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第30話:夜空と海底に広がる真の星図


 カチリ……ッ。


 アリアによってコンマ数ミクロン単位で再研磨され、現在の星の自転周期に合わせてギア比を組み替えられた差動ギア。その最後の歯面が、吸い付くような精密さで主歯車メインギアの爪と噛み合った。


 その瞬間——。


 ギギギ……という、数百年間この遺跡を苛み続けていた不快な金属摩擦音が、嘘のように一瞬で消え去った。


 代わりに大天球の間に響き渡ったのは、澄み切った、どこまでも深く、みずみずしい真鍮と青銅の和音だった。


 チク、タク、チク、タク……。

 ガン……ガン……ガン……ガン……。


 巨大星図時計グレート・アストロ・クロックの全機構が、地軸のコンマ三七度の歪みを完璧に吸収し、今の星の正しい巡りへとその駆動を同調させたのだ。


「あ……ッ!」


 ケリーが思わず短い声を漏らし、手すりを掴んだまま上空を見上げた。


 巨大天球儀の最上部に配置された幾十もの偏光水晶球が、内部から溢れ出す強大な永久磁場の光を受け、太陽のごとき眩い青黄金色の光を放ち始めたのだ。


 光は一筋の強い束となり、天井や壁面に埋め込まれた無数の光学レンズ群へと放射された。

 レンズからレンズへと屈折し、増幅された光の粒子は、まるで意思を持った生き物のようにドーム状の壁面を滑り抜け、一瞬にして広大な『大天球の間』全体を埋め尽くしていった。


 ズズズ……ッ!!


 吹き抜けの天井、重厚な石壁、そして自分たちが立つ鉄製のキャットウォークに至るまで、あらゆる空間が透明な「夜空」へと変貌を遂げていく。


「うわあ……ッ!! な、なんだこれは……!?」


 ケリーが息を呑み、足元を確かめるように踏みしめた。

 足元のキャットウォークの下には、まるで底なしの深宇宙が広がっているかのように、無限の星々が散りばめられていた。天の川の微細な光の帯、青や赤に妖しく明滅する一等星、そして南の夜空を象徴する『南十字星』の輝き。


 それは、単なる星空の投影ではなかった。

 巨大星図時計の差動ギアが正しく再調律されたことによって、天球環が描く幾何学軌道と、この瞬間に頭上に広がっている「本物の南の夜空」が、コンマ一秒の狂いもなく完全な一対一の同期を果たした証だった。


「うむ……見事……見事なものじゃな……」


シルクが手すりの上に立ち尽くし、金の瞳を極限まで細めて感嘆の息を吐いた。

幾千、幾万もの光の粒子が、黒猫の毛並みを青黄金色に染め上げていく。


「古代の仕掛けと、お前さんの精密な指先が作ってみせた……真の星空というわけじゃな、アリアの嬢ちゃん」


アリアは作業鞄を握り締め、光の海の中で静かに立ち尽くしていた。


右目のルーペ越しに見つめるその視界。

新しく組み替えられた差動ギアは、コンマ数ミクロンのバックラッシュの隙間を保ちながら、油膜の上を滑らかに滑り、完璧なトルクを天球環へと伝達し続けている。


壊れていたのではない。

狂っていたのでもない。


ただ、時代の変化に取り残され、星の歩みとすれ違っていただけの巨大な機械。

それが今、職人の手によって新しい息吹を与えられ、この世界の「本当の時間」を力強く刻み始めているのだ。


(……聞こえるか、ヴァルター)


アリアは胸の中で、数百年前の先人に向かって静かに語りかけた。


(お前が遺したからくりは、何一つ間違っていなかった。……お前の作った歯車は今、完璧な精度でこの星の時間を紡ぎ直しているぞ)


手元にある『完成した星図アストロラーベ』が、巨大星図時計と共鳴し、アリアの手のひらの中で温かな熱を帯びていた。

一人静かに病室で息を引き取った前世の自分。誰にも届かなかった不器用な職人の想い。

だが今、数百年の時を超えて、一人の異世界の先人と、自らの技術を通じて魂が固く握手を交わしたような、途方もない充足感がアリアの胸を満たしていた。


---


その頃、海上に浮上した水門遺跡の外部——。


夜の静寂に包まれた港町アルト・マリーナの埠頭では、思いがけない奇跡に街の人々が息をのんでいた。


「な……なんだ、あれは……!?」


シエラが港の防波堤に駆け寄り、沖合を指差した。

バルトロ船長や船乗りたち、そして王城の魔法技師フィリップたちもまた、言葉を失って沖合の浅瀬を注視していた。


海上に姿を現した白真珠色の水門遺跡——その頂上に位置する青銅の塔から、ひと筋の太い青黄金色の光柱が、夜空に向かって真っ直ぐに突き抜けたのだ。


ウオン……ッ!


光柱が南の夜空に届いた瞬間、空を覆っていた薄い雲が波紋のように押し開かれた。

そして、光柱を中心に、まるで海から空へと星々の網目が広がっていくように、港町全体の夜空に、見たこともないほど鮮明で美しい星図が展開されたのだ。


「す、凄え……! 星が……南十字星が、あんなにハッキリ見える……!」

「鐘の音だ……! 海の底から、澄み切った綺麗な鐘の音が聞こえてくるぞ!」


船乗りたちが感極まって声を張り上げる。

フィリップは震える手で杖を握りしめ、「ま、魔法ではない……! あんな緻密で美しい星の配置、どんな大魔法でも描けるはずがない……!」とガタガタと膝を震わせた。


父親の遺したクロノメーターを胸に抱きしめたシエラは、夜空と海を照らす光の粒子の中で、静かに涙をこぼした。


「ありがとう……アリア技師……! 世界中の時計が、今、笑ってるみたい……!」


---


光の渦が静かに収まり、大天球の間に穏やかな星明かりの余韻だけが残された。


巨大星図時計は、完璧な噛み合いを見せるギアの駆動音とともに、チクタク、チクタクと、規則正しく、そして永遠を約束するかのような美しい時間を刻み続けている。


「……ふぅ」


アリアは右目のルーペを静かに外し、冷えた汗を拭った。

緊張の糸が解けたことで、急激な疲労感が小さな身体を襲ったが、その表情には一切の不機嫌さはなく、どこか誇らしげな清々しさが漂っていた。


「……再調律、全工程終了だ」


「アリア……ッ!」


ケリーがたまらず駆け寄り、アリアの華奢な肩を抱きすくめるようにして笑った。


「やったな! すげえよお前! 世界で一番凄腕の時計師だ!!」


「……騒ぐなケリー。耳元で叫ぶなと言っているだろう」


無愛想に言い返しながらも、アリアはケリーの腕を振り払おうとはしなかった。

隣では、シルクが満足そうに尾をゆらし、「やれやれ、最高のショーを見せてもらったわい」と喉を鳴らしている。


星の巡りと、世界の時間のズレ。

南の海の旅から始まったグランド・ミステリーは、一人の天才少女時計師の手によって、見事な真実の解明と調律のカタルシスを迎えたのだった。


チク、タク、チク、タク。


正しき時を取り戻した巨大星図時計の針が、三人(二人と一匹)の未来の時間を祝福するように、静かに、そして力強く進み続けていた。

 

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