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第35話:歯車の迷宮。巨人の腹を登る



 大時計台の内部は、外から見る威容を遥かに超える、圧倒的な質量が支配する鋼鉄の奈落だった。


 扉を閉ざした後の空間は、シルクの灯す金色の光球とアリアの提げるランタンの光だけが、幾重にも重なる巨大な歯車の影を不気味に壁へと投影している。下層で応急処置を終えた三人の前には、塔の最上部へと続く、終わりのない機械の迷宮がそびえ立っていた。


「……ここから先は、階段などという軟弱なものは存在しない。歯車の支持架や、巨大なシャフトを足場にして登る。ケリー、一歩でも足を踏み外せば、下の巨大な歯に粉砕されると思え」


 アリアは外套の裾を腰紐で縛り、身軽な格好になると、目の前にそびえる直径三メートルほどの「二番車」のフレームに手を掛けた。


「おい、アリア! そんなところを登るのか? 騎士団の訓練用壁面よりもよっぽど険しいぞ」


「……文句を言うな。この時計台そのものが、垂直に配置された一つの巨大な輪列機構なんだ。最上部の脱進機エスケープメントに辿り着くには、時計の心臓部を内側から這い上がるしかない」


 アリアは慣れた手つきで、鋼鉄のボルトや真鍮の縁に指をかけ、垂直に近い角度で上方へと登り始めた。前世での経験か、あるいは時計の構造を完全に把握しているがゆえに、「どこが支点で、どこに体重をかければ安全か」を本能的に理解している動きだった。


「わ、わかったよ……。シルク、アリアの足元をしっかり照らしてやってくれ! 俺はすぐ下で支える!」


 ケリーは重い工具鞄を背負い直し、アリアの後に続いた。彼の強靭な指先が鉄を掴むたび、ギィ、という低い軋み音が闇に響く。


 登るにつれて、空気はさらに重苦しく、そして熱を帯びていった。


 それは、数時間前まで魔法技師たちが無理やり流し込んでいた魔力の残滓が、金属の表面に「魔力の熱」として滞留しているせいだった。


「……見て。あちこちで歯車が焼け付いている」


 中層部、文字盤を動かすための「日の裏車」へと繋がる分岐点。アリアが指差した先には、美しい真鍮の表面が赤黒く変色し、まるで溶けた飴のように歪んだ歯車があった。


「魔法で無理やりトルクを上げた結果、摩擦係数が跳ね上がり、金属が融点近くまで熱を持ったんだ。これでは、仮に動力が復活しても、ここで引っかかって止まってしまう」


「ひどいな……。あいつら、直そうとして逆にトドメを刺してたんじゃないか」


 ケリーが忌々しげに吐き捨てる。


「……魔法という『見えない力』で、物理的な『質量』を制御しようとした結果だ。彼らは、金属が悲鳴を上げている物理的な振動()を聞こうとしなかった」


 アリアは歪んだ歯車を慎重に避けながら、さらに上方へと歩みを進めた。


 途方もない規模の歯車の海。


 一つ一つの歯が、ケリーの胴体ほどもある巨大な鋼鉄の塊。それが何百、何千と組み合わさり、王都の時間を支えている。アリアはその迷宮の中で、時折立ち止まり、シャフトに耳を当てた。


「……聞こえる。まだ、死んでいない」


「え? 何も聞こえないぞ。静まり返ってるじゃないか」


「……物理的な音ではない。塔の最上部にある重錘おもりから伝わってくる、凄まじい位置エネルギーが、行き場を失ってこの鋼鉄の骨格全体を震わせている。それは、解き放たれる瞬間を待っている巨大なバネの唸りのようだ」


 アリアの言葉に、シルクが金色の瞳を細めて上を見上げた。


「嬢ちゃんの言う通りじゃ。上に行けば行くほど、魔力の乱れではない、純粋な物理的圧力が強まっておる。……どうやら、設計者はこの塔のてっぺんに、とんでもない仕掛けを隠しておるようじゃな」


 三人は、数トンの鋼鉄が吊り下げられた巨大なチェーンの横をすり抜け、ついに大時計台の最上層、文字盤のちょうど真裏に位置する「制御室」の直下へと辿り着いた。


 そこは、これまでの歯車の迷宮とは一線を画す、広大で荘厳な空間だった。


 四方の壁には、直径五メートルの巨大な文字盤を透過した夜の明かりが、淡い光の円となって浮かび上がっている。中央には、塔の全動力を司る巨大な「主軸」が垂直に立ち、その先端には、時計の精度を決定づける最重要部品――「脱進機」の巨大なシルエットが、闇の中に鎮座していた。


「……あれが、王都の脳髄。大時計台の脱進機だ」


 アリアはランタンを掲げ、その巨大な機構を照らし出した。


 二本の巨大な爪を持つ「アンクル」が、鋸状の歯を持つ「がんぎ車」を挟み込むようにして止まっている。それは、王都の時間が止まった瞬間の姿勢のまま、凍りついたように静止していた。


 だが、その美しい機械構造の隙間に、アリアは「それ」を見つけた。


 魔法技師たちが「呪いだ」と恐れ、近寄ることすらできなかった、この時計台の故障の真実。


「……ケリー。あのがんぎ車の軸受けを見て」


 アリアの声が、微かに震えていた。


 それは恐怖ではなく、百年前の設計者が残した、あまりにも哀しく、そして美しい「物理的な祈り」に触れた者の震えだった。


「軸受けに……何か、光るものが挟まってるのか?」


 ケリーが目を凝らす。


 巨大な鋼鉄の軸受けの隙間に、場違いなほど小さな、透明な結晶体のようなものが食い込んでいた。それは、魔法で作り出された魔石でも、砕けた歯車の破片でもなかった。


「……あれは、歯車じゃない。誰かの、想いの結晶だ」


 アリアは工具鞄から、最も繊細なピンセットではなく、一本の細い油筆を取り出した。


「ここから先は、力任せの修理も、魔法の洗浄も通用しない。……百年前、この時計を設計した男が、最後に何をこの歯車に託したのか。それを解き明かさない限り、王都の時間は二度と動き出さない」


 暗闇の中、止まった巨大な針の裏側で。


 天才時計修理職人と、設計者の遺志が、時を超えて物理的に交差しようとしていた。


 最大の山場。


 崩壊する時間を繋ぎ止めるための、最後の「解剖」が始まろうとしている。


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