第17話:ケリーのスープと、旅の夜風
波の音が、夜の静寂の中に低く深く響いていた。
白く結晶化した塩の皮膜が街を覆う古港ポルト・サリナ。日中の強い太陽が水平線の彼方へ沈むと、昼間の熱気は嘘のように引いていき、代わりに海から冷たく澄んだ夜風が吹き抜けていく。
群青色の夜空には、王都では見ることのできない数え切れないほどの星々がちりばめられ、黒い海面の上にひと筋の銀色の光の道を映し出していた。
港を臨む古い石造りの旅籠。その二階にある広々とした木製テラスで、アリアは静かに椅子腰掛けていた。
膝の上には、昼間シエラの船から引き揚げてきた工具箱。
右目からはルーペを外し、潮風に銀色の髪を遊ばせながら、遠く暗い海原とそこに浮かぶ星々の軌道をぼんやりと見つめている。
「ふぅ……。やっぱり夜になると冷え込むな。アリア、風邪ひくぞ。羽織ってろ」
パサリ、と肩に温かい毛布が掛けられた。
振り向くと、両手に大きな土鍋を抱えたケリーが、テラスの扉を腰で押し開けて入ってくるところだった。
「……勝手な体温管理の押し付けだ。私は寒さなど感じていない」
「ウソつけ。耳の先が真っ赤じゃないか。ほら、冷めないうちに席につけ」
ケリーは木製の丸テーブルの中央に、湯気を立てる大きな土鍋をどんと置いた。
直後、ふたが開けられると同時に、テラスいっぱいにえも言われぬ香ばしく濃厚な香りが広がった。
「おおおっ! ついに出来たか! 待っておったぞい!」
テラスの手すりの上で丸くなっていた黒猫のシルクが、目を輝かせてテーブルの上へと飛び乗ってきた。
「へへっ、今夜のメインディッシュだ! 港の市場で仕入れた獲れたての海エビに、地魚の切り身、それから黒貝を、トマトと完熟柑橘、地元のハーブと白ワインでじっくり煮込んだ『ポルト・サリナ特製・魚介のブイヤベース』だ!」
ケリーが胸を張り、深めの素焼きの皿にたっぷりと具材とスープを盛り分けていく。
スープは鮮やかな赤黄金色を呈しており、エビや貝から出た濃厚な旨味の油が、木漏れ日のように光を反射している。傍らには、カリッと香ばしく焼き上げられたバゲットが添えられていた。
「シルクには、塩分を極限まで控えて出汁でじっくり煮込んだ白身魚の切り身だぞ」
「うむ! 苦労をかけるのう、ケリー! どれどれ……むぐッ……う、美味い! スープが染み込んだ身が口の中でほろりと解けるわい!」
シルクは尻尾を機嫌よくピンと立て、無心で皿に顔を突っ込んだ。
アリアも促されるまま匙を取り、熱々のスープをひとくち口へと運ぶ。
「……ッ」
一瞬で、口内に圧倒的な海の旨味が爆発した。
エビの殻を炒めて引き出された香ばしさ、貝の濃厚な出汁、そしてトマトの酸味とハーブの爽やかな香りが、見事な調和を奏でている。昼間の海水や塩風で冷えて硬くなっていた胃袋に、温かな熱がジワリと染み渡っていく。
「……どうだ?」
ケリーがスープを盛り付け終え、期待に満ちた大型犬のような目で見つめてくる。
「……熱伝導率およびアミノ酸の抽出効率が極めて高い。魚介のクセを消すためのハーブの配合比率も、熱力学的な調理手順として妥当だ」
「だからよぉ……『すごく美味い』って素直に言えないもんかねぇ、この子は」
ケリーは苦笑しながらアリアの隣の椅子に腰掛け、カリカリに焼けたバゲットをスープに浸して豪快に頬張った。
「まあいいや。お前が夢中でバゲットをスープに浸して食ってる時点で、合格だって分かってるからな」
「……不快だ。人の摂食行動を観察するな」
アリアはむっとしながらも、スープを吸って柔らかくなったパンを口に運び、満足そうに瞳を細めた。
前世では、一人静かな部屋で、コンビニの冷めた弁当やカップ麺を機械的に胃に流し込むだけの日々だった。栄養を摂取するためだけの無機質な作業。だが今は、こうして誰かが自分のために丹精込めて作った温かい料理を、夜風の中で一緒に囲んでいる。
ふと、アリアは小さく息を吐き、静かな声で言った。
「……シエラの父親は、すごい職人だな」
「え?」
ケリーがパンを噛む手を止め、アリアを見つめた。
「あのマリンクロノメーターのことだ。二重の遊星歯車とバイメタルバネによる、自動減速機構……。海へ出て湿気を吸うと、あらかじめ難所の海域での計算補正に合わせた『遅れ』を正確に刻み始める仕掛け……」
アリアは夜空の星々に視線を向けた。
「普通の技術者なら、時計を壊さないことや、正確な標準時を保つことだけに囚われる。だが、彼女の父親は違った。我が子の命を守り、過酷な海の上で迷わないための『優しさ』を、ミクロの歯車の中に物理的な形として落とし込んだんだ」
「……そうだな」
ケリーの表情が柔らかく、そして温かなものへと変わる。
「シエラ、泣いてたよな。ずっと『父さんに嫌われてるんじゃないか』って不安だったのが、一瞬で溶けたみたいにさ。お前があの時計の本当の音を取り戻してくれたから、あの子はまた前を向いて海へ出られるんだ」
「……私はただ、誤作動の原因を排除しただけだ。父親の想いに気づいたのは、単なる現象の検証結果に過ぎない」
「それがお前の一番すごいところだろ」
ケリーはワイングラスを傾け、静かに微笑んだ。
「お前は無愛想で、口を開けば難しい理屈ばかり言ってるが……時計の向こうにある持ち主の『想い』だけは、絶対に踏みにじらない。言っていることが俺には分からない時も多いが、お前が今、こうして誰かの止まった時間を動かしてるのは事実だ」
「……」
アリアは返事ができず、ただ黙って温かいスープを匙ですくった。
胸の奥が、スープの温かさとは違う、甘痒いような熱を帯びている。
「なあ、アリア」
「なんだ」
「王都を出て、南の海まで来て良かったな」
ケリーがテラスの手すりに肘をかけ、夜の海を見下ろしながら呟いた。
「最初は『星図パーツの謎』を追っての出張修理だったが……この街の海も、美味しい食べ物も、出会った人々も……俺にとっては全部が宝物だ。俺が護衛騎士としてお前の隣に立ててること、誇りに思ってるぞ」
「……大げさだ。お前はただの飯炊き係兼、重い工具箱の運搬要員だ」
「ひどい言い草! これでも王立騎士団の精鋭なんだぞ!?」
ケリーがオーバーにショックを受けた振りをしてみせると、足元で魚を平らげたシルクが「くくく」と喉を鳴らした。
「やれやれ。ワシから見れば、二人とも実に仲が良いお似合いの夫婦に見えるがのう」
「なっ……ッ!???」
アリアの手から匙が落ちそうになり、カチャンと小さなお皿の音を立てた。
一瞬で、耳の先から首筋までが真っ赤に染まる。
「し、シルク! 不確定かつ非論理的な妄言を吐くな! 私とケリーは単なる『依頼人と護衛(兼調理担当)』という物理的契約関係に過ぎない!」
「お、おう! そうだぞシルク! 俺とアリアは……その、そういうんじゃないっていうか……っ!」
ケリーも顔を真っ赤にして慌てて手を横に振っている。
二人の動揺ぶりに、シルクは満足そうに尾を揺らした。
「くくく、照れるな照れるな。まあ、若いものの焦れったい距離感を見るのも、酒の最高の肴じゃわい」
「……シルク、今夜はベッドの外で寝ろ」
「おっと、そいつは勘弁してくれい」
夜風がそっとテラスを吹き抜け、三人の賑やかな会話の余韻を海へと運んでいく。
チク、タク、チク、タク。
アリアの懐の中で、標準時を刻む懐中時計が、静かで規則正しい鼓動を打ち続けていた。
止まっていた前世の時間が、今、南の海の風と温かなスープ、そして隣にいる仲間たちの笑顔と共に、新しくみずみずしい時間を紡ぎ直している。
明日は、四つ目の『星図パーツ』の手がかりを探すことになるだろう。
壮大な世界の謎への恐怖や不安は、不思議と存在しなかった。この男と、この黒猫がいる限り、どんな壊れた世界であっても直してみせる——そんな職人としての静かな自信が、アリアの胸の中に深く根を張っていた。
静かな波音と、星々の光に包まれながら、南の街の夜は穏やかに更けていった。




