#7 面々
翌日の午前、久世は第四執行部の技術区画で右腕を前へ伸ばしていた。
《MODULE SLOT 01:STANDBY》
視界の端にはその表示だけが浮かび、昨夜、作業員を守るために現れた巨大な腕も、空間を押し潰すような重さも、星のように連なった光も出てこなかった。
「もう一回」
榊の声に従って久世は拳を握る。
呼吸を整え、AOFの同期率を上げる。
《SYNCHRONIZATION:96.8%》
《97.5%》
《98.2%》
高い。
それでも変化はない。
「右腕に負荷を掛けます」
「分かった」
床へ固定された訓練用抵抗装置のグリップを握ると、人工筋肉で制御されたアームが久世の腕を押し返してくる。二十キロ、四十キロ、六十キロと負荷が上がり、肩から肘にかけて筋肉が張っていくが、視界に現れるのは通常の身体負荷警告だけだった。
《MUSCLE LOAD:62%》
《AOF STABILITY:NORMAL》
《MODULE SLOT 01:STANDBY》
「……出ない」
端末へ視線を落としたまま榊が答える。
「昨日の発動時と今で、同期率に決定的な差はない。生体反応も、AOFの基本出力も、右腕の神経伝達も正常。外部通信もないし、手動でORIONを呼び出すコマンドも見つからない」
榊が画面を切り替える。
表示されたのは昨夜のログだった。
《EXTERNAL MODULE INTERFACE》
《MODULE SLOT 01》
《ORION PROTOCOL》
《VIRTUAL MASS DOMAIN》
その下に、今朝のログ。
《MODULE SLOT 01:STANDBY》
たった一語の違いなのに、その意味は大きかった。
「昨日は久世さんが使ったというより、向こうから勝手に開いたんです」
「向こう?」
「AOFの中にある何かです」
久世は右手を開き、もう一度握った。
昨日の感覚だけはまだ残っている。
自分の腕より遥かに大きな腕が、同じ動きで重なっていた感覚。存在しないはずの指を閉じ、存在しないはずの重さを床へ押し付けた感覚。
「また必要になったら出る?」
「それが一番困るんですよ」
榊は椅子から立ち上がり、久世の右腕へ小型スキャナを当てた。
「必要にならないと使えない装備なんて、装備として最悪です。発動条件が分からない以上、戦力として数えられません」
「たしかに」
「ただ、もしまた発動するようであれば、その時はログを残してください」
「戦ってる最中に?」
「できれば」
「無理かも」
「でしょうね」
*
ORIONの再現テストが一度中断されたあと、久世と榊は第三執行部へ向かった。
理由は単純で、東条が昨夜から送ってくるメッセージがうるさかったからだった。
《発動条件の比較ログほしい》
《神経同期の秒単位データある?》
《右腕だけじゃなくて全身の姿勢情報も》
《まだ?》
最後の一通に至っては十分前だった。
「本人が来ればいいのに」
榊が廊下を歩きながら言う。
「忙しいんじゃない?」
「東条さんが?」
「たぶん」
「絶対違います」
第三執行部の解析室へ入ると、その予想はほぼ当たっていた。
東条は自分の席で椅子を後ろへ倒し、片足を机の横へ伸ばしたまま複数の画面を眺めている。長い髪は今日も整っておらず、眼鏡の位置も少しずれていた。
その隣には、見慣れない男が立っていた。
黒髪をきっちりと中央で分け、皺ひとつないシャツに細身の局員用ジャケット、机の上には資料が種類ごとに揃えて並べられており、東条の周囲だけ乱れているせいで、その几帳面さが余計に目立って見える。
「東条さん」
「ん」
「報告書」
「あとで」
「昨日もそう言いました」
「昨日とは違うあとで」
「同じです」
男は淡々と言い切り、東条の机の端に一枚の書類を置いた。
それから久世たちへ視線を向ける。
「第四の久世さんと榊さんですね」
「はい」
久世が答える。
「第三執行部の三科玲司です。通信解析と行動時系列の再構成を担当しています」
「久世です」
「榊です」
三科は短く頭を下げたあと、すぐに本題へ戻った。
「ORIONの件は確認しました。ただし、現時点で未知の拡張機能が存在すると断定するのは早計です」
東条が椅子を揺らしながら横から口を挟む。
「ほら、こういうこと言う奴」
「必要な手順です」
「昨日、床へ四百キロ近い有効質量を掛けたログが残ってる」
「有効質量と表示されたログです。実際に四百キロの質量が生成された証明にはなりません」
「だから面白いんだろ」
「面白さで解析しないでください」
三科は東条を見もせず、久世のログを画面へ表示した。
「発動時刻前後の通信、姿勢、筋活動、心拍、AOF出力、周辺設備のセンサーログを比較しました。現状、外部からORIONを起動させた痕跡はありません」
「榊さんと同じ」
久世が言うと、三科は頷いた。
「そこは一致しています。ただ、内部機能だと断定するには情報が足りません。未知のエラー処理が偶然、意味のある文字列として表示された可能性も残っています」
「ORIONって偶然出る?」
「確率は低いです」
「じゃあ違う?」
「低いことと、ゼロであることは別です」
久世は少し考えたあと、東条を見る。
「三科さん、面倒ですね」
「だろ?」
「聞こえてます」
初めて三科の眉が僅かに動いた。
榊が横で小さく笑う。
東条はORION発動時の波形を拡大し、そこへ現在の再現試験データを重ねた。
「俺は条件式だと思ってる」
「条件式?」
「同期率だけじゃない。身体負荷、対象との距離、周囲の危険度、心理状態、AOFの使用状況、そのへんを複数まとめて判定してる可能性」
久世は間に割り込む形で、今朝の技術区画でのテスト結果を伝えた。
東条はそこで久世を見る。
「昨日、発動する直前に何考えてた?」
「助けなきゃって思った」
東条が画面を見たまま黙る。
三科も何も言わない。
「危機判定とか?」
榊が小さく呟いた。
「まだ分かりません」
三科がすぐに釘を刺す。
「分かってるよ」
東条は面倒そうに答えたが、その目だけは画面から離れていなかった。
*
昼を過ぎた頃、今度は第五執行部から連絡が入った。
昨夜の現場から回収された床材と強化義肢の一部について、解析結果が出たらしい。
第五執行部の解析区画は、第四とは空気から違っていた。
廊下の両側に厚い防護扉が並び、扉ごとに危険度、温度管理、電磁遮断の有無が表示されている。人間を相手にする第四に対し、第五が扱うのは、壊れていても危険なもの、止まっていても信用できないものだった。
そこで最初に久世を見つけたのは前川だった。
「あ」
回収用ケースを抱えたまま足を止める。
「昨日の」
久世が言う。
「前川です」
「覚えてる」
「……よかったです」
前川は少しだけ嬉しそうに笑った。
その直後、奥の作業台から別の女性の声が飛んでくる。
「胡桃、それ持ったまま立ち話しない。中身まだ安全判定終わってないから」
「あ、すみません」
前川が慌ててケースを運ぶ。
声の主は、青みを帯びた黒髪を肩より少し長く伸ばした女性だった。第五用の作業服の上から薄い解析コートを羽織り、片耳には小型端末、目元はどこか眠そうなのに、手だけは休まず解析器の上で動いている。
「あなたたち、第四?」
「はい」
「九条紗良。第五の解析担当」
自己紹介をしながら、九条は久世の方を見た。
「あなたが床を壊したって人?」
「男を倒したら壊れました」
「責任転嫁みたいな言い方するね」
「違います」
「冗談よ、冗談」
九条は薄く笑い、作業台の上へ置かれた灰色のコンクリート片を指した。
「これ、昨日の六階から切り出した床材。面白い壊れ方してる」
榊が近づく。
「どんな?」
「普通、人間を床へ叩きつけたなら、接触点を中心に圧力が高くなって、そこから亀裂が広がる。でもこれは逆に近い」
九条が画面へ圧力分布を表示する。
中心点だけではなく、その周囲へ広い楕円状の高負荷領域が形成されていた。
「広い範囲へ同時に力が掛かってる。拳とか掌とか、そういう接触面積じゃない」
久世が画面を見る。
「仮に三百キロ、四百キロの重りを置いたとしても、この割れ方にはならない。重さが増えたというより、局所的に慣性そのものの伝わり方が変わったみたいに見える」
九条は特に興奮するでもなく、コンクリート片を器具の中へ戻した。
「質量を作ったんじゃない。そこに大きな質量が存在する場合と似た反応だけを、空間側に作った。今のところ、そんな感じ」
「できます?」
久世が聞く。
「普通は?」
「はい」
「できない」
即答だった。
前川が少し離れたところからこちらを見ている。
久世と目が合うと、慌てて作業へ視線を戻した。
九条はそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。
「ただし」
九条が久世へ向き直る。
「昨日の強化義肢側にも変な痕跡がある。破壊されたんじゃなくて、構造全体へ一瞬だけ許容値以上の反力が返ってる。だからあれ、殴る能力というより――」
少し考える。
「触れたものに『重さのルール』を押しつける能力に近いかも」
榊が黙った。
久世も自分の右腕を見る。
昨日はただ、倒したかったわけではない。
止める必要があった。
そのために腕を伸ばした。
「再現できないんだよね?」
九条が聞く。
「今朝やりました。でも出ませんでした」
「じゃあ次に出たら呼んで」
「戦ってる最中に?」
「できれば」
「榊さんと同じこと言う」
「技術屋はみんなそうよ」
*
午後、第四執行部へ戻る途中で、久世は第一執行部のフロアへ寄ることになった。
全局合同執行試験の事前資料を第一が取りまとめており、
各班へ配布する追加資料を受け取るためだった。
受付で所属を告げて待っていると、背後から声を掛けられた。
「久世湊さん?」
振り向く。
暗い茶色の短髪、三十代前半ほどの男が立っていた。制服はきちんと着ているが、堅苦しい印象はなく、片手には薄いファイル、もう片方には紙コップのコーヒーを持っている。
「はい」
「やっぱり。僕は第一の神谷直人」
男は気軽に名乗った。
「会ったことありました?」
「ないよ」
「じゃあ、なんで俺だって」
「第四の新人で、黒髪、細身、AOF適合率がやたら高くて、最近現場の床を壊した」
「最後のいります?」
「識別しやすい」
久世は少しだけ眉を寄せた。
神谷は笑う。
「冗談。顔写真は見たことある」
「なら最初からそう言えば」
「今の反応も見たかったから」
「何のために?」
「職業病」
神谷は資料棚から封筒を一つ取り出し、久世へ渡した。
「第一は人を見るのが仕事だからね。証言、行動、関係性、動機。機械より人間の方が嘘をつく」
彼のペースのまま事情聴取のようなやり取りが繰り広げられていたのも束の間、自分の番がきた。
封筒には《全局合同執行試験・事前概要》と印字されていた。
久世が受け取ると、神谷は少しだけ声を落とす。
「今年は参加人数、多いよ」
「そうなんですか」
「去年より二割くらい増えてる。第二も第五も枠を広げたらしい」
「なんで?」
「さあ」
神谷は答えながら、久世の顔を見た。
「今、理由を知ってると思った?」
「少し」
「正解」
「え、知ってるんですか?」
「知らない」
「……」
「その顔、分かりやすいね。喋らない人ほど分かりやすいこともある」
神谷は紙コップを一口飲み、廊下の奥を顎で示した。
「説明会は三日後。試験そのものは十日後。今のうちに資料読んどいた方がいい。結構本気で人事に使われるから」
「人事?」
「昇格、配置換え、特別任務の候補。あと、部を跨いだ適性評価」
「面倒ですね」
「あとはコードネームが与えられるかな」
「コードネーム?」
「そう。コードネームを持つ者は様々なメリットが受けられる。それ目当てで参加する人も少なくない」
「神谷さんは持ってるんですか?」
「もちろんだよ」
「すごい人だったんですね」
「まぁ、嘘だけど」
「……」
「ごめんごめん。詳しいことは説明会でおしえてくれるだろうから」
彼は何かを思い出したかのように足早に去っていった。
*
その日の夕方、第一班の作戦室では、受け取ってきた資料が机の中央に広げられていた。
牧野は椅子を逆向きにして背もたれへ腕を乗せ、榊は端末で資料の電子版を開き、御堂は少し離れた位置から全体を確認している。
「改めて見ると項目多いな」
牧野がページをめくる。
「試験は複数段階に分かれる。個人評価もあるが、基本は部門混成の課題だ」
「去年も混成でしたっけ」
「一部だけ。今年は範囲が広い」
榊が画面をスクロールする。
「第一から第五まで参加。普段の所属班は原則解体、課題ごとに組み替え。評価対象は結果だけじゃなく、判断過程と連携」
久世は資料の後半へ目を通していた。
試験の目的。
部門間連携。
現場判断能力。
専門技能の再評価。
昇格・配置転換資料。
特殊任務適性の抽出。
そして最後に、他の項目とは少し離れて表示された一文。
《特別適性評価》
その下には、
《詳細:当日開示》
としか書かれていない。
「これ何ですか」
久世が聞く。
御堂が資料を見る。
「私も知らない」
「班長も?」
「今年から追加された項目だ。説明会で開示される可能性はある」
牧野が覗き込む。
「嫌な書き方だなあ。こういうの大体ろくでもない」
壁面には各部の参加予定人数が表示されている。
これまで久世が現場で関わってきた人間は、その一部にすぎない。
まだ名前すら知らない人間がいる。
合同試験まで、あと十日。
始まるのはまだ先だった。
それでも、執行局の中ではすでに少しずつ人が動き始めていた。
*
廃ビルの一室、月の光に照らされながら、一人の少女が呟く。
「お兄様に会える」
その数秒、少年が薄明かりから彼女に対して答える。
「向こうはそれを覚えていないんだよ、イヴ」
「そうでした、でも嬉しいんです。アダムは?」
「もちろん。あともう少しの辛抱だね」
二人はひっそりと音もたてずに、夜へ消えていく。




