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特殊公安執行局  作者: the 春


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48/49

#48 雷鳴の番人

 背後の隔壁が降り切るまで、十秒とかからなかった。


 最後の隙間から流れ込んだ風が牧野の上着を揺らし、次いで、鋼鉄の重なる鈍い音が通路の底へ沈んだ。退路を断たれた四人の前で、轟は手袋の指を一本ずつ確かめていた。焦る素振りはない。久世湊を抱える牧野にとっては、その落ち着きのほうが脅し文句よりも厄介だった。


「久我さん。あの男、動かせないんすか」


「荷重はかかっているわ。だけど、まだ踏ん張れるらしい」


 久我静の足元には《BASTION》の淡い境界が延びている。

 領域内の対象へ下向きの荷重を加える《GRAVITAS》によって、轟の右足には本来の体重を上回る重さが課されていた。にもかかわらず、男は膝を折らず、足裏の下で床材が小さく鳴るのを聞いている。


「久世さんを渡すつもりはありません」


 榊美月が言った。牧野の腕に預けられた久世の頭を支えたまま、声だけははっきりしていた。


「そうか」


 轟は短く返し、右の手袋を引いた。


 露わになった手の甲を、細い光が走った。


 青白い糸が指の関節を渡り、爪先で一瞬、丸く膨らむ。

 雨の降り始めに遠くの空が明るくなる、あの予兆だけが掌の上へ切り取られていた。

 光は消えず、轟が手を開くにつれて枝を増やした。


「榊さん、下がって!」


 久我の声より早く、轟の指先から閃光が迸った。


 狙われたのは久我ではなかった。

 通路の側壁を走る金属製の手すりである。

 白い筋が手すりを駆け、角を曲がり、牧野のすぐ横に設けられた搬送用の台車へ飛び移った。


 耳の奥を爪で引っかかれたような音がした。


「うわっ!」


 牧野は反射的に身体をひねった。

 久世を落とさないよう抱え直したため、避ける距離はわずかだったが、榊が台車を蹴って間へ押し出した。台車の脚に稲妻がまとわりつき、車輪のゴムが焦げた匂いを吐く。


 榊は久世の頭を守るように腕をかぶせた。


「触らないでください! まだ電気が残っているかもしれません!」


 台車が横倒しになった。

 天井の照明が一列消え、残った白い灯が四人の影を長く引き伸ばす。


 久我は手を返した。

 轟の右足に加えていた荷重を解き、今度はその左腕を捕捉する。

 上がりかけた指先が落ち、男の肩がわずかに傾いた。


 轟は初めて久我の顔を見た。


「動かす相手を変えられるのか」


「だったらどうなんだ」


「ふむ......」


 男の唇に笑みが浮かぶことはなかった。

 代わりに、押し下げられた左手を膝に当て、右手で壁を叩いた。


 ばち、と乾いた音がした。


 壁の表面を細い火が走る。

 保護板の継ぎ目から火花が漏れ、通路の足元に並ぶ誘導灯が一斉に点いた。

 電流は一度そこで途切れたかに見えたが、床下の配線を伝って奥の扉へ回り込み、閉じた鋼板を内側から青く照らした。


 扉の取っ手が白熱する。


「そんな……」


 榊は端末へ視線を落とした。

 搬送路の図面に、遮断されたはずの設備回線が次々と復帰している。

 負荷警告が赤い帯となって広がり、画面の片隅で残り電力の表示が激しく上下した。


「施設の電源を使ってるんですか」


「一部はな」


 轟が答えた。


「ここの壁は雷を逃がすようにできている。人を守るための仕組みが、俺には都合がいい」


 天井から細かな塵が落ちた。

 榊は後ろの隔壁を見た。開閉機構は沈黙したままだ。

 右の壁に保守用の扉があるが、その前には金属の柵が取りつけられ、ここからは鍵穴さえ見えない。


「牧野さん、久世さんを壁際へ。床の金属線を踏まないようにしてください」


「了解っす。でも榊さんは?」


「このままじゃ、どこにいても危ないです。電気の通る場所を確認します」


 霧島霞が黙って榊の横へ膝をついた。

 通路の床には、搬送設備のために埋め込まれた二本のレールが伸びている。

 霧島はその間の、塗料が剥げかけた部分を指さした。


「そこは避けて。表面は樹脂だけど、継ぎ目の下が金属板になってる」


「分かるんですか?」


「さっきの放電で、どこから火花が出たか見えたでしょう」


 霧島は顔を上げずに答えた。

 説明としては間違っていない。

 けれど榊には、彼女が火花より先に床の継ぎ目を見ていたようにも思えた。


 轟が一歩進んだ。


 久我の指が下がる。

 男の右膝へ荷重がかかり、靴裏が床を強く押した。

 踏み込む速さは失われる。久我は左側へ移動し、轟と牧野の間へ身体を入れた。


「今のうちに、あの扉へ」


「久我さん一人じゃ――」


「一人で倒すとは言っていない。通る時間を作るの」


 牧野が頷き、久世を抱え直した。

 その横で榊が端末から細いケーブルを伸ばし、保守扉の近くにある操作口へつなごうとする。


 轟はそれを見ていた。

 彼は右手を上げなかった。

 ただ、下ろした手の親指を人差し指に触れさせる。

 床のレールが鳴った。


 音は車輪の軋みと似ていたが、もっと短く、鋭かった。

 牧野が足を引くより早く、レールの継ぎ目から青い火花が跳ねた。

 榊は端末のケーブルを放り、霧島の肩を掴んで床へ倒れ込む。


 稲妻が二人のすぐ上を横切り、保守扉の金属枠へ吸い込まれた。

 音もなく扉の操作盤が破裂し、透明な蓋が天井まで跳ね上がった。


 榊の頬に小さな切り傷が走る。


「榊さん!」


「大丈夫です。触れてません」


 彼女は起き上がろうとして、霧島が動かないことに気づいた。


「霧島さん?」


「……耳が、少し」


 霧島はこめかみを押さえた。

 近くで弾けた電気の音に平衡感覚を奪われたらしい。

 榊が支えると立てたが、足元はふらついていた。


 轟は久我の荷重を受けたまま、腕をひと振りした。

 手首から飛んだ雷が天井の配管を叩く。金具が裂け、水が細い滝になって落ち始めた。


 通路の中央に水たまりが広がる。


「まずい……」


 久我が顔を上げる。


 男はそれを待っていたように、水の落ちる位置を変えた。

 二度目の放電で配管の別の継ぎ目が裂け、床を横切る水の帯が保守扉の方へ伸びる。


 通路の隅に取り残された牧野たちを、浅い水路が囲んでいく。


 霧島が身を起こした。


「久世を床に置かないで。AOFはまだ神経の補助に接続されている。あれに高い電圧が入ったら、どうなるか分からない」


「言われなくても……!」


 牧野は久世の肩を抱き寄せた。

 腕が痺れるほど力を込めているのに、身体の重さが不意に変わる気がした。

 久世は一度も目を開けず、胸元の表示だけが小さく明滅する。


 《CONSCIOUSNESS/UNRESPONSIVE》


 そんな文字を何度見ても、牧野には納得できなかった。


「何で、ここまでして連れ戻そうとするんすか」


 轟に向けた言葉だった。


「久世さんを実験に使うためっすか。それとも、あんたたちの誰かが欲しいって言ったから?」


 轟は答えるまで少し間を置いた。


「どちらでも、お前のすることは変わらんだろう」


「変わるっすよ」


 牧野の声がかすれた。


「あんたらが何考えてるか分かれば、殴る場所くらい決められる」


 轟は初めて、牧野を真正面から見た。


「いい返事だ。だが、今はその腕を空けられないな」


 雷が走った。


 牧野を狙ったものではない。

 頭上の照明を砕き、落ちた金属片を足元へ散らすための一撃だった。

 牧野は久世をかばいながら肩を丸めた。

 破片が背中と首筋を打ち、制服の布地を裂く。血の温かさが襟へ伝わった。


「牧野!」


 久我が轟への荷重を強める。


 男の身体が下がった。

 膝がほんの少し折れ、靴底の下で床材が欠ける。

 だが、轟はそこで右の拳を開いた。

 指の間に、小さな雷光が幾重にも絡み始める。


 空気が熱を帯び、久我の髪の先がわずかに持ち上がった。


「お前の力は厄介だな」


 轟が言った。


「物を重くするだけなのに、進む道まで変えられる」


「あなたの雷ほど、派手じゃないわ」


「派手で済めばよかったんだが」


 轟の拳から、太い閃光が放たれた。


 久我が捕捉したのは男の右腕だった。

 《GRAVITAS》が肩から肘までの動きを押し下げる。

 雷の軌道が低く逸れ、天井へ向かっていた光が壁の搬送レールを直撃した。


 壁が裂けた。


 鉄の固定具が弾け飛び、そこに繋がっていた配線が一斉に垂れ下がる。

 金属の雨が四人へ降る。榊は霧島をかばい、牧野は久世を抱えて膝をついた。


 久我も腕で顔を覆ったが、左肩を擦った破片に制服を切られた。


 雷の余韻が消えたあと、通路には異様な静けさが残った。

 壊れた送風機が一度だけ咳き込み、それきり止まる。

 足元では水が休むことなく広がり、焦げた樹脂の匂いが喉へまとわりついた。


「……これだけで、こんなに」


 榊の口から漏れたのは、誰に向けたでもない言葉だった。


 霧島が彼女の腕を掴む。


「落ちた線に触れないで。まだ生きてるかもしれない」


「分かっています」


 榊は応え、急いで久世の胸部表示へ端末を向けた。

 AOFの計測値には一時的な乱れがあるものの、意識の欄は変わっていない。

 少なくとも、この場で突然装備を外すことはできなかった。


 久我は轟から目を離さない。


 その足元で、防衛領域の光はまだ消えていなかった。

 だが《BASTION》の内側を走る水は、彼女の意思では止められない。

 荷重は電流を遮る壁にはならず、空気を伝う閃光へ加えても、男の指先を押さえるのと同じ結果にはならない。


 そして、長く同じ対象を捕捉している間に、轟は少しずつ、床に触れている箇所を変えていた。

 男が左足を引く。

 領域の縁が、その踵をかすめる。


 久我は捕捉を維持しようとして掌を開きかけたが、轟はその前に、靴裏を床から離した。

 わずかに身体が浮き、次の瞬間、領域の外側へ着地する。


 荷重が消えた。


「……そういうことね」


 久我は肩で息をした。轟は《BASTION》の広さも、自分がどこまで下がれば自由に動けるかも、交戦のうちに測っていたのだ。


 榊が久我へ目を向ける。


「これ以上、あそこで戦ったら通路がもちません」


「ええ。あの人の狙いも、それかもしれない」


「でも、どうすれば……」


 久我は答えず、足元の水と、崩れかけた搬送レールを見た。

 荷重を加えることができるものは一つだけではない。

 だが、電気を通す金属の塊を無理に動かせば、かえって通電する場所を増やしてしまう。


 離れた場所で、霧島が一度だけ咳き込んだ。

 彼女は榊の携帯端末を覗き込み、地図の隅にある小さな印へ指を置いた。


「この先、昇降機の手前に絶縁用の保守区画があるはずよ。電力設備を切り離すための部屋」


「そこへ入れれば、雷を防げるってことですか」


「防げるとは言わない。でも、今みたいに壁も床も全部あの男の武器になる場所よりはまし」


 榊が図面を拡大する。通路の先、轟の背後に、半ば壊れた灰色の扉が表示されていた。

 そこまでの距離は、十数歩。

 その十数歩が、あまりに遠かった。


「牧野さん」


 榊が呼ぶと、牧野は顔を上げた。首筋に血が滲んでいる。


「久世さんを運べますか」


「運ぶっす」


 答えに迷いはなかった。


「どこまででも」


 久我は小さく頷き、《BASTION》の境界を前へ狭めた。男の動きを封じるためではない。壊れた搬送レールの下で、いまにも外れそうな支持金具を捕捉する。金具へ荷重がかかると、浮いていた先端が床へ押さえつけられ、通路の中央に残った細い足場から退いた。


 榊がその道筋を示した。


「今です!」


 牧野が走り出す。

 轟は退路を見た。そして、右手を持ち上げる。

 白い光が指先に集まった。

 久我は狙いが牧野でないことに気づく。

 轟の視線は、すでに保守区画の扉へ向いていた。


「榊さん、止まって!」


 雷が走る。


 扉の取っ手が吹き飛び、枠から青白い火が噴き出した。

 牧野は足を止めざるを得なかった。

 あと二歩で届くはずだった入口が、燃えた金属の臭いを吐きながら閉ざされる。


 轟はゆっくりと近づいた。


「逃げ道を見つけるのは悪くない。だが、それを俺に見せるのは早すぎる」


 久我は牧野と男の間へ戻った。防衛領域の光が足元で震え、壁に映った彼女の影が二つに分かれる。


「あなた、どうして久世にそこまでこだわるの」


「俺が預かっているからだ」


「誰の命令で?」


 轟の視線が、久我から榊へ、そして霧島へ移った。


 霧島は久世の胸に手を添え、呼吸の乱れがないか確かめていた。

 轟の視線を感じても、すぐには顔を上げない。


「連れ出せると思っているのか」


「少なくとも、ここに置いていく理由はありません」


 轟はしばらく彼女を見つめていたが、やがて短く息を吐いた。


「なら、見せてもらおう」


 手袋の縫い目に沿って、青い光が走り始める。

 今度は指先だけではなかった。

 手首から肘、肩へと細い筋が這い上がり、制服の襟元で幾重にも交差する。

 明かりを失った通路に、男一人の周囲だけ夜明けのような白さが満ちていった。


 榊の端末が、勝手に警告音を鳴らした。


 《HIGH-VOLTAGE DISCHARGE/DETECTED》


 轟は右の手袋を締め直した。


「ここから先は、加減できん」


 久我が掌を開く。

 牧野は久世を抱き、榊は霧島を支えた。壊れた扉の奥からは、まだ細い煙が漂っている。


 そのとき、霧島が久我の横へ出た。


「久我さん。お願いがあるの」


 彼女は雷を帯びる轟ではなく、久我の領域の端を見ていた。


「次にあの男が放電したら、私の言う場所へ荷重をかけて。床じゃなく、あの天井の支持具に」


「……何をするつもり?」


「この施設が用意した道を、使わせない」


 頭上では、裂けた配管から落ちる水が、絶え間なく床を叩いていた。

 響きの異なる雫が重なり、崩れた通路に不揃いな拍子を刻んでいる。


 久我は霧島の指した先を見た。


 轟が肩を回した。雷の音に紛れて、天井の古い固定具が小さく軋む。


「いいだろう」


 久我は低く答えた。


 《BASTION》の境界が、もう一度だけ明るくなった。


 白い稲妻が、四人を照らした。


 轟の右手が動く。

 榊は久世を抱えた牧野の背に腕を回し、霧島が示した天井の支持具を見上げた。

 久我の掌が閉じかけた、そのときだった。


 轟の左手側にある、配線の束が這う壁の向こうから、重たい衝突音がした。


 雷の唸りに紛れるには、あまりに不格好な音だった。

 轟がわずかに顔を向ける。

 二度目の衝撃で壁の継ぎ目が浮き、三度目には外装板が固定枠ごと吹き飛んだ。

 砕けた建材が通路へ雪崩れ込み、粉塵の中から一人の男が、つんのめるように現れる。


「……あれ?」


 男は肩についた白い粉を払い、壊した壁と、その先に続く通路を交互に見た。

 片手には、ひしゃげた保守扉の取っ手が握られている。


「おっかしいな。こっちが近道のはずだったんだけど」


 牧野が目を見開く。


「あんた、さっきの……!」


 藍沢真だった。


 地下の分岐で別れたときと同じ、どこか気の抜けた調子で、藍沢は頭を掻いた。

 袖は裂け、額には小さな切り傷がある。随分と遠回りをしたらしい。


「いやぁ、方向音痴なんだよなぁ、俺」


「そういう問題っすか!」


 牧野の声が裏返る。

 藍沢は答えようとして、そこでようやく彼の腕に抱かれた青年へ目を落とした。


 笑みが止まった。

 霧島が藍沢を見た。驚いてはいたが、呼びかける声には安堵より先に呆れが混じっていた。


「あなた、どこを通ってきたの」


「聞かないでくれ。こっちも色々あった」


 そのやり取りを、轟は黙って見ていた。

 腕から肩へ這い上がった青い光は消えていない。

 むしろ、ひび割れた壁の内部で露出した配線が、青い火花を散らし始めた。


「増援か」


 轟が言う。


 藍沢は初めて男のほうへ目を向けた。

 雷光が粉塵を照らし、足元の影を短くした。


「そうみたいだな。……で、あんたが邪魔そうに見えるな」


「ここから先へは、誰も行かせん」


「困ったな」


 轟の手首から火花が散った。

 藍沢は握っていた取っ手を床へ捨て、牧野と久世の前に出る。

 久我の防衛領域へ無造作に入ろうとはせず、その縁で立ち止まった。


「悪い。そこの二人、少しだけ下がっててくれ」


 牧野が久世を抱き直しながら聞いた。


 藍沢は振り返らない。


 轟が一歩進むと、床に落ちた金属片が青く跳ねた。

 久我は掌を開いたまま、藍沢と轟の間に視線を据える。

 霧島の指は、まだ天井の支持具を示していた。


 足元に水滴が落ちる。ぱちり、と小さな火花が鳴った。


 藍沢は軽く肩を回した。


「さて」


 先ほどまでの笑い声が嘘のように、声が低くなった。


「霧島、例のやつでいく」


「さっさとそうしてちょうだい」


 藍沢は警棒の先を床へ向ける。

 誰かに向かって振り上げるのではない。

 その姿勢のまま、親指で起動部を押し込んだ。


 《NULL CUSTOM SYSTEM》

 《GLEIPNIR》

 《ACTIVATION》


 鈍い作動音が鳴り、警棒の先端から黒い拘束索が滑り出した。

 一本は足元の亀裂へ、もう一本は壊れた壁の奥へ吸い込まれ、離れた場所でそれぞれ張りつめる。

 たわんだ線がぴたりと止まると、雷光の中で、藍沢は警棒を握り直した。

 轟の指先で、稲妻が弾けた。


「悪いがここは通らせてもらう」

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