六章『休息』
門の向こうをじっと見つめるその背中は、
恐怖を隠しきれていなかった。
お坊さんは私の腕を支え、
屋敷の奥へと案内した。
廊下に入ると、
外の湿気が嘘のように消えていた。
空気は乾いていて、 呼吸がしやすい。
それだけで涙が出そうになった。
「こちらへ」 案内された部屋には、
大きな仏像と、 無数の護符が貼られていた。
お坊さんは私を座らせると、
深く息を吸い込み、
静かにお経を唱え始めた。
その声は、 外の湿気を押し返すように力強かった。
私は震える手で膝を握りしめ、
ただその声に縋る。
どれほど時間が経ったのか分からない。
お経が部屋に満ちるにつれ、
胸の奥にまとわりついていた重さが 少しずつ剥がれていくような感覚がした。
やがて、
お坊さんはお経を止め、
机の引き出しから一枚の札を取り出した。
「これを持っていなさい。 しばらくの間、あなたを“隠す”ことができます」
私は震える手でそれを受け取った。
札は乾いていて、
触れるとほんのり温かかった。 お坊さんは続けた。
「あなたが見たものは…… “しめりけ様” と呼ばれる存在です」
その名を聞いた瞬間、
背筋が冷たくなった。
「本来は、かつてこの地で 水を司る神として祀られていました。
しかし、時代とともに忘れられ、 供え物も祈りも途絶え……
やがて、怒りと悲しみだけが残った。
更には……いや、これ以上は、」
お坊さんの声は低く、重かった。
「しめりけ様は、 魅入った人間を“湿らせ”、 “染め”、 やがて取り込もうとします」
私は思わず札を握りしめた。
「……じゃあ、私は……」
「まだ間に合います。 ですが――」
お坊さんは言葉を切り、 私の手を見つめた。
そこには、 まだ薄く黒い染みが残っていた。
「長くは持ちません。 私の仲間を呼びます。
準備が整い次第、 あなたの家へ向かい、 しめりけ様を祓います。」
そう言うと、
お坊さんは立ち上がり、
部屋を出ようとした。
だが、 扉の前でふと振り返り、
真剣な目で告げた。
「……くれぐれも、 水廻りには近づかないように」
その言葉は、 胸に重く沈んだ。
私は札を強く握りしめ、 深く息を吸った。




