第25話:浮上した天文台遺跡(探索)
海水を含んで重くなった水着から乾いた予備の作業着へと着替えを済ませ、アリアは小さく息を吐いた。
革鞄から取り出したメンテナンス用のオイルを指先になじませ、いつものように短剣型の精密ドライバーとルーペ(キズミ)をベルトに装着する。髪を軽く拭き上げ、腰元で固く結び直すと、アリアの瞳にはいつもの冷徹で鋭い「天才時計師」の光が完全に宿っていた。
「待たせたな、ケリー」
『星空の部屋』の入口で仁王立ちしていたケリーが振り返る。彼もまた、濡れた髪を手で払って革の胸当てを締め直し、大剣の柄を固く握り直していた。
「おう、準備完了か! ……風邪はひいてねえな?」
「……私の体調管理に不安の余地はない。それより、前方だ」
アリアが顎で示した先——『星空の部屋』の奥に佇む、巨大な青銅製の二重扉。
扉の表面には、星の軌道を模した精密な幾何学模様と、緻密な真鍮製の鍵穴群(多重ロック機構)が刻まれている。
「ふむ……どれ、ワシの鍵開け魔法でも試してみるか?」
シルクが尾を揺らしながら歩み寄るが、アリアはそれを手で制した。
「不要だ。魔法の力など借りずとも、この扉は『正しき鍵』を受け入れる構造になっている」
アリアは革鞄から、4つのパーツが融合して完全な姿となった『星図アストロラーベ』を取り出した。
中央の凹みに嵌め込まれた青鍮の円盤は、扉の前に立った瞬間、共鳴するようにカチカチと規則正しいシグナル音を鳴らし始めたのだ。
アリアがアストロラーベを扉の中央に位置する主鍵穴へあてがうと——。
ガコンッ! カチ、カチ、カチ……ッ!
内部で数百もの極小ピンとレバーが連続で連動する、どこか清々しいまでのメカニカル音が響き渡った。
重厚な青銅の二重扉が、滑らかな油圧の排気音とともにゆっくりと左右へスライドしていく。
「うわ……ッ!」
ケリーが思わず目を見張り、身構えた。
扉の向こう側に広がっていたのは、海の底に秘められていたとは思えないほど、壮大で神秘的な「巨大な観測空間」であった。
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天井ははるか高く、吹き抜けになった巨大なドーム状の構造。
屋上のテラスから差し込む太陽の光が、壁面に配置された無数の偏光水晶(光学レンズ)によって屈折・増幅され、空間全体を柔らかい真珠色の光で満たしている。
そして、何よりも圧巻だったのは、壁面一面に巡らされた「機構」の数々だった。
壁の凹凸に沿って組み上げられた、直径数メートルに及ぶ青銅のギア列。それらが幾重にも重なり合い、ゆったりとした低音を響かせながら完璧な調律のもとで正回転を続けている。
導水パイプからは、浮上したことによって適正圧力を取り戻した作動油と純水が滑らかに流れ落ち、シリンダーを静かに押し上げていた。
「すごいな……! これが、海底に沈んでいた遺跡の内部なのか!?」
ケリーが息をのんで見上げる中、アリアは足元を確かめながら、静かな足取りで中央のキャットウォークへと歩み出た。
「……感嘆している暇はない。見ろ、ケリー。この壁面の彫刻とギア列を」
アリアがルーペを右目に嵌め込み、壁に近づく。
そこには、古代文字とともに、無数の天体軌道図と数式、そして精密な歯車比(ギア比)の設計データが刻まれていた。
「……これは、魔法の陣でも宗教的なレリーフでもない。完全な『天文学と精度加工学の記録』だ。……この場所の作った古代の時計師は、星の動きを単なる神の意志としてではなく、数式と機械的回転として完璧に把握していた」
「古代の時計師……。なあアリア、お前と同じように、魔法に頼らず『機械の力』で世界を見ようとしていた奴が、昔もいたってことか?」
「……ああ。それも、恐ろしいほどの精度でな」
アリアの手が、壁面のひとつのギアに触れる。
表面にはガルバニック腐食を防ぐための特殊な真鍮メッキが施されており、数百年を経た今でも一微塵の錆すら浮かんでいない。
「……素晴らしい。噛み合いのバックラッシュ(遊ばせ)は0.02ミリ以下。潤滑油には劣化しない植物性精製油が使われている。前世の私でも、この環境でこれほどの耐久加工を施すには相当な工夫が必要だ」
職人としての血が騒ぐのか、アリアの頬がほんのりと朱に染まり、瞳が爛々と輝きを増していく。
「くくく……嬢ちゃんの『オタク癖』が始まったのう。まあ、ワシとしてもこの時代の人間がここまで高度な物理学に到達していたとは驚きじゃがな」
シルクが手すりの上を軽やかに跳び跳ねながら、奥の回廊を指し示した。
「だが嬢ちゃん、本番はあっちのようじゃぞ。この独特の周波数……奥に何か『とてつもない代物』が眠っておる」
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三人は、壁面のギア列が導くように伸びる中央回廊を突き進んだ。
回廊の突き当り——そこは、遺跡の最深部に位置する「大天球の間」であった。
そこに足を踏み入れた瞬間、三人(二人と一匹)は完全に言葉を失った。
広大なドーム状空間の中央。
吹き抜けの天井から差し込む一筋の陽光をその全身に浴びて、静かに、しかし絶大な存在感を放って鎮座する「一つの巨大な構造物」。
それは、数百年もの間、誰にも知られることなくこの世界の時間を計測し続けてきた——『巨大星図時計』であった。
直系は十メートルを超え、幾重にも交差する青鍮のリング(天球環)が、ゆったりとした周期で複雑に公転している。
リングの交差点には、磨き抜かれた様々な色の偏光水晶球が配置され、それが陽光を反射してまるで本物の星々のように怪しく、そして美しく明滅していた。
そして、その心臓部——。
巨大な振り子と、真鍮削り出しの特大脱進機が、低く重厚な音を奏でていた。
ガン……ガン……ガン……ガン……。
一秒一秒を刻むその音は、まるでこの星の鼓動そのものであるかのように、深く、重く、空間全体に響き渡っていた。
「……なんて……でかさだ……」
ケリーが呆然と呟き、その圧巻の光景に見入った。
「これが……数百年前に世界の時間を計測していた『巨大星図時計』……!」
アリアは引き寄せられるように、巨大星図時計の台座の前へと歩み寄った。
右目のルーペ越しに見つめるその視線の先には、無数のギアと脱進機、そして天体軌道と連動する超複雑な差動ギア(ディファレンシャル・ギア)の組み合いが存在していた。
チク、タク、チク、タク……。
ガン、ガン、ガン、ガン……。
完璧な精度の音。
古代の職人が残した、技術の結晶。
だが——アリアの鋭い眼差しは、その完璧に見える巨躯の奥深くに潜む、ほんのわずかな「違和感」を、瞬時に見抜いていた。
「……おかしい」
アリアの小さな呟きが、静かな大ホールに響いた。
「え……? 何がおかしいんだ、アリア?」
ケリーが不安そうに問いかける。
アリアはルーペの焦点を絞り、巨大星図時計の主歯車と、天体軌道環の噛み合わせ部分を凝視した。
「……機構そのものには何の狂いもない。ギアの摩耗も、オイルの劣化も、完全に許容範囲内だ。……だが、この時計が指し示している『現在の星の位置』と、実際の天空の星の位置が……コンマ数ミリ、物理的に『ズレて』いる」
アリアの青い瞳が、冷徹な探求の光を放つ。
時計が壊れているのではない。
機械が狂っているのでもない。
では、なぜ最高峰の精度を誇るこの巨大星図時計と、夜空の星々の動きが「不一致」を起こしているのか——?
浮上した天文台遺跡の深遠で、アリアたちの前に、世界そのものの根幹に関わる「大いなる謎」が姿を現そうとしていた。




