♯4 謎の男
あの襲撃から、五日が経っていた。
第五執行部の地下区画で拘束された男の身元はいまだ判明しておらず、逃走したもう一人についても足取りは掴めていない。
東条亮介へ回された調査も続いている。
ただ、第三執行部から第四へ新しい報告が上がってくることはなく、消えた黒いケースについても状況は変わらないままだった。
五日も経てば、執行局の中では別の事件がいくつも動き始める。
久世湊もまた、いつの間にか普段の業務へ戻っていた。
午前九時十二分。
第四執行部第一班の作戦室には、湾岸地区に建つ研究施設の立体図が浮かんでいた。
第四執行部は、複数の実働班によって構成されている。すべての人員が同じ現場へ投入されるわけではなく、案件ごとに班単位で動き、必要に応じて他班や専門部署から人員を加える仕組みになっていた。
久世たちが所属する第一班は、その中でも潜入と制圧、人質救出を中心に幅広い任務へ対応する班だった。御堂彰子が指揮を執り、久世が潜入、牧野が制圧、榊が技術支援を担うことが多い。
もっとも、それは固定された役割ではない。現場によって編成は変わり、必要なら別の執行官も加わる。第四にとって重要なのは、誰がどの役割を担うかではなく、その場に必要な人間を揃えることだった。
「今朝八時四十分、東栄ニューロテック研究所へ武装した三人組が侵入した」
牧野は椅子へ深く座ったまま画面を見上げ、榊はすでに手元の端末で施設情報を呼び出していた。
東栄ニューロテックは医療用神経接続義肢を開発する企業で、犯人たちの目的は現在試験中の制御技術と見られている。侵入時に警備員二人が負傷。研究員五人が施設内部に取り残され、そのうち少なくとも三人は二階の研究区画にいることが確認されている。
久世は表示された建物を眺めた。
「人質?」
「そんなところかもな」
御堂によれば、犯人たちは研究データを複製しながら脱出経路を確保しているらしく、警察が正面から突入すれば人質を盾にする可能性が高いという。
そこで第一班へ回ってきた。
牧野が小さく肩を回した。
「久しぶりに普通の仕事ですね」
榊が横目を向ける。
「本部で襲撃されるよりは普通ですね」
「比較対象がおかしくないです?」
久世は二人のやり取りを聞きながら、建物の入口と非常階段の位置を確認していた。
御堂がその様子を見る。
「久世」
「はい」
「お前が先に入れ」
予想していた指示だった。
「人質と犯人の位置確認が最優先だ。位置が取れたらこっちで組み立てる」
榊が補足するように、施設側の監視カメラは半分ほど犯人側に奪われており、自分が順番に制御を戻すつもりだと説明した。北側には近距離走査型の警備ドローンが二機残っているため、AOFでも近づきすぎない方がいいらしい。
久世はただ頷く。目の前の任務を完遂するために。
*
研究施設の裏手には、搬入車両用の細い通路が伸びていた。
曇った空の下を海からの湿った風が抜け、周囲に並ぶ研究棟の壁面へ低い音を残していく。
人影がないことを確認すると、久世は壁際へ身体を寄せた。
AOFを起動する。
《OPTICAL FIELD ACTIVE》
《THERMAL SUPPRESSION ACTIVE》
《ACOUSTIC CONTROL ACTIVE》
《SIGNAL MASKING ACTIVE》
見慣れた表示が順番に視界へ浮かび、身体の輪郭が徐々に背景へ溶け込んでいく。
榊が外部から搬入口の電子錠を解除すると、久世は開いた扉の隙間を抜け、そのまま施設内部へ滑り込んだ。
建物の中は静かだった。
通常照明の多くは落とされ、非常灯だけが白い壁と床を淡く照らしている。遠くでは空調と実験機器の動作音が重なり、人の気配だけが不自然なほど少ない。
『一階東側、動体反応なしです。次の角までは行けます』
耳元から榊の声が届く。
久世は簡易応答だけ返し、足音を抑えながら廊下を進んだ。
天井の監視カメラ、壁面の熱源センサー、床へ埋め込まれた圧力検知。
以前なら、一つひとつを意識しながら慎重に通過していたものが、今はAOFを介して身体の周囲に自然と存在しているように感じられる。
前方の通路を一機の警備ドローンが横切り、こちらに反応することなく角の向こうへ消えていった。
『クリアです』
榊の声を聞き、久世が再び歩き出そうとした、そのときだった。
「止まれ」
すぐ近くから知らない声が聞こえ、久世は反射的に足を止めた。
通信ではない。
声は、この通路のどこかから直接届いている。
ゆっくりと周囲を見回してみても人影はなく、AOFが拾う熱源にもそれらしい反応は出ていなかった。
『久世さん?』
「誰かいる」
『こちらでは確認できません』
久世がなおも周囲へ視線を巡らせていると、数秒後、右側の壁際で景色が僅かに揺らいだ。
最初は照明の反射にも見えた歪みが徐々に人の輪郭を形作り、やがてそこから四十代ほどの男が浮かび上がる。
完全に姿を現したわけではない。
身体の縁だけが背景から滲み出るように見えていた。
その独特の揺らぎに、久世はすぐ気づく。
「AOF……」
男は否定することもなく、むしろ久世を包む迷彩を確かめるように目を細めた。
「使い方が雑!」
「何?」
「全部消そうとするな」
意味を測りかねていると、男の視線が久世の肩越しへ移る。
通路の奥から、近距離走査型の警備ドローンが静かに近づいてきていた。
「光学だけ落とせ」
「そんな操作、知らない」
「教えられてないだけだ」
青い走査光が床を撫でながら迫ってくる。
男はそれ以上説明することなく、短く続けた。
「消えるな。周りに馴染め」
久世は視界に浮かぶAOFの制御表示へ意識を向けた。
《OPTICAL FIELD ACTIVE》
これまで個別に操作しようと考えたことすらない項目だった。
そこだけを止める。
そう意識した瞬間、見慣れない表示が視界の端へ浮かぶ。
《MANUAL LAYER》
周囲へ溶け込んでいた久世の輪郭が戻った。
『久世さん!?』
榊の声が跳ねる。
光学迷彩は消えている。
だが、熱源抑制や信号欺瞞は残っていた。
警備ドローンが接近し、青い走査光が久世の身体を上から下までなぞっていく。
それでも警告は発せられない。
機体は何も存在しなかったかのように、そのまま通路の向こうへ抜けていった。
久世は遠ざかるドローンを見送り、それから男へ視線を戻した。
「なんで知ってる」
男は答えない。
代わりに久世のAOFをどこか懐かしむように眺め、小さく目を細めた。
「ずいぶん綺麗になったもんだ」
「何が?」
その問いにも答えず、男は一歩だけ後ろへ下がる。
身体の輪郭が徐々に周囲の景色へ溶け始めた。
「待て」
久世が距離を詰めようとすると、男は消えかけた姿のまま淡々と言った。
「任務中だろ。今日はご挨拶だけだ」
次の瞬間には輪郭そのものが失われ、そこにいたはずの男は視界から完全に消えていた。
ただ最後に、姿のない空間から声だけが残る。
「久世湊。今はそっちを優先しろ」
久世の足が止まった。
自分は名乗っていない。
それでも男は名前を知っていた。
久世は気配を探るように周囲を見回したが、熱源も音も、AOFが拾う反応もすでに何一つ残っていない。
『……久世さん』
「うん」
『今の人、久世さんの名前知ってましたよね』
「知ってた」
榊が何か言いかける。
久世は男が消えた場所を数秒だけ見つめたあと、人質のいる二階へ視線を戻した。
気にならないわけではない。
けれど今ここで追うべきものではなかった。
「今は任務」
そう告げると、再び歩き出した。
*
二階へ上がるころには、先ほどの操作を久世なりに理解し始めていた。
全部を強くすればいいわけではない。
周囲に合わせる。
照明の明るい場所では光学補正を強め、空調音が大きい区画では音響抑制を僅かに落とす。
熱源の多い実験室付近では自分の体温だけを極端に消さず、周囲へ紛れ込ませるように調整する。
理屈を完全に理解したわけではない。
それでも、一度できてしまえば操作そのものは不思議なほど自然だった。
『久世さん、さっきからAOFの制御値がおかしいです』
榊の声が届く。
「壊れた?」
『違います。むしろ普通に動いてるのが怖いんです』
久世はよく分からず、そのまま前へ進んだ。
熱源反応一つ、その少し先に五つ。
人質だった。
研究員たちは南側通路を歩かされ、その後方には拳銃を持った男が一人ついている。進行方向には非常階段があり、このまま外へ脱出するつもりなのだろう。
久世は壁際へ身体を寄せると、一度周囲を見る。
強い空調、複数の実験機器、研究員たちの体温、武装犯が携帯している小型センサー。
以前ならAOF出力を上げていた。
今回は、光学補正を維持したまま熱源抑制だけを僅かに緩める。
《MANUAL LAYER ACTIVE》
武装犯の携帯センサーが久世のいる方向へ向いた。
反応はない。
そのまま距離を詰める。
三メートル。
二メートル。
一メートル。
男が何かに気づいて振り返った瞬間、久世は拳銃を持つ手を横へ押し退け、手首を捻り上げた。
短い声とともに銃が床へ落ちる。
男の重心を崩し、そのまま壁へ押しつけて腕を背中側へ回すまで、ほとんど数秒もかからなかった。
『人質確認』
「五人。全員無事」
『了解』
御堂の声が続く。
『牧野、入れ』
直後、建物の別方向から鈍い衝撃音が響いた。
数秒もせず複数の足音が近づき、牧野を先頭にした制圧班が施設内部へ突入する。
残る二人の武装犯も逃走経路を塞がれ、ほとんどまともな抵抗をすることなく拘束された。
銃声は一発もなかった。
人質にも、新たな負傷者は出ていない。
第四執行部にとって、それは理想に近い任務の終わり方だった。
*
帰還後、久世は第四執行部の技術区画でAOFを外していた。
榊は先ほどからほとんど話さず、任務中のログを何度も確認している。
問題は二つあった。
一つは、施設内部で遭遇した男。もう一つは、久世自身が行ったAOFの操作だった。
「相手、本当にAOF使ってたんですよね」
確認するように榊が尋ねる。
「多分」
「多分じゃ困るんですよ」
「消えた」
「それだけなら似た技術もあります。でも、こっちのセンサーに何も出なかったのは普通じゃないです」
榊は画面へ視線を戻した。
執行局の正式装備ではない。
少なくとも、榊が把握している運用記録には該当するAOF使用者も存在しない。
さらに、久世が使用した《MANUAL LAYER》という制御方式にも心当たりがなかった。
「光学だけ切ったんですよね」
「うん」
「どうやって?」
「言われた通り」
「それを聞いてるんですけど」
久世は少し考えたものの、結局うまく説明できなかった。
意識したらできた。それ以上でも、それ以下でもない。
榊は納得できない様子だったが、同じ質問を続けても答えが変わらないことは理解したらしく、小さく息を吐いた。
「このログ、第三にも回します」
「東条?」
「こういう訳の分からないものを見つけるの、好きでしょうから」
「好きそう」
久世が頷くと、榊はそれ以上何も言わずデータを送信した。
*
その日の夜。
第三執行部のフロアには、昼間よりずっと少ない人数しか残っていなかった。
東条亮介は自分の席で、第四から送られてきた任務ログを眺めていた。
「あいつら人使い荒すぎだろ」
榊から添えられた一文に、AOF制御ログに未登録命令ありという興味深いメッセージが彼の探求心を駆り立てる。
「未登録?」
久世のAOF記録を開く。光学補正、熱源抑制、音響制御、信号欺瞞。
序盤は通常の稼働記録だった。
ところが途中から、統合制御されるはずの各機能へ操作者側が直接触れている。
《MANUAL LAYER》
東条は画面を少し拡大した。
現行仕様書を検索するが、該当なし。同じく旧仕様も該当なし。
試験運用時の資料にも存在しない。
「……なんだ、これ」
久世のログをさらに深く辿る。
《OPTICAL》
《THERMAL》
《ACOUSTIC》
《SIGNAL》
既存機能そのものは理解できる。
問題は、その下だった。
通常の整備端末では表示されない内部領域へ、一瞬だけ参照要求が発生している。
東条はその痕跡から構造だけを引き出した。
《EXTERNAL MODULE INTERFACE》
そこで指が止まった。
外部モジュール。
AOFの現行仕様に、そんな機能はない。
アクセスを試す。
《ACCESS DENIED》
東条は眉を上げると、今度は内容ではなく構造情報だけを読み取った。
そこには複数の未使用領域が存在している。
《MODULE SLOT 01》
《MODULE SLOT 02》
《MODULE SLOT 03》
《MODULE SLOT 04》
名称も用途も記録されていない。
ただ、何かを接続するための空白だけが、最初から用意されていた。
東条は椅子へ深く身体を預けた。
AOFはステルス装備として完成した一つのシステム。
それが現在の常識だった。
しかし、この構造は完成品のものではない。
少なくとも、単独で完結する装備の設計には見えなかった。
東条は別の画面を開く。
数日前に見つけた、二十年以上前の機密領域。
《CLEARANCE LEVEL:EXECUTIVE》
その横へ、久世のAOF内部構造を並べる。直接繋がっている証拠など、どこにもない。
それでも偶然だと切り捨てるには、彼にはどうにもできなかった。
視線を下へ動かす。
《SYNCHRONIZATION:98.4%》
何度も見ている数値だった。
しかし今は、それまでとは違う意味を持って見える。
久世だからAOFを扱えるのか。
それとも――。
材料が足りない。
推測を事実に変えるには、まだ何かが欠けている。
ただ、一つだけははっきりしていた。
久世湊が使っているAOFには、現在の仕様書に存在しない領域がある。
そして今日、その使い方を久世へ教えた人間がいる。
ならば、その人物は少なくとも――AOFについて、執行局の技術担当者が知らない何かを知っている。
東条は新しい検索画面を開いた。
検索範囲を現行装備から外し、過去へ広げていく。
AOFという名称が正式採用されるよりも前へと。
「とりあえずまぁ、あいつらには何か奢ってもらお」




