#38 暴走
追尾光の線を、男が踏み越えた。
久世湊は痛む右腕を身体に寄せたまま、左足を半歩ずらした。
試験室の床には、ひしゃげた防護板と折れた金属枠が散らばっている。
壁際の一角だけ床材がめくれ、下から黒い固定具が覗いていた。
男はそこを避けなかった。
靴裏で破片を踏み潰し、久世の左側へ入ろうとする。
右肩が落ちた。直線的な打撃に見せて、今度は膝を使うつもりだ。
久世は左手を差し出した。拳が来る前に手首へ触れ、身体の向きを変える。
男の膝が空を切り、ふたりの肩が擦れた。
AOFの腰部支持材が短く締まり、久世はその補助を借りて踵を床へ食い込ませる。
男の重心を外すことには成功した。
そのまま肘を掴み、足を払う。
背中から落ちた男が、割れた防護板を下敷きにした。
鈍い衝撃が足元を伝い、天井の記録灯が揺れる。
久世は倒れた男の胸に膝を置こうとした。
間に合わなかった。
男は床についた手で上体を跳ね上げ、久世の足首を掴んだ。
身体を引かれ、姿勢を失いかける。右手を使えば支えられる。
だが、その選択はできなかった。
久世は左の掌で床を打ち、膝を畳んで掴まれた足を引き抜く。
男は立ち上がった。
何度目だろう。
胸元には新しい血が滲み、左の頬は腫れている。肋骨の辺りの布も裂けていた。
それでも呼吸の深さは変わらず、足を運ぶ速さにも衰えがない。
「まだ続けるんですか」
「終わっていない」
男の目が一度だけ、観測ガラスへ向いた。
「俺は、動けるかぎり動く」
答えになっているようで、なっていなかった。
男が近づく。久世は床の固定具を踏み台にして横へ移り、左の掌底を顎の下へ押し上げた。相手の頭が反り、後頭部が壁にぶつかる。打撃の感触は確かだった。骨と肉を通して伝わる重さも、間違いなく人間のものだ。
それでも男は久世の手首を払い、首を戻した。
男の拳が腹へ向かう。久世は肘を閉じ、身体をひねって衝撃を逃がした。
AOFの脇腹に沿った支持材が硬くなる。反撃の位置は見えた。
左の肘を落とせば、胸骨へ力を集められる。
久世は打った。
男は一歩退いた。
そして、その一歩を取り返した。
右の肩口に鋭い疼きが走った。
AOFが右上肢の補助をさらに絞る。
久世は動かない腕を身体へ押しつけた。
男はそれを見ていた。
「そこが限界か」
男は一歩深く入った。久世の左腕を外へ払い、空いた胴へ肩をぶつける。
受け止めた瞬間、足裏が床を滑った。背後の防護壁が近づく。
久世は首を引いた。壁と後頭部の間に左腕を挟む。衝撃が肘から肩へ伝わり、視界の端に光が散った。
男の手が胸部固定具を掴んだ。
久世は手首をこじ開けようとしたが、力が足りない。
指一本を剥がす間に、さらに深く壁へ押しつけられる。
*
観測室には、久世の呼吸音だけが拡大されていた。
画面の一方で研究体の損傷記録が更新されている。頬骨、肋骨、肩関節。負傷箇所を示す赤い印は増えているのに、別の欄に並ぶ数字は少しも動かなかった。
《FUNCTIONAL DAMAGE:0》
微小な損傷を戦闘機能の低下として扱わない。そのように調整された研究体には、痛みの蓄積が行動を鈍らせることもなかった。手首を捻られても、顎を打たれても、次の動作を選び直すだけで済む。
蓮見は久世のAOFを示す記録へ目を移した。
右上肢の保護が優先され、左側の筋負荷が上がり続けている。
検査の第一段階で観測された未分類の反応も、攻防のたびに現れては消えた。
装着者を守るため、AOFが閉じている経路がある。
蓮見の手元には、磨耗した黒いケースが置かれていた。
あの通信を受けた後、指定された保管区画から搬入させたものだ。ケースには現在の機材管理番号がなく、内側の緩衝材は何度も出し入れした跡で潰れていた。灰色の装置の表面には、古い製造刻印が半分だけ残っている。
蓮見は装置を持ち上げず、ケースの接続口を操作台へ繋いだ。
《BRIDGE》
それだけが表示された。
続いて、廃止された旧式の認証画面が開く。
《AOF同期率強制補正》
《保護制御の迂回》
《使用禁止指定》
下端に並ぶ警告には、記憶障害、運動機能障害、精神症状、致死的な神経負荷の可能性が記された。
「これを使うんですか」
「第二段階の指示です」
「装着者がどうなるか、分からないですよ」
蓮見は、画面に映る久世の右腕を見た。
「ですから、すべて記録します」
言い終える前に、ガラスの向こうで久世の身体が壁へ押しつけられた。
研究体の腕が喉元へ寄っていく。
久世の左手がその肘を支えようとするが、徐々に肘の角度を失っていた。
蓮見は認証板を差し込んだ。
接続音が低く一度鳴る。
《BRIDGE/FORCED LINK》
久世のAOFに向けて、強制同期の信号が流れ始めた。
*
久世の耳から、男の呼吸音が消えた。
眼前にはまだ顔がある。動く唇も、首へ食い込む腕も見えている。
それなのに、それらが突然、遠い映像のようになった。
代わりに、床の裏側を走る電線の細かな震えが聞こえた。
壁の中の配管がひとつずつ、皮膚の裏をなぞる。
空調のモーターが回るたび、身体の内側に別の歯車が噛み合うようだった。
左の指が開いた。
開こうとしたわけではない。
右腕を保護していたAOFの固定材が、一瞬だけ不規則に収縮する。
焼けつくような感覚が肩を貫き、足の裏から膝までが自分の重さを失った。
久世は壁に押しつけられたまま、瞬きができなくなった。
視界に文字が浮かぶ。
《SYNC RATE:73.8%》
数字は小刻みに揺れ、見る間に桁を進めた。
《SYNC RATE:86.4%》
左手の指先から感覚が遠ざかる。胸の奥で心臓が一度、奇妙に長い間を空けた。
《SYNC RATE:94.9%》
男が久世の顔を覗き込む。目を合わせようとしているらしい。
しかしその動きの一つひとつが、照明のちらつきに置き換わっていった。
久世の顎がわずかに上がる。
《SYNC RATE:100.0%》
AOFの警告表示が、すべて白く塗り替えられた。
まっさらになった視界の中央で、二つ目の枠が開く。
《MODULE SLOT:02》
《SAGITTARIUS SYSTEM》
《ACTIVATION》
久世の左手が、ゆっくりと前へ向いた。
*
「百パーセント……?」
観測室の職員が声を失った。
装着者とAOFの同期率が、保護制御を介さず上限へ達している。
心拍と神経信号の警告が重なり、複数の測定器が互いに異なる異常値を吐き出し始めた。
蓮見は同期率の表示を見ていた。
だが、異常はそこだけではなかった。
久世のAOFには、これまで検査で確認できなかった領域がある。
その一角に、新しい制御図が現れている。
既存の能力出力に追加された単なる補助命令ではない。
独立した起動手順が、装備の内側から順に組み上がっていく。
《SAGITTARIUS/TARGET VECTOR LOCK》
試験室の床に散った金属片が、静かに向きを変えた。
壊れた固定具の隙間から、小さな円柱状のピンが転がり出す。
さっきまで久世が踏んでいた破片の一つだ。
ピンは床の継ぎ目を越え、左手の先へ吸い寄せられるように進んだ。
蓮見は別の映像を拡大した。
久世の手元には、金属を固定する装置も、銃身もない。
それでもAOFが拾う磁場の分布には、細長い二本の平行線が描かれ始めていた。
見えない砲身が、そこにある。
*
研究体の男が、久世の胸部固定具から手を離した。
危険を感じたのか、それとも命令とは別の何かを見たのか。
その判断を確かめる間もなく、男は後ろへ跳んだ。
久世の左手の前に浮いた金属ピンが、軸を水平に揃える。
電流が走った。
青白い光が、空中に二本の細い筋を引く。
床の照明が次々に落ち、天井の配線から火花が散った。
室内の空気は瞬く間に熱を帯び、割れた防護板の縁に細かな火がつく。
久世の指は動かなかった。
だが、AOFの表示だけが先へ進む。
《SAGITTARIUS/RAIL FORMATION》
《PROJECTILE CAPTURED》
《DISCHARGE》
小さな金属ピンが視界から消えた。
音は、一瞬遅れてやってきた。
床から天井まで、空間そのものを裂くような衝撃だった。
一直線に伸びた閃光が研究体を貫き、男の身体は輪郭を保つことさえできずに砕け散った。
破片は後方の防護壁へ叩きつけられ、壁材とともに粉塵となって舞い上がる。
射線の先に残されたのは、深く抉れた隔壁と、焼けた床の長い傷だった。
そこに、立ち上がる男の姿はない。
微小な衝撃を無視し続けた研究体も、身体を一度に破壊されては動作を継続できなかった。
*
観測室の全画面が、一瞬だけ白く飛んだ。
非常電源が入り、暗転した映像が順に戻る。
《RESEARCH SUBJECT/VITAL SIGNAL LOST》
《FUNCTIONAL DAMAGE:100%》
《BODY INTEGRITY:LOST》
職員たちが互いの端末へ手を伸ばす。
だが蓮見だけは、久世のAOFから送られてくる一つの表示を追っていた。
《SAGITTARIUS SYSTEM》
《COOLDOWN/ACTIVE》
発射が終わった直後から、冷却処理が始まっている。
過剰な出力を使ったモジュールの内部で、残留する熱と電流を逃がすための制御が働いていた。
画面の中の久世は、まだ左手を前へ向けている。
指先は細かく震えていた。
膝が少しずつ内側へ寄り、身体を支えるはずのAOFの支持材が動作の順序を失っている。
《NEURAL RESPONSE/CRITICAL》
《MOTOR CONTROL/DISRUPTED》
久世の視線が下がった。
腕を戻すことも、足を踏み出すこともできない。
白く燃えた射線の先を見つめたまま、ひとつ息を吸った。
そして、冷却表示が点滅するなか、身体が横へ傾いた。
頬が床に触れるより先に、AOFの膝部がわずかに収縮した。
転倒の衝撃を和らげるための、遅すぎる補助だった。
久世はそのまま動かなくなった。
《CONSCIOUSNESS/UNRESPONSIVE》
「医療班を呼んでください」
蓮見の声に、職員が顔を上げた。
「冷却が終わっていません。装備の熱が――」
「冷却制御は切らない。搬送路を確保して、AOFごと運びます。装置の取り外しは医療区画で判断してください」
隔壁の向こうで非常扉が開く。
防護服を着た医療班が慎重に入室し、久世の傍らに膝をついた。脈拍を確認し、呼吸を確かめる。ひとりが担架を運び込み、もうひとりがAOFの熱を測った。
「呼吸あり。意識反応なし。右上肢の神経応答が低下しています」
「搬送を急いでください」
久世の身体が持ち上がる。
右腕は胸元に固定され、左の手は力なく担架の縁へ落ちた。
頬に残った傷を拭われても、瞼は動かなかった。
頭上の表示が、閉じかけた扉の隙間から一度だけ見えた。
《SAGITTARIUS/COOLDOWN:CONTINUING》
医務室へ続く廊下に、車輪の音が遠ざかっていった。
*
観測室から職員がいなくなっても、蓮見は席を離れなかった。
BRIDGEの接続はすでに切られている。古い灰色の装置は黒いケースへ収められ、所有者の指示があるまで封を解かないよう、専用の保管箱に戻された。
記録には成功と呼べる数字が残っていた。
同期率百パーセント。
モジュールスロット二の起動。
サジタリウスシステムによる電磁加速射撃。
研究体の完全停止。
そして、被験者の意識消失。
蓮見は最後の項目の上で指を止めた。
使用禁止になった装置が起こし得る症状を、いまさら知らなかったわけではない。
しかし、結果は彼の想像を越えていた。
BRIDGEが同期を引き上げたことは分かる。問題は、同期の先に現れたものだ。
久世のAOFは、蓮見の知る設定項目にはない第二のモジュールを自ら開いた。
構造を調べた第一段階では、その領域を特定できていない。
起動の途中で現れた名称も、蓮見が入力したものではなかった。
なぜ、そんなものが久世のAOFにあるのか。
蓮見は前夜の通信記録を開いた。
創設者は、久世のAOFがこう反応すると、どこまで予測していたのだろう。
百パーセントへ届くことか。
未知のモジュールが開くことか。
それとも、この程度はまだ通過点にすぎないのか。
蓮見は通信端末を起動し、実験結果の要約を作りかけた。
画面には「成功」の判定欄がある。
その欄を埋める代わりに、彼は久世の搬送先へ内線をつないだ。
「被験者の状態は」
『循環は維持しています。ただ、意識は戻っていません。AOFとの接続を解除する前に、冷却完了と神経反応の確認が必要です』
「分かりました。変化があれば、すぐに知らせてください」
通話を切った後も、蓮見は結果の判定欄を空白のままにしていた。
机の端には、発射直前のAOFの制御図が残っている。
蓮見はその図を拡大し、未確認領域の外縁をなぞった。
第二のモジュールが開いた瞬間、さらに奥の領域にも、微かな応答が一度だけ走っていた。
偶然の混線では片づけられないほど整った波形だった。
蓮見は、その記録を消さずに保存した。
指示どおりに実験を進めれば、何が見つかるのか。
*
古い倉庫の二階で、霧島は同じ荷札を三度見直していた。
机の上には搬送車両の通過記録、医療資材の納品票、短い通信の書き起こしが広げられている。
窓から入る午後の光が、紙の端だけを白くした。
「車両の番号は一致してるな」
藍沢真が向かいの席から言った。
「執行局の襲撃があった夜、あの区画へ入った車。表向きは精密機器の輸送になっている」
霧島は別の紙を指で押さえた。
「運んだのが機械だけなら、これが要らない」
保温容器と緊急輸血用の備品。
その隣には、AOF装着者向けの神経監視材が追加されていた。注文日は襲撃の直後だった。
霧島の隣で、アダムが薄い端末を持ち上げる。
「追加の連絡が入った。救護区画の使用申請が更新されてる」
イヴが覗き込む。
「どこの?」
「同じ搬送経路の先。旧医療技術センターを通して、もう一段奥にある施設だ」
画面には座標を隠した転送記録が残っていた。
中継点の識別番号が、搬送車両の出入り記録とつながっている。
その最終地点は一般の配送業者が使用できない閉鎖区画だった。
藍沢は椅子を引き寄せた。
「その閉鎖区画って、以前見つけたやつか」
「そう」
霧島が答える。
「ただの保管庫じゃない。出入口の管理系統が独立してる。資材の量も、職員の滞在記録も、ひとつの研究所には多すぎる」
イヴは転送記録の時刻を指した。
「救護区画が急に動いたのは、ついさっきだね」
その隣に、短い文字列があった。
《SUBJECT/AOF EQUIPPED》
《EMERGENCY TRANSFER》
霧島は椅子から立ち上がった。
彼女には、その記述だけで誰かを断定するつもりはなかった。それでも、執行局からさらわれた久世湊がAOFを装着したまま消息を絶った事実と、輸送記録の時刻は重なっていた。
「久世が拉致されたって情報は、確かなんだな」
藍沢の問いに、霧島は頷いた。
「執行局から出た救助要請と、現場に残された転移の痕跡。別々の経路で確認した。久世が自分の意思で出た可能性は低い」
アダムが壁の地図を開く。
「この奥、行ったことある?」
「ない。でも入口は調べられる」
霧島は地図の一点を指で示した。
「中継施設のさらに先。物資も指示もここを通っている。本拠地にあたる可能性が高い」
藍沢は画面を見つめたまま、短く息を吐いた。
「久世がそこにいるなら、早く動かないと」
「ええ」
霧島は書類を束ねて鞄へ収めた。
「今度は、向こうが先に気づく前に」
アダムは端末の通信を切り、イヴは床に置いていた小さな装備ケースを持ち上げた。
四人が倉庫を出ると、階段の踊り場に残った足音が、順番に消えていった。
駐車場には目立たない車が一台停まっている。
霧島は助手席の扉を開ける前に、荷札の写真をもう一度確かめた。
閉鎖区画への経路を示す細い線が、画面の奥へ延びている。
その先に久世がいるという保証はない。
けれど、見過ごせるほど曖昧な痕跡でもなかった。
エンジンがかかる。
車は町の外れを抜け、中枢施設へ向けて走り出した。




