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特殊公安執行局  作者: the 春


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43/49

#43 異変

 防火扉の内側から、車輪を引きずる音が聞こえた。


 牧野征士郎は小窓に顔を寄せた。

 青い誘導灯の下を、白い搬送台が一台、ゆっくりと横切っていく。

 透明な覆いの中に人影はない。

 台の下から伸びた管が床すれすれを揺れ、曲がり角を曲がるところで一度だけ金属の縁を叩いた。


 音が消えると、辺りはまた静かになった。


「……あれ、医療用っすよね」


「そう見えるわね」


 久我静は扉の横にしゃがみ込み、保守用の薄い蓋を外していた。

 内側には、年季の入った歯車と、手動で締結を解除するための軸がある。

 機械油は乾きかけていたが、動かせないほどではないらしい。


 牧野は端末を見下ろした。

 先ほど検出した久世専用AOFの識別番号は、履歴の中に残っている。

 画面を開くのは、もう五度目だった。


「この信号が本物なら、久世さんは近いはずなんすよ」


「だからこそ焦らないで。相手にここまで誘導されている可能性もある」


「分かってるっす」


 答えたあとで、牧野は扉をもう一度見た。


「……でも、分かってても急ぎたくなるんすよ」


 久我は彼を見上げたが、何も言わなかった。代わりに腰の工具を取り出し、差込口に細い柄を通した。


「こっちを押さえて。少しずつ回すから」


 牧野が軸を支え、久我が体重をかける。

 最初のひと回しは動かず、二度目で内部の爪が外れた。

 低い歯車の音が壁の奥を伝わり、扉の上部に細い隙間が生まれる。


「いけそうっす」


「まだ。途中で力を抜かないで」


 重い扉は簡単には開かなかった。

 二人が交代で軸を回すたび、どこかで鉄が擦れ、嫌がるように短い音を立てる。

 ようやく人ひとりが通れる幅になったころには、牧野の掌が汗で濡れていた。


 久我が先に頭を差し入れ、向こう側を確かめる。


「人の気配はない。行くわよ」


 牧野は頷いて後に続いた。


 扉の向こうは、先ほどの作業区画とは空気が違っていた。

 消毒液の匂いに、温められた樹脂のような甘さが混じっている。

 壁には患者移送の案内が掛けられ、床には台車の通った新しい跡が幾筋も残っていた。

 ここがただの放棄施設ではないことを、誰かの生活に近い匂いがかえってはっきり教えていた。


 牧野の端末が震えた。


 《LOCAL SIGNAL DETECTED》


 識別番号が現れる。今度はすぐに消えなかった。


「久我さん」


「見えてる」


 久我は壁の角を確かめると、先へ進むよう顎で示した。


 足音を殺して廊下を抜けると、左右に並んだ扉の一つがわずかに開いていた。

 室内から人の話し声が漏れている。


「移送の許可が下りるまでは、接続を触らないで」


「警報が何度も出てるんです。そんな状態でここに置いて――」


 返事の代わりに、通信機の雑音が聞こえた。


 牧野は久我を見た。久我が短く頷く。二人は扉の左右へ分かれた。


 久我が戸を押し開く。


「特殊公安執行局です。全員、その場から離れてください」


 白衣を着た職員が二人、同時に振り向いた。

 ひとりは端末を抱えたまま立ちすくみ、もうひとりは反射的に壁の操作盤へ手を伸ばす。


「触らないで」


 久我の声に、手が止まった。


 牧野には、その先が見えていなかった。


 室内の奥に置かれたベッド。

 右腕を胸元へ固定された青年。

 頬に貼られた小さな医療テープ。

 細く上下する毛布。


 つい数日前まで、よく見慣れていた顔だった。


「……久世さん」


 呼んでから、自分の声がほとんど出ていないことに気づいた。


 牧野はベッドへ近づいた。久世湊は目を閉じたまま、浅い呼吸を繰り返している。

 唇はひどく乾き、髪が額に貼りついていた。

 着けているのは間違いなく久世のAOFだ。

 外部の監視装置へ何本もの配線がつながれ、胸の表示灯が心拍に合わせて弱く明滅していた。


「久世さん。……俺っす。牧野っすよ」


 返事はない。


 手を伸ばしたものの、牧野は肩に触れる手前で止まった。

 動かない右腕に赤く滲んだ包帯が巻かれている。

 触れていいところが分からず、結局ベッドの柵を握った。


「遅くなって、すみません」


 それだけ言って、口を閉じる。


 怒鳴ってでも起こしたかった。助けに来たと笑ってみせたかった。

 けれど、久世の身体から伸びた管や配線を前にすると、どんな言葉も軽すぎる気がした。


 背後で、久我が職員に尋ねる。


「意識が戻らない理由は?」


「……検査後から神経応答が不安定で、原因を調べています」


「外部の装置を使ったの?」


「それは、私たちの担当ではありません」


 言葉を濁した職員に、久我はそれ以上詰め寄らなかった。

 まず搬送できる状態なのかを聞き、AOFの接続を切らずに運ぶ手段を確かめる。

 そのやり取りの途中、牧野のすぐ横で監視装置が短い音を立てた。


 画面の波形が一度、乱れる。


「……久我さん?」


 牧野は顔を上げた。


 久世の左手が動いていた。


 指が毛布を掴み、ゆっくり離す。次に手首が浮いた。

 眠りから覚めた人間の動きに見えて、牧野は思わず笑いかけた。


「久世さん、聞こえ――」


 手が伸びた。


 牧野の手首を掴んだ指は、冷たかった。引き寄せられると同時に、ベッドの柵が脇腹へ食い込む。


「痛っ……久世さん?」


 顔を覗き込んでも、瞼は閉じている。


 次の瞬間、久世の身体が起き上がった。


 腹部の支持材が一斉に縮み、ベッドを軋ませる。

 久世は握った腕を支点に牧野を引き倒そうとした。

 牧野が咄嗟に膝をつくと、すぐ頭の上を左肘が通り過ぎた。

 攻撃に迷いがない。

 ためらう時間ごと切り捨てたような動きだった。


「離れて!」


 久我がベッドの反対側から腕を伸ばす。

 だが久世は、牧野の手を放すなり床へ滑り降りた。

 右腕の固定帯が引かれ、布の内側に赤い点が増える。


「おい、待ってくださいよ!」


 牧野は後退しながら呼びかけた。


「もういいっすから。久世さん、帰りましょう。俺ら、迎えに来たんすよ」


 言い終わる前に、久世の掌が喉元へ迫った。


 牧野は左へ身をひねって避ける。

 指先が襟を擦り、布を引き裂いた。

 続く膝蹴りを受け止めた腕に、痺れるような衝撃が残った。


 久世は牧野の顔を見ていない。そもそも目を開けていなかった。


 それが何より気味悪かった。


 いつもの久世は、攻め込む前に相手の重心を確かめる。

 動きが一拍遅くなるときさえあった。

 なのに今は、踏み出した足の向きが決まるより早く、身体が次の攻撃へ移っている。


 そのせいで、負傷した肩も容赦なく振り回された。


「久世さん、やめてくださいって!」


 牧野は殴り返せなかった。

 避けた先で相手が壁へぶつかりそうになると、つい手を伸ばしてしまう。

 そのたびに体勢を崩され、背中を器材棚へ打ちつけた。

 金属の容器が落ち、部屋に甲高い音を撒き散らす。


 久我が二人の間に入った。


「牧野、扉の方へ。職員も避難させて」


「でも、久我さん一人じゃ!」


「動きを止めるだけよ」


 久我が掌を開くと、床の目地に沿って淡い線が走った。


 《BASTION》の防衛領域が広がり、ベッドと医療機器を囲む手前で止まる。

 久我は領域内へ踏み出した久世の左足を捕捉し、《GRAVITAS》による追加の荷重を加えた。


 足が沈んだ。久世の膝がわずかに曲がる。


 久我静の《GRAVITAS》は、重力そのものを操作する能力ではない。

 《BASTION》の領域内で選んだ対象へ、その重さとは別の下向きの荷重を加える。

 武器を振り下ろさせたり、敵の歩みを封じたりするには有効だが、加重された身体を支える床にも負担が残る。なにより、いま相手にしているのは負傷した味方だった。


 久我はそれ以上の荷重を与えなかった。


 ところが、久世は足を引き抜こうとしなかった。

 膝を深く折って床に左手をつき、沈んだ脚を支点に身体を回す。

 支えを失うはずの動きから、肩を壊しかねない角度で体勢を立て直した。


 固定帯の端が裂ける。


「そんな動き、させないで……!」


 久我の声が硬くなる。


 荷重を緩めれば久世は動く。強めれば久世の脚を傷める。

 久我が判断を迷った一瞬、久世の手が彼女の喉元へ伸びた。


 牧野は横から飛び込んだ。


「久我さん!」


 久我を押しのけた勢いのまま、牧野は久世の腕を抱え込む。

 二人の身体が床に倒れ、背中に衝撃が走った。

 久世の肘が牧野の頬を打ち、口の中に鉄の味が広がる。


「……久世さん」


 牧野は両腕で必死に相手を押さえた。

 手首をひねれば外せる。

 顎を打てば、少なくともひるませられる。

 それくらいのことは分かっている。


 けれど、目の前には久世の顔があった。


 初めて訓練で組んだ日と、何も変わらない顔だった。ただ、こちらが呼んでも目を開けない。


「……頼むから」


 押さえていた久世の手首が、少しずつ滑っていく。


「もう、やめてくださいよ」


 左手が牧野の首へ届いた。


 *


 久世は、水の音で足を止めた。


 くるぶしの辺りまで浅く浸かっているのに、足元には底が見えなかった。

 暗い水面が、見渡す限り続いている。

 遠くでピアノの鍵盤をひとつ押したような音がして、その余韻だけが空へ昇っていった。


 一脚の椅子が置かれていた。


 椅子に座った青年が、久世を見ている。

 黒い外套の裾は水に触れているはずなのに、少しも濡れていなかった。


「……誰ですか」


 久世が声をかけると、青年は首を傾けた。


「随分遅かったね」


「ここは、どこなんですか」


「僕も知りたいくらいだよ」


 青年の答えは軽かったが、久世は笑えなかった。

 腕が痛む。胸が苦しい。それなのに、どこを探しても傷がない。


「俺は、確か……戦っていて」


「それなら、今も戦ってる」


 青年は足元の水面を指さした。


 波紋の中に、明るい部屋が映る。白い床。倒れた器材棚。そこで二人の男がもみ合っていた。


 一人は牧野だった。


 もう一人には、見覚えがありすぎた。


 久世は思わずしゃがみ込んだ。


「……俺?」


 映像の中の自分は、牧野の喉に手をかけている。


「何をしてるんですか、俺は」


「君が知らなくても、身体は動く。困ったことにね」


「止めてください」


「僕に?」


「ほかに誰がいるんですか!」


 声を荒らげると、青年がようやく椅子から立った。


「君だよ。動いているのは君の身体だ」


「だからって……俺はそんなこと、したくない!」


 青年は久世の隣へ来て、水面を覗き込んだ。

 牧野の顔がゆがむ。何かを言っているが、ここまで声は届かなかった。


「じゃあ、やめればいい」


「簡単に言わないでください。どうやって……」


「さっきから、君は自分の身体を動かそうとしているだろう。でも、もう先客がいる」


「先客?」


 青年は答えず、久世の左手を見た。


「その手を、閉じたくないと思ってみて」


 久世は水面に映る自分の指を見つめた。牧野の首へかかった手。一本ずつ食い込んでいく指。


 閉じるな。


 声に出す前に、指先へ痛みが走った。


 久世は水の中へ腕を差し込んだ。

 手首まで沈めても何も掴めず、冷たさだけが肩へ這い上がる。

 もう一度、深く伸ばしたところで、硬いものに指が触れた。


 水面の向こうにいる、自分の左手だった。


「離せ……!」


 引くと、肩の奥で何かが裂けるように痛んだ。それでも指を緩めない。


「牧野さんから、離れろ!」


 水が大きく揺れ、青年の椅子が倒れた。


 *


 牧野の喉元で、久世の指が止まった。


 締まるはずだった力が途切れ、握りかけた手が開く。

 次の瞬間、久世の全身が激しく震えた。

 AOFの支持材が細かく収縮し、身体の動きについていけなくなったかのように不規則な音を立てる。


「久世さん……?」


 牧野が呼びかけると、久世の手がほんの少しだけ動いた。


 今度は喉ではなく、牧野の上着の袖を掴んでいた。

 弱い力だった。先ほどの攻撃とはあまりに違い、牧野はしばらく何もできなかった。


 久我が近づく。


「牧野、支えて。急に倒れるかもしれない」


「……はい」


 二人で久世の身体を抱え起こす。

 頭が牧野の肩へもたれ、汗ばんだ額が頬に触れた。

 久世の左手から力が抜け、掴まれていた袖だけに皺が残る。


「聞こえてたんすかね」


 牧野は誰にともなく尋ねた。


 久我はすぐに答えず、久世の胸部表示を確かめた。


 《CONSCIOUSNESS/UNRESPONSIVE》


 意識の判定は変わらない。

 しかし運動出力の欄には、直前まで続いていた異常な命令が途切れた記録が残っていた。


 室内の隅で、職員が端末を抱えたまま立っていた。

 久我が医療用の搬送台を要求すると、ようやく身体を動かす。

 廊下の向こうから車輪の音が近づいてきた。


 牧野は久世の顔を見た。


「起きたら、言いたいこと山ほどあるんすよ」


 まつげは動かない。


「でも、今はいいっす。帰ってからで」


 そのとき、扉の外で何かが噛み合う音がした。


 久我が顔を上げる。通路の非常灯が一つ、赤に変わった。


「牧野、久世から離れないで」


「……何か来るんすか」


「分からない。でも、ここに長居はできない」


 久我は開いた扉の方へ歩み寄り、廊下を覗いた。

 さっきまで来られたはずの道に、ゆっくりと隔壁が降りてくる。

 職員が押してきた搬送台も、その手前で止まった。


 牧野は久世を抱えたまま立ち上がろうとした。細い身体が腕の中で揺れる。こんなに軽かっただろうか、と口にしかけて、やめた。


 すぐ横でAOFの表示が更新される。


 《MOTOR COMMAND/INTERRUPTED》


 《INPUT SOURCE/UNIDENTIFIED》


 久我が振り返った。


「牧野、急いで」


 扉が閉まるまで、もう時間はない。


 牧野は久世の身体を抱き直し、隔壁へ向かって走った。

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