第6話:固まる大型犬と、理屈っぽい防寒対策
水着回です!!
旅籠の自室の扉前で、アリアは呼吸を止めたまま、完全に硬直していた。
(……無理だ。絶対に無理だ。やっぱり今すぐ脱ぎ捨てていつもの服に着替えるべきだ……ッ!)
鏡に映っていた自分の姿を思い出すだけで、脳の奥の血管がぶち切れそうなほどの熱量が全身を駆け巡る。
薄手の羽織り(パーカー)を上から羽織ってはいるものの、前ファスナーを開ければ、そこにあるのは無駄な装飾の削ぎ落とされた(どころか布地そのものが極限まで削ぎ落とされた)紺と白の可憐な水着姿だ。膝上どころか太ももの付け根まで滑らかな肌が露出し、胸元や首筋のラインも隠しようがない。
(中身は三十代の男なんだぞ……! いくら外見が少女だからといって、こんな破廉恥極まりない露出度で男の前に出るなんて、前世の男としての矜持が粉々に砕け散ってしまう……!)
アリアは頭を抱えて悶絶した。
だが、扉の向こうからはケリーの「アリアー? まだかー?」という呑気な声と、シルクのクスクスという意地の悪い笑い声が聞こえてくる。
ここで逃げ出せば、「怖気づいたのか」とシルクに一生煽られ続けるのは目に見えていた。職人としてのプライドと意地が、最後の最後で逃走を思いとどまらせる。
「……くっ。落ち着け私。これは潜水作業用の特殊防護服だ。熱力学的、流体力学的な合理性の産物だ。そう、単なる作業着だ……!」
己に猛烈な自己暗示をかけ、アリアは震える手で扉の取っ手を掴み、意を決してバッと開け放った。
「……待たせたな。作業用衣服への換装が完了した」
精一杯の無愛想な声。冷徹な仮面を貼り付けたつもりだった。
だが、現実のアリアの顔面は、熟しきったトマトのように真っ赤に沸騰していた。耳の先から首筋までが鮮やかな朱色に染まり、羽織りの裾を両手で必死にギュッと握り締めて、露出した太ももを隠そうと身体をすくませている。
廊下のベンチに腰掛けていたケリーが、「おう、やっと出来たか——」と気軽に振り返った。
そして。
世界の時間が、ピタリと停止した。
「……」
ケリーの動きが、まるで時を止める禁術でもかけられたかのように完全に固まった。
口を開かけたまま、琥珀色の瞳を極限まで見開いて硬直している。
西日の射し込む廊下に、銀色の髪を揺らして立つ可憐な少女。
羽織りの隙間からのぞく、滑らかで透き通るような白い肌。引き締まった華奢なウエストと、健康的な太もものライン。いつもは作業服で隠されている少女の「眩しすぎる素肌」と、羞恥心で今にも泣き出しそうなほど真っ赤になった表情のギャップが、ケリーの脳内に強烈な破壊力となって叩きつけられた。
「……け、ケリー?」
アリアが耐えかねて声を上げた、次の瞬間。
「ぶッ!!??!???」
ケリーは激しく吹き出し、全身を強打されたように跳ね上がった。
「あ、ア、ア、アリア……ッ!? お前、それ……っ、な、なに、え、なにその格好……ッ!?」
「なにって……お前が買ってきた水着だろうが! なぜお前がそんなにパニックになっているんだ!」
「いやだって! 思ってた以上に……というか、破壊力が凄すぎて……ッ! かわい……じゃなくて! 布地が少なすぎるだろ! 目のやり場が! 目のやり場がどこにもないんだよ!!」
普段は大型犬のようにドシッと構えている大柄な騎士見習いが、まるで初々しい少年兵のように大狼狽を始めた。
顔面をアリア以上に真っ赤に湧き立たせ、手で目を覆おうとしては「いやでも確認しないと」と指の隙間からチラ見し、そのたびに「うわああああっ!」と絶叫してバタバタと後退する。
ドガシャーン!!
「痛ったああああっ!?」
「何をやっているんだお前はーっ!?」
パニックのあまり後ずさったケリーは、廊下に飾られていた観葉植物の鉢植えに盛大につまずき、そのまま壁に後頭部を強打して崩れ落ちた。
「おい若いの、大丈夫か? 鼻から赤い液体が噴き出しそうになっておるぞ」
「だ、大丈夫なわけあるかシルク!! なんだあの生き物は! 反則だろ! 眩しすぎて直視したら目が潰れるわ!!」
壁に頭を打ち付けたまま、ケリーは両手で顔を覆って悶絶している。
そのケリーの予想を遥かに超えた大狼狽と、あまりの直球な反応を目の当たりにして、アリアの羞恥心はついに許容量を完全にオーバーした。
(な、ななな何なんだこのバカ騎士はーッ!? 『可愛い』って言いかけたぞ今! 直視したら目が潰れるってなんだ! 前世で三十代のオッサンだった私に向かって何を言っているんだーーッ!!)
頭の中で前世男の自意識が爆発散華した。恥ずかしさのあまり目元に微かな涙が浮かび、身体がプルプルと震え出す。
アリアは絶叫したい衝動を必死で抑え込み、羽織りの前を力任せに引っ張り合わせながら、超早口で理屈を捲し立て始めた。
「だ、だから言っただろうが! この衣服は流体力学および熱力学的な観点から極めて不適切だと! 皮膚表面の露出率が八十パーセントを超過しているため、外気との熱伝達率が跳ね上がり、視覚的・心理的な攪乱を引き起こす要因になっている! お前が狼狽えているのは単なる認知バイアスと視覚的過剰刺激による脳の誤作動だ! 私を見るな! 今すぐその目を解剖学的に摘出してやりたい気分だ!!」
「早口すぎて何言ってるのかさっぱり分からんが、お前がめちゃくちゃ照れてることだけは伝わったぞ!!」
「照れてなどいないッ!! これは体温の上昇に伴う末梢血管の拡張現象だ!!」
「言い訳が苦しすぎるだろ!!」
廊下で言い争う十代(中身オッサン)の天才少女と、赤面して頭を抱える大柄な騎士。
二人の醜態(?)を、ベンチの上にちょこんと座った黒猫が、心底楽しそうに眺めていた。
「くくく……はははは! やれやれ、実に素晴らしい見ものじゃのう! 若いのの狼狽えぶりも一興じゃが、嬢ちゃんのその顔から火が出そうなまでの狼狽えぶり、最高じゃわい」
「シルク、黙れ! あとで本当に毛を全部刈るぞ!」
「おっと恐ろしい。しかしアリア、それだけ羽織りを前で縛っておれば、露出も少しはマシじゃろ。ほら、そろそろ行かんと干潮の時間が過ぎてしまうぞ?」
シルクの正論に、アリアは「くっ……」と言葉を詰まらせた。
そうだ。目的は遊びでも海水浴でもない。海底に沈む『水没したカラクリ屋敷』の調査なのだ。こんなところで無駄な感情エネルギーを消費している場合ではない。
「……そうだ。作業に取りかかる。ケリー、いつまで壁に頭を打ち付けている。立つんだ」
「う……うす……」
ケリーは壁を背にしてズルズルと立ち上がったが、いまだに顔の赤みが引いておらず、アリアと目を合わせようとしない。視線をあらぬ方向——天井の木目や足元の石畳——へと泳がせている。
「……あー、その、アリア」
「なんだ」
「……すごく、似合ってる。可愛いぞ」
ボソッと、聞こえるか聞こえないかのような小声でケリーが呟いた。
ドッ。
アリアの心臓が不自然な跳ね方をした。
(……なっ、なにを不意打ちで……っ!??)
前世の男のプライドも、今世の冷徹な仮面も、その一言で完全に崩壊した。
アリアは「バ、バカを言うな……ッ!」と絞り出すような声で吐き捨てると、ケリーから逃げるようにくるりと背を向け、早足で階段を駆け下りていった。
「あ、おい! 走ると危ないぞ、アリア!」
「うるさい! ついてくるな!」
バタバタと階段を降りていく少女の足音と、それを慌てて追いかける青年の足音。
「やれやれ。甘酸っぱすぎて虫歯になりそうじゃのう」
黒猫シルクは呆れたように首を振りつつ、楽しそうに尾を揺らして二人の後を追った。
眩しい南国の太陽が照りつける、アルト・マリーナの海岸線へ。
照れくささと甘酸っぱい空気感をそのまま引きずりながら、三人(二人と一匹)は、古代の謎が眠る海の底への第一歩を踏み出そうとしていた。




