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特殊公安執行局  作者: the 春


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44/49

#44 門番

 階段を下りきると、白い通路は急に幅を狭めた。


 八神紅音は足元の段差を越え、壁の案内図を見上げた。

 行先を示す文字のほとんどは塗り潰され、医療区画を意味する青い帯だけが奥へ延びている。

 その下を、天城双葉の分身が先に進んでいた。

 イヴは二人の後ろからついてきたが、さっきまで何度も振り返っていた道具箱にはもう手を触れない。


 遠くで金属が鳴った。続いて何かが床を滑る音。天城が分身を止めるより早く、イヴが顔を上げた。


「……今の、聞こえた?」


「聞こえたわ。下がってて」


 八神が答えると、イヴは口を開きかけて閉じた。

 少し先の照明が一つ切れ、狭い通路に長い影が落ちる。


 影の向こうから、水の匂いがした。


 曲がり角を抜けたところに、排水溝を挟んだ広い作業室があった。

 天井の配管が裂け、落ちる水が床に小さな輪をいくつも描いている。

 壁際では鳴海冬真が男の手首を押さえつけ、

 その反対側から別の青年が短い刃を取り上げようとしていた。


「鳴海!」


 呼びかけると、鳴海は振り向かずに答えた。


「八神さん、そいつの足を見てください。まだ何か持ってる!」


 床に押さえ込まれた男が、靴の踵を跳ね上げた。

 金属の細い針が滑り出す。

 天城の分身が先に動き、男の足首を床へ固定した。

 八神が針を踏み砕くと、鳴海はようやく相手の腕を捻り、拘束具をかけた。


「助かりました」


「こっちも合流できて助かったわ。怪我は?」


「袖を切られた程度です」


 鳴海の左腕には、破れた布の下から血が滲んでいた。

 八神が目を向けると、彼は大したことではないとでもいうように腕を下ろした。


 その隣の青年が顔を上げた。


 イヴが息を呑む。


「アダム!」


 彼女は道具箱を放り出し、濡れた床を駆けた。

 青年の胸元へ飛び込む直前で足を止め、腕や顔を何度も確かめる。

 彼が無事だと分かると、ようやく肩の力が抜けた。


「どこにいたの。通信もつながらないし、ずっと……」


「大丈夫だ。イヴは?」


「私は平気。あの人たちと一緒だった」


 アダムは八神と天城を見た。まず二人の装備を、次に鳴海の傷を確かめるような目つきだった。


「助けていただいたようですね」


「それはこっちの台詞だ」


 鳴海が切れた袖を押さえる。


「こいつがいなければ、あの刃は避けきれなかった。得体は知れないが、少なくとも今は敵じゃない」


「鳴海、ちょっと」


 八神の声が変わった。


 鳴海が彼女を見る。

 その間に天城は分身を一体、出口の前へ移動させた。

 もう一体は拘束した男のそばに残る。

 何気ない配置に見えて、部屋を出ようとすれば誰の姿も見落とさない位置だった。


 イヴはその動きに気づき、アダムの袖を掴んだ。


「……何?」


「あなたたち、久世湊に会っているでしょう」


 八神は穏やかな口調のまま言った。


 水滴の音が、ひときわ大きく聞こえた。


 アダムは答えない。イヴだけが八神の顔を見つめ、それから天城へ視線を移した。


「久世さんに接触した二体の人型機械。私たちはその記録を見ているの」


 八神は、イヴから目を離さなかった。


「あなたと最初に会った時点で、気づいていたことはあった。だから無理に追及しなかった。目的が分からないまま捕まえるより、行先を見たかったから」


「……泳がせてたってこと?」


 イヴの声から、先ほどの明るさが消えた。


「そういうことになるわね」


 天城が短く答えた。


 八神はアダムへ向き直る。


「でも、今ので確信した。記録にいたもう一体も、あなたね。教えてもらえる?」


「アダムです」


「それはさっき聞いた。聞きたいのは、なぜ久世に近づいたかよ」


 アダムはイヴの肩へ手を添えた。守るような仕草だったが、彼女を背後へ隠すことはしなかった。


「危害を加えるためではありません」


「それを決めるのは、こちらが事情を聞いてからよ」


 鳴海が一歩、二人の間へ入った。


「待ってください。人型機械だって、どういうことですか」


「報告が後になってごめんね。久世に接触した正体不明の二体について、局内に記録が残ってる。人間に見えるけれど、身体の構造は違う」


「それだけで敵扱いするんですか」


 鳴海の声に棘が混じる。八神はすぐには返さなかった。


「敵だと決めたわけじゃない。ただ、久世をさらった連中の施設で出会った以上、何も聞かずに通すわけにもいかないでしょ」


「答えられない」


 アダムが言った。


 イヴが彼を見る。アダムは視線を逸らさなかった。


「ただ、彼を連れ帰る必要がある。それだけは同じはずです」


「誰のところへ?」


 八神の問いに、返事はなかった。


 天城の分身が半歩前へ出た。

 イヴはアダムの袖を放し、自分も扉の前へ立つ。

 小さな身体のどこにそんな緊張が隠れていたのか、足元の水が揺れるほど素早い動きだった。


「双葉、動かないで」


 八神が制した。


「私たちは久世を取り返しに来たの。あなたたちが本当に同じ目的なら、ここで争う意味はない」


「だったら道を開けて」


「それと、素性を隠すことは別の話よ」


 イヴが唇を噛んだ。

 アダムの手が、彼女の肩を軽く押す。

 鳴海は二人をかばいながらも、刀身を持ったままのアダムの手元を見ていた。


 誰も先に動かなかった。床を打つ水滴だけが、互いの沈黙を埋めていく。


「お、随分と賑やかじゃねえか」


 聞き慣れない男の声が、張り詰めた空気に割って入った。


 八神が振り返ると、通路の奥に大柄な男が立っていた。

 男はその場にいる五人を順に見渡し、楽しげに笑った。


「……誰、あなた?」


「そんなことはどうでもいいじゃねえか」


 鳴海がわずかに眉を動かした。


「局を襲撃した連中の一人か」


「へえ、知ってんのか」


「報告書でな」


 男は口角を上げた。


「そりゃ光栄だ。で、ここにいる奴らは、少しは楽しませてくれるのか?」


「あなたに構ってる時間はないわ」


「つれないね」


 ミカエルの視線がアダムで止まる。


「お前は見たことがないな。さっきの連中とは違う匂いがする」


「あなたは誰ですか」


「名前を聞いたところで、どうする?」


 アダムは答えなかった。代わりにイヴを自分の背後へ下げる。


「そっちは守りたいものがあるらしい」


 ミカエルの笑みが深くなる。


「いいよ。そういうやつの方が、必死になる」


 天城の分身が背後から彼へ駆け寄った。

 入口を塞ぐための動きだった。

 ミカエルは振り返りもせず、伸びてきた腕を掴んで投げた。


 分身の身体が壁にぶつかり、消火用のケースが割れた。

 赤い粉が床へ降る。天城が息を詰める間に、ミカエルはもう一歩、こちらへ来ていた。


「おいおい。俺はまだ話してる途中だぞ」


 八神は手を上げ、全員を制した。


 鳴海が拘束した男を壁際へ引きずる。

 天城は残る分身を八神の横へ寄せ、アダムはイヴをかばいながら後退した。


「話なら聞いてあげる」


 八神は男の正面に立った。


「でも、ここを通す気はない」


 ミカエルはその言葉に、心底嬉しそうな顔をした。


「それでこそだ」


 濡れた床に、男の影が長く伸びる。


 今度こそ誰も、相手の正体を問い直さなかった。


 *


 閉まりかけた隔壁の下を、牧野征士郎が身を屈めてくぐった。


 久世を抱えているせいで、思うように足が動かない。

 肩をぶつけそうになったところへ、久我が手を添え、久世の頭を庇った。

 背後では医療用の搬送台が金属の床を鳴らし、隔壁の手前で立ち往生していた。


「こっち!」


 久我に促され、牧野は狭い保守通路へ入る。

 すぐ後ろで隔壁が閉じ、鈍い音が背中を押した。

 追ってくる足音はない。

 だが、久世のAOFにつながっていた監視線が外されたあとも、

 胸部の表示は落ち着かずに点滅している。


「久世さん、あと少しっすから」


 返事がないと分かっていても、牧野は声をかけた。


 右腕の固定は崩れていない。

 ただ、額は熱く、左の指にはさっき牧野の袖を掴んだ形がかすかに残っていた。

 抱えた身体が動くたび、牧野は支える腕の位置を確かめ直す。


 保守通路はほどなく二手に分かれた。

 左は配線がむき出しの細い道、右は古い階段へ続いている。

 久我が足を止めたとき、上方から女の声がした。


「……そこに誰かいるんですか!」


 牧野は顔を上げた。


「榊さん?」


 一拍遅れて、階段の踊り場に榊美月が姿を見せた。

 彼女は牧野を見つけて手すりを掴み、次にその腕の中へ視線を落とした。


「久世さん……」


 階段を駆け下りてくる足音が、二段飛ばしの速さで近づく。

 榊は牧野の前で急に立ち止まった。

 目は久世の顔と、右腕の包帯と、胸のAOFを行き来している。


「どうして……こんな」


「見つけたんす。でも、まだ意識がなくて。さっき急に動き出して、俺らを……」


 言いかけて、牧野は口を閉じた。榊の表情が変わるのを見たからだった。


「詳しいことは後で。身体を支えるから、少しこっちへ寄せてください」


 榊は声を整え、久世の脇に手を入れた。AOFの状態を確かめようとした指先が、途中で止まる。


「これ、同期の記録が……」


「今は外さないで」


 背後から別の女性の声がした。


 階段の上に、霧島霞が立っていた。

 榊と一緒に進んできたらしい。

 彼女はまず久世の呼吸を見て、それからAOFの胸部表示へ視線を落とす。


「装備を外す判断は、ここではしない方がいい。接続が不安定なら、解除そのものが負担になる」


 榊は反論しかけたが、久世の額に触れていた手を引かなかった。


 久我が霧島を見た。


「……あなた」


 霧島は顔を上げる。


「何か?」


「どこかで会ったことがある気がする」


 久我は相手の顔を確かめるように、わずかに目を細めた。


 霧島には、その言葉を気に留めた様子がなかった。

 話を続ける代わりに、榊の肩越しに久世を見ている。


「今は、その子を安全な場所へ運びましょう」


 榊が端末を開き、搬送路の図を呼び出す。

 外部への回線は切れたままだが、階段脇の保守端末から取れた情報が残っていた。


「ここを抜ければ、搬送用の昇降機があるはずです。設備が生きていれば、上の階まで運べます」


「それなら行こう。牧野、まだ抱えられる?」


「大丈夫っす」


 牧野は言ったあとで、腕の力を入れ直した。

 久世の頭がわずかに傾く。榊がすぐに支え、姿勢を戻した。


 四人は階段を使わず、配線の並ぶ緩やかな通路へ向かった。

 壁の先から送風機の音が聞こえる。空気は少しずつ暖かくなっていた。


 曲がり角を二つ越えたところで、榊の端末が震えた。


 《LIFT ACCESS/DENIED》


 続けて、通路の照明が一列ずつ消えていく。


「……おかしい。さっきまでは使えたのに」


 榊が画面を操作する。けれど、許可の表示は戻らない。


 久我が顔を上げた。


 奥の扉の向こうから、重い足音が近づいていた。

 急ぐでも、忍ぶでもない。

 歩幅の揃った音が、通路の壁を一歩ごとに震わせる。

 送風機の低い唸りに、硬い靴底の響きが混じった。


 扉の上の細い表示が切り替わる。


 《SECURITY AUTHORIZATION/THOR》


 続いて、天井の放送が短く鳴った。


『轟。医療搬送対象の回収を優先』


 霧島の目が、ほんのわずかに動いた。


 扉が開く。


 現れたのは、大柄な男だった。

 作業服とも軍服ともつかない濃い色の上着を着て、片手には手袋を握っている。

 男はまず久世を見た。次に牧野、その後ろの榊と霧島へ、順に視線を移した。


「その患者を返してもらおう」


 声は意外なほど落ち着いていた。


 久我が前に出る。


「こちらは特殊公安執行局。彼は我々の隊員です。通してもらいます」


「所属は関係ない」


 男――轟は手袋をはめた。


「ここから先は、俺の預かりだ」


 牧野が一歩退く。

 榊は久世の頭を支えたまま、背後の壁を確かめた。

 横へ抜ける扉はない。

 久世を抱いて戻れば、さっき閉じた隔壁へ突き当たる。


 久我の掌がゆっくりと上がった。


 床の目地に沿って淡い光が走り、《BASTION》の境界が四人の前へ広がっていく。


「牧野、久世をお願い」


「……了解っす」


 轟は足元の光を見下ろした。


「そうか。お前が久我か」


 久我の手が止まる。


 名乗った覚えはなかった。


「よく知ってるんですね」


「ここは門だ。通るやつの名前くらい、聞いてる」


 轟が一歩進む。


 久我は彼の足元を捕捉し、《GRAVITAS》による荷重を加えた。

 靴底が床へ強く押しつけられ、細かな埃が外へ跳ねる。


 だが男は膝を折らなかった。立ち止まり、靴の下で床材が低く鳴るのを聞いている。


「なるほど」


 轟は片足をゆっくり持ち上げた。


 久我が荷重を強めるより早く、男はその足を元の位置へ戻した。

 靴底と床の間で、乾いた火花が一粒弾ける。


 榊が息を呑む。


 轟は久我ではなく、牧野の腕に抱かれた久世へ視線を向けた。


「怪我を増やしたくないなら、今ここに置け」


「……誰が渡すかよ」


 牧野の声から、いつもの軽さが消えた。


 轟は表情を変えなかった。


「なら、ここを通るな」


 通路の奥で、止まっていた送風機が再び動き出した。


 久世は目を閉じたまま、牧野の腕の中で小さく息をした。


 四人の退路を塞ぐように、背後の隔壁が音もなく降り始めていた。

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