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特殊公安執行局  作者: the 春


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38/49

#38 暴走

 追尾光の線を、男が踏み越えた。


 久世湊は痛む右腕を身体に寄せたまま、左足を半歩ずらした。

 試験室の床には、ひしゃげた防護板と折れた金属枠が散らばっている。

 壁際の一角だけ床材がめくれ、下から黒い固定具が覗いていた。


 男はそこを避けなかった。


 靴裏で破片を踏み潰し、久世の左側へ入ろうとする。

 右肩が落ちた。直線的な打撃に見せて、今度は膝を使うつもりだ。


 久世は左手を差し出した。拳が来る前に手首へ触れ、身体の向きを変える。

 男の膝が空を切り、ふたりの肩が擦れた。

 AOFの腰部支持材が短く締まり、久世はその補助を借りて踵を床へ食い込ませる。


 男の重心を外すことには成功した。


 そのまま肘を掴み、足を払う。

 背中から落ちた男が、割れた防護板を下敷きにした。

 鈍い衝撃が足元を伝い、天井の記録灯が揺れる。

 久世は倒れた男の胸に膝を置こうとした。


 間に合わなかった。


 男は床についた手で上体を跳ね上げ、久世の足首を掴んだ。

 身体を引かれ、姿勢を失いかける。右手を使えば支えられる。

 だが、その選択はできなかった。

 久世は左の掌で床を打ち、膝を畳んで掴まれた足を引き抜く。


 男は立ち上がった。


 何度目だろう。


 胸元には新しい血が滲み、左の頬は腫れている。肋骨の辺りの布も裂けていた。

 それでも呼吸の深さは変わらず、足を運ぶ速さにも衰えがない。


「まだ続けるんですか」


「終わっていない」


 男の目が一度だけ、観測ガラスへ向いた。


「俺は、動けるかぎり動く」


 答えになっているようで、なっていなかった。


 男が近づく。久世は床の固定具を踏み台にして横へ移り、左の掌底を顎の下へ押し上げた。相手の頭が反り、後頭部が壁にぶつかる。打撃の感触は確かだった。骨と肉を通して伝わる重さも、間違いなく人間のものだ。


 それでも男は久世の手首を払い、首を戻した。

 男の拳が腹へ向かう。久世は肘を閉じ、身体をひねって衝撃を逃がした。

 AOFの脇腹に沿った支持材が硬くなる。反撃の位置は見えた。

 左の肘を落とせば、胸骨へ力を集められる。


 久世は打った。


 男は一歩退いた。


 そして、その一歩を取り返した。


 右の肩口に鋭い疼きが走った。

 AOFが右上肢の補助をさらに絞る。

 久世は動かない腕を身体へ押しつけた。


 男はそれを見ていた。


「そこが限界か」


 男は一歩深く入った。久世の左腕を外へ払い、空いた胴へ肩をぶつける。

 受け止めた瞬間、足裏が床を滑った。背後の防護壁が近づく。


 久世は首を引いた。壁と後頭部の間に左腕を挟む。衝撃が肘から肩へ伝わり、視界の端に光が散った。

 男の手が胸部固定具を掴んだ。

 久世は手首をこじ開けようとしたが、力が足りない。

 指一本を剥がす間に、さらに深く壁へ押しつけられる。


 *


 観測室には、久世の呼吸音だけが拡大されていた。


 画面の一方で研究体の損傷記録が更新されている。頬骨、肋骨、肩関節。負傷箇所を示す赤い印は増えているのに、別の欄に並ぶ数字は少しも動かなかった。


 《FUNCTIONAL DAMAGE:0》


 微小な損傷を戦闘機能の低下として扱わない。そのように調整された研究体には、痛みの蓄積が行動を鈍らせることもなかった。手首を捻られても、顎を打たれても、次の動作を選び直すだけで済む。


 蓮見は久世のAOFを示す記録へ目を移した。


 右上肢の保護が優先され、左側の筋負荷が上がり続けている。

 検査の第一段階で観測された未分類の反応も、攻防のたびに現れては消えた。

 装着者を守るため、AOFが閉じている経路がある。

 蓮見の手元には、磨耗した黒いケースが置かれていた。


 あの通信を受けた後、指定された保管区画から搬入させたものだ。ケースには現在の機材管理番号がなく、内側の緩衝材は何度も出し入れした跡で潰れていた。灰色の装置の表面には、古い製造刻印が半分だけ残っている。


 蓮見は装置を持ち上げず、ケースの接続口を操作台へ繋いだ。


 《BRIDGE》


 それだけが表示された。


 続いて、廃止された旧式の認証画面が開く。


 《AOF同期率強制補正》

 《保護制御の迂回》

 《使用禁止指定》


 下端に並ぶ警告には、記憶障害、運動機能障害、精神症状、致死的な神経負荷の可能性が記された。


「これを使うんですか」


「第二段階の指示です」


「装着者がどうなるか、分からないですよ」


 蓮見は、画面に映る久世の右腕を見た。


「ですから、すべて記録します」


 言い終える前に、ガラスの向こうで久世の身体が壁へ押しつけられた。

 研究体の腕が喉元へ寄っていく。

 久世の左手がその肘を支えようとするが、徐々に肘の角度を失っていた。


 蓮見は認証板を差し込んだ。

 接続音が低く一度鳴る。


 《BRIDGE/FORCED LINK》


 久世のAOFに向けて、強制同期の信号が流れ始めた。


 *


 久世の耳から、男の呼吸音が消えた。


 眼前にはまだ顔がある。動く唇も、首へ食い込む腕も見えている。

 それなのに、それらが突然、遠い映像のようになった。

 代わりに、床の裏側を走る電線の細かな震えが聞こえた。

 壁の中の配管がひとつずつ、皮膚の裏をなぞる。

 空調のモーターが回るたび、身体の内側に別の歯車が噛み合うようだった。


 左の指が開いた。


 開こうとしたわけではない。


 右腕を保護していたAOFの固定材が、一瞬だけ不規則に収縮する。

 焼けつくような感覚が肩を貫き、足の裏から膝までが自分の重さを失った。

 久世は壁に押しつけられたまま、瞬きができなくなった。

 視界に文字が浮かぶ。


 《SYNC RATE:73.8%》


 数字は小刻みに揺れ、見る間に桁を進めた。


 《SYNC RATE:86.4%》


 左手の指先から感覚が遠ざかる。胸の奥で心臓が一度、奇妙に長い間を空けた。


 《SYNC RATE:94.9%》


 男が久世の顔を覗き込む。目を合わせようとしているらしい。

 しかしその動きの一つひとつが、照明のちらつきに置き換わっていった。


 久世の顎がわずかに上がる。


 《SYNC RATE:100.0%》


 AOFの警告表示が、すべて白く塗り替えられた。


 まっさらになった視界の中央で、二つ目の枠が開く。


 《MODULE SLOT:02》

 《SAGITTARIUS SYSTEM》

 《ACTIVATION》


 久世の左手が、ゆっくりと前へ向いた。


 *


「百パーセント……?」


 観測室の職員が声を失った。


 装着者とAOFの同期率が、保護制御を介さず上限へ達している。

 心拍と神経信号の警告が重なり、複数の測定器が互いに異なる異常値を吐き出し始めた。

 蓮見は同期率の表示を見ていた。

 だが、異常はそこだけではなかった。


 久世のAOFには、これまで検査で確認できなかった領域がある。

 その一角に、新しい制御図が現れている。

 既存の能力出力に追加された単なる補助命令ではない。

 独立した起動手順が、装備の内側から順に組み上がっていく。


 《SAGITTARIUS/TARGET VECTOR LOCK》


 試験室の床に散った金属片が、静かに向きを変えた。


 壊れた固定具の隙間から、小さな円柱状のピンが転がり出す。

 さっきまで久世が踏んでいた破片の一つだ。

 ピンは床の継ぎ目を越え、左手の先へ吸い寄せられるように進んだ。


 蓮見は別の映像を拡大した。


 久世の手元には、金属を固定する装置も、銃身もない。


 それでもAOFが拾う磁場の分布には、細長い二本の平行線が描かれ始めていた。


 見えない砲身が、そこにある。


 *


 研究体の男が、久世の胸部固定具から手を離した。


 危険を感じたのか、それとも命令とは別の何かを見たのか。

 その判断を確かめる間もなく、男は後ろへ跳んだ。

 久世の左手の前に浮いた金属ピンが、軸を水平に揃える。

 電流が走った。


 青白い光が、空中に二本の細い筋を引く。

 床の照明が次々に落ち、天井の配線から火花が散った。

 室内の空気は瞬く間に熱を帯び、割れた防護板の縁に細かな火がつく。


 久世の指は動かなかった。


 だが、AOFの表示だけが先へ進む。


 《SAGITTARIUS/RAIL FORMATION》

 《PROJECTILE CAPTURED》

 《DISCHARGE》


 小さな金属ピンが視界から消えた。

 音は、一瞬遅れてやってきた。

 床から天井まで、空間そのものを裂くような衝撃だった。

 一直線に伸びた閃光が研究体を貫き、男の身体は輪郭を保つことさえできずに砕け散った。

 破片は後方の防護壁へ叩きつけられ、壁材とともに粉塵となって舞い上がる。


 射線の先に残されたのは、深く抉れた隔壁と、焼けた床の長い傷だった。


 そこに、立ち上がる男の姿はない。


 微小な衝撃を無視し続けた研究体も、身体を一度に破壊されては動作を継続できなかった。


 *


 観測室の全画面が、一瞬だけ白く飛んだ。


 非常電源が入り、暗転した映像が順に戻る。


 《RESEARCH SUBJECT/VITAL SIGNAL LOST》

 《FUNCTIONAL DAMAGE:100%》

 《BODY INTEGRITY:LOST》


 職員たちが互いの端末へ手を伸ばす。

 だが蓮見だけは、久世のAOFから送られてくる一つの表示を追っていた。


 《SAGITTARIUS SYSTEM》

 《COOLDOWN/ACTIVE》


 発射が終わった直後から、冷却処理が始まっている。

 過剰な出力を使ったモジュールの内部で、残留する熱と電流を逃がすための制御が働いていた。


 画面の中の久世は、まだ左手を前へ向けている。


 指先は細かく震えていた。

 膝が少しずつ内側へ寄り、身体を支えるはずのAOFの支持材が動作の順序を失っている。


 《NEURAL RESPONSE/CRITICAL》

 《MOTOR CONTROL/DISRUPTED》


 久世の視線が下がった。


 腕を戻すことも、足を踏み出すこともできない。

 白く燃えた射線の先を見つめたまま、ひとつ息を吸った。


 そして、冷却表示が点滅するなか、身体が横へ傾いた。


 頬が床に触れるより先に、AOFの膝部がわずかに収縮した。

 転倒の衝撃を和らげるための、遅すぎる補助だった。

 久世はそのまま動かなくなった。


 《CONSCIOUSNESS/UNRESPONSIVE》


「医療班を呼んでください」


 蓮見の声に、職員が顔を上げた。


「冷却が終わっていません。装備の熱が――」


「冷却制御は切らない。搬送路を確保して、AOFごと運びます。装置の取り外しは医療区画で判断してください」


 隔壁の向こうで非常扉が開く。


 防護服を着た医療班が慎重に入室し、久世の傍らに膝をついた。脈拍を確認し、呼吸を確かめる。ひとりが担架を運び込み、もうひとりがAOFの熱を測った。


「呼吸あり。意識反応なし。右上肢の神経応答が低下しています」


「搬送を急いでください」


 久世の身体が持ち上がる。

 右腕は胸元に固定され、左の手は力なく担架の縁へ落ちた。

 頬に残った傷を拭われても、瞼は動かなかった。


 頭上の表示が、閉じかけた扉の隙間から一度だけ見えた。


 《SAGITTARIUS/COOLDOWN:CONTINUING》


 医務室へ続く廊下に、車輪の音が遠ざかっていった。


 *


 観測室から職員がいなくなっても、蓮見は席を離れなかった。

 BRIDGEの接続はすでに切られている。古い灰色の装置は黒いケースへ収められ、所有者の指示があるまで封を解かないよう、専用の保管箱に戻された。


 記録には成功と呼べる数字が残っていた。

 同期率百パーセント。

 モジュールスロット二の起動。

 サジタリウスシステムによる電磁加速射撃。

 研究体の完全停止。

 そして、被験者の意識消失。

 蓮見は最後の項目の上で指を止めた。


 使用禁止になった装置が起こし得る症状を、いまさら知らなかったわけではない。

 しかし、結果は彼の想像を越えていた。

 BRIDGEが同期を引き上げたことは分かる。問題は、同期の先に現れたものだ。


 久世のAOFは、蓮見の知る設定項目にはない第二のモジュールを自ら開いた。

 構造を調べた第一段階では、その領域を特定できていない。

 起動の途中で現れた名称も、蓮見が入力したものではなかった。

 なぜ、そんなものが久世のAOFにあるのか。

 蓮見は前夜の通信記録を開いた。



 創設者は、久世のAOFがこう反応すると、どこまで予測していたのだろう。


 百パーセントへ届くことか。

 未知のモジュールが開くことか。

 それとも、この程度はまだ通過点にすぎないのか。

 蓮見は通信端末を起動し、実験結果の要約を作りかけた。

 画面には「成功」の判定欄がある。

 その欄を埋める代わりに、彼は久世の搬送先へ内線をつないだ。


「被験者の状態は」


『循環は維持しています。ただ、意識は戻っていません。AOFとの接続を解除する前に、冷却完了と神経反応の確認が必要です』


「分かりました。変化があれば、すぐに知らせてください」


 通話を切った後も、蓮見は結果の判定欄を空白のままにしていた。


 机の端には、発射直前のAOFの制御図が残っている。

 蓮見はその図を拡大し、未確認領域の外縁をなぞった。

 第二のモジュールが開いた瞬間、さらに奥の領域にも、微かな応答が一度だけ走っていた。

 偶然の混線では片づけられないほど整った波形だった。

 蓮見は、その記録を消さずに保存した。

 指示どおりに実験を進めれば、何が見つかるのか。


 *


 古い倉庫の二階で、霧島は同じ荷札を三度見直していた。


 机の上には搬送車両の通過記録、医療資材の納品票、短い通信の書き起こしが広げられている。

 窓から入る午後の光が、紙の端だけを白くした。


「車両の番号は一致してるな」


 藍沢真が向かいの席から言った。


「執行局の襲撃があった夜、あの区画へ入った車。表向きは精密機器の輸送になっている」


 霧島は別の紙を指で押さえた。


「運んだのが機械だけなら、これが要らない」


 保温容器と緊急輸血用の備品。

 その隣には、AOF装着者向けの神経監視材が追加されていた。注文日は襲撃の直後だった。


 霧島の隣で、アダムが薄い端末を持ち上げる。


「追加の連絡が入った。救護区画の使用申請が更新されてる」


 イヴが覗き込む。


「どこの?」


「同じ搬送経路の先。旧医療技術センターを通して、もう一段奥にある施設だ」


 画面には座標を隠した転送記録が残っていた。

 中継点の識別番号が、搬送車両の出入り記録とつながっている。

 その最終地点は一般の配送業者が使用できない閉鎖区画だった。


 藍沢は椅子を引き寄せた。


「その閉鎖区画って、以前見つけたやつか」


「そう」


 霧島が答える。


「ただの保管庫じゃない。出入口の管理系統が独立してる。資材の量も、職員の滞在記録も、ひとつの研究所には多すぎる」


 イヴは転送記録の時刻を指した。


「救護区画が急に動いたのは、ついさっきだね」


 その隣に、短い文字列があった。


 《SUBJECT/AOF EQUIPPED》

 《EMERGENCY TRANSFER》


 霧島は椅子から立ち上がった。


 彼女には、その記述だけで誰かを断定するつもりはなかった。それでも、執行局からさらわれた久世湊がAOFを装着したまま消息を絶った事実と、輸送記録の時刻は重なっていた。


「久世が拉致されたって情報は、確かなんだな」


 藍沢の問いに、霧島は頷いた。


「執行局から出た救助要請と、現場に残された転移の痕跡。別々の経路で確認した。久世が自分の意思で出た可能性は低い」


 アダムが壁の地図を開く。


「この奥、行ったことある?」


「ない。でも入口は調べられる」


 霧島は地図の一点を指で示した。


「中継施設のさらに先。物資も指示もここを通っている。本拠地にあたる可能性が高い」


 藍沢は画面を見つめたまま、短く息を吐いた。


「久世がそこにいるなら、早く動かないと」


「ええ」


 霧島は書類を束ねて鞄へ収めた。


「今度は、向こうが先に気づく前に」


 アダムは端末の通信を切り、イヴは床に置いていた小さな装備ケースを持ち上げた。

 四人が倉庫を出ると、階段の踊り場に残った足音が、順番に消えていった。

 駐車場には目立たない車が一台停まっている。

 霧島は助手席の扉を開ける前に、荷札の写真をもう一度確かめた。

 閉鎖区画への経路を示す細い線が、画面の奥へ延びている。

 その先に久世がいるという保証はない。

 けれど、見過ごせるほど曖昧な痕跡でもなかった。

 エンジンがかかる。

 車は町の外れを抜け、中枢施設へ向けて走り出した。

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