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第27話:古代時計師の遺言と「空飛ぶ時計師」


 ガン……ガン……ガン……ガン……。


 巨大星図時計が打つ規則正しい重低音が、大天球の間に低く響き渡っている。

 偏光水晶が屈折させた光の筋が、まるで意思を持った生き物のように壁面を滑り、複雑な歯車群を青白く浮かび上がらせていた。


 アリアはキャットウォークの上にしゃがみ込み、主歯車の脇にある差動ギアの基部を覗き込んでいた。右目のルーペ越しに見つめるその場所には、他の歯車とは異なる、極めて微細な真鍮製のプレートが嵌め込まれている。


「……ケリー。ピンセットと極細の真鍮ブラシを渡せ」

「おう、これだな」


 下から差し出された工具を受け取り、アリアはプレートの表面にこびりついた数百年分の極薄いオイルの膜を、慎重に拭い去っていった。

 膜が剥がれ落ちるにつれ、光沢を取り戻した真鍮の表面に、緻密な古代文字と、空を舞う巨大な翼――翼型気球(魔法飛行船)の精緻な図様が浮かび上がってきた。


「……これは、銘板ネームプレートか?」


 後ろから覗き込んだケリーが呟く。

 アリアの手元を覗き込むように、シルクもすっと身を乗り出した。金の瞳を細め、刻まれた古代文字をなぞる。


「ほう……。ワシの古い記憶にある文字体じゃな。今からおよそ四百年ほど前、王都の古い文献に一度だけ名が出てきた伝説の異端児がおる。……『空飛ぶ時計師』と呼ばれた男じゃ」


「空飛ぶ時計師……?」


 ケリーが首を傾げると、シルクは尻尾をゆっくりと揺らしながら語り継がれた伝承を口にした。


「魔法全盛の時代にあって、魔法の力に頼らず、巨大な熱気球と複葉の翼、そして無数の歯車で組まれた機械だけで空を飛ぼうとした愚者……いや、奇人じゃな。世界中をその船で巡り、各地の時を計測して歩いたと言われておる」


「……愚者ではない」


アリアの短く、強い声がシルクの言葉を遮った。


アリアは真鍮プレートの真下に配置されていた、小さな円筒状のからくり――『音響シリンダー』の存在を捉えていた。

それは前世で言えば、エジソンの蓄音機やオルゴールのシリンダーに近い、物理的な凸点ピンで音や情報を記録する極小のメカニズムだった。アリアの手元にある『星図アストロラーベ』の中央軸をそのシリンダーへ噛み合わせると、カチリと心地よい結合音が響いた。


ジジジ……カチッ。


シリンダーが滑らかに回転を始め、薄い金属板が振動して、大天球の間に乾いた、しかし不思議と澄んだ男の声が響き渡った。

魔法による音声再現ではない。純粋な薄膜金属の振動エネルギーによって再生される、数百年前の時計師自身の物理的な「声」だった。


『——我が名はヴァルター。空を駆け、星の軌道を追い求めた一人の時計師である』


静まり返ったホールに、聞き覚えのない、けれどどこかアリアの耳に心地よく馴染む穏やかな声が響く。


『これを聞いている同胞よ。お前がこの大天球の間に辿り着き、我が遺したアストロラーベを重ね合わせたということは……お前もまた、この世界の時間の不協和音に気づいたということだな』


ケリーが息を呑み、アリアは無言で音の出所を見つめた。


『私は魔法を否定しない。だが、魔法という曖昧な力に溺れ、世界の理(物理法則)を忘れた人々を危ぶんでいた。故に私は翼を造り、空へと登り、何十年もの歳月をかけて世界中の星の軌道をこの目で測量した。……そして、絶望的な事実に突き当たったのだ』


シリンダーが回転し、かすかな摩擦音を立てる。


『星の動きと、我が作った完璧なクロノメーターの針が、年々狂っていく。最初は自分の腕を疑った。目盛りを削り直し、歯車を打ち直した。だが、狂っていたのは私の時計ではなかった。……この世界そのものの地軸が傾き、自転が遅れていたのだ』


ヴァルターの声に、深い諦念と、それ以上の熱い職人の矜持が滲み出る。


『当時の私は、この狂いを正そうと躍起になった。だが、一人で世界中の時を変えることは叶わなかった。地軸の傾きは進行し、私の寿命は潰えようとしていた。……故に、私はこの水門大時計と天文台を海の底へ秘め、四つのアストロラーベのパーツを世界へ散らした』


アリアの手元で、青く輝く星図アストロラーベ。


『未来の同胞よ。お前が私と同じ「物理の眼」を持ち、魔法の幻影に惑わされず、歯車の噛み合いの奥にある真理を見抜く職人であるならば……我が遺した差動ギアを打ち直し、今の星の周期に時計を調律してほしい。……世界の時間を、正しき軌道へと戻すのは、お前の手だ』


ジジジ……カチッ。


音響シリンダーの回転が止まり、大天球の間には再び、ガン……ガン……という巨大星図時計の規則正しい駆動音だけが残された。


圧倒的な静寂の中、ケリーは呆然と天井を見上げ、呟いた。


「すごいな……。数百年前の奴が、お前と同じように物理の眼で世界を見て……お前がここへ来るのをずっと待ってたんだな」


「……ふん」


アリアは無愛想に鼻を鳴らした。

だが、ルーペを外し、手袋を嵌め直す彼女の指先は、微かに熱を帯びて震えていた。


ヴァルターという男。

魔法が支配するこの異世界において、誰もが魔法で誤魔化そうとした不調和に対し、ただ一人、前世の自分と同じように「物理の法則」と「精密機械」だけを信じて立ち向かった先人。

一人で世界中の星を測量し、絶望しながらも未来の同胞へとバトンを繋いだ職人の執念。


(……同じだな)


病室の白い天井の下で、一人静かにゼンマイが解けるのを待っていた前世の自分。

誰にも理解されず、それでも時計と向き合い続けた孤独な記憶が、数百年の時を超えてヴァルターの存在と重なり合う。


「……ヴァルターと言ったな。愚かな男だ」


アリアは冷たい声で言い放ったが、その瞳には深い敬意の色が宿っていた。


「自分一人で世界の時間を背負おうとするから、時間が足りなくなるんだ。職人なら、もっと自分の設計に絶対の自信を持てばいいものを」


アリアは作業鞄から重厚な測定器とノートを取り出し、キャットウォークの上に威風堂々と立ち上がった。


「ケリー、シルク」


「おう!」

「なんじゃ、アリア」


「……この『ヴァルターの仕掛け』の再調律に入る。前世……いや、私が持つすべての精度加工技術と計算式を使い、この巨大星図時計のギア比を、現代の星の自転周期に完全に同期させてやる」


「へっ……そう来なくっちゃな!」


ケリーが頼もしく笑い、大剣の柄を叩く。

シルクも金の瞳を細め、「数百年前の先人に、現代の天才少女の腕前を見せてやるが良いぞい」と機嫌よく喉を鳴らした。


伝説の「空飛ぶ時計師」が遺した遺言と、それを受け取った天才少女時計師。

時代を超えた職人同士の対話を経て、物語はついに「世界の地軸の歪み」そのものの原因と、その再調律という最大のクライマックスへと向かって歯車を回し始めるのだった。

 

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