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第33話:大混乱の街と、お手上げの魔法技師たち



 王都の空を分厚く覆う鉛色の冬雲は、太陽の位置すらも隠し、現在時刻という概念を視覚からも奪い取っていた。


 アリアの時計修理店がある静かな路地裏を抜け、第一区画のメインストリートへと足を踏み入れた三人を待っていたのは、かつて見たことのないほどに混沌とした王都の姿だった。


 時間が止まった街は、まるで巨大な機械の歯車がすべて外れてしまったかのように、その機能の全容を崩壊させつつあった。


 大通りは、身動きが取れなくなった馬車と人で溢れ返っていた。定期馬車の御者たちは出発の合図となる鐘の音が鳴らないため、停留所で互いに怒鳴り合い、乗客たちは寒空の下で凍えながら不満の声を上げている。交差点では、荷馬車と貴族の豪奢な馬車が通行の優先権を巡って車輪をぶつけ合い、馬たちのいななきが冬の冷たい空気を切り裂いていた。


 市場の入り口付近では、開場の時間を待つ商人たちと、品物を買い求める市民たちが押し合いへし合いの騒ぎを起こしている。本来であれば、大時計台の鐘の音と共に整然と始まるはずの商取引が、基準を失ったことでただの奪い合いへと変貌しようとしていた。


「……ひどい有様だな。たった半日、時計台が止まっただけで、王都がここまでパニックになるとは思わなかった」


 人混みをかき分けながら、ケリーが苦々しい表情で周囲を見渡した。彼の大きな体躯と、身にまとった騎士見習いの革鎧が、かろうじて三人の歩くスペースを確保している状態だった。


「……群集心理と、共有された秩序の喪失だ」


 アリアは外套の襟を深く合わせ、無表情のまま冷徹に分析した。


「人間という生物は、他者と同じ基準を共有しているという安心感があって初めて、理性を保つことができる。大時計台は、この王都に住むすべての人間に『同じ時間』を与え、社会という巨大な機構を噛み合わせるための最大の同期装置だった。その絶対的な基準が失われた今、人々は自分だけの不確かな時間を信じるしかなくなり、結果として他者の時間と激突して摩擦を起こしているんだ」


 アリアの青い瞳は、怒号と悲鳴が交差する街並みを、まるで壊れた時計の内部機構でも観察するかのように見つめていた。


 時間が狂えば、歯車はぶつかり合い、やがてすべてが停止する。それは、小さな懐中時計の中であろうと、数十万人が暮らす巨大な都市であろうと、全く同じ物理法則の帰結であった。


「やれやれ、嬢ちゃんの言う通りじゃ。人間というやつは、便利なものに依存しすぎると、それが失われた途端に赤子のように無力になる」


 ケリーの革袋から顔を出したシルクが、呆れたように鼻を鳴らした。


「昔の人間は、太陽の位置や腹の虫の鳴る音で、もっと大らかに生きておったものじゃがな。分刻みの正確な時間に縛られるようになったのも、魔法や機械が発達した代償というわけじゃ」


「……時間に縛られているのではない。時間を分割し、共有することで、人間は高度な文明を築き上げたんだ。時計の針は、進歩の象徴だ」


 アリアはシルクの言葉を静かに否定し、前方へと視線を向けた。


 大通りの突き当たり、王都の中心に位置する広大な広場。その中央に、すべてを見下ろすようにそびえ立っている巨大な黒い塔。


 大時計台である。


 普段であれば、その荘厳な姿を仰ぎ見る市民たちの憩いの場となっている広場は、今や完全に封鎖されていた。王都騎士団の正規兵たちが幾重にも人垣を作り、槍を交差させて野次馬の侵入を固く禁じている。


「おい、ケリー! こんなところで何をしている!」


 規制線の最前線で群衆を押し留めていた若い騎士が、ケリーの姿を見つけて声を張り上げた。彼と同じ、第一中隊の同僚のようだった。


「非番だったはずだろ。今、時計台の周辺は完全な立ち入り禁止になっている。魔法技師団の連中が、ピリピリしながら復旧作業の真似事をしてるんだ」


「すまん、少しだけ状況を教えてくれ。上官の許可は取ってある。時計台の中はどうなっているんだ」


 ケリーが声を潜めて尋ねると、同僚の騎士は周囲を気にしながら、深い溜息をついた。


「最悪だよ。昨日の夜から、ルキウス・ヴァン・アスター様を筆頭に、王城魔法技師団の精鋭数十人が塔の中に陣取っているんだが、まったく進展がないらしい。それどころか、朝方に無理やり魔法で歯車を動かそうとしたらしくてな。塔の内部から、鼓膜が破れるかと思うようなすさまじい金属の摩擦音が鳴り響いて、塔全体が地震みたいに揺れたんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、アリアの表情がスッと冷たくなった。


「……馬鹿な。破損した機械機構に、外部から強制的な動力を注ぎ込んだのか」


 アリアの低い呟きに、同僚の騎士が怪訝そうな顔で銀髪の少女を見た。


「なんだ、お前が連れているその子供は」


「俺の知り合いの……優秀な技術者だ。それで、魔法技師団の連中は今、どうしているんだ」


 ケリーが慌てて誤魔化し、話を先へと促す。


「今は、塔の入り口に張られたテントの中で、頭を抱えてるよ。どうやら、物理的に巨大な歯車がどこかで引っかかっていて、これ以上魔法で力を加えれば、塔を支えている主柱ごとへし折れて倒壊する危険があるって結論に至ったらしい」


 同僚の騎士は、忌々しそうに吐き捨てるように言った。


「それで、あいつら何て言ったと思う? 『百年前の狂った設計者が残した呪いが、巨大な魔力溜まりとなって内部に巣食っている。これはもはや物理的な故障ではなく、王都全体を巻き込む規模の呪いであるから、魔法陣を構築して浄化するまでに数ヶ月はかかる』だとさ」


「……数ヶ月、だと」


 ケリーが絶句する。数ヶ月も時計台が止まったままになれば、王都の経済も治安も、完全に崩壊してしまうだろう。


「……呪いなど存在しない。ただの金属疲労と、摩擦限界を超えたことによる物理的な破損だ」


 アリアは冷徹な声で断言し、規制線の隙間から、時計台の入り口付近に設営された立派なテント群を見つめた。


 テントの周囲には、紫色のベルベットの外套を羽織った王城魔法技師たちが集まり、右往左往している。彼らの手には、魔力を探知するための水晶や、空中に光の軌跡を描く魔法陣を構築する杖が握られていたが、そのどれもが、ただ闇雲に光を放っているだけで、何の意味も成していないことは、アリアの目には明らかだった。


「……あれは、時計の修理ではない。病に苦しむ患者の前で、意味のない祈りの踊りを捧げているだけの、滑稽な儀式だ」


 アリアは静かな怒りを込めて呟いた。


「巨大な質量を持つ機械が停止した時、最もやってはいけないことが、原因を特定せずに強制的な動力を加えることだ。歯車の歯が欠け、あるいはシャフトが歪んでいる状態で無理に魔力を注ぎ込めば、噛み合っていない金属同士が激突し、破壊の連鎖を引き起こす。……彼らは、時計を直そうとしたのではなく、時計の寿命に最後の一撃を加えたんだ」


 アリアの脳内には、魔法技師たちが無理やり魔力を注ぎ込んだ結果、時計台の内部でどのような物理的破壊が進行したかが、痛いほど鮮明にシミュレートされていた。


 数トンの重錘の力が、逃げ場を失ってひしゃげた真鍮の歯車。曲がってしまった支持軸。摩擦によって発生した高熱が、古い油を焦がし、金属を溶接したように固着させている光景。


「……嬢ちゃん。どうやら、状況は想定よりもはるかに深刻なようじゃな」


 シルクが、テントの周囲に漂う不穏な魔力の残滓を嗅ぎ取りながら言った。


「あの魔法技師ども、自分たちの失態を隠すために、本気で『呪い』ということにしようとしておる。このまま放っておけば、奴らは時計台を丸ごと魔法で封印し、自分たちの権威を守ることだけを優先するじゃろう」


「……そんなことはさせない。あれは、人間が物理法則に則って作り上げた、美しい機械だ。無知な魔法使いたちの保身のために、永遠の沈黙を強いられる理由などない」


 アリアは革鞄を握り直すケリーの背中に、静かに声をかけた。


「ケリー。魔法技師団はお手上げだ。あれ以上、彼らに時計台を触らせれば、本当に塔が倒壊する。……私を、あの扉の前まで連れて行け」


 ケリーは振り返り、アリアの青い瞳に宿る、決して退くことのない天才時計職人としての覚悟を真っ直ぐに受け止めた。


「……ああ、わかってる。だが、真正面から行けば、間違いなく入り口の近衛兵に止められる。ルキウスの許可証があるとはいえ、今のあいつらは気が立ってるからな。平民の職人なんて見たら、問答無用で追い返されるだろう」


 ケリーは周囲の状況を素早く観察し、騎士としての頭脳をフル回転させた。


「俺に任せろ。少し荒っぽい手を使うが、アリアとシルクは俺の背中から絶対に離れるなよ」


 ケリーは深呼吸を一つすると、同僚の騎士の制止を振り切り、規制線のロープを堂々と潜り抜けて広場の中へと足を踏み入れた。


「おい、ワイズマン! 勝手に入るな、上官に報告するぞ!」


 同僚の怒鳴り声を背中で受けながら、ケリーは大股で、時計台の入り口を塞いでいる魔法技師団のテントへと一直線に向かっていった。アリアもその後ろにピタリと追従する。


 テントの前に近づくと、そこには昨日、アリアの店で無様な敗北を喫した第一席、ルキウス・ヴァン・アスターの姿があった。


 彼は顔面を蒼白にし、目の下に濃い隈を作りながら、部下の技師たちに向かってヒステリックに怒鳴り散らしていた。


「だから、魔力探知の波長を変えろと言っているだろう! 呪いの根源は必ずこの塔のどこかに隠れているはずだ! それを見つけ出さなければ、我々魔法技師団の権威は地に落ちるのだぞ!」


「る、ルキウス様。しかし、これ以上内部に干渉すれば、本当に物理的な倒壊が……」


「ええい、黙れ! 物理的な倒壊だと? そんな下等な現象で、魔法の塔が崩れるはずがない! すべては呪いのせいだ、そう報告書にまとめろ!」


 現実を完全に直視できなくなり、狂信的な言葉を喚き散らすルキウス。その姿は、王城の最高権威とは程遠い、ただの哀れな敗北者であった。


 ケリーは歩みを緩めることなく、そのルキウスの目の前までズカズカと進み出た。


「そこをどいていただけませんか、ルキウス第一席。我々は、その時計台の修理のために参りました」


 ケリーの低く、よく通る声が広場に響いた。


 ルキウスはビクッと肩を震わせ、振り返ってケリーを睨みつけた。そして、その後ろに立つ銀髪の少女の姿を視界に捉えた瞬間、彼の顔色はさらに数段階、青ざめたものへと変わった。


「き、貴様は……。昨日の、路地裏の小娘……!」


「お久しぶりですね。約束通り、王城魔法技師団・第一席の権限によって発行された、特別立ち入り許可証を持参いたしました」


 アリアは外套の懐から、昨日ルキウスが書き殴った王城の紋章入りの羊皮紙を取り出し、彼の目の前で冷然と突きつけた。


「な……馬鹿な。本気で来たというのか。この状況を見てもわからないのか! 時計台はもはや、ただの故障ではない。恐ろしい呪いによって完全に死に絶えたのだ!」


 ルキウスは半狂乱になって叫んだが、アリアの表情は微塵も揺るがなかった。


「……呪いなどない。あるのは、お前たちが基礎構造を無視して魔力を注ぎ込んだ結果引き起こされた、致命的な物理的破損だけだ」


 アリアは冷たく言い放ち、羊皮紙を再び懐にしまった。


「お前たちは限界だ。これ以上、素人が機械に触れるな。……ここから先は、プロの時計職人の仕事だ。道を空けろ」


 アリアの青い瞳が、ルキウスのちっぽけなプライドを氷のように冷たい視線で射抜いた。


 それは、権威でも魔法でもない。純粋な技術と、圧倒的な真理への理解だけが持つ、絶対的な強者の眼差しであった。


 ルキウスは喉の奥で引きつったような音を立て、一歩、また一歩と後ずさりした。彼の周囲にいた魔法技師たちも、その銀髪の少女から発せられる異様なほどの職人の覇気に呑まれ、まるでモーセの海割れのように、時計台の入り口へと続く道を左右に開けていく。


「……行くぞ、ケリー」


「ああ。頼むぜ、俺たちの天才時計師」


 ケリーは工具鞄をしっかりと抱え直し、アリアの隣に立って不敵に笑った。


 百年の時を経て沈黙した、王都の巨大な心臓。


 その重厚な鉄の扉を前にして、アリアは静かに息を吐き、冷たい金属の取っ手に手を掛けた。


 物理法則と魔法の妄信が交差する、巨大な歯車の迷宮への潜入が、今、静かに、そして苛烈に幕を開けようとしていた。


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