♯2 存在しない回収物
執行局本部の朝は、街より少しだけ早く始まる。
まだ通勤者の群れが駅の地下を満たしきる前から、巨大な庁舎の内部では無人搬送機が床を滑り、夜間に回収された押収品が地下へ運ばれていく。破損した武装ドローン、企業ロゴを削り取られた強化義肢、黒い樹脂製のケースに封じられた演算端末、そのどれもが外の世界では事件と呼ばれたものの残骸だった。
久世湊はその流れとは反対に、第四執行部のフロアを歩いていた。
昨夜の雨は上がっていたが、窓の向こうにはまだ薄い雲が残り、灰色の街をさらに色のないものにしている。遠くの高架を無人列車が横切り、その影が庁舎のガラスを一瞬だけ暗くした。
「右腕、出してください」
技術区画へ入るなり榊美月に言われ、久世は上着を脱いだ。
「昨日もやった」
「昨日使ったから今日もやるんです」
「壊れてない」
「それを判断するのが私です」
久世はそれ以上何も言わず、椅子へ腰を下ろした。
机の上には昨夜使用したAOFの腕部ユニットが分解されており、黒い装甲板の隙間から細い光学配線が覗いている。榊はその一つ一つを端末へ接続しながら、表示される数値を目で追っていた。久世が右腕を差し出すと、榊は手首に薄い検査帯を巻きつける。
「神経反応、正常。筋出力も問題なし……肩は?」
「平気」
「昨日もそう言ってました」
「昨日も平気だった」
「そのわりに殴られてましたけど」
「避けきれなかった」
「普通はもう少し悔しがりません?」
久世は少し考えた。
「次は避ける」
「そういう意味じゃないんですけどね」
榊は小さく息を吐いて端末の画面を切り替え、昨夜の作戦記録を呼び出した。
潜入開始から電子錠の解除、サーバーの確認、敵性反応、戦闘、そして離脱まで、一連の行動が青い線となって時系列に並んでいる。
その流れを追っていた榊の視線が、途中にぽっかりと穿たれた不自然な空白で止まり、それに合わせるように画面をなぞっていた指先も静かに動きを止めた。
「……あれ」
久世は顔だけ向けた。
「何」
「昨日のログ、ここだけ抜けてます」
「どこ」
「事務区画を出る直前です」
榊はその空白を指先で拡大した。
欠落しているのは、時刻にして三秒にも満たない。
しかしAOFは稼働中、映像や熱源、周囲の電波、使用電力、神経同期率、姿勢制御に至るまで、あらゆる環境情報を絶えず記録し、それらを1つの時間軸へ重ねて残すよう設計されているにもかかわらず、その三秒間だけは何の記録も残されていない。画面の一部だけが切り抜かれたように白く抜け落ちていた。
「故障?」
「故障なら故障の記録が残ります」
「じゃあなんで?」
「分かりません」
久世はそれ以上聞かなかった。
榊が画面から顔を上げる。
「気にならないんですか?」
「何が」
「昨日の箱ですよ」
「第五が回収したんでしょ」
「そう聞いてます」
「なら第五が調べる」
「まあ、そうですけど」
榊は端末を操作し、昨夜の回収記録を呼び出した。
湾岸物流区画、第七倉庫。回収物七点。
不正改造ドローン二機、軍用センサー、暗号化端末、違法武器部品、特殊バッテリー、未登録機材。
「……未登録機材」
榊が呟く。
「それじゃない?」
「たぶんそうです」
項目を開く。
そこでまた、榊の指が止まった。
「変ですね」
「また?」
「回収済みになってるのに、保管先がありません」
通常、第五執行部へ運ばれた物品には必ず管理番号が発行される。
どの保管区画にあり、誰が担当し、危険度がどの段階に分類されたのか、それらがすべて記録される。
その欄が空白だった。
久世は画面を見た。
「入力忘れ?」
「第五で?」
「人間がやってるならある」
「久世さん、第五の人に聞かれたら怒られますよ」
「榊が言わなければいい」
「そういうところ、妙に現実的ですよね」
そう言いながらも、榊はすでに別の画面を開いていた。
「午後、第五に行きます」
「どうぞ」
「久世さんも」
「なんで?」
「発見者だからです」
「映像あるでしょ」
「ログが欠けてるんですよ」
「胸部カメラ」
「そこもちょうど三秒抜けてます」
久世は黙った。
榊はその沈黙を了承と解釈したらしく、端末を閉じる。
第五執行部は、地上から離れるほど広くなる。
一般的な建物なら地下へ降りるほど狭くなるはずだが、執行局本部は逆だった。
地上には行政機能や捜査部門が集まり、地下には回収物を運び込むための搬入口、隔離設備、解析区画が幾層にも渡って広がっている。
エレベーターの階数表示が、B4を越える。
「まだ下?」
「第五の一般保管区はB6です」
「一般で六階」
「危険物はもっと下ですよ」
榊は慣れた様子で答えた。
「第五って、何でも持ってくるんだな」
「第四が現場から持って帰りたくないものを全部押しつける場所です」
「言い方」
「危険物、違法兵器、未登録AI、生体試料、未知の演算装置……触りたくないでしょう?」
「榊は触るでしょ」
「仕事なら」
「じゃあ第五向き」
「転属させようとしてます?」
「別に」
扉が静かに開くと、それまでエレベーターの中に滞留していた無機質な空気が途切れ、その向こうから冷たく乾いた空気が流れ込んできた。
たった一枚の扉を隔てただけなのに、久世にはそこから先がまるで別の場所へ切り替わったように感じられた。
第四執行部のフロアには人の声や端末の電子音が絶えずあるが、第五にはそれが少ない。代わりに低い空調音と、床下を走る搬送機構の振動が空間全体に染みついている。
白い廊下の両側には厚い透明隔壁が続き、その向こうに様々な押収物が並んでいた。
焼け焦げた人型ドローン、肘から先だけの強化義肢、破砕された球形AIコア、黒い液体に満たされた円筒容器。
久世は歩きながら、それらへ視線を向ける。
「珍しいです?」
「少し」
「そのうち見慣れますよ」
「見慣れたくないものもある」
「それは同感です」
保管管理室には、五十代ほどの男が一人いた。
榊が職員証を読み取らせる。
「第四執行部、榊です。昨日の湾岸物流区画の回収物を確認したいんですが」
男は端末を操作した。
「管理番号は?」
榊が表示する。
男はしばらく画面を見たあと、眉を寄せた。
「……これか」
「黒いケースです」
「黒い?」
「工具箱くらいの大きさで、表面にNULLと」
男の指が画面の上で一瞬だけ止まり、そのわずかな間を久世は見逃さなかったものの、男は何事もなかったように視線を端末へ戻した。
「その物品、ありませんね」
「回収済みになってます」
「記録上は」
「記録上は?」
男が椅子を少し引き、別のデータベースを開く。
「昨日、第七倉庫には第五の回収班が入ってる。七点回収。そのうち六点はここにある」
「残り1つは?」
「搬入履歴がない」
榊の声から軽さが消えた。
「回収したのに?」
「そういうことになる」
「担当者は誰です?」
「……それも出ない」
男は画面を何度か切り替えた。
「妙だな」
久世は横から覗き込む。
「現場にはあった」
「見たのか?」
「はい」
「触った?」
「いいえ」
「ならよかった」
男の返事が妙に早かった。
久世は目を上げた。
「何が?」
「いや、未登録品だろ。変なものは触らない方がいい」
理屈としては何もおかしくないはずだった。
それでも胸の奥には小さな違和感が残り、榊も同じものを感じ取ったのか男へ視線を向けていたが、結局それ以上言葉を重ねることはなかった。
「分かりました。また何か分かったら第四へ連絡ください」
「ああ」
二人は管理室を出た。
扉が閉まってから、榊が小さく言う。
「絶対なんか知ってましたよね」
「多分」
「珍しい」
「何が」
「久世さんが同意した」
「見れば分かる」
「じゃあ気になってきました?」
「別に」
「そこは変わらないんですね」
久世は答えず、エレベーターへ向かった。
その途中だった。
廊下の照明が、一度だけ消えた。
暗闇は一秒にも満たなかった。
再点灯したとき、久世は足を止めていた。
「榊」
「はい」
「通信」
榊が端末を見る。
表情が変わる。
「切れてます」
「本部内で?」
「この区画だけです」
壁際を走っていた搬送カートが静かに停止する。
空調音まで消えた。
それまで背景として聞こえていた機械の気配が一斉に途絶え、地下の空間だけが建物から切り離されたような静けさに沈んだ。
久世の視界に警告が出る。
《NETWORK LOST》
その直後、通路の向こうから二人の人影が現れた。
どちらも第五執行部の黒い作業服を身につけており、遠目にはごく普通の職員にしか見えなかったが、久世はその姿を認めた瞬間、足を止めたまま動かなかった。
「知り合いですか?」
榊が小声で聞く。
「違う」
「なんで分かるんです?」
「歩き方」
二人ともこちらを見ている。
迷いがない。
右側の男が袖へ手を入れた。
「榊」
「はい」
「下がって」
乾いた金属音とともに、男の腕から細い棒状の装置が滑り出し、その先端を青白い光がなぞるように走った。
ほとんど同時に、もう一人の男が掌を開くと、そこから三機の小型機が静かに浮かび上がり、その異様な光景に榊が思わず息を呑んだ。
「戦闘ドローン……」
三機の小型機がほとんど同時に展開し、機体底部から細い照準光が通路をなぞるように伸びる。
それを見た久世は迷わずAOFを起動し、次の瞬間には身体の輪郭が周囲の壁面へ溶け込むように薄れていった。
「七秒ください」
「何するの?」
「一機盗ります」
「そんなことできるの?」
榊の得意分野は、電子制御された機器への侵入と掌握だった。
一般的な意味でのハッキングとは少し違い、執行局が使用する専用端末と自身の解析能力を組み合わせ、通信規格や認証方式をその場で読み取り、相手の制御系へ強引に割り込む。
完全に支配するには時間がかかるが、ドローン一機の識別信号を書き換える程度なら、榊にとっては数秒で足りる。
榊は壁際へ身を寄せると素早く端末を開き、その視線の先で一機目のドローンが迷いなく久世へ進路を変えた。
AOFによって姿は完全に周囲へ溶けているはずなのに、その機体だけは彼の位置を正確に捉えている。
《ACTIVE SCAN DETECTED》
「昨日と同じ、ばれてる」
「AOF対策してます!」
乾いた発射音が響くき、久世は反射的に身を沈めた。
細い閃光が頭上を掠め、背後の壁を焼いて黒い痕を残す間にも、二機目は回り込むように側面へ移動し、残る三機目は標的を榊へ切り替えて一直線に向かっていった。
「榊!」
「あと三秒!」
久世は床を蹴ると、AOFで姿を消したまま一気に距離を詰め、榊へ向かうドローンの進路へ腕を差し入れて機体を横から叩き落とした。
だが、その動きを待っていたかのように青白い刃が目の前を薙ぎ、久世が反射的に上体を反らすと、頬すれすれを熱が抜けていく。
すでに男は懐まで踏み込んでおり、その速さに久世が腕を取ろうとした瞬間、逆に手首を掴まれた。
「――」
視界が回る。
背中から壁へ叩きつけられ、肺から空気が抜けた。
《AOF STABILITY 79%》
男が見下ろす。
「まだ、その程度か」
久世の目が動いた。
「……何?」
男は答えず、刃を振り下ろす。
久世が横へ転がる。
「取った!」
榊の声が響くと同時に、空中を飛んでいた一機のドローンが不意に急停止し、そのまま機体を百八十度反転させて、つい先ほどまで味方だった二機へ照準を向けた。
次の瞬間、鋭い光が一直線に走り、一機を撃ち落とす一方、もう一機は間一髪で軌道を変えてその射線から逃れた。
「久世さん!」
「見えてる」
久世は床へ手をつき、その勢いのまま立ち上がるとAOFの出力を一段引き上げた。
揺らいでいた輪郭は周囲の壁と床の色へ溶け込むように薄れ、次の瞬間には彼の姿そのものが通路から抜け落ちる。
男もすぐにセンサーを構えたが、反応はわずかに遅れた。
久世は正面から距離を詰めず、壁際へ身体を滑らせるように回り込み、そのまま相手の視界から外れる。
センサーが空間を探るように左右へ振られたときには、すでに久世は死角へ入り込んでいた。
男が気配を察して振り向く。
だが遅い。
久世は青白い刃を持つ腕を横から掴み、肘の関節を外へ捻りながら重心を崩した。
男の身体が前のめりに傾いたところへ足を差し込み、そのまま床へ落とすと、衝撃と同時に棒状の装置が手から離れ、先端に灯っていた青白い光も音もなく消えていった。
久世は逃がさないよう背後へ回り、腕を取って拘束に移ろうとする。
その瞬間、視界の端で影が動いた。
もう一人。
男は久世へ向かっていなかった。
その身体の向きも、伸びた腕の先も、すべて榊へ向いている。
久世がそれを理解したときには、もう考える時間はなかった。
身体だけが先に動いていた。
「榊!」
男の手元で短い射出器が展開され、その先端が迷いなく榊へ向いた。久世は考えるより早く二人の間へ身体を滑り込ませ、右腕を盾のように差し出す。
次の瞬間、AOF腕部の防護層が反応して薄い光膜を広げたが、直後に叩きつけられた衝撃は想像以上に重く、視界が一瞬白く弾けた。
腕の奥まで痺れが走り、指先の感覚が遅れて戻ってくる。
「久世さん!」
「平気」
「平気な音じゃなかったです!」
榊は端末を床へ叩くように置き、両手で操作する。
「照明落とします」
「見えなくなる」
「あなたは見えるでしょう」
その瞬間、通路を満たしていた光が一斉に落ち、非常灯さえ消えたことで周囲は完全な闇に沈んだ。
敵が突然奪われた視界に戸惑い、動きを止めたその一瞬、久世の視界だけは別だった。
AOFの暗視補助が壁や床の輪郭を淡く描き出し、その中で人の体温だけが白く浮かび上がる。
久世は迷わず一歩踏み込んだ。
次の瞬間、暗闇の中で鈍い衝撃音が響き、少し遅れて誰かの身体が床へ崩れ落ちる音が続いた。
やがて榊が非常灯を復旧させると、青白い光が通路へ戻り、その足元には一人の男がうつ伏せに倒れていた。
だが、もう一人の姿はどこにもなかった。
「逃げた?」
「多分」
「追います?」
久世は倒れている男と榊を交互に見た。
「追わない」
「なんでです?」
「榊がいる」
榊が一瞬黙った。
「……それ、どういう意味ですか」
「置いていけない」
「そういうの急に言うのやめてもらえます?」
「何が?」
「もういいです」
久世がわずかに首を傾げた、その直後だった。遅れていた警報がようやく施設全体に響き渡り、途切れていた通信も一斉に復旧する。
通路の奥からは複数の足音が重なりながら近づいてきており、榊は端末を握ったまま、床に倒れている男の顔へ静かに視線を落とした。
「誰なんでしょう」
久世は何も答えず、ただ先ほど男が口にした言葉だけを頭の中で反芻していた。
――まだ、その程度か。
初めて会った人間に向けるには、妙に含みのある言葉だった。
まるで今の久世だけでなく、それ以前の何かまで知っているような響きが残っていたが、どれだけ記憶を辿ってみても、倒れている男の顔に覚えはなかった。
十分後。
第五執行部の警備班が通路を封鎖し、倒れていた男はその場で拘束された。
指紋、網膜、顔認証、皮下ID――確認できるものは一通り照合されたが、どの記録にも該当せず、身元を示す所持品もひとつとして見つからなかった。
「幽霊みたいですね」
榊が端末を見ながら呟く。
「幽霊は攻撃しない」
「そこですか」
そのとき、通路の奥から御堂彰子が早足でこちらへ向かってきた。現場へ到着すると、まず榊と久世を順に見て、怪我の有無だけを確認する。
「二人とも、怪我は?」
「私はありません」
「久世は?」
「腕が少し」
「医務室へ行け」
「平気です」
「命令だ、バカタレ」
「はい」
御堂はそこで初めて、警備班に囲まれて床へ座らされている男へ視線を向けた。けれど、その表情に動揺や見覚えのある素振りはなく、むしろ状況を把握しようとするように目を細める。
「身元は?」
警備員が首を横に振った。
「該当なしです。偽装もかなり手が込んでいます」
「侵入経路は」
「確認中です」
御堂は短く頷いた。
「本部内でこれだけの侵入を許したなら、第五だけの問題じゃない。この男の身元照会は最優先。第五の搬入記録と監視ログも全部洗って。改ざん痕があれば、その時点で私に上げろ」
「了解」
指示が飛び、周囲が慌ただしく動き始める。
榊が小さな声で久世へ言う。
「気にならないんじゃなかったんですか」
久世は御堂の背中を見たまま答えた。
「箱はどうでもいい。あいつが俺を知ってた」
そう言い残して久世が医務室へ向かって歩き出すと、榊も少し遅れてその背中を追った。
地下の廊下にはすでにいつもの機械音が戻り、何事もなかったかのように搬送カートが行き交い、停止していた空調も低い唸りを響かせながら再び動き始めていた。
けれど、久世の目にはもう、その廊下が先ほどまでと同じ場所には見えなかった。
何事もなかったように動き出した機械や、規則正しく流れる搬送カートの向こう側で、自分たちの知らない何かが静かに動いているように思えた。
久世は足を止めることなく、その違和感だけを胸の奥に沈めたまま、榊とともに長い地下通路を歩いていった。




