#40 ごちゃごちゃ
藍沢真が指先で払った埃は、床へ落ちるまでまっすぐに漂った。
風はなく、壁の内側を走る送風機だけが、低い音を途切れなく鳴らしている。
地上から降りて、すでに二時間近くが経っていた。
通路は行き止まりと閉じた扉を繰り返し、そのたびに別の通路を吐き出した。
古い医療施設の地下にしては広すぎる。
床の継ぎ目は途中から消え、白かった壁は水気を含んだ鉛色に変わっていた。
「同じ場所を回ってない?」
イヴが天井の照明を数えた。
「それなら、さっきつけた印があるはずだよ」
アダムは角の壁を示した。腰の高さにつけた細い傷は、そこにはない。
霧島が携帯端末を持ち上げる。
簡易地図の中央で、現在地を示す点が数秒ごとに左右へ跳ねていた。
「位置が安定しない。地下に入ってから、測距の基準になる信号が拾えていない」
「道が分からないなら、壁沿いに行くしかないな」
藍沢が先頭へ戻ろうとしたとき、床の下で何かが鳴った。
硬貨を一枚、遠くの机に落としたような、薄い音だった。
続いて、天井の灯が一つ消えた。
「止まって」
霧島の声と同時に、正面の扉が開く。
今まで沈黙していた扉だった。
隙間の向こうには青い誘導灯が延び、奥で搬送用の車輪が回る音がした。
「動き出した?」
イヴが身を乗り出す。
藍沢は床に目を落とした。
灰色の帯が、四人の足元を横切っている。
壁の継ぎ目と一致する幅で、左右へ続いていた。
「アダム、イヴ。そこから動くな」
もう遅かった。
床が鳴った。
腹の底へ響く鈍い一音。
前方と後方から厚い隔壁がせり出し、四人の間へ雪崩れ込んだ。
藍沢が霧島の腕を掴もうとした瞬間、床の帯が持ち上がって指先の間を塞いだ。
「霧島!」
「私は大丈夫! そっちは――」
声が鋼板の向こうで折れた。
アダムはイヴへ手を伸ばした。
二人の間に落ちた仕切りへ肩をぶつけても、重い板はびくともしない。
四つの床面が、別々の高さへ沈み始めた。
藍沢の足元は左へ。
霧島の床は正面へ。
アダムとイヴの姿は、細い隙間を残して下方へ消えた。
照明が切り替わる。
赤。白。赤。
古い建物は眠っていたのではない。
目を閉じて、誰かが入ってくる数を数えていた。
*
「全員、足を止めろ」
八神の声が、地下の直線通路に走った。
降りてきた階段は、すでに二つの曲がり角の向こうにある。
手前の配管室を調べ、六人は搬送路らしい広い通路へ入ったところだった。
鳴海冬真が一番前にいる。
右側には八神と天城双葉。
少し後ろを榊美月が進み、
牧野征士郎と久我静が最後尾を受け持っていた。
『八神、聞こえるか』
耳元で御堂彰子の声が擦れた。
「聞こえる。位置を送った」
『地上側の入口からは、現在地に相当する通路を確認できない。北側へ伸びる大型の搬送設備が――』
言葉の途中へ、甲高い電子音が割り込む。
天城が眉を寄せた。
「先行させた分身の視界が切れた」
「敵か?」
「分からない。映像が真っ黒になった」
八神は天城の指す先へ目を向けた。
床に細い線が四本、等間隔で走っている。
塗装の線ではない。金属板同士の境目だった。
「全員、戻れ」
最初の隔壁が落ちた。
鳴海の背後を塞いだ鋼板が、床を叩いて火花を散らす。
榊が振り返る間もなく、天井から二枚目が降りた。
八神は天城の装備ベルトを掴み、動く床の中央へ引き寄せた。
「美月ちゃん!」
「こっちです!」
榊の声は近い。
けれど、振り返った先には灰色の壁しかなかった。
牧野と久我の足元が沈む。
久我が片手を伸ばし、迫る隔壁を押さえた。
鋼板の下端に一瞬だけ隙間ができる。
「牧野、離れろ!」
「でも、榊さんが――」
「今は自分の足を守れ!」
二人が跳び退くと、隔壁は噛み合うように閉じた。
御堂の回線から雑音が流れる。
『……位置……全員……返答を……』
「御堂、聞こえるか! 隊が分断された!」
八神の呼びかけは、返事を連れてこなかった。
床が横へ滑る。
壁の灯が長い線になって過ぎ、足元から伝わる震動が靴底を揺らした。
通路ではない。大きな台車の上に立たされている。
八神は天城を支えたまま膝を曲げた。
六人を乗せた四つの床が、それぞれ違う方向へ運ばれていく。
金属の奥で何枚もの扉が開き、閉まり、遠い廊下から別の悲鳴に似た音が響いた。
施設そのものが、侵入者を咀嚼していた。
*
鳴海の床が止まったとき、最初に戻ってきたのは水滴の音だった。
暗い天井から落ちた水が、四角い排水溝に触れる。
かん、という乾いた響きが続いた。
鳴海は壁から身体を離した。
右側の扉は閉じている。
左の出口には薄い非常灯がつき、床には汚れた足跡が一つ残っていた。
誰かがいる。
出口から男が現れた。
見覚えのない顔だった。
黒い上着を着て、右手には薄い端末を持っている。
驚いた様子はなく、まず鳴海の装備と肩の識別章を見た。
「……執行局か」
男が言った。
鳴海は一歩横へ移り、相手が出口を背にしたままになる角度を選んだ。
「お前は誰だ、施設の関係者か」
「違う」
答えは早かった。
男――アダムの端末で、短い警告音が鳴る。
二人が音へ目を向けた瞬間、天井の照明がすべて消えた。
暗闇に、水滴がひとつ落ちる。
次の一滴は来なかった。
「動くな」
アダムの声が低く届く。
闇の奥で、柔らかいものが床に触れた。
続いて、壁を叩くような音が左右から返ってきた。
距離が分からない。廊下が音だけを何倍にも膨らませている。
鳴海は呼吸を抑えた。
足元へ細い光が走った。
床の非常灯ではない。
離れた場所に立った人影が、掌の装置を一度だけ点滅させたのだ。
黒い面覆い。耳を覆う小さな機器。手には短い刃がある。
人影が光とともに消えた。
「右!」
アダムが叫ぶ。
鳴海は右側の壁へ身を寄せた。
鼻先を銀色の刃が通る。
相手の肘を押し上げて進路を外すと、刃は背後の配管を浅く裂いた。
高い金属音。
刺客がそこで止まった。
刃より先に、首だけが鳴海へ向いた。
耳の機器が、小さな緑色に光っている。
「音を拾ってる」
アダムが言った。
「そいつ、動いたところへ来る」
鳴海は返事をしなかった。足を出しただけで襲われるのなら、音を出す場所を変えればいい。
掌の中に、小さなボルトが触れた。壁から落ちた部品だった。
鳴海はそれを、背後の排水溝へ滑らせた。
乾いた響きが三度続く。
刺客の身体が、音のした方向へ跳ねた。
その背へアダムが走る。
「今だ!」
だが、男の刃は途中で向きを変えた。
アダムの靴が床を擦った音を、拾ったらしい。
鳴海は一歩で間合いへ入り、アダムの首へ向かう刃を腕で押し流した。
刃の先が制服の袖を裂く。鈍い痛みが皮膚へ触れた。
「走るな。俺が合図する」
「分かった」
二人は、互いの顔も見えない闇の中で、初めて同じ方向を向いた。
*
榊は、扉の反対側から聞こえた足音に端末を向けた。
長方形の室内に、明かりは二列だけ残っていた。
壁一面に、撤去されなかった搬送機械の腕が並んでいる。先端には丸い固定具や細い管がぶら下がり、病院の器具室と工場の作業場を間違えて重ねたような空間だった。
その中央に、一人の女性が立っていた。
「そこで止まってください」
榊が言う。
女性は驚くより先に、榊の識別章へ視線を移した。
「執行局……」
「あなたは?」
「施設の職員ではありません」
女性――霧島霞は、手元の端末を身体の脇へ下ろした。
逃げる姿勢でも、攻撃する姿勢でもなかった。
「その制服で来たということは、ここに誰かを捜しに?」
「質問に答えてください」
「答えられることと、答えられないことがあります」
榊が一歩近づいたとき、頭上で乾いたベルが鳴った。
機械の腕が一本、ゆっくり持ち上がる。
その先には、透明な防護板が取りつけられていた。
壁の反対側で、もう一本が動く。
二人の間へ、重たい仕切りが降り始めた。
「下がって!」
榊が叫ぶ。
霧島はすぐに退いた。防護板が床へ刺さるように降り、二人を隔てた。
すぐさま、別の腕が榊の背後で動いた。
金具の先に巻きつけられた拘束帯が、肩を狙って走る。
榊は装備ケースで弾き、機械の根元を見た。
関節のランプが、腕の動きに合わせて順に点いている。
中央の管理台には誰もいない。
だが、管理台の上に男の影が映った。
透明板の向こう、奥の監視室。上着の袖をまくった男が、掌ほどの操作器を持っている。
「人がいる!」
榊の声に、霧島も奥へ振り返った。
男はガラスの向こうで指を動かした。
次の瞬間、天井から吊られた搬送台が榊の肩へ滑り出す。
榊は屈み、床に固定された制御盤へ手を伸ばした。
液晶の画面は黒い。蓋を開けると、古い手動切替器が現れた。
「主電源を切れば――」
「切らないで!」
霧島の声が、板の隙間から飛ぶ。
「その系統は扉も兼ねてる。閉じ込められるわ」
榊は指を止めた。
「なら、どれを?」
「右から二番目。搬送用の駆動回路だけを落として」
「どうしてそれが分かるんですか」
「今は先に手を動かして!」
金属腕の影が、榊の顔へ迫る。
榊は右から二番目の切替器を倒した。
天井の機械が止まる。
すぐ上にあった固定具が揺れ、止まりきらずに細い音を立てた。
監視室の男が顔を上げる。
彼の手は、まだ操作器を握っていた。
榊は透明板越しに霧島を見た。
「……助かりました」
「まだよ」
霧島が壁の奥を見つめる。
男の背後で、別系統の警告灯が点いた。
床の中央を、今度は赤い線が走り始めていた。
*
牧野の肩が、久我の腕にぶつかった。
運ばれた先は天井の低い作業区画だった。
床に黄色い荷重表示が残り、廃棄された運搬車が片隅へ寄せられている。
前方の扉は二枚とも閉じていた。
「みんな、どうなったんすかね」
「少なくとも、この部屋には私たちだけだ」
久我が言った。
扉の反対側から、金属を引きずる音がした。
牧野が振り返る。
開いた保守用の小扉から、一人の男が出てきた。
袖のない上着に、見慣れない小型の装備。目は久我の手元を見ている。
「そっちも閉じ込められたのか」
藍沢真が言った。
「そっちもって……誰っすか」
牧野は身構えた。
藍沢は答える前に、久我の足元へ目を向けた。
「そこ、線を越えるな」
床には黒い溝が一本走っていた。
「何の線だ」
久我が尋ねる。
「まだ分からない。俺が入ってきたときから、そこだけ妙に熱を持ってる」
牧野は藍沢の背後を確かめた。
「ここの人間じゃないんすよね」
「違う」
「じゃあ、何しに――」
保守扉の奥で、何かが軋んだ。
三人が振り返る。
暗がりから、肩幅の広い男が出てきた。
左右の腕に短い装甲板を巻き、片足ずつ荷重を確かめるように歩く。
右手には握りの太い鉄棒。
男は三人を一度見渡した。
「通行者を確認」
その口ぶりには、人数が増えたことへの驚きがなかった。
「ここから先へは行かせない」
「こっちだって、好きで来たわけじゃないっすよ」
牧野が返した。
男は答えず、鉄棒を床へ落とす。
音がした場所のコンクリートが砕け、白い粉が靴へ吹きつけた。
久我が前に出る。
「牧野、下がれ」
久我が掌を開くと、床の目地に沿って細い光が走った。
三人の周囲を回り込み、淡い円を描いていく。
光は壁際の運搬車まで届いたところで止まった。
そこから内側だけが、久我の防衛領域《BASTION》となる。
久我静が扱う《BASTION》は、一定範囲に防衛領域を形成する専用システムである。
男が鉄棒を横に振る。
風を裂いていた先端が、久我の前で突然落ちた。
男の両腕は水平に振り抜こうとしているのに、棒だけが深く頭を垂れ、床を抉る。
鋼鉄が石を噛み、白い粉が跳ねた。男は顔をしかめ、腰を沈めて武器を引き上げた。
《GRAVITAS》
それは重力そのものを操る力ではない。
領域内に存在する人間や物体を選び、その対象にだけ、本来の重量とは別の重さを背負わせる。
振り上げられた武器を地面へ沈め、突進する敵の足を縫い止め、ときには味方へ向かう攻撃の軌道さえ変えてしまう。対象に加わる荷重は久我の制御下にあり、領域の外へ逃れれば、その効力は失われる。
「……何だ、今のは」
藍沢の声にも、久我は振り向かなかった。
男の手首が返る。重い先端を利用して、下から跳ね上げるつもりだ。
「牧野、横へ」
「了解っす!」
牧野が身を引くと同時に、鉄棒が跳ねた。
久我の指先が下がる。今度は男の左足が沈み、靴底の下でコンクリートが砕けた。
膝を折った男が、それでも上体を起こして棒を振り上げる。
さっきまで床に縫いつけられていた鉄が、息を吹き返したように軽くなっていた。
久我が足へ重さを移した隙だった。
藍沢が横から割り込み、男の肘の裏へ手を添えた。
鉄棒は久我の脇を抜け、運搬車の取っ手を叩き折る。
「助かった」
久我の短い返事に、牧野が男の脇へ潜った。
装具の継ぎ目へ掌底を打ち込む。
男の上半身が揺れ、右腕の装甲に細い亀裂が走った。
「こっちは任せてください!」
牧野が二撃目を放つより早く、男の拳が返る。
藍沢は牧野の襟を掴んで引いた。拳が鼻先をかすめ、背後の台車をひしゃげさせる。
「助けてもらったのは感謝なんすけど。あんた何者なんすか!」
「まぁまぁそれは一旦おいといて」
男が台車を跨いだ。
足を引きずりながらも三人の間へ割り込もうとする。
床を走る淡い光が、久我を中心に一定の範囲を囲んだ。
閉じた光の線は揺らぐことなく、そこだけを周囲から切り離している。
《BASTION》
その内側では、彼女の意思によって選ばれた対象に、本来の重量とは別の荷重が課される。
《GRAVITAS》は重力そのものを操る能力ではない。領域内に捕らえた対象へ、下向きの重さを追加する力である。
男の握る鉄棒が、唐突に沈んだ。
腕は振り上げられたままだというのに、鉄棒だけが意思を失ったように頭を垂れる。
男は両手で支え直したが、先端は床を削り、白い破片を撒き散らした。
久我が指先をわずかに動かす。
鉄棒に加わっていた荷重が消えた。反動で持ち上がった男の両腕が、思いがけず大きく開く。
次に重さを背負わされたのは、男自身だった。
膝が折れ、靴底が床材を押し潰した。
男は歯を食いしばって上体を起こそうとするが、肩から腰までを見えない巨人の掌で押さえつけられたように、背筋が伸びない。
久我は男を領域の中央に留めたまま、荷重を慎重に引き上げていく。
男の背中が徐々に低くなる。装甲の継ぎ目が軋み、留め具が一つ弾けて床を転がった。
抵抗する力は残っている。それでも男は、膝を浮かせることさえできなかった。
黄色い荷重表示が赤へ変わる。
警告音が、まず一度。遅れて、長く。
「久我さん、床が……!」
牧野の足元まで亀裂が延びていた。
久我の能力が加える重さは、対象だけに留まるものではない。
その身体を支える床にも、当然ながら同じ負担が及ぶ。いかに強固な拘束であっても、足場が耐えられなければ、敵も味方もまとめて地下へ沈めかねなかった。
久我は指を緩めた。
男に課していた荷重が軽くなる。膝の下で広がっていた亀裂は動きを止めたが、砕けた床材の隙間からは、黒い空洞が傷口のように覗いていた。
男が顔を上げる。
額から流れた汗が顎を伝い、床へ落ちた。
呼吸は荒い。それでも、眼差しから戦意は失われていなかった。
*
八神は、白い通路の中央に立っていた。
背後の扉は閉まり、横には天城がいる。
二人が運ばれた床は停止していたが、周囲の壁には細かな車輪の擦れ跡が続いていた。
天城が指先を動かすと、隣に彼女と同じ姿が一つ現れる。
「これで先を見てくる」
「壁の向こうまで行かせないでね。まず、この部屋の出入口を確かめましょう」
「うん」
分身が走り出す。
曲がり角の先から、足音が返ってきた。
八神は装備に手を掛ける。
姿を見せたのは、若い女性だった。
軽い装備を身につけ、片手に小さな道具箱を持っている。
扉の前で八神たちを見つけると、急に立ち止まった。
「……誰?」
イヴが尋ねた。
「なに、この可愛い生物は」
八神が返す。
天城の分身が、イヴの後ろへ回る。
イヴは気づいていた。ゆっくり両手を開き、道具箱を床へ置く。
「敵じゃない。たぶん」
「たぶん、で武器は下ろせない」
「分かるよ。こっちも困ってる」
「可愛いは正義なの。大丈夫安心して」
「そんなことより、誰かいる」
天城の分身が何かを察知したらしい。
同じ形の人影が、二つ、三つと曲がり角から現れた。
どれも作業服姿の男だった。
顔の角度も、腕の振り方も、少しずつ違う。
それなのに靴音だけが奇妙に揃っている。
「増えてる?」
八神が呟く。
天城は分身を見た。彼女の分身は床に影を落とす。呼吸に合わせ、肩がわずかに上下している。
向こうの男たちは違った。
照明の下を歩いているのに、足元の影が遅れていた。
「映像かしら」
八神が言った。
最前列の男が、突然こちらへ駆けた。
八神は横へ避け、相手の腕へ手を伸ばす。
指が空を掴んだ。
男の姿が粒になって崩れ、奥の壁に組み込まれた細い投影口が露わになる。
その陰から、別の影が飛び出した。
今度は本物だった。
鈍く光る短槍が八神の腹へ向かう。
天城の分身が横から相手を押し、穂先を壁へ逸らす。金属が塗装を剥がした。
八神は短槍の柄を掴んだ。敵がひねる力に合わせて手首を返し、相手を柱の方向へ誘導する。
だが、曲がり角からまた二つの人影が現れた。
「これも偽物?」
天城が尋ねる。
「決めつけないほうがいいわね」
イヴが床に落ちた工具を拾い、一つを投影された人影の足元へ転がした。
工具は影の中を通り抜けた。
「右端は映像!」
もう一つを別の足元へ滑らせる。
かつん、と靴に当たった。
「中央は違う!」
八神が即座に向きを変えた。
「天城!」
「分かった!」
二人の天城が左右へ散る。
イヴは床の光の並びを見上げた。照明の一つが、ほかより半拍遅れて明滅している。
光には癖がある。声にも、足音にも。
イヴはその遅れを数えながら、短槍を持った男の次の位置を指さした。
「その柱の裏! そこから出てくる!」
八神は柱の反対側へ回った。
男が飛び出すと同時に、その進路を塞いだ。
短槍が壁を裂き、石粉が肩へ降りかかる。
「動くな!」
八神の声は鋭かった。
しかし男は止まらず、槍を短く持ち替えた。
*
監視用の画面には、四つの室内が並んでいた。
暗闇を走る細い振動。停止した搬送機械。重量の変化する床。何人もの男が行き交う白い通路。
映像の隅には、侵入者の識別番号だけが振られている。
所属を示す表示はない。
監視席の人物が一つの番号へ指を伸ばすと、天井の機械から短い音が鳴った。
A区画、B区画、C区画、D区画。
どの扉も、まだ開く気配はなかった。
*
鳴海は、左手の指を二度だけ折った。
アダムが小さく頷く。
二人の足元には、配管を裂いた水が薄く広がっていた。
水滴は休まず落ち、床の複数の場所で同じ音を奏でている。
刺客の耳の装置は、細かな音の中で忙しく色を変えた。
鳴海は配管の留め具を蹴り、落ちた蓋を遠くへ滑らせた。
派手な金属音が廊下の奥へ走る。
刺客の肩がその方向へ向いた。
同時に、アダムは足をつけたまま低く身体を運び、男の右腕を脇へ封じた。
鳴海が刃の握りへ手を掛ける。二人の動きは合図した通りではなく、相手の重心が崩れた瞬間に重なった。
刺客は膝を折らずに反転した。
耳の機器が明滅する。頭上の送風機が突然強く回り出し、廊下いっぱいに騒音が満ちた。
鳴海は刺客の腕に残った切り傷を見た。
相手の血は、まだ落ちていない。
次の刃が、腕の内側からひらめいた。
*
「右から二番目を戻して」
霧島の声に、榊は制御盤を振り返った。
「戻したら動きます」
「今のままだと、別の回路が立ち上がる。そっちの方が危ない」
赤い線は、床の中央へ近づいていた。光に追われるように、機械の腕の根元から小さな蓋が開く。
榊は盤内の配線をたどった。一本だけ、ほかより新しい線がある。赤い線がその先へ続いていた。
「この配線、後付けですね」
「ええ。搬送用じゃない」
霧島は防護板の向こうで、床に置かれた予備の器具箱を開いた。
細い金属棒を抜き、板の下の隙間へ差し込む。
榊が切替器を戻すと、天井の腕が動き出した。
同時に霧島が金属棒を押し込む。
降りかけた防護板が途中で止まり、二人の間に人ひとり分の隙間ができた。
「今!」
榊は身を屈め、反対側へ滑り込んだ。
監視室の男が操作器を強く押した。
だが防護板は戻らない。床下から異音が響き、操作器の赤いランプが消えた。
「出口を探します」
榊は左の扉へ向かう。
霧島は彼女のAOF補助端末を一瞥した。榊はその視線に気づき、端末を身体へ引き寄せる。
「……何を見ていたんですか」
「その識別番号」
「ご存じなんですか」
「知っているのは、少し古い形式だけ」
霧島はすぐに顔を上げた。
監視室の男が、非常扉へ移動している。
榊が追おうとしたとき、男は振り返った。
握っていた操作器を捨て、袖の下から細い刃を引き抜く。
「ここから先へは進ませない」
言葉とともに、足元の赤い線が消えた。
残った照明が、刃の縁へ冷たく移る。
*
男の足が、砕けた床材を踏み抜いた。
沈んだのは踵だけだった。
だが、そのわずかな傾斜を利用して、男は身体を前へ投げ出した。
久我の拘束が弱まった瞬間を待っていたらしい。
片膝を床に擦りつけながら、一直線に藍沢へ向かう。
男は藍沢の胸元を狙って鉄棒を突き出す。
先端には、床を削った際に生じた鋭い欠けがあった。
刃物と呼ぶには粗末でも、人間の身体を貫くには充分だった。
藍沢は半身になった。
鉄棒が脇腹のすぐ横を通り過ぎる。
そのまま男の腕へ手を添え、肘を外側へ押し流した。
大きな力は加えていない。
だが、踏み出した足と上体の向きが食い違い、男の重心は左へ傾いた。
すかさず久我が指を曲げる。
《GRAVITAS》
鉄棒の先端が床へ落ちた。
男の両腕が引きずられ、前傾した身体がさらに深く沈む。藍沢はその肩を押し、反対側へ抜けた。
「こいつ、床を壊すつもりだ」
藍沢の言葉を裏づけるように、男が鉄棒を握り直した。
男は重くなった武器を持ち上げようとはしなかった。
先端を床に押し当て、身体ごと前へ進む。
亀裂へ鉄棒を差し込み、梃子のようにこじ開けようとしていた。
久我の目が細くなる。
荷重を追加された鉄棒は、それ自体が床を破壊する道具に変わっていた。
防衛のための重さを、男は逆手に取っている。
乾いた破裂音が走った。
床の継ぎ目から白い粉塵が噴き上がり、足元の亀裂が三方向へ枝を伸ばした。
床下に隠れていた配管が露出し、剥がれた断熱材が灰色の綿毛となって舞う。
「久我さん、このままだと区画ごと落ちるっす!」
「分かっている。牧野、右の柱まで誘導して」
久我が荷重を解除すると、男の腕が跳ね上がった。
鉄棒が自由を取り戻す。
その瞬間、牧野が男の左側へ回った。
「こっちっすよ!」
男が振り向く。牧野は一歩退き、鉄棒の届く範囲から身体を外した。
男は追った。
崩れかけた床を踏み越え、牧野へ向かって二歩進む。三歩目で、背後から藍沢が腕を伸ばした。
狙ったのは身体ではなく、鉄棒を握る手首だった。
藍沢は男の腕を押し上げ、そのまま肩口へ潜り込む。
男が肘を引こうとするより先に、腰の向きを変えて進行方向を奪った。
鉄棒が壁に当たり、甲高い音を残す。
牧野が反対側から肩を押した。
二人の力が重なり、男の身体は右の柱へ流された。
そこだけは床の造りが違っていた。
壁から張り出した太い支持柱の根元には鋼材が通り、床面にも継ぎ目のない補強板が敷かれている。
久我は二人が離れるのを待った。
男の靴が補強板に触れる。
「離れて!」
藍沢が素早く手を放し、牧野も後方へ跳んだ。
久我の掌が閉じる。
男の身体に、再び重さが戻った。
今度は膝だけでは済まなかった。
背骨を支えていた筋肉が一斉に硬直し、男の上体が前へ折れる。
持ち上げかけた鉄棒は手から滑り、金属製の床を打って転がった。
補強板が低く鳴った。
しかし、亀裂は生じない。
久我は床の状態を確かめながら、男に加える荷重を徐々に強めた。
男は両腕を突っ張った。
肩の筋肉が浮き上がる。額に血管が走り、噛み締めた奥歯の間から荒い息が漏れた。
それでも身体は持ち上がらない。
重さは、抵抗する意思まで押し潰そうとしていた。
補強板に押しつけられた指が、小刻みに動いている。
力を振り絞っているのか、それとも別の操作を試みているのか。
久我は男の右手に目を向けた。
人差し指の先が、床へ触れていた。
爪の下に隠れるほど小さな金属片が、指腹から押し出される。
「牧野、手を!」
久我の警告より早く、男が指を弾いた。
金属片が床を滑った。
向かった先は久我ではなかった。男を拘束している《BASTION》の境界でもない。
支持柱の根元に設けられた、小さな点検口だった。
藍沢が動く。
金属片が隙間へ入り込む寸前、その上から靴底を叩きつけた。
薄い金属が折れる感触とともに、床に青い火花が散った。
間髪を入れず、牧野が男の腕を背後へ回す。
「まだ何か仕込んでるんすか!」
男は答えない。
代わりに、天井から短い電子音が流れた。
《COMPARTMENT C/CONTAINMENT FAILURE》
続いて、赤く点滅していた照明が一斉に消えた。
数秒の暗闇。
非常灯が戻ると、通路の奥で分厚い隔壁がゆっくりと持ち上がり始めていた。
隔壁の向こうには、幅の広い通路が続いていた。
壁に並ぶ照明が奥から順番に灯り、暗闇の中に一本の白い道を描いていく。
久我は拘束を緩めなかった。
男の手首には牧野の拘束具がかけられ、藍沢は砕いた金属片を拾い上げている。
「これ、発信器じゃないな」
藍沢は破片を指で裏返した。
薄い金属の表面に、小さな接点が二つ残っていた。
「何かを解除するための鍵だ」
「解除?」
牧野が聞き返す。
そのとき、男が笑った。
喉の奥から漏れる、ひどく乾いた声だった。
「……お前たちは、先へ進めると思っているのか」
藍沢が男を見る。
「何がある」
「知らない方がいい」
男の笑みが消えた。
「奥へ行けば、ここで止まっておけばよかったと分かる」
久我は男の首筋へ視線を落とした。
襟の内側に、赤い点が灯っている。
それが二度、短く明滅した。
「二人とも、離れて!」
久我が叫ぶ。
牧野が拘束具から手を放し、藍沢が床を蹴った。
男の襟元から白い煙が噴き出す。
久我は《GRAVITAS》の荷重を維持したまま、両腕を顔の前で交差させた。
小さな破裂音が鳴った。
爆発と呼ぶには静かだった。
煙が男の頭部を包み、刺激臭が通路に広がる。
男は一度だけ背中を強張らせ、そのまま動かなくなった。
久我が慎重に荷重を解除する。
倒れた男の胸は、もう上下していなかった。
牧野が駆け寄り、首筋へ指を当てる。
「……脈がないっす」
藍沢は男の襟元を調べた。
布の内側には、焼け焦げた小さな器具が残されている。
表面の刻印は熱で潰れ、判読できなかった。
「口封じか」
藍沢の声に、久我は答えなかった。
奥の通路では、照明が一つ、また一つと灯り続けている。
まるで施設そのものが、三人の到着を待ちわびていたかのように。
久我は防衛領域を縮小し、床に残る光を消した。
「牧野、通信は?」
「駄目っす。御堂さんにつながらない。ほかの隊員とも連絡が取れないっすね」
久我は開いた隔壁へ目を向けた。
「ここで立ち止まっていても状況は変わらない。ただし、先へ進む前に確認しておきたいことがある」
その視線が、藍沢を捉える。
「あなたは何者?」
藍沢は手の中の金属片を床へ落とした。
薄い音が、三人の間を転がった。
「少なくとも、あいつらの仲間じゃない」
「それだけでは不十分ね」
「だろうな」
藍沢は開いた通路を一瞥した。
「また会えるといいな」
牧野が顔を上げる。
「どういう意味っすか」
直後、通路の奥で、二つの重たい音が重なった。
正面の壁を縦に裂くように、二本の赤い線が走る。
壁面に隠されていた隔壁が左右へ滑り、そこに二つの出入口が姿を現した。
左には、青白い照明が続く細い通路。
右には、天井の高い搬送路が延びている。
二つの道は中央の厚い壁によって隔てられ、奥でつながっている様子はなかった。
「……道が二つ」
牧野が呟く。
藍沢は左の通路へ目を向けた。
壁際の配管には新しい結露が浮き、床には細かな水滴が点々と続いている。
一方、右の搬送路には、大型の機材を運んだらしい車輪の跡が残されていた。
「どちらにも人の出入りがあるみたいね」
久我が言った。
すると、天井の表示板に文字が灯った。
《ACCESS ROUTE/01》
《ACCESS ROUTE/02》
続いて、両方の入口で黄色い警告灯が回り始めた。
《AUTOMATIC CLOSURE:30 SEC》
「閉まるまで三十秒!?。どうします?」
久我は二つの通路を見比べた。
ここで三人が同じ道を選べば、もう一方の先にあるものを見逃すことになる。
かといって、素性の分からない男に単独行動を任せるのも危険だった。
藍沢が先に動いた。
「俺は左へ行く」
「ちょっと待ってくださいよ。まだ話は終わってないっす」
「牧野、私たちは右へ向かう」
「でも、久我さん。この人を一人で行かせて大丈夫なんすか?」
「時間がない。それに今の私たちの目的を忘れないこと。どちらの道にも危険がある以上、二人で行動しないと」
警告灯の回転が速くなる。
《AUTOMATIC CLOSURE:10 SEC》
藍沢が左の通路へ入り、牧野と久我は右へ駆け出した。
鋼鉄の扉が床を震わせ、互いの声を少しずつ遠ざけていく。
藍沢の背中が左の暗がりへ消えた。
牧野は閉じていく隙間を見つめたまま、最後まで何かを言おうとしていた。
やがて、二つの扉がほぼ同時に閉じた。
重たい衝突音が地下施設を揺らす。
その音を境に、三人の進む道は完全に分かれた。
左の通路では、藍沢の足音だけが規則正しく響いている。
右の搬送路では、久我と牧野の影が、点滅する照明の下を並んで進んでいた。
そして二つの道の先で、別々の認証灯が、誰の操作も受けないまま緑色に変わった。




