♯1 雨上がりの亡霊
雨上がりの夜は、街の輪郭を少しだけ曖昧にしていた。
濡れた道路には無人車両のライトが長く伸び、
頭上を走る高架軌道の影が、その光をところどころで寸断している。
湾岸部特有の湿った風が、巨大な物流施設の並ぶ一帯を静かに抜けていた。
久世湊は、灰色の大型車両の中で黙って右手を握り、また開いた。
「またやってますね」
向かい側に座る女性が、手元の端末から顔を上げる。
「緊張すると右手を握る癖」
呆れた顔でぼそっと呟く彼女の名は榊美月。
榊は特殊公安執行局第四執行部の技術担当で、主に久世の装備を管理している。
肩のあたりで切り揃えられた黒髪と細身の体格のせいか、一見すれば現場要員には見えない。
特殊公安執行局(Special Public Enforcement Agency)とは、近未来になり、犯罪が従来の警察だけでは処理しきれないほど高度化したことで設立された国家機関。
対象になるのは、単なる殺人や窃盗ではなく、高度AIを利用した犯罪、武装ドローン犯罪、企業による違法武装特殊義肢や強化装備を使った犯罪、国家機密技術の流出や通常警察では対応困難な特殊犯罪などが該当する。
性質としては、警察・公安・特殊部隊・サイバー犯罪対策組織の一部を統合したような機関だ。
久世達が所属する第四執行部は、第一部や第二部が犯罪者を調査し、第三部が情報を集めたあと、最終的に現場へ出るのが第四執行部となる。
具体的には、潜入捜査、武装犯制圧、人質救出、危険人物確保、違法研究施設への突入、テロ現場への介入、重要人物護衛、特殊装備使用者への対処などを担当。
つまり、執行局の「手足」である。
「心拍数百二」
榊に揶揄われながらも、無言で抵抗する久世を見かねて、運転席から笑い声が起きる。
「第四に入って一年で現場に出られるってだけで凄いんですから、無理もないでしょう」
彼は、牧野征士郎。第四執行部の制圧要員を担当している。
大柄な体格と広い肩幅のせいで、武装すると周囲の人間より1回り大きく見える。
その外見に反して性格は軽く、緊張するほどよく喋る男だ。
「心拍数百十」
苦笑いをする横目で、久世は初出勤の緊張からか虚ろに窓の外をじっと眺めていた。
その時、車内に設置されているモニターが光った。
「まもなく到着する。任務を再確認する」
モニターからは威厳のある女性の声が響き、今までの和やかな空気は消え失せる。
彼女は御堂彰子。第四執行部第一班の班長で、久世たちの直属の上司にあたる。
現場の指揮は彼女が行う。
「対象は広域窃盗グループ。盗難車両の解体、不正改造ドローンの売買、それから一部軍用品の横流しに関与している可能性がある。警察が必要としているのは取引記録の保管場所だ。ただし通常の捜索をかければ、証拠を消される可能性が高い」
淡々と説明が続けられ、途中に牧野が相槌を打ったり、榊が補足を行う。
「今回、久世が第四に正式に加入し、実践任務は初となる、バックアップは十分にな。久世、何か意気込みとかはあるか?」
首を横に振る仕草で、返答する。
「AOFの性能確認も行いたいからな、データは多い方がいい」
AOF(Adaptive Optical Field)、執行局がテスト段階として作成した多機能隠密装備だ。
ただ、誰にでも扱える訳ではなく、適合率が五十%以上と診断された者でしかその効果を存分に発揮することはできない。
戦闘服表面に埋め込まれた微細な光学素子が周囲の風景を読み取り、
久世の身体を背景へ溶け込ませる。
さらに体表温度を周囲へ分散し、赤外線探知に対しても一定の隠蔽効果を持つ。
歩行音を抑えるための衝撃吸収機構。
呼吸音を外へ漏らしにくくする首元の吸音構造。
監視カメラや簡易LiDARに対して、自身の輪郭を検出しにくくする反射制御。
それらをまとめてAOFと呼ぶ。
「腕を」
榊に言われ、久世が右腕を上げる。袖の接続部が閉じられる。
「神経同期、開始します」
AOFは装備単体で動いているわけではない。
着用者の筋肉や神経から出る微弱な電気信号を読み取り、次の動きを予測する。
久世が腕を動かしてから迷彩を変化させるのでは遅い。
動こうとした時点で、AOF側が先に身体表面の映像を更新する。
その適合率が、久世は異常に高かった。
「同期率九十八・四」
牧野が横から覗き込む。
「俺が着ても使えるんすか?」
「使えますよ」
「じゃあ俺も透明に」
「歩いた瞬間バレると思います」
「ひどい」
「久世さんが特殊なんです」
「今回は屋内なのでかなり安定します。普通に歩くくらいなら九十以上を維持できるはずです」
「走った場合は?」
「久世さんなら八十五前後。数秒なら問題ありません」
「赤外線は?」
「熱抑制も正常。軍用品クラスのセンサーでじっくり探されたら別ですが、民生品ならまず大丈夫です」
榊が続ける。
「近距離で長時間見られれば違和感は出ます。それと物理的に触られれば当然終わりです。匂いも消せません」
「分かった」
「あと撃たれたら痛いです」
久世が榊を見る。
「冗談です」
「そう」
「そこ笑うところですよ」
後部扉が開く。
冷たい空気が車内へ入ってきた。
「久世」
御堂が呼ぶ。
「はい」
「今回は本当に確認だけ」
「了解」
「接触した場合」
「離脱します」
「よし。くれぐれも余計なことはするなよ」
久世は一人、歩いていく。
倉庫裏手に人影はなかった。
AOFが周囲の環境を解析し、久世の視界へ情報を重ねる。
温度、音源、カメラ位置、電波、簡易的な建物構造まで表示される。
『右上に監視カメラ』
榊の声。
「確認した」
『そのままでも通れると思います。AOF側で認識妨害をかけます』
久世は歩く。
カメラがこちらを向く。
警告は出ない。
AOFがカメラ映像上の輪郭を曖昧にし、監視AIへ「背景」と認識させていた。
久世はフェンスの前で止まる。
電子ロックがAOF経由で検出され、その情報が榊へ送られる。
『三秒ください』
ロックが外れた。
久世は隙間から中へ入る。
解体途中の車両や部品、ドローン、照明はまばらで視界が悪い。
しかしAOFと連動した視覚補助が暗部を補正しているため、久世には昼間ほどではないにせよ十分見えていた。人間の体温反応。三人、奥に二人、二階に一人。
「三人」
『こちらでも確認しました』
久世はゆっくり進む。
途中、作業服を着た男が出てきた。
距離四メートル。
久世は止まらない。
AOFは歩行程度なら十分な性能を維持する。
三メートル。
男がこちらを見る。
二メートル。
目が合ったように感じる。
だが男の視線は、そのまま久世の向こうへ抜けた。
久世は横を通り過ぎる。
肩が触れそうな距離。
男は気づかない。
『近すぎます』
「通路が狭い」
『止まればよかったでしょう』
「時間がかかる」
『そういうところです』
「何が」
『もういいです』
久世はそれ以上聞かなかった。
奥の事務区画へ進む。
扉は施錠されていたが、AOFの補助システムが電子ロックの型式を解析する。
『旧式ですね。開けます』
数秒後、扉が開く。
中には小型サーバーが並んでいた。
「見つけた」
『位置情報記録。構成データも取得しています』
久世が小型端末を取り付ける。
『終了です』
「戻る」
『はい』
任務はそれだけだった。
誰とも戦わない。
誰にも見つからない。
来た道を戻ろうとしたとき、視界の端に何かが引っかかった。
倉庫の隅。
黒いケース。
周囲の盗難品とは明らかに違う。
傷1つない、表面に製造番号も企業ロゴすらない。
白い文字だけが刻まれている。
【NULL】
「榊」
『はい』
「これ」
胸部カメラを向ける。
『分かりません』
「登録は」
『該当なし』
久世はケースを見る。
大きさは工具箱ほど。
開閉用のロックらしいものもない。
『触らないでください』
「まだ触ってない」
『任務は完了済みです、帰還を』
「了解」
初任務で余計なことはするなと御堂に言われたばかりだということを思い出し、
ケースから目を離して帰路へ向かう。
ここまでの任務は、驚くほど順調だった。
サーバーの位置は確認した。
内部の人数も把握した。
誰にも見つかっていない。
AOFの扱いも、訓練と大きく変わらなかった。
もしかすると初任務というものは、もっと難しいものだと思い込んでいただけなのかもしれない。
そう考えながら事務区画を抜けたところで、視界の端に赤い表示が浮かんだ。
《ACTIVE SIGNAL》
久世は足を止めた。
『久世さん?』
「何かいる」
返事を待つより早く、通路の向こうから男が現れた。
作業服姿だったが、腕に抱えているものだけが明らかに場違いだった。
銃と呼ぶには太く、銃身の周囲には複数の冷却板が走っている。
久世にも見覚えがある。
産業用の衝撃杭打ち機を違法改造した、短距離用の電磁射出兵器。
装甲扉すら撃ち抜く。
『久世さん、動かないで』
榊の声が小さくなる。
AOFは正常、久世の輪郭は背景に溶けている。
男はこちらへ近づいてくるが、久世を見てはいない。
十メートル。
六メートル。
三メートル。
そのまま通り過ぎる――。
男が止まった。
「……誰かいるな」
久世の眉がわずかに動く。
男は目ではなく、腕の兵器に取り付けられた小型センサーを見ていた。
AOFの表示に新しい警告が走る。
《ACTIVE SCAN DETECTED》
『まずいです、簡易レーダーです』
男が銃口を上げる。
直後、背後で空気が破裂した。
振り向く暇もない。
さっきまでいた場所の壁が、内側から爆ぜたように抉れている。
拳銃ならAOFの防護層でもある程度は受けられるがあれは無理だと直感が告げる。
『右!』
榊の声に従い、久世は棚の陰へ滑り込み、
二発目が金属棚を一撃で粉砕し、中身がまとめて床へ散った。
「透明化か!」
久世は返事をしない。
AOFの強み、それは撃ち合うことではない。
相手に、自分がどこにいるのか分からせないことだ。
久世は床に転がった小さな金属片を拾い、反対側の通路へ投げた。
乾いた音が響き、男の銃口がそちらへ向いた。
その一瞬で距離を詰める。
「――っ!」
久世の姿が突然目の前に現れたように見えたのだろう。
男が兵器を振り上げるが、久世は銃身ではなく、その側面にある冷却ユニットを掴んだ。
警告表示。
《HIGH TEMPERATURE》
構わず力任せに捻る。
接続部が外れ、白い蒸気が二人を包みこむように噴き出した。
「何を――」
男が引き金を引くが、何も起こらない。
冷却機構の停止を検知した兵器が、安全装置によって射出を拒否していたのだ。
久世は初めてそこで相手の顔を見た。
そして、一発だけ腹部へ重い拳を入れる。
男が息を詰まらせて身体を折ったところを、そのまま床へ倒し、腕を背中へ回して拘束する。
ほんの数秒だった。
静かになった倉庫の中で、さっき破壊された壁から小さな破片が落ちる音だけがしていた。
『……久世さん』
「うん」
『今の、訓練で教えてないですよ』
久世は男の腕を固定しながら答えた。
「壊れそうなところが見えた」
『そういう問題かな……』
呼吸は思ったより速かった。
手も少し震えている。
久世はそれを見て、ようやく自分が怖かったのだと気づいた。
「これ、当たったら?」
『AOFの防護層でも無理です。たぶん骨ごと持っていかれます』
「そう」
『“そう”じゃないです』
久世は一呼吸置いて立ち上がった。
そのとき、視界に新たな熱源が2つ表示された。
奥の通路から走ってくる。
『増援です』
「見えてる」
久世は一瞬だけ考え、それから倒れている男の兵器を見た。
AOFを再び最大出力へ戻し、身体の輪郭が薄れていく。
『戦わないんですか?』
「任務は終わってる」
久世はそう言って、走ってくる二人とすれ違った。
二人は倒れている仲間と壊れた壁に気を取られ、久世の存在には気づかない。
「何があった!」
「誰にやられた!」
その声を背中で聞きながら、久世は歩調を上げた。
搬入口の向こうに夜の街が見える。
倉庫の中にこもっていた油と金属の匂いが薄れ、代わりに雨上がりの湿った空気が入り込んできた。
久世はその境目を越えると、足を止めずにそのまま外壁沿いへ進んだ。
『そのまま右へ。車両まで百二十メートルです』
榊の声が耳元に落ちる。
「了解」
短く返し、久世は視界の隅に浮かぶ誘導線を追った。
遠くに灰色の車両が見えてくる。
その周囲には警戒中の警察車両が並び、赤色灯が濡れた地面をゆっくりと染めていた。
久世が近づくと、車両の後部扉が開いた。
先に顔を出したのは牧野だった。
「お、帰ってきた」
そう言ってから、久世の姿を見て眉を上げる。
「……なんか汚れてません?」
久世は自分の肩を見る。
先ほどコンテナへぶつかった際についた灰色の粉塵が、黒い装備の一部に残っていた。
「少し」
「少しっていうか、初任務でちゃんと戦闘してきた人の見た目ですよ、それ」
久世は答えず、車内へ入る。
「無視?」
「何て返せばいいか分からない」
「そこ正直に言うんですね」
牧野が笑う横で、榊がすぐに立ち上がった。
「座ってください」
「大丈夫」
「そういうのいいんで」
久世が言われるまま腰を下ろすと、榊はAOFの状態を確認しながら肩や腕を軽く触っていく。
「損傷は軽微……関節異常なし、熱負荷も問題なし」
榊の診断表示が一通り正常範囲に収まったのを確認してから、御堂は喋りだした。
「怖かったか?」
突然の質問に、久世は少しだけ間を置いた。
「……はい」
御堂はそれ以上何も聞かず、短く頷いた。
「ならいい」
牧野が横で目を細める。
「それ褒めてるんですか?」
「怖さを感じない人間は、判断を誤る」
御堂は久世へ視線を戻した。
「それと、無理に戦わなかったのは正解だ」
「はい」
「戻る判断ができた。それで十分」
その言葉を聞いて、久世の肩から少しだけ力が抜けた。
そこで榊が端末を見ながら口を開く。
「あと、ひとつ報告があります」
御堂が視線を向ける。
「何だ?」
「事務区画の奥で、登録のないケースを見つけました」
久世も顔を上げる。
「黒い箱です」
「特徴は?」
「表面に文字がありました」
「NULLという文字です」
「位置は記録してるか?」
「はい」
榊が答える。
「念のため第五執行部に回す。」
その声色は、どこかいつもの御堂とは違うように聞こえたが、久世はそれ以上聞かなかった。
聞こうとしても、たぶん答えない。
なんとなく、そう思った。
車両がゆっくりと動き出す。
窓代わりのモニターの中で、倉庫が少しずつ遠ざかっていく。
久世は黙ってその光景を見ていた。
彼の初任務は終わった。
*
倉庫の向かいにある廃ビル、その暗い一室から、ひとりの女が双眼鏡を下ろす。
「思ったより普通だったね」
「それでいい」
女が振り返る。
「何が?」
男は窓の外へ視線を向けた。
遠く、久世たちの乗った車両が夜の街へ溶けていく。
「まだ、普通でいてもらわないと困る」
女は少しだけ笑った。
「いつまで?」
男はすぐには答えなかった。
やがて車両が完全に見えなくなった頃、静かに口を開く。
「彼が、自分で気づくまでだ」
一部修正あり。




