四章『絶望』
親友と別れ、
お坊さんに会えるというわずかな希望を胸に、
私は家へ向かった。
夕暮れの空は茜色で、
本来ならどこか安心できるはずなのに、
その色が妙に霞んで見えた。
玄関の前に立つと、
空気がひどく湿っていた。
昼間よりも重く、
肌にまとわりつくような湿気。
取っ手に触れた瞬間、
指先にぬるりとした感触が走った。
「……またかよ……」
以前と同じ、水滴がついていた…が、
それだけではなかった。
取っ手を触った手をゆっくり開くと、水滴は薄灰色に濁っていた。
「……っ!!」
気持ちが悪かった。
ハンカチでふき取り家の中に入ると、
空気がさらに重くなっていた。
まるで、
家そのものが呼吸している
そんな錯覚を覚えるほどの湿度。
電気をつけても、
光が湿気に吸われて弱々しい。
私は深く息を吐き、
「明日になれば……」
と自分に言い聞かせた。
シャワーを浴び、
濡れた服を脱ぎ捨て、
布団に潜り込む。
しかし、
眠りは浅かった。
――ぽた……ぽた……
まただ。
水滴の音。
目を開けると、
部屋の空気がさらに湿っている。
喉が張り付くように乾き、
呼吸が重い。
「なんなんだよ、」
雨漏りの場所を確認しようと寝室のドアノブを掴もうとした。
そのときだった。
ぽた……ぽた……
という水音に混じって、
別の音が聞こえ始めた。
ビチャ……
ビチャ……
ビチャ……
私は気づいてしまった。
これは雨漏りの音ではない。
“何か”が歩いている音だ。
水を踏むような、
それは、
ゆっくりと、
確実に、
リビングを歩いている。
私は布団の中で息を殺した。
足音は止まらない。
むしろ、
部屋で何か…いや、誰かを“探している”ように動き回っている。
ビチャ……
ビチャ……
ビチャ……
心臓が痛いほど脈打つ。
「……来るな……来るな……」
祈るように目を閉じた。
どれほど時間が経ったのか分からない。
足音は、
寝室の前で止まった。
ドチャ……
ドチャ……
扉の向こうで、
何かが立っている。
息が止まりそうだった。
やがて――
足音は、
ゆっくりと遠ざかっていく。
私は布団の中で震えながら、
夜が明けるのを待った。
鳥の声が聞こえたとき、
ようやく体が動いた。
体は汗かあの湿気かがわからないほどびしょ濡れだった。
布団から飛び起き、
リビングへ向かうと――
あの強烈な異臭が襲ってきた。
そして床一面に
巨大な、異形の足跡がびっしりと残っていた。
濡れていて、
黒く濁っていて、
形が歪んでいる。
昼まで待っていることなんて出来なかった。
私は震える手で車の鍵を掴んだ。
その瞬間、
両手に重いぬめりがまとわりついた。
見れば、
手のひらが墨汁のように黒く染まり、
重油のような粘り気が滴っていた。
「……もう無理だ……!」
泣きながら玄関を開け、
車に飛び乗った。
急いで車を発進させる。
と、玄関扉を閉めるのを忘れていたことに気づく。
バックミラーを確認すると、
やはり扉が開いていた。
だがそんなことを考えている暇はない。
バックミラーから目を離そうとしたその刹那、
あの異臭が私の鼻を刺激した、
何故かバックミラーから目が離せない。
その時、
開いた玄関から、
あの“何か”が顔を覗かせたのだった。




