♯5 オリオン
午前十一時を少し回った頃。
東条は珍しく第四執行部のフロアへ姿を現した。
第一班の作戦室では榊が久世のAOFログを確認しており、久世本人はその隣で、自分の装備であるにもかかわらず意味の分からない表示を眺めていた。
牧野は早朝に発生した別件で第二班の制圧要員が負傷し、応援として現場へ駆り出されていた。
御堂が東条へ視線を向ける。
「何か出たか」
東条は返事の代わりに、空いていた大型表示へデータを転送した。
映し出されたのは、久世のAOF内部に存在する四つの空白。
説明は短かった。
久世のAOFには、現行仕様に存在しない外部接続領域があること。それが単なる開発時の残骸ではなく、何かを後から繋ぐために意図的に残された構造に見えること。
そして、二十年以上前の資料に《AOF EXTENSION PROTOCOL》という名称が存在すること。
御堂は表示を見たまま尋ねた。
「他の機体は」
「見られる範囲では、ない」
榊の指が止まる。
「久世さんのだけ?」
「断定はできない。古い機体の全記録までは閲覧できないから」
東条は続けて中央管理室から届いた通知を表示した。
「理由は」
「書いてない」
「問い合わせたか」
「まだだ。返ってくるとは思ってないけど」
東条の答えに、御堂はそれ以上何も言わなかった。
久世は画面の《MODULE SLOT》を見ていた。
何かが入る場所。それだけは分かる。何が入るのかは、誰にも分からない。
そのとき、作戦室の警報が短く鳴った。
壁面表示が強制的に切り替わる。
緊急案件が入る。
*
現場は、市内東部の再開発区画だった。
建設途中の複合施設で、違法強化義肢を装着した男が暴れているという。
最初の通報は作業員同士の傷害事件だった。
だが警察が到着した時点で、男の両腕に接続された義肢が通常の医療用ではないことが判明している。骨格補助出力、関節トルク、瞬間駆動値、そのどれもが法定基準を大きく超え、旧軍用規格を民間部品で無理やり再現したものと見られていた。
男は周囲の呼びかけにもまともに応じず、壁や資材を破壊しながら建物上層部を徘徊している。
さらに六階には、避難の遅れた作業員三名が取り残されていた。
榊は隣で対象義肢の旧式規格を調べながら、外部から制御系へ侵入できるか試していたが、端末に並ぶ反応は芳しくない。
古く、しかも何度も改造され、正規仕様から大きく逸脱している。
制御系統への入口を見つけるだけでも時間がかかる。
御堂はそれを踏まえ、現地警察の特殊班が到着するまで久世は監視と救出経路の確保に徹するよう指示した。
戦う必要はない。少なくとも、今の時点では。
*
到着した頃には、細い雨が降り始めていた。
建設途中の建物は外壁の大半がまだなく、灰色の空を背負った鉄骨が巨大な肋骨のように幾重にも伸び、その剥き出しの表面へ雨粒が触れるたび、乾いた金属音が途切れることなく重なっていた。打ちっぱなしのコンクリートには薄い水膜が広がり、濡れた石と鉄、それに機械油の匂いが冷たい風へ混じっている。
久世は一階の資材搬入口で足を止め、上層階から響いてくる鈍い衝撃音へ耳を澄ませた。
一度、さらに少し間を置いて、もう一度。
建物のどこかで何か重いものが叩きつけられるたび、柱を伝った振動が足裏まで降りてくる。
AOFを起動する。
続けて意識を一段深く沈めると、今までは見慣れない表示がその下へ重なった。
《MANUAL LAYER ACTIVE》
雨音が強い場所では音響抑制を落とし、吹きさらしの区画では熱を消しすぎず、外から差し込む鈍い自然光に合わせて光学補正だけを細かく変える。以前ならAOFに任せきりだった処理が、いまは指を動かすより自然に意識へ馴染み、自分を消すのではなく、この場所に最初から存在していたものの一部へ寄せていく。
『……もう普通に使ってますね』
耳元から榊の声が届いた。
「使えるから」
『その説明、技術屋には一番困るやつです』
久世は返事をせず、輪郭を雨の向こうへ溶かしたまま階段を上がっていった。
四階を越えたあたりで、上から何かが転がる音が聞こえ、五階へ差しかかる頃には、鉄とコンクリートがぶつかる低い衝撃がはっきりと近づいていた。六階へ続く最後の踊り場では床そのものがわずかに震え、久世は速度を落とし、作業区画へ続く角の手前で身体を壁際へ寄せた。
覗くと四十代半ばほどの男の姿があった。作業着は肩口から大きく裂け、その両腕には黒い強化義肢が接続されていた。通常の義手より一回り太く、肘や手首には後付けされた補助駆動部と冷却器が剥き出しのまま並び、拳を握るたび内部のモーターが低く唸っている。肩から背中へも細い補助フレームが伸びており、腕だけではなく上半身全体へ出力を逃がす構造らしい。
周囲には折れた資材、潰れた工具箱、床へ転がった足場材、柱には人の頭ほどの凹み、そのさらに向こうには作業員が三人、一人は足を負傷しているらしく、残る二人に肩を借りながら壁際へ身を寄せていた。
久世は視線を男から外さないまま位置情報を送る。
『確認した、そのまま待て。特殊班があと六分で到着する』
御堂の声。
六分
久世は男を見る。
こちらには気づいていない、AOFは正常、背後へ回ることもできる、義肢の接続部へ近づくことさえ難しくない。
けれど、制圧する必要はない。
久世は動かなかった。
男が突然、頭を押さえるまでは。
両腕の駆動部が細かく震え始め、低かったモーター音が甲高い悲鳴のように変わり、男は身体を折って何かに耐えるように歯を食いしばった。
『義肢出力、上がってます』
榊の声。
男が顔を上げる。
焦点の合わない目が、作業員たちを捉えた。
次の瞬間には身体が動いていた。
『久世、作業員だけ逃がせ、対象との交戦は避けろ』
「了解」
久世は姿を消したまま男の側面へ回り込み、床へ転がっていたスパナを蹴った。金属が反対側の柱へぶつかり、甲高い音が響き、男の視線がそちらへ流れる、その短い間に作業員のそばまで移動し、非常階段の方向を示す。
「そっちへ」
三人が動き出した。
だが遅い。
負傷した一人はまともに足をつけず、両脇を支えられていても一歩ごとに身体が傾く、男が振り返る、久世を見つけたわけではない、それでも移動を始めた三人は見えている。
義肢が低く唸った。
特殊班はまだ来ない。
この速度では間に合わない。
久世は一瞬だけ考え、AOFを解除した。
空気の中から唐突に人間が現れたことで、男の足が僅かに止まる。
「こっち」
久世が声を掛ける。
男の視線が作業員から久世へ移った。
それでいい。
背後では三人が少しずつ非常階段へ近づいている。
男が踏み込む、右肩が沈み、腰が回り、黒い義肢の肘が外へ開く、その一連の予備動作だけで久世は横薙ぎが来ると読み、身体を沈める、拳が頭上を通過し、そのまま背後の仮設支柱へ叩き込まれ、厚い金属パイプが嫌な音を立てて折れ曲がった。
判断と同時に久世は下がるのではなく懐へ入る。
左手首の駆動部、肘裏の補助関節、肩から脇へ伸びるケーブル、視界へ入った構造を一度に拾い、その中で最も薄そうな肘内側へ拳を打ち込む。
返ってきたのは肉の感触ではなかった。
硬い。
厚い装甲を直接殴ったような衝撃が拳へ返り、男の腕は僅かに外へ流れただけ、そのまま反対側の左手が久世の胸元へ伸びてくる。
掴まれる。
そう判断した時にはもう身体を引いていた。
指先が服を掠める、そのまま半歩離れ、AOFを再起動する。
《MANUAL LAYER ACTIVE》
久世の輪郭が背景へ沈み、男の視線が一瞬で行き場を失う、だが動きは止まらず、強化義肢に内蔵された簡易センサーが断続的な走査を始めた。
久世は熱抑制を少し落とし、信号欺瞞を強める。
男の右腕が、誰もいないはずの右側へ反応した。
その逆。
左から入る。
膝裏へ蹴りを入れ、身体が傾いたところへ肩を押し込む、重心を崩す、そう思った次の瞬間には男が右腕を床へ叩きつけ、その一本を柱代わりにして無理やり身体を支え直していた。
コンクリートに亀裂が走る。
久世は離れる。
当たらない。
でも止められない。
こちらの方が速い、相手の動きも読める、死角にも入れる、それなのに一つひとつの技術が、単純な出力差だけで押し潰されていく。
『久世、あともう少しの辛抱だ。耐えてくれ』
「分かってます」
答えた直後、男が来る。
右肩、踏み込み、拳。
久世は最後まで動かず、顔面へ届く直前で半歩だけ内側へ潜り、頬を裂くような風圧をやり過ごしながらすれ違いざまに肩関節へ踵を叩き込む。
男が揺れる。
だが倒れない。
振り向きざまに左腕が返ってくる。
間に合わない。
久世は前腕を上げる。
衝撃。
骨の奥まで振動が走り、身体が床から浮き、そのまま背中から資材の積まれた壁際へ叩きつけられ、肺の中の空気が一気に抜けた。
《IMPACT ABSORPTION》
《AOF STABILITY 81%》
痛みはある、それでも身体はまだ動くと確かめるように久世が顔を上げると、男はすでに間合いの内側まで迫っており、黒い右腕を大きく振り上げ、その向こうにはまだ避難を終えていない作業員の姿が残っていたため、ここで自分だけが避ければ、その一撃がどこまで抜け、誰を巻き込むか分からなかった。
久世は後ろへ下がらず、前へ出た。
拳を受けるのではなく、振り下ろされる腕の内側へ肩から身体をぶつけ、軌道を横へずらす、肩が軋み、男の拳は久世の脇を抜け、そのまま床へ突き刺さるように落ちた。
砕けたコンクリート片が跳ねる中、久世はその破片を縫うように男の背後へ回り込み、そのまま首元へ拘束具を掛けようと腕を伸ばしたが、男はそれを読んだように身体ごと強引に振り返り、勢いの乗った右腕を横薙ぎに振るう。久世は咄嗟に跳んでかわそうとしたもののほんの僅かに遅れ、拳が腹部を掠めただけで身体は横へ大きく弾き飛ばされ、床を二度、三度と転がってようやく止まった。
『久世さん!』
榊の声。
久世は咳き込みながら身体を起こした。
相手の攻撃は荒い、技術もない、間合いの取り方も甘い、けれど出力だけが異常に高く、その一つの長所だけで欠点のすべてを塗り潰している。
久世は相手の動きを読み、避け、死角へ入ることはできても、圧倒的な出力差の前では決め手を欠いていた。男は資材ラックから鋼材を持ち上げ、制御しきれないまま振り回すが、その先には避難途中の作業員がいる。久世は避けることを選ばず、振り下ろされた鋼材を両腕で受け止め、全身へ凄まじい荷重が落ちる中、指先から感覚が失われ、視界の端へ警告が立て続けに浮かぶ。
《PHYSICAL LOAD EXCEEDED》
《MUSCLE STRESS》
『離れてください!』
榊の声が遠く聞こえる。
離れれば、後ろの作業員が潰れる。
それだけだった。
久世は力を込める。
動かない。
腕が沈む。
膝が落ちる。
足りない。
力が。
その瞬間、HUDの奥で何かが開いた。
これまで閉じられていたというより、そこに存在することすら認識できなかった領域が、内側から押し広げられるように展開していく。
《EXTERNAL MODULE INTERFACE》
《MODULE SLOT 01》
《ORION PROTOCOL》
《VIRTUAL MASS DOMAIN》
《COMPATIBLE USER DETECTED》
久世は息を止めた。
「……何」
答えはない。
代わりに右腕を包んでいたAOFの光学層が乱れた。
一瞬だけ映像が崩れ、その周囲へ小さな光点が浮かぶ。
一つ。
二つ。
さらに増える。
青白い点は右手首、肘、肩、その外側へと広がり、何もない空間の中で細い線によって結ばれていた。
右腕の周囲に浮かんだ光点が幾何学的な線で結ばれ、肩の後方、背中の右側まで広がりながら一つの巨大な輪郭を形作っていく。
腕だ。
ただし、人間のものではない。
生身の右腕を核にして、その外側へ二回り以上大きな前腕、肘、上腕、掌が重なるように形成され、半透明の内部には無数の微細な粒子が夜空の星のように流れ、関節部には薄い環状光が浮かび、輪郭の向こうにある景色だけが水面越しのように歪んで見えた。
装甲ではない、物質ですらない。
なのに、見える。
そこに巨大な何かが存在していると、光そのものが認めているようだった。
《EFFECTIVE MASS:42kg》
数字が上がる。
《78kg》
《126kg》
巨大な腕の輪郭が少しずつ濃くなる。
右肩から背中へ星の線が伸び、見えない骨格のような仮想フレームを作り、その中心で久世自身の身体だけが異様に細く見えた。
右腕が重くなったわけではない。
それでも、鋼材から押し返される感覚が弱くなる。
違う。
鋼材が軽くなっているのではない。
久世の側が、重くなっている。
《EFFECTIVE MASS:193kg》
仮想の巨腕が鋼材を掴む。
生身の指は触れている。
だが、その外側に重なった巨大な五指も同じ動きをしており、物理的には存在しないはずの掌が鋼材の表面を包み込んだ瞬間、その接触部分だけが僅かに沈んだ。
久世は立ち上がる。
鋼材が持ち上がった。
数十センチ。
「早く!」
作業員たちが抜ける。
一人。
二人。
最後の一人が安全圏へ出た。
久世は鋼材を横へ押し退ける。
仮想巨腕が遅れることなく同じ軌道を描き、数百キロの鋼材が床を滑り、柱へぶつかって鈍い音を立てた。
男が止まっていた。
焦点の合っていなかった目が、初めて明確に久世を捉えている。
その右腕を覆う、星の線と空間の歪みで作られた巨大な腕。
右肩から背中へ張り出した半透明の仮想骨格。
久世自身もそれを見ていた。
何が起きているのか、分からない。
それでも。
男が叫びながら踏み込んできた。
右拳。
今度は、避けない。
久世は右腕を前へ出した。
生身の拳の外側で、巨大な仮想拳も同時に握られる。
《EFFECTIVE MASS:238kg》
二つの拳がぶつかる。
瞬間、接触点の空気が丸く歪み、遅れて低い衝撃音が作業区画全体へ広がった。
後ろへ弾かれたのは久世ではない。
男の強化義肢が跳ね上がり、肩が開き、身体が半歩、さらにもう半歩と後ろへ流れる。
久世は驚く。
だが止まらない。
踏み込む、左へ重心を見せる、男の視線がそちらへ動く、AOFの光学層だけを一瞬落として再起動、輪郭が途切れ、男の認識が追いつくより先に右側へ回り込み、強化義肢の肘を掴む。
仮想巨腕の巨大な指も、その外側から重なる。
《EFFECTIVE MASS:284kg》
「まだまだ」
《EFFECTIVE MASS:327kg》
「――っ」
初めて、男の喉から明確な驚きの声が漏れる。
百キロを超える身体と強化義肢、それらすべてをまとめて、久世は片腕だけで粉砕する。
《EFFECTIVE MASS:402kg》
星の線が瞬いた。
久世は腰を捻る。
AOFが姿勢、角度、速度、床面強度、男の義肢耐久値を一瞬で演算し、致命傷へ至らず、それでも二度と立ち上がれない一点へ力を集中させる。
《IMPACT CONTROL》
《TARGET LOAD DISTRIBUTION》
久世が腕を振り切った。
男の身体がコンクリートへ叩きつけられた瞬間、床面を中心に放射状の亀裂が走り、溜まっていた雨水と粉塵が白い輪となって周囲へ弾け飛んだ。
《VIRTUAL MASS DOMAIN OFFLINE》
《ORION PROTOCOL SUSPENDED》
巨腕を形作っていた光が、夜空へ帰る星のように一つずつほどけていく。
最後の光が消えた瞬間。
右腕が急に、自分のものではないほど重くなった。
久世の膝が崩れる。
壁へ左手をつく。
「御堂さんに叱られるな」




