#44 門番
階段を下りきると、白い通路は急に幅を狭めた。
八神紅音は足元の段差を越え、壁の案内図を見上げた。
行先を示す文字のほとんどは塗り潰され、医療区画を意味する青い帯だけが奥へ延びている。
その下を、天城双葉の分身が先に進んでいた。
イヴは二人の後ろからついてきたが、さっきまで何度も振り返っていた道具箱にはもう手を触れない。
遠くで金属が鳴った。続いて何かが床を滑る音。天城が分身を止めるより早く、イヴが顔を上げた。
「……今の、聞こえた?」
「聞こえたわ。下がってて」
八神が答えると、イヴは口を開きかけて閉じた。
少し先の照明が一つ切れ、狭い通路に長い影が落ちる。
影の向こうから、水の匂いがした。
曲がり角を抜けたところに、排水溝を挟んだ広い作業室があった。
天井の配管が裂け、落ちる水が床に小さな輪をいくつも描いている。
壁際では鳴海冬真が男の手首を押さえつけ、
その反対側から別の青年が短い刃を取り上げようとしていた。
「鳴海!」
呼びかけると、鳴海は振り向かずに答えた。
「八神さん、そいつの足を見てください。まだ何か持ってる!」
床に押さえ込まれた男が、靴の踵を跳ね上げた。
金属の細い針が滑り出す。
天城の分身が先に動き、男の足首を床へ固定した。
八神が針を踏み砕くと、鳴海はようやく相手の腕を捻り、拘束具をかけた。
「助かりました」
「こっちも合流できて助かったわ。怪我は?」
「袖を切られた程度です」
鳴海の左腕には、破れた布の下から血が滲んでいた。
八神が目を向けると、彼は大したことではないとでもいうように腕を下ろした。
その隣の青年が顔を上げた。
イヴが息を呑む。
「アダム!」
彼女は道具箱を放り出し、濡れた床を駆けた。
青年の胸元へ飛び込む直前で足を止め、腕や顔を何度も確かめる。
彼が無事だと分かると、ようやく肩の力が抜けた。
「どこにいたの。通信もつながらないし、ずっと……」
「大丈夫だ。イヴは?」
「私は平気。あの人たちと一緒だった」
アダムは八神と天城を見た。まず二人の装備を、次に鳴海の傷を確かめるような目つきだった。
「助けていただいたようですね」
「それはこっちの台詞だ」
鳴海が切れた袖を押さえる。
「こいつがいなければ、あの刃は避けきれなかった。得体は知れないが、少なくとも今は敵じゃない」
「鳴海、ちょっと」
八神の声が変わった。
鳴海が彼女を見る。
その間に天城は分身を一体、出口の前へ移動させた。
もう一体は拘束した男のそばに残る。
何気ない配置に見えて、部屋を出ようとすれば誰の姿も見落とさない位置だった。
イヴはその動きに気づき、アダムの袖を掴んだ。
「……何?」
「あなたたち、久世湊に会っているでしょう」
八神は穏やかな口調のまま言った。
水滴の音が、ひときわ大きく聞こえた。
アダムは答えない。イヴだけが八神の顔を見つめ、それから天城へ視線を移した。
「久世さんに接触した二体の人型機械。私たちはその記録を見ているの」
八神は、イヴから目を離さなかった。
「あなたと最初に会った時点で、気づいていたことはあった。だから無理に追及しなかった。目的が分からないまま捕まえるより、行先を見たかったから」
「……泳がせてたってこと?」
イヴの声から、先ほどの明るさが消えた。
「そういうことになるわね」
天城が短く答えた。
八神はアダムへ向き直る。
「でも、今ので確信した。記録にいたもう一体も、あなたね。教えてもらえる?」
「アダムです」
「それはさっき聞いた。聞きたいのは、なぜ久世に近づいたかよ」
アダムはイヴの肩へ手を添えた。守るような仕草だったが、彼女を背後へ隠すことはしなかった。
「危害を加えるためではありません」
「それを決めるのは、こちらが事情を聞いてからよ」
鳴海が一歩、二人の間へ入った。
「待ってください。人型機械だって、どういうことですか」
「報告が後になってごめんね。久世に接触した正体不明の二体について、局内に記録が残ってる。人間に見えるけれど、身体の構造は違う」
「それだけで敵扱いするんですか」
鳴海の声に棘が混じる。八神はすぐには返さなかった。
「敵だと決めたわけじゃない。ただ、久世をさらった連中の施設で出会った以上、何も聞かずに通すわけにもいかないでしょ」
「答えられない」
アダムが言った。
イヴが彼を見る。アダムは視線を逸らさなかった。
「ただ、彼を連れ帰る必要がある。それだけは同じはずです」
「誰のところへ?」
八神の問いに、返事はなかった。
天城の分身が半歩前へ出た。
イヴはアダムの袖を放し、自分も扉の前へ立つ。
小さな身体のどこにそんな緊張が隠れていたのか、足元の水が揺れるほど素早い動きだった。
「双葉、動かないで」
八神が制した。
「私たちは久世を取り返しに来たの。あなたたちが本当に同じ目的なら、ここで争う意味はない」
「だったら道を開けて」
「それと、素性を隠すことは別の話よ」
イヴが唇を噛んだ。
アダムの手が、彼女の肩を軽く押す。
鳴海は二人をかばいながらも、刀身を持ったままのアダムの手元を見ていた。
誰も先に動かなかった。床を打つ水滴だけが、互いの沈黙を埋めていく。
「お、随分と賑やかじゃねえか」
聞き慣れない男の声が、張り詰めた空気に割って入った。
八神が振り返ると、通路の奥に大柄な男が立っていた。
男はその場にいる五人を順に見渡し、楽しげに笑った。
「……誰、あなた?」
「そんなことはどうでもいいじゃねえか」
鳴海がわずかに眉を動かした。
「局を襲撃した連中の一人か」
「へえ、知ってんのか」
「報告書でな」
男は口角を上げた。
「そりゃ光栄だ。で、ここにいる奴らは、少しは楽しませてくれるのか?」
「あなたに構ってる時間はないわ」
「つれないね」
ミカエルの視線がアダムで止まる。
「お前は見たことがないな。さっきの連中とは違う匂いがする」
「あなたは誰ですか」
「名前を聞いたところで、どうする?」
アダムは答えなかった。代わりにイヴを自分の背後へ下げる。
「そっちは守りたいものがあるらしい」
ミカエルの笑みが深くなる。
「いいよ。そういうやつの方が、必死になる」
天城の分身が背後から彼へ駆け寄った。
入口を塞ぐための動きだった。
ミカエルは振り返りもせず、伸びてきた腕を掴んで投げた。
分身の身体が壁にぶつかり、消火用のケースが割れた。
赤い粉が床へ降る。天城が息を詰める間に、ミカエルはもう一歩、こちらへ来ていた。
「おいおい。俺はまだ話してる途中だぞ」
八神は手を上げ、全員を制した。
鳴海が拘束した男を壁際へ引きずる。
天城は残る分身を八神の横へ寄せ、アダムはイヴをかばいながら後退した。
「話なら聞いてあげる」
八神は男の正面に立った。
「でも、ここを通す気はない」
ミカエルはその言葉に、心底嬉しそうな顔をした。
「それでこそだ」
濡れた床に、男の影が長く伸びる。
今度こそ誰も、相手の正体を問い直さなかった。
*
閉まりかけた隔壁の下を、牧野征士郎が身を屈めてくぐった。
久世を抱えているせいで、思うように足が動かない。
肩をぶつけそうになったところへ、久我が手を添え、久世の頭を庇った。
背後では医療用の搬送台が金属の床を鳴らし、隔壁の手前で立ち往生していた。
「こっち!」
久我に促され、牧野は狭い保守通路へ入る。
すぐ後ろで隔壁が閉じ、鈍い音が背中を押した。
追ってくる足音はない。
だが、久世のAOFにつながっていた監視線が外されたあとも、
胸部の表示は落ち着かずに点滅している。
「久世さん、あと少しっすから」
返事がないと分かっていても、牧野は声をかけた。
右腕の固定は崩れていない。
ただ、額は熱く、左の指にはさっき牧野の袖を掴んだ形がかすかに残っていた。
抱えた身体が動くたび、牧野は支える腕の位置を確かめ直す。
保守通路はほどなく二手に分かれた。
左は配線がむき出しの細い道、右は古い階段へ続いている。
久我が足を止めたとき、上方から女の声がした。
「……そこに誰かいるんですか!」
牧野は顔を上げた。
「榊さん?」
一拍遅れて、階段の踊り場に榊美月が姿を見せた。
彼女は牧野を見つけて手すりを掴み、次にその腕の中へ視線を落とした。
「久世さん……」
階段を駆け下りてくる足音が、二段飛ばしの速さで近づく。
榊は牧野の前で急に立ち止まった。
目は久世の顔と、右腕の包帯と、胸のAOFを行き来している。
「どうして……こんな」
「見つけたんす。でも、まだ意識がなくて。さっき急に動き出して、俺らを……」
言いかけて、牧野は口を閉じた。榊の表情が変わるのを見たからだった。
「詳しいことは後で。身体を支えるから、少しこっちへ寄せてください」
榊は声を整え、久世の脇に手を入れた。AOFの状態を確かめようとした指先が、途中で止まる。
「これ、同期の記録が……」
「今は外さないで」
背後から別の女性の声がした。
階段の上に、霧島霞が立っていた。
榊と一緒に進んできたらしい。
彼女はまず久世の呼吸を見て、それからAOFの胸部表示へ視線を落とす。
「装備を外す判断は、ここではしない方がいい。接続が不安定なら、解除そのものが負担になる」
榊は反論しかけたが、久世の額に触れていた手を引かなかった。
久我が霧島を見た。
「……あなた」
霧島は顔を上げる。
「何か?」
「どこかで会ったことがある気がする」
久我は相手の顔を確かめるように、わずかに目を細めた。
霧島には、その言葉を気に留めた様子がなかった。
話を続ける代わりに、榊の肩越しに久世を見ている。
「今は、その子を安全な場所へ運びましょう」
榊が端末を開き、搬送路の図を呼び出す。
外部への回線は切れたままだが、階段脇の保守端末から取れた情報が残っていた。
「ここを抜ければ、搬送用の昇降機があるはずです。設備が生きていれば、上の階まで運べます」
「それなら行こう。牧野、まだ抱えられる?」
「大丈夫っす」
牧野は言ったあとで、腕の力を入れ直した。
久世の頭がわずかに傾く。榊がすぐに支え、姿勢を戻した。
四人は階段を使わず、配線の並ぶ緩やかな通路へ向かった。
壁の先から送風機の音が聞こえる。空気は少しずつ暖かくなっていた。
曲がり角を二つ越えたところで、榊の端末が震えた。
《LIFT ACCESS/DENIED》
続けて、通路の照明が一列ずつ消えていく。
「……おかしい。さっきまでは使えたのに」
榊が画面を操作する。けれど、許可の表示は戻らない。
久我が顔を上げた。
奥の扉の向こうから、重い足音が近づいていた。
急ぐでも、忍ぶでもない。
歩幅の揃った音が、通路の壁を一歩ごとに震わせる。
送風機の低い唸りに、硬い靴底の響きが混じった。
扉の上の細い表示が切り替わる。
《SECURITY AUTHORIZATION/THOR》
続いて、天井の放送が短く鳴った。
『轟。医療搬送対象の回収を優先』
霧島の目が、ほんのわずかに動いた。
扉が開く。
現れたのは、大柄な男だった。
作業服とも軍服ともつかない濃い色の上着を着て、片手には手袋を握っている。
男はまず久世を見た。次に牧野、その後ろの榊と霧島へ、順に視線を移した。
「その患者を返してもらおう」
声は意外なほど落ち着いていた。
久我が前に出る。
「こちらは特殊公安執行局。彼は我々の隊員です。通してもらいます」
「所属は関係ない」
男――轟は手袋をはめた。
「ここから先は、俺の預かりだ」
牧野が一歩退く。
榊は久世の頭を支えたまま、背後の壁を確かめた。
横へ抜ける扉はない。
久世を抱いて戻れば、さっき閉じた隔壁へ突き当たる。
久我の掌がゆっくりと上がった。
床の目地に沿って淡い光が走り、《BASTION》の境界が四人の前へ広がっていく。
「牧野、久世をお願い」
「……了解っす」
轟は足元の光を見下ろした。
「そうか。お前が久我か」
久我の手が止まる。
名乗った覚えはなかった。
「よく知ってるんですね」
「ここは門だ。通るやつの名前くらい、聞いてる」
轟が一歩進む。
久我は彼の足元を捕捉し、《GRAVITAS》による荷重を加えた。
靴底が床へ強く押しつけられ、細かな埃が外へ跳ねる。
だが男は膝を折らなかった。立ち止まり、靴の下で床材が低く鳴るのを聞いている。
「なるほど」
轟は片足をゆっくり持ち上げた。
久我が荷重を強めるより早く、男はその足を元の位置へ戻した。
靴底と床の間で、乾いた火花が一粒弾ける。
榊が息を呑む。
轟は久我ではなく、牧野の腕に抱かれた久世へ視線を向けた。
「怪我を増やしたくないなら、今ここに置け」
「……誰が渡すかよ」
牧野の声から、いつもの軽さが消えた。
轟は表情を変えなかった。
「なら、ここを通るな」
通路の奥で、止まっていた送風機が再び動き出した。
久世は目を閉じたまま、牧野の腕の中で小さく息をした。
四人の退路を塞ぐように、背後の隔壁が音もなく降り始めていた。




