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特殊公安執行局  作者: the 春


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37/49

#37 観測

 灰色の箱が開かれた時、久世湊はまず、留め具の傷に目を留めた。


 右肩に掛かる部分の塗装が、米粒ほど剥げている。

 訓練区画の装備台にぶつけた跡だった。

 金属の縁には、指で触れれば分かるほど浅い窪みも残っている。


 執行局から持ち出された自分のAOFが、そこにあった。


 外装は洗浄され、ミカエルとの戦闘で損傷した接続部には、新しい部品が使われていた。だが交換されているのは表面の一部だけだ。身体に触れる内側の支持材も、重さも、久世の知るものと変わらない。


 蓮見は箱の向こうで待っていた。

 白衣を着た職員が二人、無言で装備の状態を確かめる。箱の内蓋には管理用の札が貼られ、所有者を示すはずの執行局の記章には、黒い覆いが被せられていた。


 久世は箱に手を伸ばした。


 職員の一人が先に持ち上げようとしたが、久世はその手を遮った。左手で胸部の固定具を支え、背中へ回す。いつもの順番だった。右腕を上げると肩の奥に痛みが走り、二度目でようやく留め具が噛み合った。


 細い振動が、首の下から背骨に沿って伝わっていく。


 《AOF SYSTEM:STANDBY》


 胸元の灯が点いた。

 久世は右手を開閉し、指先に残る痺れを確かめた。


 蓮見は横から薄い測定端子を差し出した。AOF本体を分解する様子はない。装備の外側に取り付けられた端子から白い線が伸び、移動台の上にある機械へとつながった。別の職員が携行端末の画面を伏せて持ち、久世のすぐ後ろにつく。


 AOFは返却されたわけではなかった。


 久世が装着している間も、接続の許可も記録の保存先も、この建物の人間が握っている。

 脇に置かれた箱の蓋は閉められず、空いた内側を監視用のレンズが向いていた。


 廊下を進む。


 曲がり角が二つ。行き止まりに見えた壁が左右へ開き、奥に白い部屋が現れた。窓はない。天井の照明は一枚の板のように平たく、部屋全体から影を削ぎ落としている。


 床には目盛りが刻まれ、中央に低い台があった。

 その周囲を囲むように、異なる形の装置が並んでいる。

 天井から吊られた錘、薄い透明板、半円を描くレール、手のひらほどの金属片を収めたケース。

 そして、表面に細かな孔を持つ黒い壁。


 どれも武器には見えなかった。


 そのことが、かえって落ち着かなかった。


 久世は台に立たされた。右肩を固定する柔らかな帯が巻かれ、背中の接続線が頭上の滑車へ引かれる。腕の痛みを増やさないための処置にも見えたが、帯は久世の意思では外せない構造になっていた。


 正面のガラスの向こうに、蓮見と職員たちが並んだ。


 記録が始まった。


 *


 特殊公安執行局の通路には、壁を塗り直した匂いがまだ残っていた。


 剥がされた床材の代わりに新しい板がはめ込まれ、破損した扉には仮設の認証装置が取り付けられている。職員たちはいつものように出入りしていたが、角を曲がる前に無意識に足を緩める者がいた。


 第四執行部の作戦室では、榊美月が壁面の図面に新しい線を加えていた。

 線は侵入者の経路を表すものではない。


 職員用通路、搬入口、車両の発着口。各所に残された映像から、襲撃の直前と直後に使われた車両を拾い直し、それぞれの行き先をまとめたものだった。転移そのものを追うことはできなくても、敵が用意した装備や人員には、移動の痕跡が残る可能性がある。


 机の端には、久世の識別番号が記された小さな紙が置かれていた。


 榊はそれを隠すでもなく、特別扱いするでもなく、次の照会結果を開いた。


「これ、第二搬入口の映像っすよね」


 包帯を巻き直した牧野征士郎が、画面の端を指した。


「そう。襲撃より前の記録よ」


「業者の車、三回も来てるんすか」


「全部違う名義。でも荷台に付いた傷が同じ。番号だけ替えた可能性がある」


 牧野は画面を拡大した。バックランプの横に長い擦過痕があり、三つの映像とも位置が一致している。


「この車、何運んでたんすか」


「備品扱い。中身は未確認」


「備品ねえ……。あの連中が、ただの備品届けに来るとも思えないっすけど」


「決めつけないで。ほかの搬入車とも照合する」


 榊が一覧を送ると、牧野は素直に頷いた。ふざけた調子は戻っているが、指先が画面から離れるたび、その手を少し庇っていた。


 扉が開き、御堂彰子が入ってきた。


「第一から連絡があった。物流記録に不審な施設が一件出ている」


 榊が顔を上げる。


「久世さんにつながる情報ですか」


「まだ分からない。場所を確かめ、出入りを監視する段階だ。第四には装備の照合を頼みたいと来ている」


 御堂は机の上に薄い端末を置いた。閉鎖された旧医療技術センターの写真が映る。

 建物は低く、窓のほとんどが外側から塞がれていた。

 敷地の奥には、後から増築されたような細長い棟がある。


「電力と冷却設備だけが生きている。大型の医療機器を扱うには十分な条件だそうだ」


 榊は写真の端を拡大した。建物の裏手に、大きな換気口が並んでいる。

 通気口の周囲には新しい塗装の跡があった。


「この設備、最近交換されていますね」


「第一も同じ点を見ている」


「稼働記録があれば、使ってる機器の規模は絞れそうです」


「協力してくれ。ただし、現地の作戦は第一が主導する。こちらの判断で踏み込まないこと」


「分かりました」


 御堂は牧野の手を見た。


「医療班は何と言っている」


「動かしちゃ駄目とは言われてないっす。細かい作業がちょっと遅いだけで」


「それを無理がないとは言わない。今日は榊の補助に回れ」


「了解っす」


 牧野は笑って見せたが、御堂が出ていった後もしばらく、閉じた扉を見つめていた。

 廊下の反対側、第一執行部の会議卓では、白石志穂が航空写真と許認可記録を並べていた。

 神谷直人は、業者から回収した納品伝票の写しを持って戻ってくる。


「確認できたものだけで四社です。いずれも同じ中継倉庫を使っています」


「施設の契約者は」


「法人が二度変わっています。最後の会社は、代表者への連絡が取れません」


 白石は写真に視線を移した。


 閉鎖された施設の周りだけ、舗装が不自然に新しい。

 門の錆びた看板と、車両が繰り返し通ったタイヤの跡が、同じ敷地に共存していた。


「監視を先行させる。出入りする者の顔と車両を押さえてから判断する」


「久世の件との関連は、上へどう報告しますか」


「未確認と書く。焦って場所を踏み違えれば、向こうにこっちの手を見せるだけだ」


 神谷は頷いた。


「現地には目立たない車両を回します」


「頼む。それから搬入業者には、こちらが調べていると悟らせないように」


 神谷が会議卓を離れると、白石はしばらく写真を見下ろしていた。


 倉庫の影に沿って伸びる細い道は、建物の奥で途切れている。

 地図では行き止まりだったが、現地の写真には、さらに奥へ続く轍が写っていた。

 その先は、木々に隠されて見えない。


 *


 久世が部屋へ戻された後も、観測室の照明は落とされなかった。

 操作席に残った職員たちが、検査で回収した容器を撮影している。

 金属片の入った方には、底の中央に小さな擦り傷ができていた。

 紙片の端は、折れたまま戻らない。どちらにも、外側から力を加えた跡はない。

 蓮見は、記録の一部を抜き出して別の画面へ移した。


 歩行補助、感覚応答、負荷への抵抗。装置は違い、刺激も違う。通常なら別の測定項目として切り離される値が、久世のAOFを通すと、ところどころで互いの境界を失っていた。


 波形の意味は、まだ判明していない。


 蓮見は判定欄を埋めずに、そのまま保存した。

 結果に名前をつけるのは、名前がつけられるだけの確証を得てからでいい。

 最後の記録を閉じると、操作台の端で黒い小窓が点いた。


 職員たちは一斉に席を離れた。示し合わせたような速さだった。

 誰も理由を尋ねず、記録用の端末も置いたまま、奥の扉から出ていく。


 蓮見だけが残った。

 壁際の表示板が、ゆっくりと暗くなる。

 小窓に文字が現れた。


 《第一段階/観測記録を受領》


 その下に、短い空欄が一つ開いていた。差出人の名前も、通信先を示す印もない。

 蓮見は検査の要約を送った。

 返答はすぐには来なかった。


 部屋の隅で、小さな回転音が始まる。監視用のレンズが一つずつ壁へ向き、最後に天井中央のレンズだけが観測台を見下ろす角度で止まった。


 黒い画面に、指の影が映った。


 どこか遠くで、誰かが机に触れたらしい。直接の映像ではなかった。

 磨かれた黒い面に反射した、ほんの一部分だけだ。

 長い指が一度、ゆっくりと動き、画面の端に置かれた古い金属製の輪に触れる。

 輪の内側には、小さな傷が幾重にも刻まれていた。

 久世の検査記録を拡大するでもなく、その指はしばらく動かなかった。

 やがて、音声が届く。


「……本人は、何かに気づいたか」


 低く、年齢の分からない声だった。人工的な歪みはほとんどない。

 それでも、そこにいる人物の姿や場所へ結びつく手がかりは何一つなかった。


「自覚は薄いようです。現れた反応を、自分の意思で再現するには至っていません」


「それでいい。次の段階でアレを使え」


 蓮見の指先が、操作台の端で止まった。


「我々の想定していた範囲を超えています。もう少し慎重に進めるべきかと」


「慎重に進めるために、お前をそこへ置いている」


 叱責には聞こえなかった。予定を読み上げるように、静かな言葉だった。

 画面の指が、金属の輪から離れた。


「急ぐ必要はないが、時間は有限だ」


「……承知しました」


 蓮見が答えると、黒い画面に新しい文字が現れた。


 《第二段階を許可》


 ほどなく通信は途絶え、監視用のレンズが元の向きへ戻った。


 蓮見は椅子に深く腰掛けた。


 *


 次に観測室へ呼ばれた時、久世は廊下の空気が変わっているのを感じた。


 先ほどの白衣の職員はいない。扉の前には防護服を着た二人が立ち、認証板の横には新しい警告灯が取り付けられていた。廊下の奥に見えていた台車も、荷物も、すべて片づけられている。


 扉の向こうは同じ部屋のはずだった。

 だが、中へ入った久世は足を止めた。

 中央の試験台がなくなっている。


 代わりに、広い床が剥き出しになっていた。

 周囲の目盛りは暗く、壁際には、角の欠けた厚い板が何枚も立てかけられている。

 透明な観測ガラスには内側から保護膜が下ろされ、その向こうの人影は輪郭さえ見えない。


 天井には、先ほどまでなかった黒い装置が吊られていた。横長の箱をいくつも組み合わせた形で、底面には小さなレンズが密集している。久世が一歩進むたび、頭上でその一部が滑るように動いた。


 床に刻まれた細い線が、足元から四方へ伸びる。


 久世のAOFには、追加された外部端子がまだつながっていた。

 部屋の入口で職員が線を外し、代わりに薄い送信器を背部へ固定する。

 装備の上を誰かの手が行き来するたび、久世はその動きを追った。


 職員が離れると、背中に余計な重さは残らなかった。

 久世は左手を開き、ゆっくり閉じた。


 右肩はまだ治りきっていない。腕を胸より高く上げれば、関節の奥が鋭く痛む。

 先ほどの検査で疲労も重なっていた。それでも両足は床を捉えている。

 正面の壁に、短い表示が点いた。


 《PHASE 02》


 続いて、四方の天井に並ぶレンズが起動する。

 久世が振り返った時、入ってきた扉にはすでに錠が下りていた。

 しばらくして、向かい側の壁が横へ開いた。

 通路の向こうは暗い。


 初めは誰もいないように見えた。

 だが、遠くで何か硬いものが床に触れ、乾いた音を立てる。

 一定の間隔ではない。片足で歩いているようでも、何かを引きずっているようでもなかった。


 人影が、明るい床へ出てきた。


 背が高い。黒い上着の袖は肘のあたりで折り返され、露出した前腕には細い金属の帯が何本も巻かれていた。片方の手には短い刃物がある。もう片方は空いていたが、その指先には薄い手袋がぴたりと張りついている。


 男は室内を見回さなかった。

 入ってきた時から、視線は久世だけを捉えていた。


 その足元を、壁際の追尾光が白く照らした。頭上のレンズが一斉に向きを変える。戦場を記録するための、無数の小さな目だった。


 男が刃物を逆手に持ち替える。

 久世は右腕の痛みを確かめ、半歩、左足を引いた。

 観測室の端で、記録装置の灯が点る。


 《COMBAT RECORD:READY》


 男は笑いもしなかった。

 ただ静かに、久世へ向かって歩き始めた。


 足音は重くなかった。靴底の擦れる音が、広い室内に短く続く。

 男は刃物を下げたまま近づき、床の線を一本越えたところで、突然歩幅を変えた。


 久世が左へ身体を開く。


 刃先が、半拍遅れて胸の前を横切った。追ってきた手首を左の掌で押さえる。AOFが背中の支持材を締め、久世の腰を支えた。右肩を使わずに押し返したつもりだったが、男の腕は止まらない。


 刃がもう一度返ってくる。


 久世は相手の手首を離し、肘の外側へ回った。左手の甲で刃物を持つ腕を弾き、空いた脇腹へ拳を当てる。短い打撃だった。男の上着がへこみ、足が床を滑った。


 それでも男は姿勢を崩さず、すぐに刃を突き出した。


 久世は後退する代わりに、左足を内側へ寄せた。刃先が肋骨の横を抜ける。男の肩口へ前腕を添え、身体をひねって進路を変えると、相手の靴が観測用の線を踏み越えた。


 男は壁際で止まり、振り向いた。


 その間、久世は右肩を押さえていた。腕を大きく使ったわけではない。それでも、一度身体をひねるたび、関節の奥に熱い針を押し込まれるような痛みが走る。


 AOFの胸元で、小さな灯が連続して瞬いた。


 呼吸と足裏の圧力に合わせ、装備が支持する場所を変えている。腰の右側が締まると、次には左膝の裏へ軽い張力が生まれた。動きに遅れて補助するのではなく、次に必要になる力を先回りして支えていた。


 久世は右腕を脇腹に寄せたまま、左手を上げた。


 男が刃物を腰の位置へ戻す。腕の動きは小さく、狙いだけが低く変わった。


 今度は腹ではない。腿だ。


 久世が足を引くと、刃はそこを通らず、外側から膝の後ろを狙って折り返した。久世は左手で男の肘を押し下げ、同時に靴の側面でその足首を払う。


 男が片膝をついた。


 そこへ久世の拳が落ちる。後頭部ではなく、上着の襟元から見える肩の付け根。

 無防備になった首を避け、武器を握る側の筋肉へ打ち込んだ。


 乾いた音がした。


 刃物が男の手から落ち、床に小さく跳ねる。


 久世は間を置かず、落ちた刃物を靴先で遠くへ滑らせた。

 観測室の壁まで金属音が転がり、厚い防護板の下で止まる。


 これで武器はなくなった。


 男の右肩は、確かに落ちている。

 久世の拳が触れた位置には布の裂け目ができ、その下の皮膚が赤く変色していた。


 しかし男は、その腕で床を押した。

 まるで、肩に受けた一撃が起こらなかったことにされたように。

 男は立ち上がり、何事もなかったかのように、久世の方へ歩いてきた。


 *


 観測ガラスの向こうで、記録画面の一つが拡大された。


 骨格の動き、接触の角度、筋肉にかかった負荷。

 久世の打撃は、それぞれ別の色で細かく記録されている。

 接触した瞬間の値は、決して小さくなかった。

 受けた衝撃も、姿勢の乱れも、すべて検出されていた。


 だが、隣の欄には同じ数字が並んでいた。


 《FUNCTIONAL DAMAGE:0》


 赤い皮膚の下では微細な損傷が生まれている。肩には炎症も起きていた。けれど、そのどれもが研究体の運動を妨げる規模に達していない。


 男の身体は、小さな損傷を損傷として残さなかった。打撃を重ねても、一定以上の破壊が一度に起きないかぎり、戦闘機能への影響はゼロとして処理される。痛覚に相当する信号さえ、反応を変えるほどには働いていない。


 画面上の記録は増える。損傷の数字だけが増えなかった。

 蓮見は久世の動きを追う映像と、その数字を並べたまま、どちらにも触れなかった。


 *


 男が走った。


 武器のない両手が胸元を目指す。久世は左腕を外から差し込み、掴みに来た指を払い落とした。相手の身体を正面に置かないよう、右の肩口へ回り込む。


 そこには先ほどの打撃の痕があった。

 久世は同じ場所へ、もう一度拳を入れた。

 腕の付け根が沈む。男の上体が僅かに曲がる。すぐさま左膝を前へ出し、胴を押して離した。

 男は三歩下がり、防護板へ背をぶつけた。


 板の上部が壁に当たり、低い音を立てる。男の背中に灰色の粉が付着した。久世は呼吸を整えながら、その場に留まった。


 肩を傷めている今、深追いはできない。

 それでも、今度こそ動きが鈍るはずだった。

 男は背中を壁から離し、両肩を一度だけ上下させた。

 そして、また近づいてきた。


 久世の眉間に皺が寄る。


 打撃の手応えはあった。相手の身体を押し、関節をずらし、狙った位置へ運ぶこともできた。だが、それらが次の攻防に何一つ残っていない。


 男の拳が左の頬へ飛んだ。


 久世は顎を引き、相手の前腕へ掌を添えた。反対側からもう一方の拳が来る。低く潜って避けると、男の肘が頭上を通り、空気を裂いた。


 AOFが腿の筋肉を支えるように収縮する。


 久世は膝を伸ばし、男の懐へ入った。左手の掌底を胸に当て、その勢いを逃がさず下から押し上げる。男の両足が短く浮いた。


 背後にあった厚い板が倒れ、角から床を打った。


 男もその上へ落ちた。


 今度は、すぐには起きなかった。


 久世は左肩で息をつきながら、男の手足を見ていた。指が動く。肘が曲がる。倒れた板の縁を掴んだ手に力が入り、男の上体が持ち上がる。


 やがて、立った。


 胸の布は裂け、鼻の下には血が一筋ついていた。

 だが、呼吸は先ほどと変わらない。足を引きずることもない。


 傷だけが増えて、弱る気配がなかった。

 久世は唇を引き結んだ。

 倒すためには、何かが足りない。


 目の前の相手なら、腕を捻れば動きを止められると思った。

 武器を奪い、体勢を奪い、打撃を重ねれば、いずれ続けられなくなるはずだった。

 執行局で繰り返した訓練も、これまでの現場も、その判断を支えてきた。


 この男には通じない。


 戦闘を終わらせるための、大きな一撃がない。


 男は倒れた板を踏み越えた。


 久世は左足の位置を変え、相手の正面を外す。最初と同じ動きが始まるかに見えたが、男は途中で進路を曲げた。狙いは久世の左側、壁との間に残った狭い空間だった。


 逃げ場を削っている。


 久世は反対へ回ろうとした。だが男の腕が先に届き、AOFの胸部固定具を掴んだ。


 装備が一瞬、硬く締まる。


 久世は左手を差し込み、固定具を引く男の指へ体重をかけた。力任せに引き剥がすのではなく、相手の親指が開く方向へ身体を回す。留め具から手が外れ、久世は低く屈んで脇を抜けた。


 すれ違いざま、男の肘が右肩をかすめた。


 肩の奥で鋭い痛みが弾ける。


「っ……!」


 久世の右手が、意思に反して開いた。


 足が止まりかけたところを、AOFが腰の支持材で支える。

 久世は左の踵を床へ押し込み、男から二歩分の間合いを作った。


 右腕には、もう力が入らない。


 男は胸部固定具を掴んだ時に取れた小さな金具を手にしていた。

 指先で転がし、興味もなさそうに床へ落とす。


 その間も、足取りは乱れなかった。

 観測室の上部で、記録灯が一段明るくなる。

 視線の先には、起き上がることすら苦にしない相手がいる。

 拳を当てることはできる。押し返すことも、数歩退かせることもできる。


 それ以上がない。

 天井の装置が低く唸り、二人の間に細い追尾光を落とした。

 男はその線を踏み越えた。

 久世は痛む右腕を身体に寄せ、残った左手を上げる。

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