#39 侵入
出動命令が下りたのは、夜明け前だった。
第四執行部の作戦室には、窓の外より早く白い光が満ちていた。
壁面の地図に赤く囲われたのは、市街地から離れた旧医療技術センター。
その北側に、廃止された物流施設の敷地が細長く続いている。
榊は地図の前で、端末の画面を切り替えた。
「第一執行部から届いた車両記録です。襲撃当夜から昨日まで、同じ搬送経路に出入りした車が六台確認されています。ただ、積荷までは追えていません」
行先欄には、どれも閉鎖済みの施設名が記されていた。
営業していない建物へ物が運ばれ、夜間の電力使用量だけが増えている。
施設を管理するはずの会社は、とうに実体を失っていた。
「久世さんがそこにいるって、断定はできないっすよね」
牧野が尋ねた。
「できない。でも、ほかに辿れる場所がないのも事実」
榊は映像の一部を拡大した。
出入口の監視記録は途中で途切れている。
空白の時間だけ、車両の出入りを示す重量計の数字が変化していた。
「記録を消すなら、重量計も止めるはずだろ」
鳴海冬真が言った。
「古い設備だから、そこまで管理が行き届かなかったのかもしれません」
「それか、見られても構わない数字か」
榊は頷いた。数字が残っていること自体、相手の油断だとは限らない。
机の端には、六人分の識別票が並んでいた。
榊美月、牧野征士郎、鳴海冬真。
特殊対応群から、八神紅音、久我静、天城双葉。
御堂彰子は中央の操作席に立ち、通信回線を確認していた。
現場へ同行するのは六人。
御堂は局内に残り、情報の照合と作戦中の連絡を引き受ける。
「全員、聞いてくれ」
御堂が言うと、室内の作業音が止まった。
「任務目的は久世湊の所在確認と奪還。対象の安全を最優先にする。施設を制圧するための作戦じゃない。敵の規模が不明な以上、交戦するかどうかは現場の状況で判断しろ」
視線が八神へ向いた。
八神紅音は、壁に立て掛けていた装備ケースの留め具を閉じた。
特殊対応群を率いる彼女の傍らには、久我と天城がいる。
牧野は自分の手を開いてみせた。
先日の襲撃で痺れが残った指は、ようやく思いどおりに曲がるようになっていた。
医療班からは負荷を避けるよう言われている。
「牧野、無理なら交代させる」
御堂の声は厳しかった。
「再検査は通ってます。指の動きも戻ったっす」
「それは今朝の検査結果だ。現場で悪化したら申告しろ」
「はい」
牧野が答えると、御堂は榊へ向き直った。
「久世のAOFについて、最後に確認することは」
榊は、手元に残した一つの画面を見た。
久世の装備識別番号は、消失した時刻で止まっている。
AOFを遠隔で起動させることも、その位置を呼び出すこともできない。
持ち主のいない画面は、ただ接続待ちの印を灯し続けていた。
「識別信号が一瞬でも入れば、照合できます。装置が外されていなければ、ですが」
言葉の終わりがわずかに細くなった。
八神が席を離れる。
「榊、現場に着いたらお前が判断しろ。久世の装備のことは、お前が一番知ってる」
「……はい」
榊は端末を閉じた。
御堂が壁面の地図に最後の線を引く。敷地の外周を回る退避経路だった。
「連絡が途絶えた場合は、各自の判断で奥へ進むな。私はここから回線を維持する。六人全員の帰還を作戦条件に入れてある」
牧野が少しだけ口元を動かした。
「久世さんを入れたら、七人っすね」
「そうだ」
御堂はその言葉を否定しなかった。
「七人で帰ってこい」
出動許可を示す表示が、壁面に灯った。
六人は装備を手に取り、作戦室を出た。
*
久世湊の眠る医療区画には、時計がなかった。
壁際の端末だけが一定の間隔で測定値を更新する。
薄いシーツの下で胸が上下し、右腕は動かないよう固定されていた。
AOFは完全には外されていない。
胸部と背面の補助機構だけが残され、身体の変化を拾い続けている。
冷却処理は完了していた。
それでも久世は目を開けない。
看護職員が瞼に光を当て、指先に小さな刺激を与えた。
記録表に印をつけ、足音を忍ばせて部屋を出ていく。
扉が閉じて間もなく、廊下から別の足音が近づいた。
開いた扉の向こうに、白衣を着ていない男が立っていた。
襟元まで隙なく整えた暗色の上着。年齢の読みづらい顔には疲れも焦りも見えない。
男が手を上げると、入口にいた警備員は何も尋ねずに身を退いた。
「お見舞いです」
男はそう言って中へ入った。
彼の左手には、古い金属の輪が嵌まっていた。
細かな傷が重なり、磨かれた部分だけが照明を拾っている。
男は寝台の傍らに立ち、久世の顔を見下ろした。
頬に残る傷。
鎖骨の下に貼られた電極。
固定された右腕。
若い身体に、短い時間で刻まれた負担が集まっていた。
「ずいぶん急がせてしまいましたね」
返事はない。
男は椅子を引いた。
腰掛けると、医療端末に映る波形を一度だけ確認した。
数字を読み込むでもなく、すぐに目を戻す。
「君には、皆が期待していますよ」
窓のない部屋へ、空調の風が低く流れる。
「エイドリアンプロジェクトの希望」
その名が口にされても、眠る青年の眉は動かなかった。
男は久世の胸部に残されたAOFへ視線を下ろした。
装甲の継ぎ目には、検査のために何度も開かれた細い跡がある。
「人は失敗したものを捨てたがる」
彼は机の上の水差しを、久世の手が届かない位置から少しだけ近づけた。
目を覚ましたときに何が必要かを考える、ごくありふれた見舞客の仕草だった。
「だが、なくなったことと、終わったことは違う」
AOFの表示灯が弱く明滅した。
「これから先、何を選ぶかは君自身の問題です。選べるところまで辿り着ければ、ですがね」
寝台の脇に置かれた記録表には、意識反応なし、と記されている。
男はしばらく何も言わずに座っていた。
久世の呼吸が乱れることも、瞼が動くこともなかった。
やがて椅子を戻し、扉へ向かう。
出入口で職員が頭を下げた。
「次の検査は、いつにいたしましょう」
「彼が目を覚ましてからでいいですよ」
扉が閉まる。
医療区画には、再び測定器の小さな音だけが残った。
*
旧医療技術センターの正門は、鎖の隙間に雑草を伸ばしていた。
敷地内の建物は三棟。
玄関のガラスは曇り、壁には古い雨染みが残っている。
遠目には、取り壊しの順番を忘れられた施設にしか見えなかった。
霧島は門から少し離れた場所で足を止めた。
「表から入った記録がないのに、荷物だけは消えてる」
藍沢が建物の奥を見た。
「昨日の記録だと、ここが中継点だったよな」
アダムが金網の端を持ち上げた。留め金は錆びていたが、その根元にだけ新しい傷が走っている。
「誰か通ってる」
イヴは身を屈め、地面の細い轍を指さした。
「車の跡もある。でも中に入ってない。ここで方向を変えてる」
車両は敷地の外周を回り、北側の建物の陰で記録から消えていた。
四人は建物に沿って進んだ。
廊下には不要になった椅子が積まれ、検査室の扉には白い封印紙が貼られている。
窓の割れた部屋から風が入り、床に溜まった埃がゆっくり動いていた。
「本当に何もないね」
イヴが囁いた。
藍沢は床へしゃがんだ。埃の上に足跡はない。最近開けられた形跡もない。
階段を上がり、管理室も見た。
壊れた通信機器、からの棚、壁に残った古い予定表。
電源は落ち、天井の一部から雨水が漏れていた。
目当ての研究設備も、医療資材も見つからない。
「ここじゃなかった?」
アダムが言った。
霧島は答えず、管理室の窓から中庭を見下ろした。
敷地の北側、廃棄物を置くための屋根だけが、ほかの建物に比べて新しかった。
柱には雨染みがない。屋根の下には何も置かれていないのに、その周囲だけ雑草が短く刈られている。
「もう一度、北側を見たい」
藍沢が彼女の視線を追う。
「さっき通ったところか?」
「そう。でも、下は見てない」
*
廃棄物置場の屋根の下は、風が通らなかった。
足元にはひび割れた舗装が広がっている。四隅の排水口から、低い水音がした。
アダムがしゃがみ、鉄格子を持ち上げる。
「排水は生きてる」
霧島は手をかざした。格子の下から上がってくる空気は、外気よりわずかに暖かい。
「廃止した建物の地下で、何かが動いてる」
藍沢は周囲を確かめた。舗装には車両の轍がなく、資材を下ろした跡もない。
イヴが屋根の柱を指で叩く。乾いた音が三回続き、最後の一本だけ鈍く響いた。
「この柱、空洞が広い」
足元の継ぎ目をなぞると、舗装に見えた四角い面が、ほかの部分とは別に沈んでいることが分かった。古い土砂が隙間を埋め、継ぎ目を隠していた。
藍沢は端の金具へ指を掛けた。
びくともしない。
「鍵があるな」
「ちょっと待って」
霧島が床の端を照らした。
下ろされた金属製の把手。
その近くには、手袋で繰り返し触れたような細い磨耗がある。
彼女は把手に刻まれた番号を確認し、周囲の壁を見た。
「こっちが操作盤のはず」
イヴが古い分電箱の蓋を開いた。中身は空だったが、底板の奥に新しい配線が一本通っている。
「これ?」
霧島が頷く。
アダムが携帯端末を当てると、通電した線だけが細く浮かび上がった。配線は舗装の下へ伸びていた。
「生きてる。ここだけ独立してる」
藍沢は分電箱の脇に身を寄せ、取り外せそうな金具を探した。
小さな蓋が外れ、その奥に押し込み式の取手が現れる。
力を掛けると、足元で重い留め具が外れた。
舗装の四角い面が、指一本ほど浮いた。
四人はしばらく動かなかった。
隙間から、地下の冷たい空気が這い上がってくる。
藍沢が持ち上げた蓋の下には、幅の狭い階段が続いていた。
壁の照明は点いていない。それでも遠い底のほうに、小さな緑の灯が一つ見える。
霧島は階段の手すりに指を触れた。埃がつかなかった。
「最近まで使われてる」
アダムが先に降りた。イヴが続き、藍沢は霧島の横に残る。
「無理はしなくていい。上で待ってても――」
「ここまで来た理由を、まだ確かめてない」
霧島は小さな灯を見つめた。
「見届ける」
藍沢はそれ以上言わなかった。
階段を降り切ると、通路の壁が急に新しくなった。
地上の剥がれた塗装とは違う、継ぎ目の少ない灰色の板。
天井には細い配管が通り、規則正しい振動が床へ伝わっていた。
最初の扉には、用途を示す文字がない。
その代わり、カードの読取口だけがあった。
アダムが床の端を覗き込み、口を閉じるよう指を立てた。
扉の向こうを、台車の車輪らしい音が通り過ぎる。
地上では見つからなかった人の気配が、ここにはある。
霧島が端末を開いた。
搬送記録に残っていた最終地点の識別番号と、扉の下端に刻まれた数字が一致していた。
「……ここにつながってた」
イヴが振り返る。
「お兄様は?」
霧島は首を横に振った。
「まだ分からない。でも、この下にあるものは、普通の倉庫じゃない」
藍沢は扉の脇に立った。
遠くで機械が動く。地下の空気は湿っているのに、鉄の匂いだけが妙に新しかった。
四人は声を潜め、さらに奥へ続く通路を探し始めた。
*
数時間後。
旧医療技術センターの外周道路に、一台の車が停まった。
エンジンが切られると、車内に残ったのは装備の留め具を確かめる小さな音だけだった。
『到着を確認した』
御堂の声が六人の耳に届く。
『施設内の通信状況は不安定だ。地下へ入った場合、映像が届かなくなる可能性がある。位置の更新だけは忘れるな』
「了解」
八神が答えた。
榊は窓越しに建物を見た。
遠くの正門には錆びた鎖が下がり、雑草が揺れている。
久世がここを通ったかどうかも分からない。
けれど、ここへ来るまでに何度も見た出入りの記録は、すべてこの付近で途切れていた。
久我が先に車を降り、外周を確かめた。
「正面に動きなし。周辺道路も静かだ」
「静かなほうが厄介だな」
八神は地面へ降りた。
天城が最後に装備ケースを閉じる。
小さく頷くと、彼女の傍らにもう一つ、同じ姿が現れた。
分かれた影は身を低くし、建物の反対側へ回っていく。
「車が出入りできそうなところを見てくる」
天城が言った。
「見つけたら追わずに戻せ」
八神が返す。
「分かってる」
鳴海は退路になる門の幅を測り、地図に印をつけた。
牧野は隣で、包帯の外れた手をもう一度開閉する。
「緊張してる?」
榊が尋ねた。
「してないって言ったら、嘘になるっす」
牧野は笑おうとして、やめた。
「久世さん、こういう時は案外、平気な顔してましたよね」
「……うん」
榊は短く答えた。
「だからって、平気だったわけじゃないと思う」
牧野は頷いた。
八神が正門へ向き直ったとき、天城が足を止めた。
「待って。北側に車がある」
天城の目は、六人のいる道路からさらに奥を追っていた。
分身が拾った景色を確かめるように、言葉を継ぐ。
「旧搬入口の脇。枝の陰に一台。人は乗ってない」
八神は全員を門の内側へ寄せた。
「車種は」
「普通の乗用車。外から見える範囲に所属を示すものはない。窓も閉まってる」
『こちらからは、その位置の車両情報を確認できない』
御堂の声が入った。
『無関係な車の可能性もある。接触するなら慎重に』
「確認する。天城、そのまま周囲を見ていろ」
六人は脇道へ回った。
舗装の端を根が持ち上げ、細い枝が車体の側面に触れている。
長く放置された車ではなかった。
タイヤの前後だけ草が寝ており、窓には新しい雨筋が残っていた。
鳴海がしゃがみ、路肩を見た。
「ここへ入ってきた跡がある。少なくとも、何年も置きっぱなしって車じゃないな」
牧野が車内を覗こうとしたところで、八神が手で制した。
「触らない方がいいわ。持ち主が近くにいるかもしれない」
「じゃあ、先客がいるってことっすか」
「その可能性が出てきたね」
榊は正門と脇道の位置を見比べた。
車は施設を見張るにも、目立たず近づくにも都合のいい場所に停まっていた。
「施設関係者なら、別の入口を使っているのかもしれません。あるいは、私たちと同じものを探しに来た人か……」
久我が建物の北側へ視線を向けた。
八神は車の位置を端末に登録した。
「御堂、車両を一台発見。所有者は未確認だ。後から来た人間と鉢合わせる可能性もある。以後、背後の警戒を増やす」
『了解。車両の件は別線で照会する。六人は捜索を優先して』
天城の分身を脇道の見張りに残し、六人は敷地へ入った。
施設の内部に人影はない。
玄関に残った受付台は埃を被り、壁の案内図には剥がれた紙が重なっていた。
鳴海が管理室を見て、久我が廊下を確かめる。
榊は使用されている電力の流れを携帯端末で追った。
建物の中心部はほとんど無反応だ。なのに北側の一点だけ、微かな消費が続いている。
「おかしいですね」
榊は足を止めた。
「管理設備が落ちているのに、敷地の奥だけ電気が生きています」
八神が端末を覗いた。
「方向は?」
「北側です。建物の外かもしれません」
天城は脇道に残した分身から周囲の様子を確かめ、それから北側の建物へ目を向けた。
「さっきの車は動いてない。北側に古い屋根がある。物置みたいな場所だけど、床に開けた跡が残ってる」
八神は久我を見る。
「先に確認する。何かあったら六人を守れる位置にいろ」
「分かった」
屋根の下へ向かう間、御堂から短い通信が入った。
『白石たちが調べた地下配管図では、その付近に大きな空間は登録されていない。見つかったとしても、構造は保証できない』
「構わない。まず入口を確かめる」
八神が言った。
屋根の下に着くと、舗装の四角い継ぎ目が見えた。
中央の蓋はきちんと閉じられている。
だが縁にこびりついた土だけが剥がれ、一部に湿った指の跡が残っていた。
「新しいな」
鳴海が呟いた。
「さっきの車の持ち主っすかね」
牧野が言う。
「分からない。ただ、この蓋を開けた人間がいるのは確かね」
八神が答えた。
榊は端末の感度を上げた。
蓋の下から、地上にはない一定の電磁雑音が拾える。
測定値の端に、ごく短い未知の波形が紛れ込んだ。
久世のAOFで最後に見た信号と似ている。
ほんの一部分だけだった。
近くに同種の設備があるだけかもしれない。
それでも榊の指は、画面を閉じなかった。
「美月ちゃん?」
八神が尋ねる。
「確証はありません。でも、下にAOFに関係する設備がある可能性があります」
牧野が蓋へ目を落とす。
「久世さんがいるかもしれないっすね」
ただ、その声は出発を止めるものではなかった。
久我が後方に立つ。鳴海が周囲を確かめ、天城の分身が屋根の外まで戻って見張りについた。
八神は蓋の金具に手を掛けた。施錠はされていない。
ひと息で持ち上げると、地面の下から湿った空気が上がってきた。
階段がある。
壁に据えられた非常灯は、ところどころ消えている。
その奥、地上からは見えない深さに、規則正しく並ぶ明かりがあった。
『何が見える』
御堂の声が耳元で響いた。
「地下への通路を確認した」
八神は階段の先を見た。
「こちらから先は、登録されていない区画だ」
『了解。通信を維持する。無理に進むな』
「分かってる」
八神は六人を見渡した。
「入るね。気配を拾っても、単独では動かないこと」
天城の分身が先に階段を降りた。
鳴海が続き、八神、榊、牧野、久我の順で地上の光から離れていく。
最後尾の久我が足を踏み下ろしたとき、上にはまだ午後の明るさが残っていた。
地下は、それを一段ずつ飲み込んでいった。
*
同じ頃、地表よりはるか下の廊下で、小さな警告灯が点いた。
誰もいない監視席の画面には、入口の開閉履歴が二つ並んでいる。
ひとつは数時間前。
もうひとつは、つい先ほど。
どちらにも、入室を許可した職員の名前はなかった。
警告灯は赤から白へ変わり、記録が自動的に閉じられた。
地下の奥で、重い扉が一枚、ゆっくりと施錠された。




