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第34話:開かれた鉄の扉と、巨大歯車の迷宮



 大時計台の根元に位置する、黒々とした巨大な鉄の扉。


 普段は王都の時間を守る象徴として厳重に閉ざされているその扉の前に、二人の屈強な近衛兵が立ちはだかっていた。彼らは王城から直接派遣されたエリートであり、魔法技師団とは異なる、純粋な軍事組織の人間である。


 アリアが静かに差し出した王城魔法技師団・第一席の紋章入り立ち入り許可証を一瞥すると、近衛兵の一人が鼻で笑い、無情にも槍を交差させた。


「……許可証は本物のようだが、通すわけにはいかないな。いくらルキウス様の署名があろうと、得体の知れない平民の子供を、国家の最重要施設である大時計台の内部に入れる許可など下りていない」


「……この塔は物理的な崩壊の危機にある。今すぐ内部の応力を分散させなければ、倒壊するぞ」


 アリアは無表情のまま事実を伝えたが、近衛兵は聞く耳を持たなかった。


「物理的崩壊だと? 魔法技師団の連中は『呪い』だと言っていたぞ。どちらにせよ、魔力を持たないただの時計屋に何ができる。大人しく路地裏に帰って、ガラクタでもいじっているんだな」


 近衛兵が冷酷に言い放ち、槍の柄でアリアの肩を小突こうとした、その瞬間だった。


 ガシッ、と。


 分厚い革手袋に包まれた大きな手が、その槍の柄を万力のような力で掴み止めた。


「……俺の専属時計師に、気安く触るな」


 アリアの背後から進み出たケリーの低い声が、冬の冷たい空気をビリビリと震わせた。


 彼の顔から、いつもの温厚な大型犬のような表情は完全に消え失せている。そこにあるのは、ワイズマン子爵家の血を引く貴族としての威厳と、王都騎士団の第一線で鍛え上げられた本物の戦士の殺気だった。


「き、貴様……王都騎士団の者か。同僚とはいえ、近衛の任務を妨害するなら……」


「黙れ」


 ケリーは槍を乱暴に払いのけ、懐から自身の身分証を誇り高く掲げた。


「俺は王都騎士団・第一中隊所属、ケリー・ワイズマン。ワイズマン子爵家の五男である。この少女は、第一中隊長直々の要請により、大時計台の物理的修復のために招聘された王都最高の技術者だ」


「なっ……第一中隊長直々の、だと?」


「そうだ。魔法技師団が『呪い』などという妄言を吐いてさじを投げた今、この事態を収拾できるのは彼女しかいない。彼女の身元と、塔内部でのあらゆる行動の全責任は、ワイズマン家の名と、第一中隊の権限において、俺が負う!」


 ケリーの琥珀色の瞳が、近衛兵たちを鋭く射抜いた。


「これ以上、王都の時間を人質に取って無意味な妨害を続けるというのなら、近衛と言えども反逆罪と見なし、俺が物理的に排除してでもこの扉を開ける。……道を開けろ!」


 圧倒的な気迫と、貴族の身分、そして第一中隊という騎士団中枢の権威を盾にしたケリーの宣告。


 近衛兵たちは顔を見合わせ、その威圧感に完全に呑まれていた。彼らもまた、魔法技師団の無能ぶりには苛立ちを覚えており、このまま塔を放置することが危険だとは薄々感づいていたのだ。責任の所在が明確にケリーにあると宣言された以上、これ以上止める大義名分はなかった。


「……よかろう。だが、中で何が起きても我々は関知しない。命の保証はないぞ」


 近衛兵たちは忌々しげに槍を引き、重厚な鉄の扉の鍵を外した。


 ギギギギギ……ッ。


 錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、数百年分の闇を封じ込めていた重い扉が、ゆっくりと内側へと開いていく。


 扉の隙間から吐き出された空気に、アリアは思わず眉をひそめた。


 それは、古い油が酸化した悪臭と、鉄の錆びた匂い、そして何より、無理やり魔法を撃ち込まれたことによって生じた、オゾンのような焦げ臭い匂いだった。


「……行くぞ、ケリー、シルク」


「ああ。足元に気をつけてな。シルク、明かりを頼めるか」


「承知じゃ。魔法技師どものような派手な魔法は使えんが、足元を照らすくらいなら造作もないわい」


 シルクが前足を鳴らすと、彼の尻尾の先に、ぽわんと温かい金色の光球が灯った。


 三人は、その小さな光を頼りに、大時計台の内部……巨大な化け物の腹の中へと足を踏み入れた。


 扉が背後で重々しい音を立てて閉まると、そこは完全な闇と、圧倒的な金属の質量が支配する異空間だった。


「……こいつは、すげえな」


 ケリーが思わず感嘆の声を漏らす。


 シルクの光が照らし出したのは、人間の背丈を遥かに超える、直径五メートル以上の巨大な真鍮の歯車たちだった。それが幾重にも重なり合い、太い鋼のシャフトで連結され、塔の上方へと延々と続く恐るべき機械の迷宮を形成している。


「……ひどい有様だ」


 アリアは革鞄からランタンを取り出して火を灯し、周囲の構造を冷徹な目で見渡した。


「魔法技師たちが無理やり魔力を注ぎ込んだ痕跡がある。見ろ、あの一番大きな主輪列の歯車を」


 アリアが指差した先には、最も巨大な歯車があった。だが、その強靭なはずの真鍮の歯のいくつかが、まるで飴細工のように無残にひしゃげ、折れ曲がっている。さらに、動力を伝えるための大人の腕ほどもある太い鋼のチェーンが、本来の軌道から外れて脱線し、宙吊りになっていた。


「本来、この時計は塔の最上部から吊るされた数トンもの『重錘おもり』が下へと落ちる力を動力源にしている。だが、脱進機が止まっている状態で、魔法で無理やり歯車を回そうとしたせいで、数トン分の重力の行き場が失われ、逆流した応力が一番弱い歯車の歯を砕いたんだ」


 アリアの言葉を裏付けるように、ミシッ、という不気味な軋み音が塔の内部に響き渡った。


「……マズいぞ」


 アリアはランタンの光を、崩れかかった巨大な歯車の根元へと向けた。


「脱線したチェーンが、主軸メインシャフトの軸受けに絡みついている。数トンの重りが、今、あの細い軸受け一点のみにぶら下がっている状態だ。あと数分もすれば金属疲労で軸がへし折れ、重りが塔の底へ自由落下する。そうなれば、塔全体が内側から吹き飛ぶぞ」


「なんだと!? じゃあ、どうすればいいんだ!」


 ケリーが血相を変える。


「……軸にかかっている荷重を、一時的に別の場所に逃がす。ケリー、お前の出番だ」


 アリアは革鞄を開け、中から長さ三十センチほどの、極めて頑丈な鋼のくさびを取り出した。


「あの主軸の下に、崩れ落ちて斜めになっている分厚い鉄の梁があるだろう。あそこにてこの原理で支柱を入れ、主軸の根元を物理的に『持ち上げる』。その一瞬の隙に、私がこの楔を噛み合わせの隙間に打ち込んで、荷重を固定する」


 アリアは周囲を見渡し、転がっていた長さ二メートルほどの頑丈な鋼鉄のパイプを指差した。


「あのパイプをてこの柄に使え。支点は折れた歯車の台座だ。……重さは約三トン。お前の筋力なら、てこを使えばコンマ数ミリは持ち上がるはずだ」


「三トンを持ち上げるって……無茶苦茶言うなよ、お前!」


 ケリーは顔を引きつらせたが、迷うことなく外套を脱ぎ捨て、太い腕の筋肉を隆起させた。彼は鋼鉄のパイプを拾い上げ、アリアの指示した通りに、崩れかけた梁の下へとパイプの先端をねじ込んだ。


「いいか、ケリー。私が合図をしたら、全力を出せ。私が楔を打ち込むまで、絶対に力を抜くなよ」


「……わかった。いつでも来い!」


 ケリーはパイプの反対側にぶら下がるようにして体重をかけ、足を踏ん張った。革鎧の下で、丸太のような筋肉が限界まで張り詰める。


 アリアは楔と大型のハンマーを手に、ギリギリと悲鳴を上げる巨大な主軸の隙間へと滑り込んだ。頭上には数トンの死の塊がぶら下がっている。少しでも計算が狂えば、彼女は一瞬で肉塊と化すだろう。


 しかし、アリアの瞳には微塵の恐怖もない。あるのは、物理法則への絶対の信頼だけだ。


「……三、二、一。今だ、上げろ!!」


「うおおおおおおおッ!!」


 ケリーが獣のような咆哮を上げ、全身の筋力を鋼鉄のパイプに叩き込んだ。


 ミシミシミシッ! という塔全体を揺るがすような金属音が響き、数トンの重みがかかった主軸が、ほんのわずかに、数ミリだけふわりと浮き上がった。


「そこだッ!」


 アリアはそのコンマ数秒の隙を見逃さず、ハンマーを全力で振り抜き、主軸の根元の隙間へと鋼の楔を深く打ち込んだ。


 ガガァンッ!!


 火花が飛び散り、楔が完璧な角度で噛み合った。


「離せ!!」


 アリアの叫びと同時に、ケリーがパイプから手を放す。


 ズンッ、と重い地響きが鳴ったが、主軸はそれ以上沈み込むことなく、アリアの打ち込んだ楔と梁によって、完全にその巨大な荷重を支えられていた。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 ケリーが肩で息をしながら、へたり込む。彼の両手は限界を超えた力で震え、手のひらからは微かに血が滲んでいた。


「……見事な出力だ。要求したトルク値を完全に満たしていた。お前のその筋力は、やはりこの塔を直すための最高の工具だ」


 アリアは埃まみれになりながらも、無表情のままケリーを評価した。


「ははっ……。三トンの重りを持ち上げさせておいて、最高の工具扱いかよ。お前の助手は、命がいくつあっても足りないな」


 ケリーは汗を拭いながら、力なく笑った。


「文句を言うな。これで塔の崩壊という最悪の物理的結末は回避された。足場も安定した」


 アリアはランタンを掲げ、塔の遥か上方、暗闇に沈む巨大な歯車の迷宮を見上げた。


「……だが、これはあくまで応急処置だ。止まった心臓を再び動かすためには、この複雑に絡み合った歯車の海を登り、塔の最上部にある『脱進機』……時計の歩度を制御する本当の脳髄へと辿り着かなければならない」


 見上げるような鉄の巨木。数百年の間、誰も正しい知識で触れることのなかった、物理と魔法が入り混じる魔境。


「……さあ、行くぞ。ここからが、時計職人の本当の仕事だ」


 天才時計修理職人と、彼女を支える大型犬騎士。


 王都の時間を再び刻ませるための、巨大な歯車の迷宮への過酷な登山が、今、始まった。


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