五章『逃走』
青白く、
目の奥が見えないほど黒く、
裂けた口が、
ゆっくりと笑っている。
“何か”は口をパクパクしながら
喋っている気がした。
私は叫び声を上げ、
アクセルを踏み込む。
タイヤが濡れた地面を滑り、
車は跳ねるように前へ飛び出した。
バックミラーには、
玄関の前に立つ“それ”が、
こちらを見送るように微動だにせず立っていた。
だが、
逃げ切れていなかった。
数分走ると、
空が急に暗くなった。
さっきまで晴れていたはずなのに、
視界が白い霧に覆われていく。
「……やめてくれ……」
ハンドルを握る手が震える。
霧の中から、
湿った足音が聞こえ始めた。
ドチャ……
ドチャ……
ドチャ……
車の後ろから、
確実に近づいてくる。
アクセルを踏み込む。
だが、霧が濃すぎて前が見えない。
鼻が曲がりそうなほどの悪臭が車内に入り込み、
涙と鼻水が止まらない。
「頼む……頼むから……!」
カーナビの地図が滲んで見える。
それでも必死に目を凝らし、
お坊さんの家の方向へと車を走らせた。
足元がじわりと濡れていく。
靴の中に水が溜まっていくような感覚。
恐怖だった。
「……なんで……!」
叫んだ瞬間、
車の後ろで何かが叩く音がした。
ドンッ……!
ドンッ……!
まるで、
濡れた手で車体を叩いているような音。
私は泣きながらアクセルを踏み続けた。
どれほど走っただろうか。
突然、霧が晴れた。
視界の先に、
山道の奥に佇む荘厳で大きな屋敷が見えた。
門の前には、
厳しい表情のお坊さんが立っていた。
「こちらへぇ!!」
その声に引き寄せられるように車を砂利に止め、
外へ飛び出す。
足がもつれ、
膝から崩れ落ちる。
背後の霧の中で、
湿った足音が止まった気がした。
後ろはもう見たくなかった。
門の内側に入った途端、
全身の力が抜け、
私はその場に倒れ込んだ。
お坊さんは額に脂汗を浮かべながら言った。
「……なんとか間に合いましたね。
ですが、これは……非常にまずいことになっています」
その声は震えていた。




