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第4話:比重の逆転と、海の底の気配


 夜の静寂が白亜の港町を深く包み込んでいた。

 波が海岸の石垣を洗うザザン、ザザンという低い音が、開け放たれた小窓からかすかに聞こえてくる。


 アリアは旅籠の部屋の作業机に向かい、真鍮製の『潮汐時計』の内部機構をランプの光に透かしていた。

 右目には仕事用のルーペ(キズミ)が嵌め込まれ、透き通るような青い瞳が、ミクロの機構を冷徹に観察し続けている。


「……ふむ。ピストン周りのシリンダー構造に破損はない。歯車列のトルク伝達比率も正常だ。だが、高水圧がかかった瞬間だけ、この作動弁が過剰に浮上してギアをロックさせている」

「嬢ちゃん、まだ根を詰めておるのか。そろそろ目を休ませんと、老眼が早まるぞい」


 ベッドの上で丸くなっていた黒猫のシルクが、あくびを噛み殺しながら尻尾を揺らした。


「……まだ若いから心配いらない。それより、シルク。この作動油の粘性と比重だが……王都で使われている精製鉱物油とは成分が異なるな?」

「当たり前じゃ。この南の港町で使われておるのは、海獣の油脂と地中植物の油をブレンドした特殊な精製油じゃよ。塩害を防ぎ、金属の腐食を抑える効果が高いでの」


 シルクの言葉に、アリアの脳内でバラバラだった要素がカチリと音を立てて噛み合っていった。


「……なるほど。そういうことか。物理法則と化学的特性の、盲点のような不協和音だな」

「おいおいアリア、まだ起きてたのか。はい、夜食の温かいホットミルクと蜂蜜バゲットだぞ。これ食って早く寝ろよ」


 部屋の扉が静かに開いて、ケリーがトレーを手に滑り込んできた。

 大柄な体を縮めるようにしてアリアの隣に歩み寄り、湯気の立つマグカップを作業机の端に置く。


「……ケリー。私は寝ている暇はない。原因は特定できた」

「えっ、もう分かったのか!?」

「ああ。物理的な故障でも、魔法の呪いでもない。……環境変化に伴う『比重の逆転』だ」


 アリアはピンセットで、シリンダー内部に設置された米粒ほどの真鍮製フロート(浮子)をつまみ上げた。


「この潮汐時計は、海の潮の満ち引きによる水圧変化をシリンダーで受け止め、内部のピストンとおもりを上下させて自動でゼンマイを巻き上げる。干潮の時は問題ない。だが、満潮時……海水の塩分濃度と温度変化、そして高い水圧が重なった瞬間、海水の密度(比重)が急激に上昇する」

「海水の密度が上がる……? それがどう影響するんだ?」


 ケリーが首を傾げると、シルクが「やれやれ」と溜息をついて横から補足した。


「濃い塩水ほど、物が浮きやすくなるじゃろ。卵を水に入れると沈むが、塩をどっさり入れると浮いてくるのと同じ理屈じゃ」

「そうだ」


 アリアは小さく頷き、ピンセットの先でフロートを指し示した。


「バルトロ船長の父親は極めて優れた職人だった。だが、彼の計算には一つだけ誤差があった。満潮時、高水圧によって押し込まれた海水と、シリンダー内部の作動油の比重差が大きくなりすぎ、このフロートに想定以上の『浮力』が働いてしまうんだ」

「浮力が強くなりすぎる……?」

「ああ。過剰な浮力を受けたフロートが、本来の停止位置を超えて上部へ浮上し、過剰巻き上げを防ぐための『安全ロックピン』を誤って押し上げてしまっていた。つまり、時計自身が『故障した』のではなく、『過剰な負荷から身を守るための安全装置が暴走して停止していた』のが真相だ」


 アリアはルーペを外し、冷めたホットミルクを一口すすった。甘みと温もりが身体に染み渡っていく。


「機構が完璧すぎるがゆえに起きた、極めて皮肉な誤作動だ。修理は容易い。フロートの質量をわずかに増やすか、安全ロックのバネのプリロード(初期荷重)を0.05グラム単位で再調整してやればいい」

「すげえ……! 地元の時計屋が全員お手上げだった謎を、一晩で解き明かしちまうなんて!」


 ケリーが感心したように目を輝かせ、アリアの頭を力任せになでようとしたが、アリアは「さわるな、作業の邪魔だ」と素早く身をかわした。


「よし、明日の朝、バルトロ船長を驚かせてやろうぜ!」


---


 翌朝。眩しい太陽が港の海面を黄金色に染め上げる頃、アリアたちは港の第一埠頭に立っていた。


「……本当に、直ったというのかい? あの時計が……」


 老船長バルトロは、半信半疑の面持ちでアリアの手元にある『潮汐時計』を見つめていた。

 アリアは夜のうちにフロートの重心調整と、バネの微調整を完璧に施してある。あとは、実際の海で満潮相当の負荷をかけた実地テストを残すのみだった。


「バルトロ船長、その船のロープでこの時計を海底近くまで沈めてみてくれ。今はちょうど、一日に一度の『大潮の満潮』の時刻だ」

「あ、ああ……分かった」


 バルトロは震える手で潮汐時計に太いロープを括り付け、ゆっくりと埠頭の端から群青色の海中へと沈めていった。

ズズズ……とロープが伸びていき、時計は水深十メートル以上の海中へと消えていく。


 かつてなら、この深さと満潮の水圧がかかった瞬間、時計の音は途絶え、完全に停止していたはずだった。


 バルトロは海の底へと伸びるロープを握り締め、かたずをのんで海面を見つめている。

一分、二分、三分……。


「船長、ロープを手繰り寄せて、音を聴いてみろ」


 アリアの静かな促しに、バルトロは急いでロープを引き揚げた。

 水しぶきを上げて海上に現れた真鍮の潮汐時計。海水を滴らせるその内部から——。


 チク、タク、チク、タク、チク、タク……!


 力強く、みずみずしく、一切の淀みなく時を刻む美しい金属音が、朝の港に響き渡った。

 満潮の最高水圧を受けながらも、二重の青い針は潮の満ち引きを正確に指し示し、ゼンマイは軽快な音を立てて巻き上げられている。


「動いている……! 満潮なのに、止まらない! 親父の時計が、完璧に動いているぞ!!」


 バルトロ船長の目から、ポロポロと大きな涙が溢れ落ちた。

彼は濡れた潮汐時計を抱きしめ、子供のように声を上げて泣いた。


「ありがとう……! ありがとう、小さな天才技師さん! 親父が遺してくれた一番の宝物が、ついに蘇ったんだ……!」

「……感謝には及ばない。私は職人として、あるべき状態に戻しただけだ」


 アリアは素っ気なく返したが、横に立つケリーは「よかったな、船長!」と我がことのように破顔し、バルトロの背中をポンポンと叩いていた。


 バルトロは袖で涙を拭うと、真剣な眼差しでアリアを見つめ直した。


「技師さん……あんたの腕は本物だ。王都の大時計台を直したという噂は伊達じゃないな。……そんなあんたにだからこそ、話しておきたいことがある」

「話……だと?」


 バルトロは周囲をぐるりと見回し、声を潜めて語り始めた。


「この潮汐時計を直してくれたあんたなら、理解できるかもしれない。……実は、このアルト・マリーナの沖合、浅瀬の海底にはな……る『古代の水門大時計』と呼ばれる巨大な絡繰遺跡が眠っているんだ」

「水門大時計……?」


 アリアの青い瞳が微かに見開かれた。


「ああ。数百年前、この街が造られた頃に作られたという巨大な水圧仕掛けの構造物だ。干満の差を利用して港の水位を調整するためのものだと言われているが……実は、街の古文書には別の記述がある」

「別の記述?」

「『海の底の大時計は、ただの排水装置にあらず。空の星々と対をなし、世界の正しき時を刻む基軸なり』……とな」


 バルトロは懐から一枚の古びた羊皮紙を取り出し、アリアに差し出した。

 そこには、海底に沈む巨大な歯車機構の概略図と、アリアが持っている『星図時計のパーツ』とまったく同じ形状の刻印が描かれていた。


「近年、その水門大時計の周囲で、妙な磁場の狂いや怪奇現象が報告されていてな……。今回の俺の時計の誤作動も、もしかしたら海底の巨大時計が発している『歪み』の影響かもしれないんだ」

「……」


 アリアは羊皮紙を受け取り、その精緻な図面を食い入るように見つめた。

 胸の奥で、職人としての歯車が激しく加速していくのを感じる。


 先日に届いた謎のパーツ。

 この港町で起きた潮汐時計の過剰浮力。

 そして、海底に沈む古代の水門大時計と、星の動きのズレ。


 バラバラだったすべての点が、一つの巨大な「壮大な線」となって繋がり始めていた。


「船長。その海底の遺跡……水門大時計へ行くには、どうすればいい?」

「いくらあんたでも無茶だ! あそこは浅瀬とはいえ海の中だぞ? それに、遺跡の入り口は満潮時には完全に水没する『カラクリ屋敷』になっているんだからな!」


 バルトロは慌てて手を振ったが、アリアの瞳に宿った好奇心の火は、すでに消せるものではなかった。


「くくく、面白くなってきたではないか」


 シルクがアリアの足元で優雅に喉を鳴らす。


「水没したカラクリ屋敷に、古代の巨大時計じゃと? 出張修理の舞台としては最高じゃな」

「……ああ。そこに行けば、すべての答えがある」


 アリアは羊皮紙を慎重に折りたたみ、革鞄へと収めた。


 南の海の穏やかな波音の底で、古代の巨大な歯車たちが、アリアたちの訪れを待つように静かに蠢いていた。

 

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