#45 天城双葉
割れた消火器の粉が濡れた床に降り積もり、排水溝の縁で薄紅色の泥になっている。
天井から落ちる水滴は途切れず、一定の調子で金属を叩いた。
八神が右手をわずかに動かすと、近くにいた天城の分身が一歩前へ出た。
先ほど壁に投げつけられた個体は、肩を戻すように腕を回している。
「そっちの二人。少しの間だけ、私たちと組める?」
八神はミカエルを見たまま尋ねた。
「構いません」
アダムの返答は早かった。
イヴも頷く。
ただ、アダムの指はまだ短い刃を握っていた。執行局側を信用したわけではないのだろう。
「鳴海、彼らへの追及は後。双葉は出口を見て。イヴちゃん、床に落ちてるものの位置を教えてくれる?」
「うん。あの人、足音が変なんだ。さっきから水がある場所を避けてないのに、あんまり跳ねない」
イヴが顎で示す先で、ミカエルが靴を鳴らした。
水しぶきはほんの少ししか上がらなかった。
着地のたびに膝を深く使い、体重を分散している。
「へえ。よく見てるな、お嬢ちゃん」
「褒めても、何もあげないよ」
ミカエルは声を立てて笑った。
「上等だ。五人まとめて来いよ」
鳴海が先に動いた。
まっすぐ向かうふりをして、右側の排水溝へ一歩だけ寄る。
ミカエルの目が追ったのを見て、八神は反対側から入った。
狙いは胴ではなく、足場だった。
八神が床に落ちていた短槍の柄を蹴る。
ミカエルがそれを避けて足を置いた場所へ、天城の分身が低く滑り込んだ。
もう一体が背後から肩を掴む。鳴海は正面に残り、相手が逃げる方向を塞いだ。
四方から人の手が伸びた。
しかしミカエルは、そのうちの一本しか見ていなかった。
背後の分身に肘を掴ませたまま身体を半回転させ、掴まれた腕ごと前へ出る。
分身は足を踏み直す暇もなく、仲間の進路に引き出された。
「うわっ!」
天城が叫ぶのと同時に、八神は急停止した。
目の前を分身が横切り、その向こうからミカエルの膝が上がる。
八神は腰を引いて直撃を避けたが、風圧に追われて踵が滑った。
鳴海が脇からミカエルの腕を押さえる。
だが、押さえたはずの手首がするりと抜け、次の瞬間には彼自身の肩が掴まれていた。
「鳴海!」
八神の声にミカエルが顔を向ける。
その隙をアダムが使った。
鳴海の身体が投げられる寸前、アダムは二人の間へ入って肩を差し込み、落下の勢いを自分の背へ受けた。床に擦れた靴底が甲高い音を立てる。鳴海は膝をついて立ち直り、アダムは壁へ片手を突いた。
「助かった」
「まだ終わっていません」
礼を言い合う二人のすぐ上を、ミカエルの拳が通った。
壁の表面が砕け、細かな破片が降る。
アダムは鳴海の首を引いてしゃがませ、拳の下をくぐり抜けた。
八神の蹴りがその脇腹へ届く。手応えがあった。厚い筋肉を通って、確かに衝撃が入った。
それでもミカエルは姿勢を崩さなかった。
八神の足を受けたまま、彼はゆっくり振り返った。
「悪くない」
八神は蹴り足を引き戻し、距離を取る。ミカエルが追ってこないことに、むしろ背筋が冷えた。
「……双葉。真正面から抑え込もうとしないで。あの人、掴まれるのを嫌がってない」
「分かった。じゃあ、動かす方にする」
天城が二体の分身を呼び寄せる。
本人と同じ背丈、同じ重さを持つ身体が左右に並んだ。
三人の天城が互いに異なる歩幅で散り、床に細い波を立てる。
ミカエルは初めて天城をまじまじと見た。
「それ、幻じゃねえのか」
「触って確かめてみれば?」
「いいね」
言葉が終わる前に、彼が踏み出した。
最も近かった分身が迎え撃つ。
振り下ろされた腕を両手で受け、もう一体が足首を狙った。
天城本人は二歩遅れて背後へ回る。先ほどとは違い、掴む場所を一つに絞らない。
動きを止めるのではなく、向きをずらすための連携だった。
ミカエルの肩がわずかに左へ流れる。
「今!」
イヴが声を上げ、足元へ工具を滑らせた。
小さな金属片が靴底に当たり、ミカエルが置こうとした右足が一瞬だけ浮く。
そこへ鳴海が入り、足払いを仕掛ける。八神は反対の腕を狙って踏み込んだ。
ミカエルの上体が初めて大きく傾いた。
その瞬間、作業室の奥で警告灯が点いた。
天城の分身が壁にぶつかった衝撃で、古い搬送台の固定具が外れたらしい。
天井から下がるレールに沿って、重い台が少しずつ動き出す。
八神は横目で距離を測った。
「鳴海、奥へ!」
鳴海が攻める足を止め、ミカエルの左へ回った。誘導に気づいたミカエルは、口の端を上げる。
「何を企んでる?」
「内緒」
八神は笑顔を作ったが、息が切れていた。
天城の分身二体が交互に前へ出る。
その間にアダムが搬送台の操作盤へ走り、イヴが壊れた配線の位置を指示した。
「赤いのじゃない! その横、黄色の線!」
「分かっています」
アダムが被覆の裂けた導線を接触させると、搬送台が一段速く滑った。
金属の車輪が軌道を噛み、耳障りな悲鳴を上げる。
ミカエルの後ろに、幅の広い影が迫った。
鳴海が踏み込む。
防ぐためにミカエルが腕を上げた瞬間、八神は正面からその胸へ体当たりした。
天城の分身が左右から押す。アダムも駆け戻り、台と男の間へ身を入れた。
一瞬、ミカエルの両足が後ろへ動いた。
搬送台の縁が、彼の背中を捉える。
けたたましい衝突音が響き、積まれた工具箱が落ちた。
天井の蛍光灯が砕け、白い火花が雨のように散る。
八神は分身に引かれて横へ逃れたが、腕を伸ばしたままのアダムは台の側面へ押しつけられた。
「アダム!」
イヴの声が裏返る。
「退け!」
鳴海が台の下へ手を伸ばそうとしたとき、金属の内側から低い笑いが聞こえた。
搬送台が、ゆっくり持ち上がった。
曲がった支柱の下にミカエルが立っていた。
額から一筋の血が流れている。笑ってはいたが、目の奥にあった緩さは消えていた。
「……やるじゃねえか」
台を支える片腕が動き、重い鉄の塊が脇へ放られた。
床に落ちた衝撃で排水溝の蓋が外れ、水が波となって広がった。
アダムは台から抜け出した。
左の袖が裂け、腕の内側から細い線材が露出していた。
指を握ろうとすると、二本だけが遅れて動く。
「左腕、使える?」
イヴが駆け寄る。
「動作は可能。精度が落ちてる」
返答の途中で、アダムの左手が小さく痙攣した。
八神がミカエルの額を見る。
血が一滴、顎から落ちた。
追い込めない相手ではない。
だが、一度成功した手はもう通じないだろう。
ミカエルは親指で傷を拭い、その赤を眺めた。
「久我たちも、こういうのをやってくれりゃ面白かったんだがな」
八神は答えなかった。鳴海を手で呼び、短く耳打ちする。
「まだ動ける?」
「はい。俺が引きつけます。八神さんは後ろへ」
「引きつけるだけ。倒そうとはしないで」
「分かってます」
鳴海の返事は落ち着いていた。
けれど、裂けた左袖の内側では、血が手首まで伝っていた。
彼はミカエルへ向かった。
今度は大きな動きをしない。
肩の角度を見て相手の腕が伸びる側を避け、足元の水を蹴って距離を変える。
二度、三度と間合いを出入りし、攻撃を誘っては空振りさせた。
八神がその背後を横切る。
天城の一体が上から、もう一体が下から、ミカエルの視線を散らした。
アダムは左腕を身体に寄せ、右手だけで援護に入る。
今度は誰も、同時に飛び込まなかった。
相手が一人を追えば、別の者がその進路へ出る。
足を止めれば、横から圧力をかける。
五人の動きは少しずつ噛み合い始めた。
数歩だけ、ミカエルを医療区画とは反対側へ押し戻すことにも成功した。
「そうだ。それだよ」
ミカエルが笑った。
「一人ずつ来るから、つまらねえんだ」
次の攻撃は、今までより短かった。
鳴海の拳を避けるのではなく、ミカエルはその手首に自分の前腕を当てた。
そこから肘を落とし、鳴海が反射的に身体を傾けた方向へ、反対の掌を出す。
乾いた音がした。
鳴海の頭が横へ振られる。
靴が床を擦り、膝が抜けた。
倒れる寸前に天城の分身が抱き止めたが、鳴海の目は焦点を結ばなかった。
「鳴海!」
八神が駆け寄る。
呼びかけに返事はない。
分身の腕に支えられた頭が不自然に傾き、呼吸だけが浅く続いている。
八神は指を首筋へ添えた。脈はある。
「双葉、壁際に運んで。頭を揺らさないように」
「うん……!」
天城は分身を一体残し、もう一体をミカエルへ向けた。
自分の口から漏れる呼吸が乱れているのを、無理に飲み込むように唇を結んだ。
ミカエルは鳴海を追わなかった。
「いい勘だったぜ、あいつ。最後まで俺の肩を見てた」
「黙って」
八神の声は低かった。
彼女は床に転がる短槍を拾い上げた。
長く扱うには重心が前に寄りすぎているが、素手で近づくよりはましだった。
相手の懐へ入るためではない。これ以上、誰も近づけさせないための長さが必要だった。
イヴが八神の横へ並ぶ。
「アダムの腕、変なんだ。信号が途中で切れる」
「動ける方の手だけ使わせて。無理をさせないで」
「でも、あの人……」
イヴはミカエルを見た。
「また来るよ」
その言葉の途中で、ミカエルが走った。
八神は槍を突き出す。
狙いは胸ではなく肩。進む角度を変えさせ、床の濡れた場所へ誘い込む。
ミカエルは穂先を手の甲で払い、槍の柄を脇に挟んだ。
引き戻せない。
八神は握りを離し、踏み込んで左の掌底を顎へ送った。
ミカエルは顎を引いただけで受け止め、空いた右手で八神の腕を掴む。
肘が、逆の方向へねじられた。
骨の奥で嫌な音がして、八神の喉から短い声が漏れた。
「っ……!」
彼女はその場で膝を折った。
抵抗すれば肩まで壊される角度だった。
ミカエルが力を緩めるより先に、アダムが右手で男の腕を掴み、八神の身体を引き離そうとする。
「離してください!」
ミカエルはアダムの方を向いた。
握った腕を放し、代わりにアダムの襟を掴む。
八神が倒れ込むのを天城が受け止めた。
アダムは左手で相手の手首を切ろうとしたが、指が途中で止まった。
ミカエルがその遅れを見逃すはずがなかった。
胸元へ引き寄せ、首の付け根に向けて拳を打ち込む。
鈍い衝撃の後、アダムの身体が一瞬だけ硬直した。
左肩から指先へ青白い光が走り、首筋の皮膚の下で小さな火花が弾ける。
イヴが悲鳴を上げた。
「やめて!」
アダムは右手を伸ばした。
ミカエルの胸に触れるところまでは届いたが、押し返す力が入らない。
左脚が床を探るように動き、遅れて膝をついた。
ミカエルはその様子を見下ろした。
「やっぱり、普通の身体じゃねえな」
興味深そうに言うと、アダムを横へ押しやった。
身体が倒れ、胸の内側から不規則な駆動音が漏れる。
イヴが駆け寄る。アダムは目を開けていたが、顔を向ける動きがぎこちなかった。
「イヴ……無事ですか」
「そんなこと聞いてる場合じゃないよ!」
彼女は首元の裂け目を覗き込み、震える手で小さな接点を押さえた。
細い光が一度だけ戻り、また消える。
「左の神経回路が……途中で切れてる。動かさないで。お願い」
「あなたは、下がって」
「いやだ!」
その声にアダムは言葉を失った。
八神は壁にもたれ、右腕を胸へ寄せていた。
指は動く。
しかし肘を上げようとすると鋭い痛みが走り、肩に力が入らない。
天城が差し出した布を、左手で受け取る。
「ごめん、双葉。ちょっと、まずいかも」
「しゃべらないで。固定するから」
天城は手早く布を折り、八神の右腕を身体に沿わせて結んだ。
結び目を締める途中、八神の顔が歪む。天城はすぐに手を緩めた。
「痛かった?」
「平気、って言ったら怒る?」
「怒る」
「じゃあ痛い。ものすごく」
八神がかすかに笑った。天城は笑えなかった。
作業室の片隅で、鳴海が意識のないまま横たわっている。
イヴはアダムの首元へ手を当てたまま、何度も名前を呼んでいた。
アダムは返事をするたびに呼吸に似た駆動音を乱し、やがて左腕を動かすのをやめた。
入口までの距離は十五歩ほど。遠くない。だが、その間にミカエルがいる。
「……終わりか?」
男は床に落ちた短槍を拾い、しばらく重さを確かめるように持ち替えた。
ついさっき八神が使っていた武器だ。
「せっかく面白くなってきたのに、もう立てねえのか」
八神が左手で床を押す。立ち上がるとすぐ、天城が肩を支えた。
「八神さん、無理しないで」
「まだ左は動くわ」
「そういうことじゃなくて」
八神は天城を見た。呼吸の浅さに気づいたのか、少しだけ声を柔らかくする。
「双葉。みんなを連れて、行ける?」
天城は答えなかった。
倒れている鳴海に目を移す。
意識はない。
アダムを支えているイヴは、彼が倒れないよう肩を貸すだけで精いっぱいだった。
八神も右腕を使えない。三人を抱えて出口まで走るには、足も手も足りない。
ミカエルが槍を肩へ担いだ。
「相談は終わったか?」
天城の足元へ、水が一滴落ちた。
天井からではない。
額を伝った汗が、顎から滑り落ちたのだった。
そのとき、壁際に残していた分身が動いた。
鳴海を庇うように立ち、両腕を広げる。
もう一体はイヴとアダムの前へ進み、ミカエルへ正面を向けた。
二体。
それが、今ここにある天城の手だった。
天城は八神の身体を壁へ預けると、一歩前に出た。
「双葉?」
「もう、守りながら下がるのは無理だよ」
「……そうね」
「だから、これを使う」
八神の目が見開かれた。
「待って。ここで、それを使うの?」
天城は頷いた。彼女の唇は白くなっていたが、声は不思議なほど落ち着いている。
「八神さんがみんなを連れていくまで、あの人を止める」
「双葉、あなただって――」
「分かってる」
天城は一度だけ振り返った。
「ちゃんと戻る。だから、鳴海さんをお願い」
ミカエルが短槍を床へ放った。金属が排水溝を打ち、跳ね返る。
「おい。今度は何を見せてくれるんだ?」
天城は答えず、左手を胸元の認証部へ添えた。
二体の分身が、同時に足を揃える。
装備の表示窓に、白い文字が立ち上がった。
《REGALIA PROTOCOL》
《NAMED HOLDER AUTHENTICATION》
《IDENTITY:AMAGI FUTABA》
《CODENAME:ORTHRUS》
《AUTHORIZATION:GRANTED》
天城の足元に、薄い光が広がる。
先ほどまで二つしかなかった影が、濡れた床の上で三つに分かれた。
四つ、五つ。水の膜に映る天井の照明が次々に隠れ、床を打つ足音が重なり始める。
《REGALIA/LEGION》
ミカエルの笑みが、ゆっくりと深くなった。
「……そう来たか」
天城双葉は、まっすぐに彼を見返した。
次の足音が鳴るより早く、彼女の左右に新しい二人が立った。
その背後で、さらに人影が増えていく。
「みんなで生きて帰るために」




