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特殊公安執行局  作者: the 春


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42/49

#42 信号

 八神紅音が短槍の柄を押さえたとき、男の輪郭が二つに割れた。

 片方は槍を握ったまま、もう片方は壁の照明へ溶け込む。

 天城双葉の分身が前者の肩を掴んだが、掌は空を抜けた。


「また偽物!」


「右下!」


 イヴが叫ぶ。

 床へ転がした工具が、誰もいないように見える場所で弾かれた。

 八神はそちらへ身体を向けた。短槍の穂先が床すれすれを走る。

 腰を引いて避け、柄の中ほどへ掌を当てる。


 今度の槍には重みがあった。


 その感触を失わないうちに、八神は手首を返した。

 男の右腕が外へ流れる。

 天城の分身が左から入って肩を押し、本人が背後へ回った。

 男は三人分の足音に振り向こうとしたが、イヴが足元へ投げた工具を踏んで、わずかに体勢を崩した。


「天城、出口を塞げ」


「了解!」


 二体の分身が左右の通路へ走った。男は最も近い一体へ槍を突き出す。

 刃が分身の脇腹を擦った。

 天城は分身の体勢を立て直し、男の槍を押さえさせた。その短い隙に、八神がもう一歩内側へ入る。

 男の肩を壁へぶつけた。

 短槍が床に落ち、乾いた音を立てる。


 男は左手の袖口へ指を入れようとした。

 八神はその手をつかみ、壁へ押し当てた。袖の中から、硬い板状の操作器が半分だけのぞく。


「投影装置はこれか」


 イヴが男の足元の灯を指した。


「それを壊しても、壁からも出るよ。操作できないようにしないと」


 八神は男の指を伸ばさせ、操作器を取り上げた。天城が拘束帯で両腕を締める。

 男は口を閉ざしたまま、八神たちの手元を見ていた。

 幻の人影が一斉に消える。

 白い通路には、三人と二体の分身、そして拘束された男だけが残った。

 奇妙なほど広かった。


「名前を聞いても、答えないだろうな」


 八神が言う。

 男は視線を伏せた。

 イヴが拾い集めた工具を道具箱へ戻す。


「ここの人って、みんなこうなの?」


「さあね。それよりかわい子ちゃん、名前は?」


「イヴ」


「かわいい」


 天城が分身の一体を通路の角へ向かわせた。


「先の扉が開き始めてる」


 八神は拘束した男を見た。


「この先に何がある」


 返答はなかった。

 男の襟元で、小さな赤い灯が点いた。

 八神が即座に男から離れ、天城とイヴを後ろへ下げる。


「伏せろ!」


 甲高い電子音。

 しかし、爆発は起こらなかった。


 イヴが床から投げた細い工具が、襟元の器具を引っかけていた。

 男の服から外れた小片は、壁を打って床に落ち、赤い灯を消した。

 八神は工具と小片の距離を見た。


「よく気づいたわね」


「槍を落としてから、襟元だけ点滅し始めてたから」


 男は壁にもたれ、俯いた。

 天城の分身が廊下の先から戻る。


「扉の先、下り階段になってる。遠くに、医療用の搬送灯みたいなものが見える」


 八神は男を拘束したまま部屋の柱へ固定し、端末へ位置記録を残した。

 通信が戻れば、御堂へ送れる。


「進みましょう」


 イヴが道具箱を持ち直す。


「私も行っていい?」


「いいけど、危ないから前には出ちゃだめよ?」


「分かった」


 天城は分身を二体とも呼び戻し、一体だけを先行させた。もう一体は背後の監視に残す。

 白い通路の先で、扉が最後まで開いた。


 *


 牧野が最初に見つけたのは、血のついた布だった。


 右の搬送路を進んだ先、壁際に置かれた台車の角へ、白い包帯が引っかかっていた。

 血は乾ききっていない。

 近くには、医療用の手袋が片方だけ落ちている。


「久我さん」


 牧野が包帯を示す。

 久我は台車の車輪を確かめた。片方の留め具が歪み、床に浅い溝を残している。


「最近、ここを通ってる」


 その先には、重い防火扉があった。

 扉の小窓から覗くのは、別の搬送路だった。こちらより狭く、壁には青い表示灯が続いている。

 牧野が扉の取っ手に触れた。


 開かない。


「鍵っすね」


 久我は小窓の縁を見た。

 扉の内側にだけ、細い金属板が設けられている。

 外からの操作を受けつけない仕組みらしい。


「無理に壊すと、また道が塞がるかもしれない」


「じゃあ、別の道を探すっすか」


 そのとき、牧野の端末が一度だけ鳴った。

 画面の上隅に、弱い接続表示がともる。


 《LOCAL SIGNAL DETECTED》


 数字が短く並んだ。

 榊が出動前に見せていた、久世のAOFの識別番号だった。

 牧野は目を見開いた。


「久我さん……これ」


 久我が画面を覗き込む。

 信号は一秒にも満たず、すぐ途切れた。位置は表示されていない。再接続の操作にも応答がなかった。


「久世の装備なの?」


「番号は一致してるっす。間違いない……いや、信号だけを流してる可能性もありますけど」


「そこは断定しない方がいいわね」


 久我は扉の向こうを見た。


 遠くから、車輪の細い音が聞こえる。

 正面の防火扉の枠には、床を移動させた機構と同じ形式の認証灯が取りつけられていた。


 牧野は端末を持ち直した。


「でも、同じ系統の設備が近くにあることは分かった。御堂さんへ届くか試して」


「はい!」


 牧野が端末を操作する。

 雑音の海に、一瞬だけ声が混じった。


『……こちら……どう……』


「御堂さん! 牧野っす! 久世さんのAOFの信号を――」


 言い終わるより先に、回線は切れた。

 緑の点が灰色に戻る。

 牧野は端末を睨んだまま動かなかった。

 久我が肩へ手を置く。


「聞こえたかもしれない。もう一度、後で試そう」


 牧野は小さく頷いた。

 防火扉の向こうで、車輪の音が遠ざかる。

 二人はその音を追うように、扉の横にある保守用の壁面を調べ始めた。


 *


 左の通路を進んだ藍沢は、壁の向こうから声を聞いた。

 人の声ではない。

 一定の間隔で同じ音節を繰り返す、搬送装置の案内音だった。

 近づくにつれて、車輪のきしみと金属の擦れる音がはっきりする。


 曲がり角を越えると、長い窓があった。


 ガラスの向こうを、医療用の自動搬送台がゆっくり進んでいる。

 透明な覆いがかけられ、中には空の寝具が一組載っていた。

 台車は奥の扉へ吸い込まれ、しばらくして別の台車が出てきた。

 こちらには薄いシーツと、使用済みの手袋が入った容器が載っている。

 藍沢は窓の下にある操作盤を見た。表示は消えているが、台車の識別番号だけが小さく点滅していた。

 その隣に、搬送先が表示される。


 《LOWER CORE/MEDICAL》


 藍沢は短く息を吐いた。

 背後で、扉が閉じる音がした。

 振り返ると、曲がり角の照明が一つずつ落ちている。

 こちらへ向かって暗闇が進んでくるようだった。


 そして、窓の向こうでも搬送台が止まった。

 通路の奥から、足音が二つ近づく。

 白い医療服を着た人影が、搬送台の覆いを持ち上げた。

 手袋の手がシーツを整え、使い終えた器具を容器へ移す。


 その一人が、ふと顔を上げた。

 窓越しに藍沢と目が合う。

 医療服の人物は何も言わず、壁の非常押しボタンへ手を伸ばした。

 藍沢が窓から離れる。

 警報が鳴った。

 赤い光が廊下の端から端へ走る。

 藍沢は窓の先にある、手動開放用の小さなレバーへ手をかけた。

 内側の人影は、既に奥の扉へ逃げていく。


「待て!」


 扉はびくともしない。

 窓の上で新しい表示が点灯する。


 《MEDICAL ACCESS/LOCKDOWN》


 藍沢の指が、レバーからゆっくり離れた。

 窓越しの医療区画はまだ見えている。だが、その先へ進む道だけが閉じられていた。

 ガラスの奥の照明が、ひとつ消える。

 最後に残った白い灯の下で、空の搬送台が静かに待っていた。


 *


 医務室の扉には、外側から鍵がかかっていた。


 久世湊は、まだ目を開けない。


 寝台の横では、薄い表示板が一定の間隔で光っている。

 心拍の線は山を描き、少し低くなって、また元の高さへ戻った。

 呼吸のたびに毛布の端がわずかに持ち上がる。


 久世専用のAOFは外されていなかった。


 右腕には負担を減らすための固定が施され、胸元から伸びた監視線が壁の装置へつながっている。

 先の実験で生じたモジュールの冷却は完了していたが、身体の反応は戻らない。

 神経応答欄には灰色の表示が残っていた。


 《CONSCIOUSNESS/UNRESPONSIVE》


 医療班の一人が記録を更新する。


「外側の区画で警報が続いています」


 隣の職員が言った。


「こちらはどうする?」


「搬送指示は出ていません。状態が安定するまでは動かせない」


 久世の瞼は閉じたままだった。


 壁の外を、何人かの足音が駆け抜けていく。

 廊下を塞ぐ扉の施錠音が重なり、静かな病室の扉にも短い振動が伝わった。

 医務室の照明は変わらない。

 ベッドの横で、一つだけ警告灯が瞬いた。


 《EXTERNAL LINK/INTERRUPTED》


 職員が端末を覗き込む。


「……さっき、一度だけ外部へ信号が出たようです」


「遮断できたか」


「今は切れています。ただ、送り先が分かりません」


 表示はすぐに消えた。


 部屋に残ったのは、規則正しい心音だけだった。


 *


 管の中を流れる水が、遠くの壁で歌っていた。


 榊と霧島の下る階段に、鳴海とアダムの進む足音は届かない。

 八神たちの開いた扉も、久我と牧野の前に立ちはだかる防火扉も、別々の高さに置かれていた。


 それでも、四つの通路を走る配線は奥へ向かうほど太くなり、やがて同じ色の光を壁に滲ませていた。

 藍沢は医療区画の窓へ掌を当てた。

 冷たいガラスの向こうでは、もう誰も動いていない。

 足元に赤い文字が現れる。


 《INTRUDER ROUTE/ISOLATION COMPLETE》


 続いて、少し離れた別の表示が点く。


 《PATIENT TRANSFER/REQUEST PENDING》


 藍沢は二つの文字を見比べた。

 耳の奥で警報が鳴り続ける。

 施設は侵入者を閉じ込めるだけではなく、奥にある何かを動かそうとしていた。


 その動きを止める手段は、まだ見つからない。

 白い搬送台が一台、ガラスの向こうを通り過ぎた。

 誰も載せていないはずの寝具が、曲がり角で一度だけ大きく揺れた。

 そこから先は、見えなかった。

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