#41 探し物
扉が閉じる音には、余韻があった。
分厚い鋼板が床に噛み合い、その衝撃が天井の配管を渡って遠くへ逃げていく。
残された響きは細く長く、暗い廊下の隅でようやく息を絶えた。
藍沢真は足を止めなかった。
左の通路には、白く濁った照明が等間隔に浮かんでいる。
湿った床を踏むたび靴底が短く鳴った。
背後の扉はもう動かない。金属の合わせ目へ指を差し込む余地すらなかった。
背後で、二つの通路を閉ざした隔壁の認証灯が緑から赤へ変わった。
追いかけてくる足音はない。
別の道を選んだ二人の気配も、厚い鋼板の向こうへ失われていた。
壁の下部には、車椅子の車輪が擦ったような傷が続いていた。
傷は古いものと新しいものが重なり、やがて廊下の曲がり角で途切れる。
藍沢は腰を落とし、床へ手を当てた。
薄い水膜に、二本の車輪跡が残っている。その間には靴底の模様。まだ濡れたままだった。
「搬送路、か」
端末には地図が映らない。
壁の内側から漏れる電磁雑音が、位置を示す点を何度も画面の外へ追い出していた。
藍沢は端末をしまい、耳を澄ませた。
遠くで車輪が回る。
滑らかな音のあとに、きしむような一音が混じる。間隔は一定だった。誰かが台車を押しているというより、自動搬送設備が同じ場所を往復しているような響きだった。
藍沢は足を速めた。
*
右の搬送路では、久我静が先頭を歩いていた。
天井は高く、梁の間に張られた管が、古い楽譜の五線のように何本も並んでいる。
半分以上の照明が死んでおり、灯っている部分だけが床に細長い白を落としていた。
「さっきの人、結局何者だったんすかね」
牧野征士郎の声は、広い通路に吸い込まれた。
「名前も所属も聞けなかったわね」
「こっちを助けてくれたのに、最後は『また会えるといいな』っすよ。妙に余裕がある人でしたね」
「助けたことと、信用できることは別よ。ただ、あの刺客の仲間なら、私たちを守る必要もなかった」
「……追わなくてよかったんすか」
「私たちの任務は久世の奪還」
久我は前を向いたまま答えた。
牧野は閉まった扉の方角を一度振り返り、通信機の受信状態を確かめた。
応答を示す緑の点は、点いたと思う間もなく灰色へ戻った。
「御堂さん、こちら牧野。聞こえたら応答をお願いします」
雑音だけが返ってきた。
久我は通路の柱を見た。
床に近いところに、新しい靴の擦れ跡がある。
細い車輪の跡も同じ方向へ続いていた。
「先へ行きましょう。今は位置を取り戻すことが先よ」
「了解っす」
搬送路の奥で、小さな緑色の灯がともった。
そのすぐ下に、文字が浮かぶ。
《ACCESS ROUTE/02》
牧野は歩幅を緩めた。
久我が近づくと、灯は消えた。
代わりに床下で機械が一度動き、通路の先から低い振動が返ってきた。
建物の奥で、大きな何かが身じろぎをしている。
*
鳴海冬真は、刺客の左手を見失わなかった。
暗闇の中、刃が一本しかないように見せていた男の腕。
その内側から二本目の刃が現れた瞬間、鳴海は身体を沈めた。
鋭い金属が制服の肩口を掠め、背後の配管に噛みつく。
アダムが男の腕へ飛びつく。
「右は押さえた!」
「離すな!」
鳴海は刃を避けた姿勢のまま、男の足首を払った。
相手の踵が床を滑る。
だが転倒する直前、男は反対の手で壁を叩き、二人の拘束から上体を引き抜いた。
耳元の装置が緑から赤へ変わる。
送風機の唸りが大きくなった。
破れた配管から水が噴き、床の数か所で不規則な音を立てる。
壁は四方から音を返し、男の足音も、鳴海たちの呼吸も、一本の濁ったうねりになった。
「音で探せないなら、向こうも同じだろ」
アダムが低く言った。
「違う。あいつは聞き分けてる」
鳴海は首を振った。
刺客は雑音に惑わされるどころか、二人が動いた瞬間だけ正確に顔を向けてくる。
送風機を強くしたのは、自分たちの聴覚を奪うためだった。
壁の隅に非常用の手動弁が見えた。水が漏れている管とは別の、細い配管につながっている。
鳴海は視線を動かしただけで、アダムの袖を引いた。
「左の弁。開けられるか」
「やってみる」
「俺が引きつける。音を立てるな」
鳴海が床へ落ちた薄い鉄板を蹴った。板は激しく跳ね、廊下の端で二度、三度と鳴った。
刺客は一瞬だけそちらへ向いたが、すぐ鳴海へ戻る。
刃が降る。
鳴海は肩を斜めに入れ、肘で相手の手首を押し出した。
腕を伝って冷たい痛みが走る。掴んだ袖口の向こうで、筋肉が石のように固く張っていた。
その間に、アダムが弁へ近づいた。
慎重に、半回転。
管の内側で水が走り始める。
もう半回転。
水圧が上がった瞬間、天井の古い散水口が一斉に噴いた。
白い水の幕が落ちる。
刺客の耳の機器へ、水が叩きつけられた。緑の灯が細かく瞬き、赤へ、また緑へ戻る。
鳴海の腕を狙っていた刃が、初めて狙いを外した。
水は耳の装置を濡らすだけでなく、床にも無数の細かな音を作り出していた。
どこで誰が足を動かしたのか、壁がその区別を拒んでいる。
「今だ!」
アダムが背後から男の肘を抱え、鳴海が胸元へ身体を入れる。
刃を持つ手を壁へ押し当てた。
男はまだ抵抗した。腰を振り、膝で二人を引き剥がそうとする。
鳴海は足の位置を変え、アダムと反対方向へ重みをかけた。
壁際の排水溝に男の膝が落ちる。
アダムが装置の接続線を引き抜いた。
高い警告音がひとつ鳴って、やんだ。
刺客の身体が一瞬、方向を失った。刃が闇を探し、誰もいない場所を切る。
装置が失われても人間の反射まで消えたわけではない。男は音の残響を頼りに向き直ろうとした。
鳴海は手首を返し、刃を床へ落とさせた。続けて男の腕を背後へ回し、携帯拘束具をかける。
金属の輪が閉じた。
男が膝をついたまま暴れたため、鳴海は肩を押さえ、身体の向きを床へ合わせた。
アダムは胸を上下させながら、奪った装置を見下ろす。
「この施設は何だ」
鳴海が尋ねた。
「俺もそれを調べに来た」
「一人で?」
「仲間とはぐれた」
鳴海は拘束具を確かめた。刺客はもう抵抗をやめているが、目だけは天井の一角へ向いている。
そこに、小さな監視レンズがあった。
アダムは装置の接続線を指へ巻きつけた。
「ここに残るのは得策じゃない」
鳴海は刺客の首元にある識別票を見た。名前はなく、数字だけが刻まれている。
廊下の先では、先ほどまで閉じていた搬送用の扉が半分だけ開いていた。
「連れていく。こいつが通れる道なら、俺たちも通れる」
「扉の先も罠かもしれないぞ」
「ここにいても、次の刃が来る」
鳴海は男を立たせ、開いた扉へ向けて押した。
アダムは一度だけ後ろを振り返り、それから二人に続いた。
水音が三人の背中を追った。
*
搬送機械の腕が、榊美月の頭上で止まった。
赤い警告線が床から消えたあとの室内は、かえって静かだった。
管から垂れた水滴が金属盆を叩く音まで聞こえてくる。
監視室から出てきた男は、細い刃を低く構えていた。
「あなたの名前を、まだ聞いていません」
榊が囁くと、女性は目を男から離さないまま答えた。
「霧島」
「霧島さん、制御盤へ。私は相手を引きつけます」
榊は霧島霞の前に立った。
「下がっていてください」
「その人、左の腕に操作器を隠してる」
霧島は榊の肩越しに言った。
男が床を蹴る。
刃は榊の腹部へ向かった。榊は装備ケースの硬い角で受けた。
刃が滑り、金具を削る。男の左手が袖の内側へ潜り込む。
壁際で、止めたはずの機械腕が動き出した。
榊は男の手首を追う代わりに、室内の制御盤へ目を向けた。
駆動回路を落としたのは確かだった。なのに、一本だけ緑の灯がついている。
後付けの線だった。
「霧島さん、あの盤の下の白い線、見えますか」
「見える」
「あれだけ、元の配線と色が違います」
「別系統ね」
霧島が屈んだ。
その頭上を、拘束具のついた機械腕が横切る。
金具が霧島の髪を掠め、壁へぶつかった。
榊は男の刃をケースで押し上げ、肩から体当たりした。
監視室のガラスへ男の背中が当たる。
激しい音が鳴ったが、男は倒れない。左手の操作器を何度も押す。
天井の機械が一斉に持ち上がった。
「その線、私が切ります!」
榊が言った。
「待って。線の先を見て」
霧島は盤の隙間に顔を寄せていた。
白い被覆は新しい。
しかし接続先には、同じ色の線がもう一本重なっている。
片方は機械腕へ、もう片方は扉の電磁錠へ伸びていた。
「切れば出口が閉まる」
「それなら――」
「逆に、線を抜かずに信号だけ逃がせる」
霧島は床に落ちた金属の細棒を拾い、二つの端子の間へ差し込んだ。
小さな火花が走った。
榊の背後で男が操作器を押す。
だが機械腕は応えなかった。
代わりに、開いた扉の施錠灯が赤から緑へ変わった。
「開いた!」
「今のうちに!」
榊が男の手首を弾き、操作器を落とさせる。
男は壁へ手をついて持ち直したが、すでに霧島は扉の外へ出ていた。
榊は退くと見せかけ、男が追って踏み出した足の前へケースを滑らせた。
男の靴が角に引っかかる。
身体が傾いた瞬間、榊はその肩を制御盤の支柱へ押し当てた。
男の刃が床に落ちる。固定用の拘束帯を引き出し、手首を支柱へ締めつけた。
男が上体を振った。支柱がわずかに揺れる。
榊は後方へ下がり、刃を足先で遠ざけた。
「動かないでください」
男は返事をしなかった。
霧島が扉の外から声をかける。
「そこ、長くはもたない。出て」
榊は拘束帯をもう一度確かめてから、廊下へ出た。
扉が閉じる。
男の姿は、曇った小窓の向こうで静止した。
ふたりが出た先は、医療用品の保管区画だった。
白い棚が左右に並び、密封された容器や使い捨ての管が箱ごと収められている。
使われていない建物にしては清潔だった。
埃のない棚板が、ここだけ別の季節に置かれているように白い。
榊は納品票を一枚手に取った。
物品名の下には、使用先として短い記号が印字されている。
《MEDICAL/LOWER CORE》
「医療区画がある」
霧島が言った。
榊はもう一枚、別の箱の票を確かめる。そこにも同じ文字列があった。納品日時は新しい。
「ここに医療区画があるなら、誰かが治療を受けている可能性があります」
「そうね」
霧島の返事は短かった。
榊は箱の一つを開けた。
中には神経反応を測るための電極が入っている。
その規格表示を見たとき、指が止まった。
久世のAOFの調整に使っていた監視材と、接続形状が似ていた。
同じ用途の機材はほかにもある。
だが、この施設で使われている事実を偶然として見過ごすには、あまりに近い。
「……」
霧島が振り返る。
「何かを探してるの?」
榊は納品票を握り直した。
「人を探してます」
霧島はすぐには答えなかった。
棚の向こうで換気装置が回る。薄いビニール袋が空調に撫でられ、紙のような音を重ねた。
「そう、私と同じね」
榊は霧島の顔を見た。
「あなたはいったい――」
そのとき、保管区画の奥の壁が震えた。
棚の列の最奥で、搬送用の扉がゆっくり開く。
扉の向こうには、下へ続く狭い階段があった。
壁際の表示灯が、ふたりを待つように点滅している。
霧島はその光を見つめた。




