第28話:地軸の歪みと魔力の関係
大天球の間に響くガン、ガンという重厚な打撃音が、ドーム状の石壁に反響して心地よい余韻を残していた。
偏光水晶を通した柔らかい光の粒が、空中をゆっくりと浮遊し、真鍮の巨大な天球環を色鮮やかに照らし出している。
アリアはキャットウォークの上に平らにノートを広げ、鉛筆を握りしめたまま動かずにいた。
右目のルーペ(キズミ)越しに見つめているのは、ノートに描かれたこの星の構造図と、幾重にも重なる数式の群れだ。
「……何かが引っかかる」
ぽつりとこぼれたアリアの呟きに、真下に控えていたケリーが顔を上げた。
「引っかかるって、なにがだ? 差動ギアの計算に間違いでもあったのか?」
「……いいや。歯車比(ギア比)の再設計計算はすでにコンマ四桁まで完了している。ヴァルターが遺したこの巨大星図時計は、完璧な調整余白を持って作られている。私が差動ギアの組み合わせを変更すれば、今の星の周期に時計を完璧に同期させることは可能だ」
アリアは鉛筆の尻で自分の額を軽く叩いた。
「疑問なのは……『なぜ地軸が傾いたのか』という原因そのものだ」
「原因……?」
ケリーが眉をひそめる。
「星の自転軸がコンマ三七度傾き、一日の長さが微かに伸びた。……それ自体は、天文学的・物理的測定事実だ。だが、天体がその自転軸をこれほど滑らかに、かつ一定の運動量で傾かせるためには、星の内部、あるいは表面において絶大な『物理的トランスファー(質量とエネルギーの偏り)』が発生していなければ説明がつかない」
アリアは膝を抱え、冷ややかな瞳で天球儀を見つめた。
「地球であれば、巨大な隕石の衝突や、プレートテクトニクスによる大規模な地殻変動などが原因として考えられる。だが……この世界において、過去数百年間にそれほどの天変地異が起きた記録はない。にもかかわらず、地軸は徐々に、確実に歪み続けているんだ」
アリアの物理的な疑念に、キャットウォークの手すりの上に座っていた黒猫のシルクが、ふっと鼻を鳴らした。
「くくく……なるほどな。嬢ちゃん、お前さんはどこまでも『物理』のレンズで世界を見ておるのう」
「……当然だ。この世界もまた、物質で構成されている以上、物理法則から逃れられるはずがない」
「うむ。だがな、嬢ちゃん。お前さんのその完璧な物理の計算式に、一つだけ『この世界特有の変数』が抜け落ちておるのじゃよ」
シルクは金の瞳を細め、前足の爪でトントンと手すりを叩いた。
「変数……? まさか」
「そうじゃ。お前さんが大嫌いな……しかしこの世界をくまなく満たしておる『魔法』と『魔力』じゃよ」
シルクの言葉に、アリアは一瞬だけ思考の歯車を止め、眉間に皺を寄せた。
「……魔力だと? 魔力は精神や概念に干渉する非物理的なエネルギーの一種だ。それが星の自転軸という巨大な物理的質量に干渉するなど……」
「干渉するのさ、アリアの嬢ちゃん」
シルクの声が、いつもよりも少しだけ低く、老成した響きを帯びた。
「お前さんは知っておるか? この星の深層には、血管のように張り巡らされた『地脈』と呼ばれる魔力の奔流が存在することを。……そして、人間どもがこの数百年で何をしてきたかを」
シルクは天井の開口部、その向こう側に広がる広大な空を見上げた。
「古代より、人間どもは魔法の利便性に溺れてきた。最初は小さな火を起こす程度であったものが、やがて巨大な城を浮かせ、不毛の地に年中咲く花園を作り、巨大な魔導都市を支えるために、地脈から絶え間なく魔力を汲み上げ始めた」
「魔力の……連続的な過剰抽出……」
アリアの脳内で、前世の地球における「地下水の過剰揚水による地盤沈下」や「化石燃料の乱掘」といった環境破壊の記憶が、即座にオーバーラップした。
「それだけではないぞい。王都の大時計台や、この水門大時計の周囲でもそうであったろう? 人間どもは自らの技術の拙さを誤魔化すため、膨大な魔石と魔力を強引に打ち込み、物理的な限界を超えて機械を動かしてきた。……世界中で、数百年間にわたってな」
シルクは金の瞳をアリアへ向けた。
「魔力とは、本来はこの星の核から湧き出し、均等に循環すべき生体のエネルギーじゃ。だが、人間が都市を作り、魔法施設を建造し、特定の場所にばかり巨大な魔石を集積させた結果……地脈の流れは大きく偏り、星の内部の『魔力磁場』が、特定の方向へと強烈に歪んでしまったのじゃ」
「……ッ!」
アリアの息が呑み込まれた。
アリアの脳内で、それまでバラバラだった物理学の知識と、シルクが語った魔法世界の歴史が見事な噛み合いを見せて旋回を始めた。
「……磁界の歪みによる、慣性モーメントの不均衡……!」
アリアは猛烈な勢いでノートを開き、鉛筆を走らせ始めた。
「星の核から生じる巨大な流体運動と、その全周を包む磁場。地脈の偏りによってローレンツ力(電磁力)のベクトルが特定の極へと集中すれば、星の内部の流体核に偏性トルクが発生する……! それは長大な時間をかけて、ジャイロ効果(回転体効果)を減衰させ、自転軸をゆっくりと押し傾ける……物理的な外力となり得る!」
「そういうことじゃ」
シルクは満足そうに尻尾を揺らした。
「人間どもが方便として使い続けた『過剰な魔法』。それが積み重なり、巡り巡って、この星そのものの自転軸をコンマ三七度傾かせたのじゃ。……そして、その歪みが跳ね返り、人間どもの作った時計たちの時間を狂わせ始めた。実に滑稽で、哀しい自爆劇だと思わんか?」
大天球の間に、重々しい沈黙が降り積もった。
下にいたケリーが、呆然とした表情で自らの両手を見つめた。
「俺たちが……人間が便利だからって魔法を使いすぎて、世界全体の時間を狂わせてたってことか……?」
「……責任を感じる必要はない、ケリー」
アリアの手がノートの上で止まった。
アリアは静かな、しかし氷のように澄み切った声で言葉を紡ぐ。
「誰も悪意を持って星を壊そうとしたわけではない。単に……全体構造の相互作用に対する無知と、目先の便利さへの依存が引き起こした自然現象だ。原因が解明された以上、嘆くことに物理的な意味はない」
アリアは鉛筆をポケットに収め、ゆっくりとキャットウォークの上に立ち上がった。
その小さな華奢な背中に、天井からの陽光が降り注ぎ、銀色の髪が神聖なまでに青白く輝く。
「魔法で歪んだ星の自転。……それを魔法で強引に力でねじ伏せようとすれば、あの王城のバカ技師どものように、さらなる破壊と暴走を引き起こすだけだ。狂いを直すことができるのは……物理の法則に従い、寸分の狂いもなく歯車を打ち直す『精密機械の技』だけだ」
アリアは右目にルーペを嵌め直した。
その奥の青い瞳には、悲壮感も不安もなく、ただ「不調和な時計を正しき姿に戻す」という、純粋で絶対的な職人の自負だけが満ち溢れていた。
「先人ヴァルターは、この現実を知りながらも諦めなかった。……だからこそ、彼は魔法ではなく、歯車と指針による『物理の調律機構』をこの大天球の間に残したんだ」
アリアは真下に立つケリーへ視線を落とした。
「ケリー。これより『巨大星図時計』の差動ギアの組み替え、および歯車比(ギア比)の再調律作業に入る。……膨大なトルクがかかっている主軸の固定と、重い青銅ギアの交換作業が必要だ。お前の圧倒的な筋力を貸せ」
「おうっ!!」
ケリーの表情から迷いが消え、頼もしい騎士の力強い笑顔が戻った。
「任せとけアリア! 世界がどう狂っていようが、お前が正しく直すっていうなら、俺はどんな重い歯車だって持ち上げてやるさ!」
「……ふん。頼りにしているぞ、人間クレーン」
ぶっきらぼうに言い放ちながらも、アリアの口元には微かな笑みが浮かんでいた。
人間が魔法によって生み出してしまった「星の時間の歪み」。
その壮大な真相を前にして、天才少女時計師と熱き騎士、そして老猫は、今まさに世界の時間を正しき軌道へと戻すための、最初の一歩を踏み出そうとしていた。




