七章『襲撃』
そのままお坊さんの屋敷を後にし、
お札を握りながら車を走らせた。
驚くほど――何も起きなかった。
霧も出ない。
悪臭もしない。
足音も、影も、気配すらない。
車内の空気は乾いていて、
さっきまでの湿気が嘘のように消えていた。
「……本当に、守られてるのか……」
胸の奥に、わずかな安心が広がった。
家に近づくにつれ、
夕暮れの空は穏やかで、
風も静かだった。
玄関の前に立っても、
あのぬめりはなかった。
鍵を差し込み、扉を開ける。
――静かだ。
湿気も、匂いも、何もない。
「……よかった……」
靴を脱ぎ、
ソファに腰を下ろすと、
全身の力が抜けていく。
ザアアアア-----
家全体が震えるほどの大雨のような轟音で、私は飛び起きた。
呼吸が荒くなり、心臓が喉までせり上がる。
視界がぼやけている。
いや、違う。
部屋全体が霧で満たされていた。
しかも、今までの霧とは比べものにならないほど濃い。
白いというより、灰色に濁っていて、
光を吸い込むように重く、まとわりつく。
そして――
鼻を刺すような、強烈な匂いが広がっていた。
カビでも生乾きでもない。
もっと深く、もっと重く、
死臭に近い、湿った腐敗の匂い。
息を吸うたび、肺の奥にその臭いが染み込んでくるようで、
肺に腐った水がたまっていくようで、
思わず咳き込んだ。
「……なんだよ、これ……」
足元を見ると、床がじっとりと濡れている。
自分だけでなく、家中がビシャビシャになっていた。
霧の中で、
ザアアアア-----
という大きな音が鳴り響く。
私の精神はとっくに崩壊しており、
ここまで私を追い詰めてくる“あいつ”に
強い怒りと憎しみが芽生え始めていた。
その怒りか恐怖かわからない震える足で
そっと立ち上がり、
音の鳴る方へと向かう。
札を握りしめると、
ほんの少しだけ胸の圧迫が和らいだ。
だが、札の表面はすでに湿り始めていた。
音の正体はお風呂場からだった。
音に近づくほどに、
匂いが濃くなる。
死臭と湿気が混ざり合い、
喉の奥が焼けるように痛い。
風呂場の扉の前に立つと、
中から湿った風が溢れ出していた。
ぬるい。
重い。
生き物の吐息のように、
肌にまとわりつく。
恐怖よりも、怒りが勝っていた。
力強く風呂場の折れ戸を開く。
浴槽からは、どす黒い液体が滝のように溢れ出し、
風呂場の床をあっという間に満たしていった。
その液体から立ち上る匂いは、吐き気を催すほど強烈だった。
カビでも腐敗でもない。
この世のものとは思えない、地獄の底から湧き上がるような刺激臭。
鼻の奥に突き刺さり、呼吸するたびに喉が爛れるようだ。
シャワーは止まる気配もなく、
滝のような勢いで壁に叩きつけられ、
浴室全体をびしょ濡れにしている。
むしゃくしゃした気持ちのまま、
私は浴槽の栓を開けようと手を伸ばした。
その時だった。
足元の排水溝に、白い紙がふわりと流れてきた。
拾い上げるまでもなく分かった。
にじんで文字が判別できなくなった、
効力の切れたお札 だ。
胸がざわつく。
さらに、強く握りしめていた右手に、
じわじわと“冷たさ”が広がり始めた。
嫌な予感がして、ゆっくりと視線を右手へ向ける。
そこにあったのは――
お札ではなかった。
水を吸ってドロドロに崩れた、長い髪の毛の束。
指の間に絡みつき、
ぬめりとした不快な感触が皮膚にまとわりつく。
その瞬間、
全身の血の気が一気に引いた。
そして、あのお坊さんの言葉が脳裏に蘇る。
「くれぐれも水廻りには近づかないようにしてください。」
気づいた時には、手遅れだった。
浴槽に顔を近づけたままの私の視界に――
あの“しめりけ様” の顔が浮かび上がった。
『ミィッケタァァァ……』
低い唸り声に、金切り声のような高音が混じった、
耳の奥を削るような声。
浴槽の液体の中から、
それは確かに“喋った”。
反射的に顔を離そうとした瞬間、
浴槽の中から伸びた二本の手が、
私の頭をがっちりと掴んだ。
そして――
どす黒い液体の中へと、
力任せに沈めてきた。
まずい。
息ができない。
胸が焼けるように苦しい。
私は必死にもがき、
その手を引き剝がそうとした。
しかし、その力はあまりにも強かった。
しめりけ様は、
今まで見たことのないほどの笑顔で、
液体の中から私を見つめながら、
『オィ゙デェ……オィ゙デェ……』
と、途切れることなく囁き続ける。
意識が遠のき始めた、その刹那――
背後から誰かの声が聞こえた気がした。
「……さん!! ……さん!!!」
その声を最後に、
私の意識は、
ゆっくりと常闇へ沈んでいった。




