#47 残された一人
百人分の足音が、地下の作業室に降り注いだ。
天城双葉は前列の七人を左へ走らせ、その背後にいた四人を床へ伏せさせた。
頭上では切れかけた蛍光灯が明滅し、濡れたコンクリートに同じ顔が幾重にも映っている。
靴音は一斉に鳴っているようで、よく聞けば少しずつずれていた。
前へ出る者、横へ回る者、待つ者。それぞれの足が別の拍子を刻んでいた。
その真ん中を、ミカエルが走った。
先頭の天城が肩をぶつける。男は身体をひねって受け流し、そのまま二人目の胸元へ手を伸ばした。
制服の襟を掴み、背後から来た三人へ放り投げる。
押し倒された者たちの上を、さらに別の天城が跳び越えた。
足首を抱え込み、腰へ腕を回し、肩口へしがみつく。
ミカエルの右足が一度だけ止まった。
直後、男は足に絡みついた一人を引き剥がし、近くの作業台へ叩きつけた。
台の脚が折れ、積まれていた金属箱が床へ散る。
その音にまぎれて二人が背後へ回ったが、ミカエルは振り返らずに肘を引いた。
一人の顎を打ち、もう一人の腕を脇に挟む。
捕まった天城が身体を折られるより先に、横から別の三人が男の膝裏へ飛びついた。
重い身体が、初めて片膝を床についた。
天城は息を呑んだ。ほんの一瞬だったが、それを見た後方の分身たちが一斉に身構える。
「焦らないで。上から行かない。右足を――」
指示が終わる前に、ミカエルが立ち上がった。
膝にしがみついていた二人をそのまま持ち上げ、身体を回転させる。
ぶつかった者が三人、四人と倒れた。
さらに男は腰を落とし、横倒しになった作業台の縁へ手をかける。
床を滑った台が、前列にいた分身の足をまとめて払った。
「一人ずつは大したことねえ。だが、こっちが押した分だけ補充されるのは面倒だな」
笑いながらも、ミカエルはもう最初の場所にいなかった。
分身の多い中央を抜け、室内の右端へ寄っている。天城の視線もそちらへ移った。
右の壁には、八神たちが逃げた通路へ続く防火シャッターがある。
下端は床に接していたが、古い案内灯がまだ緑に光っていた。
男が狙っているのは、天城本人ではない。
「そっちは行かせない!」
十人ほどが壁際へ走った。扉の前で横一列になり、両手を広げる。
ミカエルはその列を見て速度を緩めた。
「そうか。やっぱり、あっちへ逃がした連中が大事なんだな」
天城は答えなかった。
男が一歩、わざと大きく右へ踏み出す。
扉の前の十人が身を固くした瞬間、ミカエルは反対へ向きを変えた。
隣にあった工具棚を掴み、支柱ごと引き倒す。
背の高い棚が傾き、壁に残っていた配管を直撃した。
留め具が外れ、熱を帯びた蒸気が白い幕となって噴き出す。
天城たちは目を覆い、腕で顔を庇った。すぐ近くにいるはずの仲間さえ、肩先しか見えなくなる。
「……しまった」
蒸気の向こうで、誰かの足が床を擦った。
天城は低い姿勢の分身たちを前進させようとした。
だが右からも左からも同じ服が動き、瞬時に全員の位置を把握できない。
ぶつかった二人が揃って倒れ、立ち上がろうとしたところへ、ミカエルの影が割り込んだ。
衝撃が三度、間を置かずに響いた。
天城の目の前を、一人が頭から飛んでいく。
続いてもう一人が背中を床へ打ちつけた。
倒れた者の腕が不自然に曲がり、それでも後ろの分身が彼女を引きずって退かせる。
作業室の床は人の身体と金属片で埋まり始めていた。
天城は一度、全員への指示を止めた。
濡れた袖で目元を拭い、蒸気の切れ目を探す。
無数の足を動かしているうちに、目の前の床の段差や、吊り下がった配管の高さを見落としていた。
百人がいても、その百人が互いの邪魔をしてしまえば、通路はたちまち狭くなる。
だから、動く人数を減らした。
「後ろの列は待って。左側、倒れている子を外へ。中央は四人だけ」
返事はなかったが、列がほどけた。
倒れた分身を左右の壁際へ運び、空いた床へ四人だけを進ませる。
ほかの者は作業台の裏や柱の陰で身を低くした。
ミカエルが蒸気の中から現れた。
「減らすのか?」
「……見れば分かるでしょ」
四人が同時には飛びかからない。
一人目は拳を誘い、二人目がその腕を外へ引く。
三人目は正面から入らず、男の軸足の後ろへ腰を落とした。
四人目が肩へ体重をかけたとき、ミカエルの踵がわずかに浮いた。
その隙に、待っていた別の二人が背後へ入る。
倒れたのはミカエルではなかった。
男は肘で一人を払い、もう一人の頭を掴んで壁へぶつける。
それでも、天城が欲しかったものは手に入った。
数歩分の距離。
防火シャッターから男を引き離し、作業室の中央へ戻すだけの距離だった。
天城は小さく息を吐いた。背後の扉が、もう見えないほど遠く感じられた。
「お前、名前は?」
不意にミカエルが尋ねた。
分身の一人が男の左腕を掴んでいる。
男はそれを振りほどこうともせず、天城たちの顔を順番に見た。
「……天城双葉」
「双葉、か。いい能力じゃねえか」
男が腕を振る。
掴んでいた分身は宙へ放り出され、天井から下がる照明器具へ背中をぶつけた。
硝子が割れ、細かな破片が雨のように散る。
天城は奥歯を噛みしめた。
同じ顔をした人間が倒れていく。
顔に傷ができ、腕を抱え、声を押し殺しながら床を這う。
どの身体も、彼女が生み出したものだった。
命令ひとつで前へ進ませられるからといって、ぶつけて壊すための道具には見えなかった。
天城は壁際で足を引きずっていた一人を、別の分身に支えさせた。
「もう前に出なくていい。あっちへ」
その二人が離れるのを見届けたとき、ミカエルが目の前まで来ていた。
襟を掴まれる。
天城は咄嗟に顎を引いた。
拳が頬を擦り、首の付け根に熱い痛みが走った。
床を蹴ろうとした足が滑り、背中が作業台の角へ当たる。息が胸の奥で止まった。
「……っ」
もう一方の手が近づく。
その手首へ、二人の天城が横から飛びついた。
さらに三人目が腰を抱える。
ミカエルの指がわずかに緩み、捕まっていた天城は台の下へ身体を滑り込ませた。
彼女が床を這って遠ざかる間、男は追わなかった。
「今のがお前だな」
冷えた言葉だった。
天城の呼吸が一拍だけ止まる。
「さっきから、あの連中が傷つくたびに目が行く。守るのが忙しくて、自分がどう見えてるか忘れてるぞ」
天城は顔を上げた。
台の反対側で、ミカエルが笑っている。
殴りかかってくる気配はない。
こちらが立ち上がるのを待っているようだった。
「見つけたからって、簡単には捕まらないよ」
胸の横が痛む。
呼吸すると鈍いものが肋骨の内側で擦れ、左手の指先にはまだ痺れが残っていた。
ミカエルが近づけば今度は逃げきれない。
分身を増やし続けるのも、もう難しかった。
装備の表示窓が、視界の端で明滅している。
《LEGION/ACTIVE UNITS:71》
《CONTROL LOAD/CRITICAL》
百人いたはずの天城が、いつの間にか七十一人になっていた。
倒れた者を起こすための余力も、残り少ない。
作業室の遠い端から、ゆっくりと水が流れてきた。
壊れた配管の水が床の傾斜を伝い、古い搬送用のレールへ溜まっている。レールは途中で二つに分かれ、片方は閉鎖された搬入口へ、もう片方は作業室の奥にある点検通路へ続いていた。
その上を、空の搬送台が一台、斜めに傾いて停まっている。
天城はそちらを見た。
搬送台の車輪には、大きな手動の固定レバーがついていた。
長い間使われなかったらしく、金具の周りに赤茶色の錆が浮いている。
台の先には工具箱と、太い鉄の支柱が載せられていた。
「……四人、あの台へ」
天城は小さく指示した。
ミカエルはもう一歩近づこうとして、足を止めた。
今度は天城だけを見ていない。作業室の奥へ散った分身たちを見回し、首を傾げる。
「また何か始める気か」
「そっちこそ、いつまで遊んでるつもり?」
「まだ始まったばかりだろ」
天城は笑えなかった。
四人の分身が搬送台の両側へ入り、重いレバーへ手をかける。
固着した金具は一度では動かない。
二人が力を加え、もう二人が台の端を持ち上げると、ようやく車輪が小さく回った。
軋む音が、床の下を長く渡っていく。
ミカエルが顔を上げた。
天城はその隙に、中央へ十人を送り込んだ。
殴りかかるのではなく、男の視界を横切るように列を入れ替える。
右から二人、左から三人。
後ろへ逃げたと思わせて、別の一人がすぐ前へ出る。
ミカエルが手を伸ばすたび、触れられそうな位置に立つ者が変わった。
男の拳は止まらない。
天城たちの肩や胸を次々に捉え、逃げ遅れた者が倒れる。
それでも、追おうとすると次の分身が足元へ入った。
動きに迷いがないわけではない。
むしろ小さな躓きはあちこちで起きていた。
ただ、その失敗さえ別の者が拾い、次の動作へつないでいる。
「本当に鬱陶しいな!」
ミカエルが笑いながら叫んだ。
そのとき、搬送台が動き出した。
車輪がレールを噛み、傾いた床をゆっくり滑る。
押していた分身たちが最後の一押しを加え、左右へ飛び退いた。
工具箱が揺れ、載せられた鉄の支柱が低く転がる。
ミカエルは音の方を見た。
真正面から、空の搬送台が向かってきていた。
「そんなもんで俺を潰す気か?」
「違うよ!」
天城が答える。
男は横へ避けた。
大きな台は勢いを増し、ミカエルの肩すれすれを通り過ぎる。
止まることなく奥の分岐へ進み、やがて閉鎖された搬入口の手前で、置き去りにされていた金属製の枠へ激突した。
けたたましい音が響いた。
歪んだ枠が倒れ、搬入口と作業室を隔てる通路へ斜めに引っかかる。
床へ落ちた支柱が、さらにその下を塞いだ。
ミカエルは一瞬だけ、背後を振り向いた。
出口が一つ、潰れた。
だが、男の顔に浮かんだのは失望ではなかった。
「……なるほど。俺を倒す気はねえんだな」
天城は息を整えながら、ゆっくり後退した。
「倒せるなら、そうしたいけど」
ミカエルが追ってくる。
天城は残る分身を四つの組に分けた。
一組は男の進路を塞ぎ、一組は転がった支柱の向きを変える。
残りの二組は壁際へ寄り、奥の点検通路へ続く小さな扉を探した。
扉は作業室の奥、倒れた棚の陰にあった。
背の低い保守用の出入口で、向こうには細い階段が下へ続いている。
先ほどまで工具箱に隠れて見えなかった場所だ。
天城はそこへ向かって歩き出した。
ミカエルは分身を振り払うと、天城の背中を見つけた。今度は迷わず走ってくる。
「逃がすかよ!」
天城が振り向いた。
ちょうどそこへ、五人の分身が横から飛び出した。
男の腰へしがみつき、腕を引き、膝裏へ身体を入れる。
ミカエルは二人を殴り、もう一人を床へ押さえつけた。
それでも残る二人が、最後まで離れなかった。
天城は保守扉へ手を伸ばす。
取っ手は重かった。錆びた軸が抵抗し、押しても引いても動かない。
背後で、また誰かが壁へ投げつけられる音がした。
「開いて……!」
左右から分身が加わった。三人で扉を持ち上げ、身体を使って押し開く。
わずかな隙間へ指を差し込み、力をかけると、金具が折れて扉が半分ほど開いた。
天城は一度だけ振り返った。
ミカエルの姿が見えた。
男は最後の分身を振り払い、こちらへ歩いてくるところだった。
頬の傷から血が滲み、制服の切れ端が腕に巻きついている。
その足取りに、先ほどまでの軽さはなかった。それでも、目だけは少しも衰えていない。
「どこへ行く」
「……仲間のところ」
「そうか」
ミカエルは笑った。
「だったら、次は連れてこいよ。全員まとめて相手してやる」
天城は答えなかった。
代わりに、保守扉の外へ一歩踏み出した。
その瞬間、ミカエルが走った。
最後に残っていた分身たちが、扉の前へなだれ込む。
誰も拳を振り上げない。
ただ男の腕を押さえ、脚へ絡みつき、扉と天城の間に身体を挟んだ。
十人以上の同じ顔が、ひとつの狭い出口を埋め尽くす。
天城は扉の向こうへ滑り込んだ。
背後で、誰かが叫んだ。自分と同じ声だった。
鈍い衝撃が続き、扉の金具が激しく揺れる。
天城は廊下側の固定具へ手をかけた。
錆びた棒を引き抜き、扉の取っ手の間へ差し込む。
金属の軸が歪み、ようやく扉が動きを止めた。
向こうではまだ、足音が鳴っていた。
その数が少しずつ減っていく。
天城の表示窓に、残った数字が映った。
《LEGION/ACTIVE UNITS:12》
腕を伸ばそうとして、指が動かなかった。
握っていた固定具が掌から滑り落ち、床に当たって硬い音を立てた。
天城はその場へ膝をつき、手袋の甲で口元を押さえた。
痛みは遅れてやってきた。
脇腹、肩、首の後ろ。呼吸をするたび、身体のあちこちから小さな悲鳴が上がる。
湿った空気を吸い込みながら、天城は震える膝を抱えた。
扉の向こうで、ミカエルの声がした。
「……双葉!」
天城は顔を上げた。
「またやろうぜ!」
遠くで、何かが壊れる音がした。
天城は立ち上がった。
足元には、点検用の細い階段が続いている。
壁には青い誘導灯が残り、先へ向かうほど人の通る気配が濃くなっていた。
八神たちがどこまで行けたのかは分からない。
それでも、ここで倒れている時間はなかった。
彼女は壁へ手を添え、階段を一段ずつ下り始めた。
作業室の方からは、もう百人分の足音は聞こえない。
残されたひとりの足音だけが、薄暗い階段に響いていた。




