#46 百
新しく現れた二人は、天城双葉とまったく同じ顔をしていた。
濡れた床に、五人分の靴跡が並ぶ。
本物の天城と、四体の分身。呼吸の深さも、肩の高さも変わらない。
ただ一人、壁際に立つ本体だけが、唇の内側を強く噛んでいた。
ミカエルは手のひらを返し、指を二度曲げた。
「来いよ。今度は手加減できねえぞ」
最初に動いたのは、右端の分身だった。
低い姿勢から腰へ取りつこうとし、その半拍後に別の二体が左右へ開く。
ミカエルは最初の一体の肩を掴むと、避けるどころか正面から引き寄せた。
膝が腹へ入る。分身の身体が折れ、背後にいたもう一体へぶつかった。
骨と肉が衝突する、嫌な音がした。
それでも天城は止まらなかった。
倒れた二体の上を残りが越え、片方はミカエルの右腕へ、もう片方は踏み込んだ足へしがみつく。
一人を払えば、もう一人がわずかに身体を引く。
そのわずかなずれに、天城本人が足を入れた。
拳が頬をかすめる。
ミカエルは顔を動かし、天城の手首を掴みかけた。
指が閉じる寸前、その腕が後ろへ引かれる。
先ほど膝を受けた分身が、床に伏せたまま天城の腰を掴んでいた。
「……なるほどな」
男が初めて足を止めた。
天城は後退しながら、鳴海の方を見た。彼の頭を支えている分身の膝が、床の水に濡れている。
八神は壁にもたれ、右腕を胸元に吊ったまま、左手だけで身体を起こそうとしていた。
イヴはアダムの首筋を押さえている。
接点を確かめる指に血はついていなかったが、アダムの左腕は不自然な角度で垂れていた。
鳴海は意識を失い、八神は右腕が使えない。
アダムも左半身の動きが乱れていた。イヴ一人で三人を連れ出すことはできなかった。
「八神さん」
天城が声をかけると、八神はすぐ顔を上げた。
「なに?」
「鳴海さんを運んで。こっちで道を作るから」
「双葉、あなたは――」
「あとで怒っていいよ。今はお願い」
八神は一度だけ目を閉じた。それから、左手で壁を押した。
「……分かった。イヴちゃん、アダムを立たせられる?」
「右側なら。左は、今動かすとたぶん駄目」
「右から支えて。双葉、鳴海の頭を持てる子を二人ちょうだい」
「うん」
天城の背後で、さらに人影が増えた。
四人だった分身が八人になり、八人がそれぞれ別の場所へ歩き出す。
二体が鳴海の肩と腰を支え、もう二体が壁際の搬送用担架を引き出した。
担架の車輪は片方が曲がっていたが、倒れた隊員を地面に引きずるよりはましだった。
別の四体は、ミカエルの前に残った。
「なんだよ。俺の相手を減らすのか」
ミカエルが言った。
天城は返さず、分身の一人に顎を振った。
廊下へ続く扉の上では、赤い解錠灯が消えたままだ。
施錠されたのではない。扉自体が、衝突で歪んだ枠に噛み込んでいる。
分身二体が左右の取っ手へ手をかけ、別の一体が足元の隙間に工具を差し込む。
金属が擦れ、扉の縁から白い塗料が剥がれた。
それを見て、ミカエルが笑みを消した。
「ああ。そういうつもりか」
八神はその変化に気づいた。
「双葉、あの人、出口を見たわ!」
次の瞬間、ミカエルが走った。
天城の分身が四方から身体を寄せる。
二体が腰へしがみつき、もう一体が膝の前に身を投げた。
それでも男の勢いは落ちきらない。
最後の一体を脇へ抱え込んだまま、出口へ向かって踏み出した。
分身の背中が、八神たちのいる壁の近くへ飛んだ。
「危ない!」
八神が左手を伸ばすより早く、新しい分身が壁の前へ滑り込んだ。
飛ばされた身体を正面から受け、二人まとめて床へ転がる。
ぶつかった壁の塗装が剥がれ、粉が八神の髪に落ちた。
受け止めた分身の腕が、しばらく持ち上がらなかった。
天城の喉が上下する。
分身は飾りの影ではない。
彼女と同じ重さを持ち、同じ場所を取り、殴られれば倒れる。
数を増やしたからといって、一人ひとりがミカエルより強くなるわけではなかった。
それでも、倒れた二人を避けて次の四人が出てきたとき、ミカエルはわずかに顔を上げた。
背後にも、足音があった。
天城がいつの間にか増やしていた分身が、作業室の奥から次々に現れる。
使われなくなった搬送路、壊れた棚の間、床下の点検口のそば。
四人、六人という小さな集まりが、別々の方向から近づいてきた。
「へえ……」
ミカエルは目を細めた。
「一度に増やせるのか。そりゃいい」
男は正面の群れへ突っ込んだ。
先頭の分身が顎を打たれ、横へ倒れる。
続く一体は手首を取られ、仲間の身体へ投げつけられた。
二体が一度に床へ落ちる。
ミカエルはその隙間から抜けようとしたが、足を置いた先に別の天城が座り込んでいた。
躓かせるためではない。
膝の高さに腕を揃え、跳び越える瞬間の着地をずらすためだった。
ミカエルの靴が腕を踏み、身体がわずかに傾く。
そこへ左右から二体がぶつかった。
男は片方の首元を押さえ、もう片方を肘で跳ね返す。
それでも後ろの一体が、彼の腰へ両腕を回した。
押し返す力は足りない。次の一体が背中に加わって、ようやくミカエルの足が半歩動いた。
天城はその半歩を見逃さなかった。
「右へ。二人、下から!」
短い指示が通る。
二体が足首を狙い、上から手を伸ばしていた別の二体が引いた。
ミカエルは床に膝をつきかける。だが寸前で片手を突き、身体を浮かせるようにして起き上がった。
掴んでいた分身を頭上へ押し上げ、鉄骨の梁へ叩きつける。
鈍い音が天井に残った。
天城の目が動く。倒れた分身ではなく、その上を走る亀裂を追っていた。
梁に乗っていた古い配管の留め具が外れ、水が勢いよく吹き出した。
「……そっちは駄目!」
天城が叫ぶ。
天井の配管の下に立っていた分身たちが一斉に散り、落ちてきた金具を避けた。
水の塊が床を叩き、通路の奥へ広がる。
ミカエルは飛び散る水の向こうで、拳を握り直した。
「いい判断だ。でも、俺を見てないと危ないぜ」
もう目の前にいた。
天城は咄嗟に身を引いた。拳が胸元をかすめる。
後ろにいた分身が彼女の腰を支え、別の一体がミカエルの腕へ飛びついた。
男は振り払ったが、その間に天城本人は二歩後ろへ逃れていた。
肋骨のあたりが痛む。
服の上から触れると、拳が当たった場所だけ熱を持っていた。
近すぎた。
「双葉!」
八神の声が聞こえる。
「大丈夫!」
返事をした直後、天城は自分の声が裏返ったことに気づいた。
大丈夫と言い切れるほど、身体に余裕は残っていない。
指先が冷え、額から落ちる汗が目に入る。
何十もの身体の位置を確かめ、次の動きを選ばせ続けるうち、目の前の一人にまで注意が届かなくなりかけていた。
ふいに、彼女のすぐ横で布が裂ける音がした。
別の分身がミカエルの蹴りを受けていた。
腹部を抱えたまま後ずさり、壁へ背を預ける。
その顔は天城と同じなのに、唇から漏れる息だけがひどく苦しそうだった。
ミカエルは二人を見比べた。
「見つけたぞ」
天城の心臓が強く鳴った。
男の足が、彼女へ向く。
だが、すぐ隣からまったく同じ声が上がった。
「こっちだよ」
新しく現れた分身がミカエルの袖を引く。
男が振り返ったとき、さっきまで壁際にいた天城は、ほかの分身に紛れていた。
同じ身長、同じ肩幅、同じ重さの人間が、列を入れ替えながら動いている。
さっきまで確かに本体がいた場所へ、もう別の誰かが立っていた。
ミカエルは笑った。
「……面倒くせえ能力だな」
それでも彼の目は、ひどく楽しそうだった。
*
出口の扉が、三センチほど開いた。
イヴが工具を隙間へ差し込み、精いっぱい体重をかける。
肩の下で金属が鳴り、錆びた枠がほんの少しだけ動いた。
「もうちょっと……!」
「無理しないで。手を挟むわ」
八神が左手を添えた。右腕は動かせない。
力を込めると、肘の奥まで痛みが走る。それでも声だけはいつもの調子を保とうとしていた。
「アダム、そこに立ってて。あなたが倒れたらイヴちゃんまで潰れちゃう」
「承知した」
アダムは右肩を壁へ当てた。
左腕は身体の脇へ固定され、イヴが簡易的に留めた接続部の保護材が襟元から覗いている。
足の運びも遅れがちだったが、支えのない鳴海を前に、彼は横になることを拒んだ。
天城の分身が四体、扉の周りへ集まる。二体は下の金具を引き、残る二体が上端を押し広げた。
耳を刺すような金属音のあと、扉が人一人通れる幅まで開く。
「開いた!」
イヴが振り返った。
その声に反応したのは、天城だけではなかった。
ミカエルが分身の肩を突き飛ばし、出口へ向き直る。
八神の顔から血の気が引いた。
「伏せて!」
ミカエルが床に落ちた短槍を拾い上げた。
遠くまで投げるために握りを短く持ち、腕を引く。
狙われているのは天城ではない。開きかけた扉の前にいるイヴだった。
アダムが右腕を伸ばす。
だが、身体が反応しきる前に、四人の天城が扉の前へ飛び込んだ。
短槍が一体の肩を貫いた。
倒れた身体に別の二体がぶつかる。
槍はその先の壁まで届かなかった。床へ落ちた柄が、三度跳ねて止まる。
「……っ!」
天城の声が漏れた。
イヴは口を開けたまま、動けなくなっていた。
足元で分身の一体が肩を押さえている。血が流れ、薄い服の布地をゆっくり濃くしていった。
「……?」
イヴがしゃがもうとする。
「見ないで。今は鳴海さんを!」
天城は叫んだ。声が荒くなったことに、自分で驚いたように一度息を吸う。
「お願い。ここから出て」
八神はもう迷わなかった。
「分かったわ」
返事のない鳴海の頭を、分身二体が慎重に持ち上げる。
担架の前後へさらに二体がつき、歪んだ車輪を浮かせるようにして運んだ。
イヴはアダムの右側へ回り、彼の腕を自分の肩にかける。
八神は最後に天城を見た。
「双葉。あなたも来るのよ」
「うん」
その返事だけは、少し遅れた。
八神は言葉を続けようとしたが、背後で床が震えた。
ミカエルが分身の列を突破しようとしている。
鳴海の担架が扉に引っかかり、イヴが慌てて角度を直した。
今は動かさなければならない。
八神は左手で担架の縁を持ち、細い隙間を抜けた。
廊下の向こうへ、四人の姿が少しずつ遠ざかる。
天城は入口の脇にある非常閉鎖レバーへ手を伸ばした。
錆びた赤い把手の根元に、安全ピンが一本残っている。
分身が金具を引き抜き、別の分身がレバーを押し下げる。
扉の上で、黄色い警告灯が回った。
《EMERGENCY SHUTTER/CLOSING》
鈍い金属音とともに、上から防火シャッターが降り始めた。
その向こうで、八神が振り返る。
「双葉!」
天城は手を上げた。笑おうとして、うまくいかなかった。
「先に行って。すぐ追いつくから」
「そんな顔で言わないで!」
八神の声が震えた。
天城は目を逸らさなかった。
シャッターが床へ降りきり、二人の間を金属の壁が塞いだ。
作業室に残されたのは、天城とミカエルだけではなかった。
分身たちは搬送路の奥にまで広がっていた。
シャッターを閉じる手伝いをした者、倒れた仲間を引き起こす者、鉄骨の陰でミカエルの足取りを見張る者。それぞれが一人分の重みで床を踏み、少しずつ位置を入れ替えている。
天城が息を整える間に、人の列がさらに延びた。
作業室の隅に残っていた照明が、人影を数えきれないほど床へ投げる。
狭い通路からも足音が返り、壊れた搬送台の向こうには、同じ顔が隙間なく並んでいた。
天城の表示窓に、残っていた数字が上がっていく。
《LEGION/ACTIVE UNITS:96》
その下で、警告の文字が一瞬点滅した。
《CONTROL LOAD/HIGH》
天城は目を閉じかけ、慌てて開いた。
額に貼りついた髪を袖で払う。
身体を増やすことはできても、息が楽になるわけではない。
何十もの足をいつ動かすか、どの身体を先に退かせるか。
判断が少し遅れただけで、今度は彼女たち自身が互いの逃げ道を塞いでしまう。
だから、天城は全員を一度に走らせなかった。
前列が身を沈める。二列目が左右へ開き、その隙間を三列目が通る。
後ろの者は動かず、抜けてきた仲間のために場所を空けた。
足音が少しずつずれて、別々の場所から響く。
ミカエルが一人を殴り倒した。
次の一人が、その身体を横へ引く。
開いた場所へ二人が入る。
男が進むたび、人の壁は押し返すのではなく形を変えた。
「はは……」
ミカエルが笑う。
頬には細い傷が増え、額の血は乾いて黒くなっていた。
それでも呼吸は荒れていない。
男は数人を押しのけ、天城のいる方へ目を凝らした。
「いいぜ。そういう使い方なら、ようやく面白くなってきた」
ミカエルの拳が一人の肩へ入る。
その身体が横へずれたところへ、別の天城が足を差し込んだ。
男は膝を上げ、受けた腕を弾き、さらに前へ進もうとする。
進めないわけではない。
ただ、思うような速さでは進めなかった。
天城はシャッターを一度だけ振り返った。
向こうから、担架を運ぶ車輪の音が遠ざかっていく。
八神たちは、まだ間に合う。
耳元で小さな電子音がした。
《LEGION/ACTIVE UNITS:100》
表示の数字が止まる。
百体。
天城双葉と同じ身体を持つ百人が、地下の作業室とその周囲にいた。
彼女たちはただミカエルへ飛びかかるために増えたのではない。
出口を開き、負傷者を運び、逃げ道を守り、その間に男をここへ留めるために動いてきた。
ミカエルは拳を下ろした。
初めて、天城のいる場所ではなく、部屋全体を見渡した。
「……よし」
その声は、これまでで一番静かだった。
「今度は、俺も考えてやるよ」
男が片足を引く。
百人の天城は、一斉には動かなかった。
通路の入口で二人が身を屈め、作業台の陰で三人が位置を変えた。
頭上の梁に手をかけていた一人が足を下ろす。
小さな変化が、部屋のあちこちで連なっていく。
最後に、天城本人が拳を握った。
もう背後には、守るために振り返る相手がいない。
ミカエルの足が床を蹴った。
その一歩を待っていたように、百人分の足音が、違う拍子で鳴り始めた。




