四巻(五十五)
セカヴァンの戦い(二)
去る晩夏[九月]二日、ゼヨジ・ボエヌが公女[ハランシスク・スラザーラ]の上書を携えて、鳥籠[宮廷]を「襲来」した日に、その混乱に乗じて、[トオドジエ・]コルネイアは鳥籠を脱出し、近北州へ逃げた。
薔薇園[執政府]の柔らかい椅子に坐ってばかりいた男のくせに、なかなかの健脚を見せ、ホアラを通らずに、ときには山の中を彷徨いながら、近北州へ入った。山賊などによく殺されなかったものである。
近北州へ入ったコルネイアは、さっそく睡蓮館[※1]で近北公[ハエルヌン・ブランクーレ]に面談し、即時の上洛を求めたが、色よい返事はもらえなかった(※2)。
それが初秋[十月]に入ると状況が変わり(※3)、コルネイアは公の要請を受けて、青年[スザレ・マウロ]派討伐に向けた、近西州およびバージェ候[ガーグ・オンデルサン]に対する、援軍の要請へ駆りだされた。
先日まで、名目上とは言え、地位が上だったコルネイアは、その内心に怒りを抱いたそうだが、それは当然の感情であった。
以上の内容を認めた書状をサレが受け取った時には、コルネイアはすでに、近北州から近西州のクスカイサへ移動ずみで、必死にロアナルデ・バアニとラール・レコを説得していたが、ふたりは結局、兵を出すことに同意しなかった。
州内の反ノテ派を抑え込むために兵が必要だったことに加え、遠北州のゼルベルチ・エンドラが信用できなかったのが、大きな理由であり、それはそれで、一理ある話であった。
その後も、コルネイアは諦めず、近西州からバージェへ入り、バージェ候を口説いたが、候は中立にこだわり、近北公側につくことを明言しなかった。
「近北公は敵と味方をはっきりとお分けする方です。中立の姿勢は公が勝った場合、敵としての処遇を受けますぞ。それでもよろしいのですか?」
コルネイアがバージェへ入る前に、サレとホアビウ・オンデルサンも、同様の理屈で候に近北公へつくことを献策していたが、受け入れられていなかった。
バージェ候には、近北公と今の大公[スザレ・マウロ]が相争う中で、漁夫の利を得ようと画策した様子はなく、ただただ、どちらにもつかないことで、家の存続を意図したようだった。
しかし、その決定は、結果論ではあるが、近北公というお人への理解が足りないために生じた、愚策と言わざるを得なかった。
バージェ候が近北公側についていれば、不要ないくさが起こらずにすんだかもしれないし、また、彼の西南州における権威権力も高まっていただろう。候が望めば、執政官にすらなれたかもしれない。
しかし、そのような決断をせずに、候は、両陣営に対して言葉を濁して中立を保つという、消極的な態度に出た。
そもそも、お家存続を第一に考えた場合でも、候がこだわった中立策などはありえず、最低でも、候自身は今の大公の元へ馳せ参じ、長男のホアビウを近北公に与させることで、家の継続を図るべきであった。
結局、九八七年の冬に行われたいくさにおいて、候がそのような態度に出たいちばんの理由は、残念ながら、すでに彼が耄碌していたためであろう(※4)。
候の説得にも失敗したコルネイアは、都に戻るべきか逡巡したが、ラール・レコやサレと連絡を取り合った結果、とりあえず、近西州のライリエに戻り、そこから、事の成り行きを眺めつつ、都で中立の動きを見せていた連中を、近北公側へ引き寄せるために、昼夜を問わず、書状を記して、日々を過ごした(※5)。
※1 睡蓮館
ハエルヌン・ブランクーレの私邸。羊草が咲き誇る池で知られていた。ハエルヌンの私室へは、その池の中の石畳を歩いていかなければ、入室できなかった。
※2 色よい返事はもらえなかった
六月にサルテン要塞にて遠北州を撃ち破ってから、ハエルヌン・ブランクーレが南進しなかった理由ははっきりとせず、同時代人だけではなく、後世の史家をも困惑させている。
説として挙げられているものを以下に列挙する。
一、ハエルヌン自身の病
何かしらの病にかかっており、兵を動かせなかったとするもの。
とくに、ハエルヌンには躁鬱の気質があり、この時期、鬱がひどかったのではないかとする説が有力である。
ハエルヌンに対面した者たちの書状などを検証した結果、彼は躁鬱の気質に合わせて、体重がおおきく変動するたちで、躁のときは痩せ、鬱のときは肥った。
九月にコルネイアが対面したときに、ハエルヌンがひどく肥満していたことは、コルネイアが都の知人に宛てた書状にて明かしている。
二、遠北州への対策
ハエルヌンは、腹心のウベラ・ガスムンおよびサルテン要塞の城主ルオノーレ・ホアビアーヌに命じて、サルテンにて敗北したルファエラ・ペキが、まちがいなく南進の邪魔にならぬよう、謀略にて、反ペキ派を煽っており、その成果が出るのを待っていたとする説。
三、近北州内の反ブランクーレ派の徹底排除
これについては、記録があいまいで、近北州の全戸を調査したために時間がかかったとする者から、ウベラ・ガスムンが小規模に実施したとする者まで、史家の間でも、南進への影響を考えるうえで、意見が分かれている。
四、豪雪
雪の影響を主張する史家もいるが、少数に留まっている。
五、近西州の状況
ハエルヌンは青年派とのいくさについて、数的有利をつくり、戦わずにスザレ・マウロを屈服させたい意向を示しており、そのために近西州が東進できる状況になってから、近北州軍の南進をはじめようとしたとする説であるが、その後の経緯を考えると説得力によわい。
以上、五つの説を挙げたが、これらが複合的に作用して、ハエルヌンの南進を遅らせたと考えられる。
サレがこの件について、本回顧録で言及していない点をみると、彼にはハエルヌン本人より事情が伝えられていたが、それが外に漏れるのをはばかられる内容であった可能性がある。
また、単に、この回顧録の献呈先である、北州公ロナーテ・ハアリウにとって既知の話であり、あえて書く必要を感じなかったのかもしれない。なお、先に書いておくが、本回顧録において、サレが近北州に領地をもらった時代の叙述が短いのは、そのためである。
※3 それが初秋[十月]に入ると状況が変わり
サレによるコステラ=デイラの破却が済み、青年派がコステラ=デイラに籠り、都にて持久戦となる可能性がなくなったとハエルヌン・ブランクーレが判断したためか。
※4 すでに彼が耄碌していたためであろう
ハエルヌン・ブランクーレの依頼を受けたサレは、この時期、かなりの労力をガーグ・オンデルサンへの説得に費やしたうえで、それに失敗し、ハエルヌンの強い叱責を受けた模様である。そのために、このような表現になったのだろう。
※5 昼夜を問わず、書状を記して、日々を過ごした
結果は芳しくなく、ガーグ・オンデルサンと同じく、中立の立場を保つ者が多かった。
なお、西南州と領土を接する東南州のタリストン・グブリエラに対しては、東部州と抗争中であったため、良識派、青年派ともに、味方へするための交渉を、積極的に行った形跡がない。




