第16話:少女の夢と、父が遺した「許し」
潮風がざわめき、小型帆船『サリナ号』の木製甲板を小さな波が洗っていた。
見渡す限りの群青色の海の上、アリアの手元にあるマホガニー箱の中で、最高級航海時計は静かに、しかし狂いなく『遅れた時間』を刻み続けていた。
「……父さんが……この時計に仕掛けをした……?」
シエラは信じられないといった様子で立ち尽くし、震える声で尋ねた。
「どうして……? 父さんは大航海士で、この時計を何より大切にしてたのに! 私が継いでから海に出ると遅れるなんて……父さんが、私に海へ出るなとでも言いたいっていうの!?」
「静かにしろ。感情的な叫びは観察の邪魔だ」
アリアはシエラの悲痛な訴えを冷たく遮ると、眼球に固定したルーペ(キズミ)の奥で、ピンセットの先端をミリ単位で滑らせた。
クロノメーターのメインブリッジ(受け板)を固定する極小の真鍮ネジを二本外し、裏輪列の密閉カバーを静かに持ち上げる。
カチリ。
外装の重厚な装飾の影、通常の分解手順では決して露出することのないムーヴメントの最深部。そこには、本来のマリンクロノメーターの設計図には存在しない『異物』が組み込まれていた。
「……やはりな。バイメタル(双金属)式の感湿バネと、極小の遊星歯車による差動減速機構だ」
「さどう……げんそく?」
ケリーが眉をひそめ、アリアの手元を覗き込んだ。
「簡単に言えば、二重の歯車回路だ。この時計は、乾燥した陸の上では通常の歯車列だけで時を刻む。……しかし、海へ出て高濃度の塩分と潮風の湿気を吸い込むと、この特殊な双金属バネがわずかに湾曲し、隠されたもう一つの遊星歯車が噛み合う仕組みになっている」
「湿気と塩分をスイッチ代わりにしてるってことか!?」
「そうだ。そして、その差動ギアが介入することで、脱進機へ伝わるトルクの減速比が『正確に十七分の十六』に固定される。……結果として、一時間あたり正確に四分十五秒、秒針の進みが遅くなるように設計されているんだ」
アリアの淡々とした物理的解説に、シエラは拳を強く握り締め、唇を噛み閉じた。
「……じゃあ、やっぱり……! 父さんは私が海へ出られないように、時計を壊しておいたんだ……! 女の子の私じゃ、大航海士になんてなれないって……私を信用してなかったんだわ……ッ!」
ボロボロと大きな涙をこぼし、甲板に膝をつくシエラ。
その背中に、操兵室の屋根の上に座っていた黒猫のシルクが、静かに語りかけた。
「やれやれ。早合点はいかんぞい、若い娘。あの大航海士と呼ばれた男が、そんな嫌がらせのためにこれほど精密で美しいカラクリを作ると思うか?」
「え……?」
「そうだな。お前の父親は、お前を拒むためにこんな仕掛けを作ったんじゃない」
アリアはピンセットで差動ギアの表面に刻まれた、肉眼では決して見えない極小の目盛りを指し示した。
「シエラ。お前が目指している『南の最果ての海域』……あそこは、強い二重潮と暗礁地帯が続く難所のはずだ。航海術の教科書には、どう書かれている?」
「え……ええと、『南の最果ての海域に入る際は、磁気偏差と潮流による位置誤差を補正するため、クロノメーターの計測時間をあらかじめマイナス補正して航路を計算せよ』って……」
「その『補正数値』は幾らだ?」
「一時間あたり……四分……十五秒……」
シエラは言葉を途中で詰まらせ、琥珀色の瞳を大きく見開いた。
「……そうだ」
アリアはルーペを外し、静かに告げた。
「お前の父親は知っていたんだ。一人で海へ出たお前が、過酷な操舵と嵐の中で、複雑な天体計算と時間のマイナス補正を同時にこなす余裕などないことを。……だから、この時計自身に最初から『最果ての海域における正しい計算時間』を刻ませるように仕組んだんだ」
「父さんが……私の計算を助けるために……?」
「それだけではない」
アリアは手元の革鞄からノートを取り出し、前世の記憶にある天文学的計算式と、この海域の緯度経度を手早く書き下した。
「この差動ギアには、もう一つ『安全ロック』がかかっている。海に出て湿気を吸ってから約二時間が経過すると、このバイメタルバネの張力が限界に達し、内部のストッパーが作動して時計が完全に停止する。……二時間という時間は、この『サリナ号』のような小型船が、引き返せなくなる限界距離に達する直前の時間だ」
「引き返せなくなる……限界距離……」
「お前の父親は、お前を海から遠ざけたかったのではない。……未熟な操舵技術のまま危険な海域へ突入し、命を落とすことを恐れたんだ。二時間以内に港へ引き返せるうちなら、何度でもやり直せる。『この時計が止まったら、今日のところは引き返しなさい』……これは、亡き父親がお前に遺した、世界で一番優しい安全装置だ」
静まり返った甲板に、波の音だけが優しく響いていた。
「父さん……っ、父さん……!!」
シエラは膝を折り、胸にクロノメーターを抱きしめて号泣した。
「自分は一人だ」「父に認められていなかった」という孤独と不信感が溶け去り、父が自分に遺してくれた途方もない愛情の大きさが、涙となって溢れ出していく。
ケリーは優しくシエラの肩を抱きかかえ、アリアは無言で作業箱から一本の極小ドライバーを取り出した。
「……シエラ。泣いている暇はないぞ。私は仕事(修理)を完了させる」
「え……?」
シエラが涙を拭い、顔を上げた。
アリアの細い指先が、差動ギアの横に配置された極小の固定ピンをカチリと押し込む。
前世の知識と精密加工の技術を用いて、アリアはバイメタルバネの動作閾値を再調整し、外装の真鍮ケースの側面に、目立たない微小な『切り替えレバー』を新設してみせた。
「通常時はレバーを左へ。これで海の上にいようと、完全に正確な標準時を刻む。……そして、お前が本当の技術を身につけ、南の最果ての海へ挑む時は、レバーを右へ倒せ。父親が遺した『最果ての補正時間』が、お前の航路を正しく導くだろう」
アリアがリューズを軽く巻き直すと、マリンクロノメーターは……。
チク、タク、チク、タク、チク、タク……!
南の眩しい太陽の下、何一つ遅れることのない、力強く澄み渡った金属音を奏で始めた。
「直った……! 陸の上と同じ、完璧な音……!」
「壊れてなどいなかった。想いが詰まりすぎていただけだ」
アリアは木箱の蓋をそっと閉め、シエラの手へと手渡した。
「ありがとう……ありがとう、アリア技師……! 私、絶対にもっと操舵を勉強して、いつか父さんの言っていた最果ての海へ行ってみせるわ!」
「……勝手にしろ。私には関係ない」
アリアはそっぽを向いて冷たく言い放ったが、その耳の先が照れ隠しで微かに赤くなっているのを、ケリーとシルクは見逃さなかった。
「へへっ、相変わらず素直じゃないなあ、アリアは」
「くくく、まったくじゃわい。……まあ、これでこの街での一件も落着じゃな」
港へ向けて旋回する『サリナ号』の甲板で、正しく時を刻み始めた真鍮のクロノメーターが、二度目の航海の始まりを告げるように輝いていた。




