第19話:港町の危機。水門の暴走
馬車が坂道を急ぎ下り、港町アルト・マリーナの全景が視界に躍り出た瞬間、三人(二人と一匹)の耳に飛び込んできたのは、いつもの穏やかな潮騒の音ではなかった。
ガン、カン、カン、カンッ!!
街の高台にある警備塔から、けたたましく乱打される緊急警報の鐘の音。
普段なら白亜の美しい家々が午後の陽光を反射して輝いているはずの街並みは、一転して人々の絶叫とパニックの怒号に包まれていた。
「な、なんだ!? 一体何が起きてるんだ!?」
馬車の御者台で手綱を握っていたケリーが、立ち上がって港の方角を注視する。
アリアも馬車の窓から顔を出し、眼下に広がる港湾地区へ鋭い視線を向けた。
「……潮位がおかしい。潮汐計算の標準値を遥かに超えている」
アリアの冷徹な一言の通り、港の光景は惨状を呈していた。
現在は本来、潮が引いていくはずの『干潮』の時間帯であるはずだった。にもかかわらず、黒々とした海水が津波のような巨大なうねりとなって、防波堤を易々と越えて港の石畳へとなだれ込んでいるのだ。
第一埠頭の低地にある木造の倉庫群は腰の高さまで浸水し、繋留されていた小船たちが狂ったように互い激突し合っている。
「助けてくれーっ! 潮が引かねぇ! それどころか、どんどん満ちてきやがる!」
「水門だ! 沖合の水門が閉まらねぇんだよ!」
荷物を抱えて坂道を駆け上がってくる避難民たちの悲鳴が響き渡る。
馬車を広場の手前で乗り捨て、三人は浸水しつつある港のメインストリートへと急いだ。
膝下まで押し寄せる冷たい海水をかき分けながら進むと、埠頭の防波堤の上で、濡れネズミのようになりながら太いロープにしがみついている老船長バルトロの姿が見えた。
「バルトロ船長!」
ケリーが声を張り上げると、バルトロは驚愕したように振り返った。
「アリア技師! ケリーの若造! 戻ってきてくれたのか! 大変なことになった……街が……アルト・マリーナが水没しちまう!」
「落ち着いて事情を話せ。水門が閉まらないと言っていたな?」
アリアが周囲の喧噪に動じない平然とした声で問いかけると、バルトロは震える手で沖合の浅瀬を指差した。
「ああ! 数時間前だ! 沖合の海底にある『古代の水門大時計』が、突然ゴゴゴと地鳴りのような音を立て始めたんだ! そして干潮の時刻になった途端、本来なら海水を開放して外海へ逃がすはずの水門弁が、逆に『全開』のまま固着しちまったんだよ!」
「全開のまま固着……?」
アリアは革鞄に手を当てた。
鞄の奥深くには、ポルト・サリナで四つ目が揃い、完全体へと合体した『星図時計』が収められている。
(……間違いない。四つのパーツが合体し、内部の永久磁場と天体共鳴回路が起動した。その強大な磁気振動が、この近海に沈む『古代の水門大時計』の感応レシーバーと物理的に共鳴を起こしたんだ……!)
アリアたちが星図アストロラーベを完成させたことによって、長年休眠状態にあった海底の巨大大時計が目覚めてしまった。
しかし、世界(星)の自転軸そのものがコンマ三七度傾いている現代において、数百年前の天体データで作られた古代のメカニズムがそのまま起動すれば、当然ながら致命的な「同期不全」を起こす。
結果として、水門大時計の水圧制御ピストンは計算不能の暴走状態に陥り、干潮と満潮の制御を真逆へと逆転させてしまったのだ。
「このままだと、あと一時間で『本物の大潮』がやってくる! そうなれば、水門が開いたままのこの街は、低い土地から順番に完全に海の中に沈んじまうぞ!」
バルトロ船長が顔を歪めて叫ぶ。
「やれやれ……。ワシらの持っておるこの星図アストロラーベが、目覚まし時計の役割を果たしてしまったようじゃな」
ケリーの肩の上で、水に濡れないよう身を縮めたシルクが低く呟いた。
「……ああ。私が仕掛けを引き寄せ、完成させたことが引き金になった。ならば、私が責任を持って止める」
アリアは迷いのない手つきで右目にルーペ(キズミ)を嵌め込み、海の底——渦巻く濁流の向こう側へと視線を凝らした。
だが、その時だった。
「どけっ! そこをどけ、無知な街の者どもめ!」
高圧的な怒号と共に、濡れた石畳を靴音高く鳴らして近づいてくる一団があった。
青い金糸の刺繍が施された豪奢な魔導師の長魚を身に纏った、四人の男たちだ。先頭に立つのは、冷ややかな目つきをした気取った雰囲気の青髪の青年だった。
「な、なんだあんたらは……!?」
「控えよ! 我らは王都より王城魔法技師団から派遣された、特級魔導技師団である!」
青年技師は胸の銀の徽章を誇らしげにかざし、溢れ出す海水を嫌そうに見下ろした。
「王都の大時計台の異変に続き、南の港町でも魔導機械の暴走か。まったく、下々の者が管理する機械というものは不完全で困る。……だが安心するがいい。我々王立の最高峰の魔法技師が来たからには、このような古代のガラクタなど、即座に魔法で封印してみせる!」
王城の魔法技師たち——第一部でアリアと対立した傲慢な技術者たちの同僚が、この港町へも介入してきていた。
アリアはルーペ越しに、魔法技師たちが掲げた強力な魔導杖と、そこに集束し始めた巨大な氷と重力の魔法陣を冷ややかに見つめた。
「……やめろ。そんな力任せな干渉をすれば、内部の水圧弁が内圧に耐え切れず水撃作用を起こす」
「あぁん? なんだその小娘は?」
王城の青年技師が、不快そうにアリアを見下ろした。
「素人の子供が口を挟むな。物理的な圧力など、我らの高等な重力遮断魔法と凍結魔法で強引に押さえつければ一発なのだ! いくぞ、構成術式開始!」
アリアの警告を一蹴し、魔法技師たちは杖を海へと突き立て、一斉に魔力を解放した。
ズズズズズ……ッ!
海水が凍りつき、巨大な氷の柱が海底の水門へと打ち込まれていく。
一時的に、水門の回転が強引に止められたかのように見えた。船乗りたちが「おお……!」「止まったか!?」とどよめく。
——だが。
アリアの耳は、海底の底深くから響く、絶望的な金属の断末魔を逃さなかった。
ギギギギギギ……ガコンッ!!
「……馬鹿め。最悪の選択をしたな」
アリアが吐き捨てた直後、打ち込まれた氷の柱が一瞬で粉々に砕け散った。
魔法によって無理やり動きを止められたことで、内部で逃げ場を失った数十トンもの水圧エネルギーが爆発的な衝撃波となり、水門の巨大歯車を完全に逆噴射させたのだ。
ドッゴォォォォン……ッ!!
水柱が数十メートルの高さまで跳ね上がり、先ほどまでの倍の勢いで、濁流がアルト・マリーナの港へと一気に押し寄せてきた。
「ひええええっ!? な、なぜだ!? 我らの魔法が弾かれただと!?」
王城の技師たちが青ざめて腰を抜かす。
刻一刻と迫る、大潮の刻限。
暴走し、街を飲み込もうとする古代の水門大時計。
アリアは革鞄を固く締め直し、力強い眼差しでケリーを見上げた。
「ケリー。準備しろ」
「おうっ! いつでもいけるぞ、アリア!」
「……これより海底の水門大時計内部へ潜入する。物理の力で、あの巨大な狂いを力ずくで叩き伏せる!」
荒れ狂う波としぶきの中、天才時計師と騎士の、街の命運をかけた海底決戦の幕が切って落とされた。




