第5話:海辺の休日と、露出度の高い試練
南国の朝の光が、旅籠の窓格子を抜けて部屋の床に美しい格子模様を描いていた。
海から吹き込んでくる潮風がカーテンを優しく揺らし、微かに塩の香りを運んでくる。
作業机の上には、昨日バルトロ船長から譲り受けた古びた羊皮紙——海底に沈む『古代の水門大時計』と、その入口である『カラクリ屋敷』の概略図が広げられていた。
「……ふむ。潮の満ち引きによって水没する構造か。屋敷の周囲は浅瀬だが、入口の回廊は干潮の時でも大人の腰から胸ほどの水深がある。奥へ進むには、どうしても海に入らなければならないな」
アリアは眼球に嵌めたルーペ越しに羊皮紙の幾何学模様を凝視し、無愛想に呟いた。
前世で培った機械工学の知識で見ても、このカラクリ屋敷の設計は実に見事だ。浮力と水圧のバランスを巧みに利用した密室構造であり、内部の機械室に辿り着くには、物理的な『水流の仕掛け』を解き明かしながら水中を進む必要がある。
「そういうことなら、任せとけ!」
突如、部屋の扉が勢いよく開かれ、大きな買い物袋を幾つも抱えたケリーが飛び込んできた。
朝から港の市場へ出かけていた彼は、汗をかいた額を腕で拭いながら、誇らしげに胸を張る。
「海の中に入るんだろ? 普通の服を着たままじゃ、水を吸って重くなるし、水の抵抗で泳ぐこともできやしない。だから、この街の仕立屋で『海に入るための専門の衣服』を仕入れてきたぞ!」
「……専門の衣服?」
アリアがルーペを外して首を傾げると、ケリーは嬉々として買い物袋から『それ』を取り出し、ベッドの上に広げた。
光沢のある柔らかな生地で作られた、紺色と白の鮮やかな二色仕立ての布地。
上は肩と胸元が大胆に開いたノースリーブ状のショート丈、下は膝の上どころか太ももまで完全に露出する小さなショーツに、可愛らしいフリルが付いた軽快なデザイン——いわゆる、この南の港町で流行している『女性用の水着』であった。
「……」
アリアの思考回路が、一瞬でフリーズした。
(な、なんだこれは……ッ!?)
頭の中で、前世の三十代男性としての記憶と理性が、激しい警告音を鳴らし響かせる。
いくら今の身体が可憐な銀髪の少女だとしても、精神の根底にあるのは真面目で頑固な中年時計職人だ。前世の感覚からすれば、こんな肌けて露出度の高い布切れ一枚で外を歩くなど、破廉恥以外の何物でもない。
(こんな……こんな布面積の少ないものを着て、ケリーやシルクの前に出ろというのか!? 膝上どころか、太ももも腹も出ているじゃないか! 冗談じゃない、恥ずかし死んでしまうわ!!)
アリアの心の中は大惨事だった。前世男の自意識が猛烈な悲鳴を上げ、顔が一気に沸騰したように熱くなっていく。
だが、職人としてのプライドと無愛想な仮面を維持するため、アリアは必死で表情を殺し、冷ややかな瞳でケリーを睨みつけた。
「……ケリー。これは何だ」
「何だと言われても、水着だが? アルト・マリーナじゃ、海に入る女性はみんなこれを着ているぞ。生地も丈夫で、水弾きがいい特殊な織り方をしてあるんだ」
「……却下だ。流体力学的にも熱力学的にも、この衣服は極めて不合理だ」
アリアは腕を組み、早口で理屈をこねくり回し始めた。前世男の羞恥心を覆い隠すための、必死の防衛本能である。
「第一に、皮膚の露出面積が多すぎる。海水中における体温の低下スピードは空気中の約二十五倍だ。このような肌けた形状では、水深のあるカラクリ屋敷に潜った際、即座に低体温症を引き起こすリスクが高い。第二に、この無駄なフリル装飾だ! 流体抵抗を増加させ、水中での運動効率性を著しく阻害する!」
「お、おう……? なんか難しいことをブツブツ言ってるが……」
ケリーは呆気にとられたように目を丸くしたが、すぐに「でもさ」と苦笑して肩をすくめた。
「濡れたいつもの服を着て潜るより、絶対に動きやすいぞ? 普通の服だと水を含んで何キロも重くなって、それこそ沈んで溺れちまう。それに、浅瀬の屋敷に行くくらいなら体温が下がる前に終わるだろ。ちゃんと上から羽織る薄手の羽織り(パーカー)も買ってきたからさ」
「そういう問題ではない! 衣服としての表面積があまりにも少なすぎると言っているんだ!」
「不経済なカットだなあ、おい」
ベッドの端で毛繕いをしていた黒猫のシルクが、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて横から口を挟んできた。
「やれやれ、嬢ちゃん。何をそんなに赤くなって拒んでおるんじゃ。ただの潜水用の着替えじゃろうに。まさか、若いのの前で肌を見せるのが恥ずかしいとでも言うのかのう?」
「な……ッ!? バ、バカを言え、シルク! 恥ずかしいなどという感情的かつ非生産的な理由ではない! 私はただ、機能性の欠如を指摘しているだけだ!」
動揺のあまり、アリアの耳の先まで真っ赤に染まっていく。
シルクの言うような甘酸っぱい乙女心などではなく、「中身がオッサンなのに女の子の水着を着る」という前世ゆえの超絶な羞恥心なのだが、それを説明できるはずもなかった。
「よし、じゃあ決まりだな! 安全のためにも、絶対にその水着に着替えてもらうぞ!」
ケリーはアリアの反論を「照れ隠し」と都合よく解釈したのか、爽やかな笑顔で水着をアリアの手に押し付けた。
「俺は外で待ってるから、着替えたら教えてくれ。シルク、お前も一旦外に出るぞ」
「はいはい。ワシも外で待つとしようかの。くくく、どんな姿で出てくるか楽しみじゃわい」
「シルク、あとで毛を全部刈ってやるからな……!」
二人(一人と一匹)は楽しそうに部屋から出て行き、パタンと扉が閉められた。
静まり返った部屋の中に、一人取り残されたアリア。
手元には、つるつるとした手触りの、紺と白の可憐な水着。
「……くっ」
アリアは水着を握り締め、絶望的な心地で天を仰いだ。
前世で三十年、今世で十数年。これほどまでに試練と感じる瞬間が訪れようとは、夢にも思っていなかった。
(落ち着け……落ち着け、私。これは職務だ。調査のための正当な作業着に過ぎない。熱力学的なカッティングだと自分に言い聞かせるんだ……!)
自分に言い訳をこねくり回しながら、アリアは震える手で、ゆっくりと服のボタンに手をかけた。
南国の眩しい太陽と、潮風の音。
路地裏の裏路地で時計とばかり向き合ってきた天才少女(中身はオッサン)にとって、人生で最も過酷で、甘酸っぱい試練の時間が刻まれようとしていた。




