♯3 解析者
執行局本部の医務室は、一般的な病院の診察室とは少し趣が違っていた。
白を基調とした内装だけを見れば清潔な医療施設にしか見えないが、天井には細いレールに沿って複数 の検査アームが待機し、壁際には簡易手術設備だけでなく、強化義肢の接続調整や人工筋肉の損傷診断、神経接続型装備による負荷を測定するための機器まで並んでいる。
特殊装備を身につけた執行官が運び込まれることを前提に作られているため、治療する対象が人間なのか装備なのか、その境界さえ曖昧に見える場所だった。
その中央に置かれた検査台へ腰を下ろし、久世湊は右腕を伸ばしていた。
肩口に取り付けられた半透明のリングがゆっくりと腕を滑り、その内側から伸びた淡い光が骨格や筋繊維を透かすように何度も往復していく。
読み取られた情報は正面の壁へ重なりながら表示され、骨の状態だけでなく筋肉の微細な断裂、神経伝達速度、血流、さらにはAOFの防護層が衝撃を受けた際に身体へ伝えた負荷まで、一つの画面へまとめられていた。
診断結果を確認していた榊美月が、骨に異常はなく、筋繊維に軽い損傷がある程度だと告げると、久世はやはり大したことはなかったという顔をした。
「ほら」
その一言に、榊は呆れたように視線を向ける。
「本人の自己申告と、検査結果が一致しただけです」
久世にとっては同じことらしく、それ以上反論することもなく、検査リングが手首を通り過ぎる様子をぼんやり眺めていた。
前日、第五執行部の地下搬送区画で受けた衝撃は、右腕を中心にまだ鈍い痛みを残している。
それでも骨や腱に問題はなく、AOFの防護層が大部分を受け止めていたらしい。
榊は検査結果を閉じると、今度は別の画面を呼び出した。
「身体より、こっちの方が面倒ですね」
表示されたのは、前日の襲撃に関する簡易報告だった。
拘束した男の身元は依然として不明のままで、指紋、網膜、顔貌、皮下ID、そのどれも登録情報と一致していない。
身につけていた装備からも製造番号や販売履歴に繋がるものは見つからず、普通の犯罪者がその場しのぎで身元を隠したような痕跡とは明らかに違っていた。
久世が、単純に記録を消した可能性を口にすると、榊は首を横に振った。
「それならまだ分かるんです。でも、今の社会で生まれてから一度も行政記録に触れずに生きるなんて、ほとんど不可能です」
そう言いながら、さらに別のデータを表示する。
地下区画の監視履歴が時系列で並んでいた。
「それと、本部側の監視記録も飛んでます。襲撃が始まる少し前から、復旧するまでの間だけ」
画面上では、その時間帯だけが不自然なほど綺麗に抜け落ちている。
久世は欠損部分を見ながら、カメラそのものが故障した可能性を尋ねたが、榊はすぐに否定した。
故障であれば異常記録が残り、通信を切断すれば通信断そのものがイベントとして保存される。
ところが今回は、そのどちらも残っていない。
「監視システム側だけを見ると、この時間には何も起きていないことになってるんですよ」
「俺たちはいた」
「いましたね」
「証拠はないってこと?」
榊はそこでわずかに表情を変えた。
「施設側にはほとんどありません。でも、私たちの装備側には少し残ってます」
表示された画面には映像ではなく、細かな数値と波形が並んでいる。
AOFは外部ネットワークとの接続が途切れても、最低限の稼働情報を内部へ一時保存する。
位置推定、姿勢変化、衝撃方向、出力変化、周囲の熱源、各種センサー反応。
通信遮断中も装備そのものは正常に動いていたため、戦闘の様子を映像として見ることはできなくても、久世の身体がどのように動き、どこから攻撃を受けたのかという断片は残されていた。
榊自身の端末にも、ハッキングしたドローンの通信履歴が一部保存されている。
「そんなのでいけるの?」
「第三執行部に見せる方がいいかもしれないですね」
第三執行部は情報分析を専門とする部署で、監視記録や通信履歴、金融データ、人物相関、都市インフラの稼働情報など、膨大な断片を組み合わせて全体像を探ることを得意としている。
一方で榊の専門は、そうした情報を読み解くことではなく、電子機器そのものへ侵入することにあった。
「私は機械側を崩す方です。通信規格を読んで認証を突破したり、制御権を奪ったり」
前日の戦闘でドローン一機を奪ったのも、その技術の応用だった。
榊のハッキングは、机の前で長時間コードを書き続けるようなものとは少し違う。
執行局の専用端末を使い、その場で通信規格や認証方式を解析し、僅かな侵入口を見つければ、そこへ自分の命令を強引に差し込む。
完全に制御系を掌握するには時間が必要だが、敵味方の識別信号を書き換えたり、一部の機能だけを奪ったりする程度なら、戦闘中の数秒さえ榊には十分な時間になり得た。
久世が素直に感心していることを告げると、榊は少しだけ意外そうな顔をした。
「今さらですか?」
「ちゃんと見たの昨日が初めてだったから」
その返事だけでは感動が伝わらないらしく、榊は小さく息を吐いた。
「一人、第三に頼めそうな人がいます」
ただし、その言い方には少しだけ含みがあった。
「知り合い?」
「知り合いというより面倒な人です」
「榊が言うなら相当だな」
不意に医務室の扉が開いた。
「お、やっぱりここでしたか」
聞き慣れた声とともに現れたのは牧野征士郎だった。
任務帰りらしく戦闘服の上半分を脱ぎ、黒いインナー姿のまま肩へジャケットを引っかけている。
額にはまだ薄く汗が残り、靴の側面には白い粉塵が付着していた。
「任務お疲れ様です」
「違法義肢の摘発で倉庫を3時間ほどね」
「また倉庫ですか」
「最近多いんですよね。犯罪者、倉庫好きすぎません?」
冗談を言いながら近くの椅子を引き寄せ、そこでようやく久世の右腕へ視線を向けた。
本部内部で襲撃を受けながら軽傷で済んだと聞き、安心するより先に、そもそも本部内で襲われたという事実の方が問題ではないかと苦笑する。
久世が骨は折れていないと答えると、牧野はそれを安心の基準にするのはどうなのかと肩をすくめた。
その後、榊から前日の状況を一通り聞くうちに、牧野の表情から徐々に軽さが消えていく。
身元の出ない襲撃者、消えた監視記録、所在不明になった黒いケース。
そして、いまだに特定されていない侵入経路。
牧野は少し考えたあと、背もたれへ身体を預けた。
「外から入ったと思わない方がいいかもしれませんね」
榊が顔を上げる。
第五の地下には本人認証だけでは通れない区画もあり、入退場記録や警備も厳しい。
それらすべてを外部の人間が突破してきたと考えるより、最初から職員や関係者として内部へ潜んでいた可能性を考えた方が自然ではないかと、牧野は続けた。
久世の頭に、前日の二人の姿が浮かぶ。
第五執行部の作業服、迷いのない歩き方。
設備の配置を確認する様子すらなく、まるで以前からそこを知っていたような動き。
「中の構造を知ってた」
久世が呟くと、牧野は静かに頷いた。
「少なくとも、初めて入った人間には見えなかったんじゃないですか」
榊は少し考えた末に、やはり第三へ持ち込むべきだと結論づけた。
「会いに行きましょう、東条亮介に」
牧野の顔に分かりやすく嫌そうな表情が浮かぶ。
「牧野さん、知ってるんですか?」
「直接仕事をしたことはないけど、有名なんだよね、主に悪い意味で」
「そんな変わってるの?」
「会えば分かりますよ」
*
第三執行部のフロアは、第四とも第五ともまるで空気が違っていた。
エレベーターを降りた先には巨大な一室が広がり、低い仕切りの間を無数の半透明ディスプレイが浮かんでいる。都市監視網から送られる映像、通信量の変化、企業間の資金移動、無人車両の運行記録、ドローンの航路、犯罪者同士の相関図など、目に見える情報だけでも数えきれないほどのデータが絶えず更新されていた。
それほど膨大な情報が流れているにもかかわらず、そこにいる人間たちは驚くほど静かだった。
三人がさらに奥へ進むと、整然と並んだ机の中に、一ヶ所だけ明らかに周囲から浮いた場所が見えてきた。
紙の資料、旧型のタブレット、飲みかけのコーヒー、開いたままの菓子袋、何本ものペン、絡まったケーブル。その雑然とした中心で、一人の男が椅子を大きく倒し、顔の上へ資料を乗せたまま眠っている。
「いました」
榊が足を止めた。
牧野はしばらく男を眺めたあと、本当に生きているのかと小声で言った。
久世が胸の動きを確認し、息はしていると答えた直後、資料の下から声が返ってくる。
「勝手に殺すな」
男は顔から紙をどけると、いかにも面倒そうに身体を起こした。
三十代半ばほどに見える。
長い黒髪は整えることを諦めたように少し乱れ、シャツの第一ボタンは開いたまま、ネクタイもジャケットも身につけていない。
ただ、眠そうだった目だけは三人を見る瞬間に鋭さを帯びた。
「仕事の依頼をお願いしたいです」
「嫌だ」
そのまま椅子へ深く身体を沈めた。
「まだ内容も言ってませんけど」
「仕事なんだろ」
榊が肯定すると、東条はますます面倒そうな顔をした。
その様子を見ていた牧野は、噂以上だと小さく笑う。
「お前ら一体何者なんだ?」
「第四執行部、榊です」
「同じく牧野でーす」
「久世湊」
「知らねーけど、とりあえず話してみろ」
仕事そのものは嫌らしいが、話だけは聞いてくれるらしい。
榊は慣れているのか、それ以上文句も言わず、前日に第五執行部で起きたことを順に説明していった。
湾岸倉庫から回収されたはずの黒いケースが保管記録から消えていたこと。
その確認のため第五へ赴いた直後、本部内の通信が遮断されたこと。
正体不明の二人に襲撃され、一人を捕縛したものの身元が判明していないこと。
そして、施設側の監視映像も監視ログも、襲撃時間帯だけ綺麗に欠落していること。
東条は説明の途中で一度も口を挟まず、渡された端末へ目を落としていた。
「映像はあるのか?」
榊が、施設側の映像は完全に残っておらず、胸部カメラにも戦闘そのものを確認できる記録はほとんどないと説明する。
「じゃあ、あるものは?」
「AOF内部に保存されていたローカルログと、ドローンの通信記録、捕縛した男の装備解析結果、それから自分たちの証言ぐらいです」
「十分」
映像がないことを気にする様子はなかった。
AOFの姿勢情報、衝撃記録、熱源位置の推定値をそれぞれ別の画面へ展開すると、数値を重ねながら久世と榊への聞き取りを始める。
映像として見れば一瞬で理解できる出来事を、東条は数字と証言だけからゆっくり形にしていった。
簡易的な立体図の中に、久世、榊、二人の襲撃者、三機のドローンが少しずつ配置されていく。
追撃、青白い刃、顔付近への攻撃。
一方、榊へ向けられた射出器は、AOF側に残った衝撃記録から見てもかなり高出力だった。
東条はそこまで組み上げると、しばらく画面を眺めた。
「お前を本当に殺すつもりだったのか微妙だな」
久世が顔を上げる。
「確実に殺傷できる手段があったにもかかわらず、それを選んでいない。壁へ叩きつけたあとも至近距離で戦闘を続け、重火器による確実な殺傷を避けているようにも見える。対して榊への攻撃は明確に出力が高かった。相手が二人を同じように扱っていない可能性がある」
そこまで説明されても、その理由までは分からない。
久世の頭に、前日の言葉が戻ってきた。
――まだ、その程度か。
初対面の人間が口にするには、あまりにも妙な言葉だった。
東条は久世の様子には触れず、今度は施設側のログへ画面を切り替える。
「こっちの方が面白い」
「監視記録はどうやら消されてるみたいで」
「いや、消されてない。削除した形跡が存在しない以上、消去されたんじゃなく、そもそも保存処理までデータが到達していない可能性が高い」
東条は監視システムの稼働記録と保存サーバー側の受付履歴を並べ、そこにある不自然さを指で示した。
カメラは正常、表面上、通信も正常、それにもかかわらず保存先だけが該当時間の映像を受け取っておらず、さらにエラーすら返していない。
「監視側には正常な応答だけを返しながら、内部のデータだけを別経路へ流したか、生成処理そのものを迂回させた可能性がある。外から適当に触ってできることじゃない」
その言葉に、牧野が腕を組んだ。
「内部仕様を知っている人間とか?」
「その可能性は高いだろうが、すぐに内部犯と決めつけるのは早い」
現在の職員過去にアクセス権を持っていた人間、システムの設計者。
あるいは、何らかの方法で仕様そのものを手に入れた外部者。
候補はいくつもある。
東条はそこでようやく端末から視線を上げた。
「依頼、請け負ってもらえますか?」
「命令?」
「依頼です」
東条は第四執行部からの依頼というだけで嫌そうな表情を見せる。
命令されることも、指示されることも、締切を設けられることも嫌いらしい。
「どうすれば調べてくれますか?」
「好きにやらせろ」
必要だと思ったところまで自由に調べること、他部署の情報が必要ならアクセスすること、
昔の記録が必要なら過去まで遡ること、途中で面白くなれば、予定以上に掘ることを条件として。
「局内規則と法的権限の範囲を越えることだけは認めることはできないです」
東条は露骨に面倒そうな顔をしたが、それでも拒否はしなかった。
少し離れたところでそのやり取りを見ていた牧野が、久世へ顔を寄せる。
「思ってたより面倒ですね」
「榊が正しかった」
「聞こえてるぞ」
東条の声が飛んできた。
「結局調べてくれるのか?」
その単純な問いに、東条は少し笑った。
「やるよ。理由は、面白そうだから」
その一言で、東条は正式に調査へ加わることになった。
*
三人が第三執行部を去ったあとも、東条は席を立たなかった。
窓のないフロアでは、外が昼なのか夜なのかさえ分かりづらい。
周囲の職員が一人、また一人と帰っていくことで、ようやく一日の終わりが近づいていることが分かる程度だった。
それでも東条の机だけには、いくつもの画面が残っている。
第五執行部の搬入記録、黒いケースに割り当てられた仮管理番号、本部監視システムの保存経路、捕縛された男の生体情報、そして久世のAOFに残されたローカルログ。
映像はない。
だからこそ東条は、記録されていないものそのものではなく、その周囲に残された歪みを見ていた。
情報というものは、消せば完全になくなるわけではない。
何かを隠せば、そのために別の場所が不自然になる。
道を塞げば、流れは別の方向へ変わる。
誰かが痕跡を残さないために動いたなら、その努力自体が新しい痕跡になる。
東条が得意としているのは、そういうものを拾い集めることだった。
現在のデータベースから何も出ないと分かると、黒いケースに付与されていた仮管理番号を過去の分類体系へ遡らせる。
十年前、十五年前、二十年前。
検索範囲を広げていくうちに、一つだけ処理が止まった。
東条の指も止まる。
画面には短い文字が表示されていた。
《ARCHIVE ACCESS DENIED》
第三執行部の権限でも閲覧できない資料は存在するため、それだけなら特別珍しいことではない。
国家機密、他省庁との共同案件、外交・防衛関連記録。
問題は、そこへ繋がった入口が、昨日まで単なる広域窃盗事件の押収物として扱われていた黒いケースの仮管理番号だったことだった。
東条はアクセス権限の詳細を開く。
《CLEARANCE LEVEL:EXECUTIVE》
上層部権限。
その表示を見た瞬間、眠たげだった東条の目から完全に眠気が消えた。
「……へえ」
ケースの記録を第五の誰かが消したのか。
それとも、そもそも第五の人間には触れられない領域に紐づいたものだったのか。
まだ何も分からない。
だからこそ面白い。
東条は椅子へ深く座り直し、アクセス拒否の文字をしばらく眺めたあと、今度は直接資料を開こうとはせず、その記録へ誰が、いつ、どこから触れたのかを辿り始めた。
第三執行部の片隅で、久世たちの知らない調査が静かに動き出していた。




