バルトロと、栗色の短い髪を朝風になびかせた少女航海士シエラだった。バルトロの手には、ずっしりと重そうな大きな竹籠が握られている。
「……見つかったか」
アリアは不機嫌そうに眉をひそめた。
「がははは! 見つかったか、じゃねえよアリア技師!」
バルトロ船長が大口を開けて豪快に笑った。
「お前さんみたいな偏屈な職人が、街総出のお祝いなんて大騒ぎが大嫌いだってことくらい、お見通しよ! 今朝、旅籠の親父に聞いたら『上のお客さんたちはもう荷物をまとめてるみたいだ』って言うからな、ここで張ってたんだ」
「ふふ、アリア技師らしいね」
シエラが優しく微笑みながら、アリアの前へと歩み寄った。その胸元には、アリアが完璧に再調律してみせた真鍮のマリンクロノメーターが、愛おしそうに抱きかかえられている。
チク、タク、チク、タク……。
少女の胸元から、一秒の狂いもない力強い金属音が聞こえていた。
「黙っててごめんなさい。でも……本当にお礼が言いたかったの。アリア技師が来てくれなかったら、父さんの時計の真実も分からなかったし、この街も海の中に沈んでた……」
シエラは深々と頭を下げた。
「私、もっと操舵と天文学を勉強するわ。そして……いつか父さんの言っていた最果ての海へ出たら、一番に王都のあなたの店に報告に行くから! その時は、また時計の手入れをしてね!」
「……手入れの技術料は正規の値段を請求するぞ。ツケは認めない」
アリアは無愛想にそっぽを向いたが、帽子を目深にかぶり直す指先はどこか優しかった。
「がはは! 相変わらず商売上手だな! ほらよ若造、これを持っていけ!」
バルトロ船長が、持っていた大きな竹籠をケリーへと押し付けた。
蓋を開けると、中には港町特産の極上エビの薫製や、白身魚の干物、完熟柑橘のジャムの瓶詰など、日持ちのする高級食材がギッシリと詰め込まれていた。
「うわっ……! こんなにいいのか、船長!?」
ケリーが目を輝かせる。
「当たり前だ! お前さんの作る飯の材料にしてくれや! ……それと、アリア技師のことを頼んだぞ、騎士様。あの小娘は腕は一流だが、自分を大切にすることをすぐ忘れちまうからな。お前さんがしっかり支えてやらなきゃダメだ」
「……了解です! 俺の命に変えても、しっかり食べさせて守ります!」
ケリーがビシッと胸を張って騎士の礼を執る。
「……不必要な保護宣告だ。私に介護人は不要だと言っているだろう」
アリアがむっとしながら呟くと、ケリーの肩の上でシルクが「くくく」と喉を鳴らした。
「やれやれ、相変わらず素直ではないのう。まあ、そういう小娘だからこそ、ワシらも放っておけんのじゃがな」
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港町アルト・マリーナのアーチ門を抜け、三人は待機していた王都行きの定期馬車へと乗り込んだ。
御者が手綱を引くと、パカパカと馬の蹄の音が石畳に響き、馬車はゆっくりと動き出した。
窓の外では、シエラとバルトロ船長が、小さくなっていく馬車に向かって大きく手を振り続けていた。
白亜の家々と、南の青い海。
海底の水門大時計の暴走から始まった出張修理の旅は、街の人々の温かな笑顔と、静かなお別れとともに幕を閉じた。
馬車のシートに深く腰掛け、アリアは革鞄にそっと手を置いた。
鞄の中には、古代の天文台遺跡で再調律を果たし、いまや「世界の正しき時間」を記憶した完全な『星図アストロラーベ』が収められている。
チク、タク、チク、タク。
ポケットの中で時を刻む小さな懐中時計と、革鞄の中の星図アストロラーベ。
二つの鼓動が、南の海から王都へと続く街道の風の中で、静かにリズムを重ね合わせていた。
「さて……安全に王都へ帰るまでが旅だ。アリア、お腹空いたか? さっきバルトロ船長からもらったエビの薫製、馬車の中でかじってみるか?」
ケリーがさっそく竹籠の蓋を開け、世話焼きな笑みを向けてくる。
「……油分が多い食材は馬車酔いの原因になる。王都へ着いてから、スープの出汁として使用しろ」
「へいへい。了解いたしました、技師様」
ケリーの朗らかな笑い声と、シルクの満足げな欠伸。
車窓から差し込む朝の光を浴びながら、三人(二人と一匹)の馬車は、懐かしい王都の街並みを目指して、静かに街道を走り出していくのだった。




