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第26話:なぜ時計と星の動きがズレるのか


 ガン……ガン……ガン……ガン……。


 巨大星図時計グレート・アストロ・クロックの中心で、青銅の脱進機が規則正しく重厚な刻みを打ち続けていた。

 ドーム状の天井から注ぐ光が偏光水晶を透過し、水中に揺らめく光の斑文のように壁面を照らしている。


 その巨大な機構の足場に、アリアは小さな身体でよじ登り、真鍮のキャットウォークの上で膝をついていた。


「……ケリー。磁尺じしゃくと水平器を出せ」

「お、おう! これだな!」


 下から見上げるケリーが、革の工具袋から手際よく真鍮製の計測器をアリアの手元へと手渡す。

 アリアは右目に嵌めたルーペ(キズミ)の焦点を微調整しながら、巨大星図時計の主軸受けと差動ギア列の接合部に磁尺の針をあてがった。


 カチ、カチ……。


 磁尺の針が小刻みに揺れ、完璧な幾何学模様を描いて静止する。

 続いてアリアは、微小な目盛り付き分度器と下げ振りを用い、主振り子の振り幅(振幅角)と周期をコンマ一秒単位で計測していった。


「……周期誤差、0.0001秒未満。振り子の熱膨張補正インバー鋼(低膨張合金)と同構造の複合金属アーム……完璧だ」


 アリアの手が止まる。

 彼女は手袋を外した素身の指先で、直径一メートルを超える主歯車メインギアの歯面を撫で回した。


「歯面の摩擦係数は極小。歯形の噛み合い曲線は、理想的なインボリュート曲線を描いている。……加工精度に何一つ狂いはない。王都の最高級時計職人が束になってかかっても、この歯車一つ作ることすらできないレベルの精度だ」


「じゃあ……時計は壊れてないのか?」


 ケリーが手すりに手をかけ、アリアのすぐ隣へと身を乗り出してきた。

 アリアの小柄な身体から漂うオイルとハーブの香りと、集中のあまり微かに熱を帯びた息遣いがケリーの鼻腔をくすぐる。ケリーは一瞬うっと顔を赤くしたが、アリアの真剣そのものの横顔を見て、すぐに表情を引き締めた。


「ああ。この『巨大星図時計』は、機械としては一微塵も壊れていない。数百年の歳月を経てもなお、設計者の意図通りに正確なピッチで時間を刻み続けている」


「待つんじゃ、アリアの嬢ちゃん」


 シルクがキャットウォークの手すりをしなやかに渡り、アリアの肩のすぐ横で立ち止まった。金の瞳が、光を反射する巨大天球環を厳しく見つめている。


「機械が壊れておらんのなら、なぜこの巨大時計が指し示す『星の位置』と、ワシらが頭上で見上げる『実際の夜空の星』の位置がズレておるのじゃ? 先ほどお前さんは、コンマ数ミリ不一致を起こしておると言ったはずじゃが」


「……そうだ、シルク。それこそが、この旅で私たちが追い続けてきた不協和音の『核心』だ」


 アリアは腰の革鞄から、4つのパーツが合体した『星図アストロラーベ』を取り出した。

 青鍮製の盤面に刻まれた緻密な目盛りと、巨大星図時計の目盛りを重ね合わせ、前世の近代天文学と幾何学の計算式を頭の中で高速回転させる。


 鉛筆を取り出し、自作の測量ノートに怒涛の勢いで計算式を書き殴っていくアリア。


 ——仮説A:機構の摩擦による遅れ。⇒ 否定。測定値0.000秒。

——仮説B:内部オイルの粘性変化によるトルク低下。⇒ 否定。定圧油圧弁が正常作動中。

——仮説C:観測データの物理的誤差。⇒ 否定。


 書き連ねた数式を一本の横線で消し去った時、アリアの手がぴたりと止まった。


 ルーペの奥の青い瞳が、カッと見開かれる。


「……あり得ない」


「アリア……?」

 ケリーが覗き込む。


「……消去法だ。機械の内部に何の不具合も存在せず、理論値と測定値が100%合致しているにもかかわらず、天体観測結果との間に絶対的な差が生じている場合……疑うべき対象は一つしかない」


 アリアはゆっくりと立ち上がり、吹き抜けの天井から差し込む太陽の光、そしてその向こう側に広がる「天空」を見上げた。


「時計が狂っているのではない……」


 アリアの静かな、しかし確信に満ちた声が、静寂に包まれた大天球の間に低く響き渡る。


「……『この世界(星)の動き』そのものが、狂っているんだ」


「な……ッ!?」


 ケリーが息を呑み、絶句した。

 シルクのひげがピクりと跳ね上がる。


「世、世界の動きが狂ってる……!? どういうことだアリア! 空の星や太陽が狂ってるって言うのか!?」


「そうだ、ケリー。正確に言えば——この星の『自転軸(地軸)』が、数百年前のデータと比べて微かに傾き、自転周期そのものがコンマ数秒単位で遅くなっている」


 アリアは手元のノートを開き、そこに描いた球体(この星)と斜めに突き刺さる地軸の図を指し示した。


「潮汐力、そして太陽と星々の南中高度の測定データがすべてを証明している。数百年前、この巨大星図時計が作られた時代の『地軸の角度』と、現代のこの星の『地軸の角度』は、正確に『コンマ三七度』ズレているんだ」


「コンマ三七度……」


 ケリーは自分の頭を抱え、必死にアリアの言葉を理解しようと眉間にしわを寄せた。


「待ってくれ……地軸が傾いて一日の長さがコンマ数秒遅くなってるとして……それがなんで、王都の大時計台や、シエラの父さんのクロノメーターの不協和音と繋がるんだ?」


「気づかないか、ケリー?」


 アリアは冷徹に、しかしどこか美しく澄んだ声で言葉を紡ぐ。


「腕の立つ職人が、完璧な計算と精度で最高級の時計を作り上げたとしよう。その時計は『理論上完璧な24時間』を刻む。……だが、もし『実際の地球の一日』がコンマ数秒伸びていたらどうなる?」


「あ……ッ!」


 ケリーの目が大きく見開かれた。


「そうだ。完璧な時計であればあるほど、星の自転との間に生じたコンマ数秒のギャップを認識し……『時計が正しく、世界がズレている』という矛盾に直面する。それが、微小な歯車の噛み合い(トルクの干渉)となって現れ、原因不明の『時間の遅れ』や『不協和音』となって音を立て始めていたんだ!」


「なんてことじゃ……」


 シルクが深く息を吐き、感心と慄然が混ざり合った声で呟いた。


「王都の技師どもも、シエラの父親も……自分たちの作った時計が壊れていると思っておった。だが違った。壊れていたのは時計ではなく……自分たちが立っておるこの大地、この星の巡りそのものだったというわけか……!」


「……ああ」


 アリアは手元の『星図アストロラーベ』を愛おしそうに撫でた。


「王都の大時計台の振り子の不調和も、海のクロノメーターの不気味な遅れも、すべてはこの『星の地軸の傾き』がもたらした必然の物理現象だったんだ。……どんなに時計を修理しても、この『星のズレ』を正さない限り、世界中の本当の精密時計は永遠に狂い続ける」


 大天球の間に、重々しい沈黙が降り積もる。


 一人の天才少女時計師が解き明かした、天文学的・物理的ミステリーの真相。

 それは、単なる街の時計の修理という枠組みを遥かに超えた、この世界全体の根幹を揺るがす壮大な事実であった。


「……だが」


 アリアはルーペを外し、冷たい、しかし燃えるような情熱を秘めた青い瞳で、巨大星図時計の最奥部を見据えた。


「この巨大星図時計の設計者は……ただ『地軸がズレた』という事実に絶望してこの遺跡を遺したわけではないはずだ」


「どういう意味だ、アリア?」


「見ろ、ケリー。主歯車の横に配置された、この差動ギア(ディファレンシャル・ギア)の機構を。……これは、地軸のズレに合わせて『歯車比(ギア比)を打ち直す(再設計する)』ことで、現在の星の周期に時計を完璧に同期させ直すための……『再調律リ・チューニング機構』だ」


 古代の時計師が遺した、未来への道標。


「あいつ(古代の時計師)は待っていたんだ。この世界の時間の狂いに気づき、自らの技術でこの巨大な歯車群を打ち直し、星の時間を再び正しく繋ぎ直せる……『本物の職人』が現れるのを」


 アリアの言葉に、ケリーの唇が力強い笑みへと歪んだ。


「へっ……だったら、待たせた甲斐があったじゃねえか。数百年前の時計師様よ」


 ケリーは大剣の柄を握り直し、胸を張ってアリアの隣に立った。


「ここにいるぜ。世界で一番意地っぱりで、世界で一番凄腕の……俺たちの天才時計師様がな!」


「……うるさい、ケリー。無駄口を叩く暇があったら、主歯車を固定するための固定固定治具を用意しろ」


 ふいと顔を背けるアリアの耳先が、ほんの少し朱色に染まる。


 解き明かされた「世界のズレ」の真相。

そして、三人(二人と一匹)の視線は、この古代遺跡に眠るさらなる痕跡——「なぜ地軸が傾いたのか」、そして「この仕掛けを遺した伝説の時計師の正体」へと向けられていくのだった。

 

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