#36 器
救護区画へ運び込まれる担架の列が、ようやく途切れた。
代わりに増えたのは、人の名前を呼ぶ声だった。治療を受けた者を所属部署へ戻すため、受付の職員が一人ずつ照合している。応答があれば一覧の表示が変わり、返事のない名前だけが白く残った。
久世湊の欄には、まだ何の印も付いていなかった。
榊美月は壁際の長椅子に座り、ひび割れた端末を膝に載せていた。右手首には処置用の薄い固定具が巻かれている。医療班からは安静にするよう言われたが、画面の操作に支障がないことを確かめると、彼女は第四執行部の記録にアクセスした。
侵入者が消えた直前の映像は、何度見ても同じ場所で途切れる。
久世がミカエルと呼ばれる男の腕に抱えられ、右手を下げている。そこまで確認できるのに、その先の映像がない。肩の位置、腕の向き、最後に計測された呼吸数。取り戻せるのは、すでに起きたことだけだった。
「榊」
顔を上げると、御堂彰子が立っていた。
ほかの任務から戻ったばかりらしく、上着の襟元には外気の冷たさが残っている。
「医療班には会ったか」
「はい。軽い打撲だそうです。牧野は麻痺が残っているので、再検査を受けています」
「お前の手首の話をしている」
榊は小さく息を吐いた。
「診てもらいました。骨には異常ありません」
御堂は向かいの椅子を引いた。廊下では、使用済みの搬送器具を運ぶ車輪の音が続いている。
「経緯は聞いた。映像も確認した。久世が連れ去られるところまでだ」
「……私が通信をつないだ時には、もう」
「報告はあとでいい」
御堂は端末ではなく、榊の顔を見た。
「今、確認したいのは二つだ。久世の身体について、敵が知らないはずの情報を残せるか。それから、お前が無理をせず作業できるか」
榊は割れた画面の端を親指でなぞった。
「オリオンを使った直後です。右腕への負荷は、訓練で確認した値を超えていました。病院に連れていかれていなければ、痛みも痺れも残っているはずです」
「その情報は、敵に渡っていないか」
「計測そのものは久世さんの装備で行われています。ただ、転移の直前までの記録が相手に読めるかは分かりません」
「分かった。東条と第五に共有してくれ。久世の健康に関わることを優先する。現在地が分からなくても、できることはある」
榊は頷き、記録を転送した。
送信を終えても、画面の右端には久世の識別番号が残っていた。榊はそれを見つめ、端末を伏せようとしたが、御堂に声を掛けられた。
「榊」
「はい」
「お前がそばにいたことと、守れなかったことは、同じ意味じゃない」
榊はすぐには答えなかった。
処置室の扉が開き、牧野征士郎が看護職員に付き添われて出てきた。前腕の包帯は巻き直され、指先を動かそうとしては、途中で手を止めている。
「榊さん、まだここにいたんすか」
「牧野こそ。検査はどうだった?」
「麻痺は少しずつ薄くなってるそうっす。今日すぐ現場に戻るのは、なしだって」
明るく言おうとしたらしい声の末尾が、うまく上がらなかった。
牧野は御堂へ姿勢を正した。
「班長、すみません。久世さんを――」
「謝罪は受け取らない。報告は受け取る」
御堂は椅子から立つ。
「三人とも、先に生き残ったことを確認しろ。久世を探すのは、そのあともできる」
それだけ告げて、第四執行部の指揮系統を立て直すため廊下へ向かった。
牧野は空いた椅子へ座り、動かない方の手を膝に置いた。榊は端末を再び開いたが、さっきまでとは違う画面を選んだ。
久世の最後の姿ではなく、負傷時に必要となる処置の記録だった。
*
特殊対応群の診療室では、久我静が胸の固定帯を緩めようとして医師に止められていた。
「あと半日はそのままでお願いします」
「動ける範囲を確かめたい」
「確かめる必要があるなら、こちらが確認します」
医師の返答に、久我は短く頷いた。
隣の寝台では鷺宮伊織が端末を操作している。脇腹に打撲を負い、立ち上がるたびに息が詰まるものの、監視記録を読むことまでは禁じられていなかった。
神谷直人と白石志穂が訪れた時、二人はすでに中央搬送廊下の映像を見直していた。
「負傷中にすまない」
神谷が言う。
「侵入者の特徴を聞きたい。記録はあるが、映像では分からないことも多い」
「問題ない」
久我は上体を起こさず答えた。
「男は防壁を破壊したわけじゃない。展開する位置を変えさせ、空いたところを通った」
白石が映像を確認する。搬送機が職員の方へ飛び、久我の防壁がそれを受け止める。その間にミカエルが近づき、久我の姿勢を崩していた。
「こちらが守る相手を、見ていたんですね」
「そうだ。逃げ遅れた職員がいなければ、別の戦い方ができた」
久我はそこで言葉を区切った。
「だが、いた。あの場ではあれが最優先だった」
鷺宮が別の画面を広げる。
通路を挟んだ二つの監視器には、ミカエルが同じ時刻に別の角度から映っていた。
「速さだけでもないよ。私が通路の先を押さえようとした時、あいつは追いかけてこなかった。先へ進むために、どこを塞げばいいか選んでいた」
「戦闘の目的は、お二人を倒すことではなかった?」
白石の問いに、久我が答える。
「少なくとも、私たちに執着はしていなかった」
神谷は襲撃時の通報記録を開いた。
侵入者が現れた直後から、第五の解析室、第三の監視系統、第四の作業室へ向かう経路が断続的に塞がれている。攻撃された場所には警備の要所も含まれていたが、すべての設備が破壊されたわけではなかった。
「中央で足止めをしている間に、別の侵入者が第四へ接近している。久世の所在を調べていた形跡もある」
神谷は映像の端に表示された時刻を指した。
「最初の侵入が確認されたのは四時十二分。最後の消失が四時五十二分過ぎだ」
「四十分か」
鷺宮は壁面に並ぶ監視記録をまとめた。
「偶然にしては、きれいな時間差だね。もっと早く消える機会はあった。なのに連中は、あの時刻まで残っていた」
「転移に待機時間がある可能性は?」
白石が尋ねる。
「ある。ただし、四十分という数字だけで能力の条件までは分からない。使いたくなかったのか、使えなかったのか。それさえ、まだ断定できないよ」
鷺宮の答えに、神谷が頷いた。
別の記録が開かれる。最後の数秒だけ、廊下の映像に薄い光が走り、そこにいた人間と二体の動物、そして黒いコートの男が一度に消えていた。
「こいつらが久世を連れていった」
神谷は停止画像を見た。
「同じ手で再び侵入されるわけにはいかない。侵入経路が特定できるまでは、局の全区画を安全だと思うな」
白石は資料に手を伸ばした。
「蓮見の関係先を、もう一度洗い直します。駅の件で調べた場所に加えて、機械や生体の改変に使えそうな施設も」
「頼む。こちらは警備の抜け穴を塞ぐ。久世の捜索と、残った職員の保護を並行する」
神谷が立ち上がると、久我が声を掛けた。
「白石」
「はい」
「襲撃者の男は、最後までこちらを見ていた。防壁を張り直す前に、どう動くかを予測していた」
「……はい」
「次に会う者へ伝えてくれ。強いだけの相手だと思わない方がいい」
白石は頷いた。
診療室を出たあとも、廊下には処置待ちの職員がいた。神谷が足を緩めると、白石は立ち止まりかけていた職員を先に通した。
二人の端末には、指名手配された蓮見の写真が表示されている。だが、その隣にある久世の欄には、追跡先の住所を入力することすらできなかった。
*
久世が目を覚ました時、最初に聞こえたのは水の音だった。
どこかで細い流れが途切れず、時折、管の内側を空気が通り抜ける。雨ではない。窓も見当たらない部屋で、天井の小さな照明が眠りを妨げない程度の明るさを保っていた。
久世は身体を起こそうとして、右肩に痛みが走るのを感じた。
反射的に腕をかばう。上腕から指先まで、厚い布で包まれたように感覚が鈍い。肘を曲げることはできるが、拳を作ろうとすると親指の付け根が震えた。
腕には測定用の薄い帯が巻かれていた。手首の内側に医療用の印があり、ベッドの脇では心拍を示す小さな光が規則正しく動いている。衣服は替えられ、普段身につけている装備もない。AOFの表示は何も出なかった。
久世はベッドから足を下ろした。
冷たい床に裸足が触れる。立ち上がることはできたが、体重を移すたび脇腹が鈍く痛んだ。
あの男に投げられ、背中を打った時のものだろう。
部屋には扉が一枚。窓の代わりに、曇りガラスが壁の上部へはめ込まれている。扉の脇には呼出用と思われる小さな板があったが、文字はない。
久世は板に触れず、扉へ近づいた。
蝶番のある側へ身体を寄せる。隙間から風は入ってこない。外側で人の足音が二つ、近づいて通り過ぎた。扉が開かなくても、その向こうに廊下があることは分かる。
足音が遠ざかってから、久世は手を掛けた。
動かない。
叩いても返事はなかった。久世は無理に体重を乗せず、ベッドへ戻る途中で部屋の隅を見た。
天井の角に、小さな黒い半球が埋め込まれている。
あれが監視器なら、扉を調べる様子も見られている。
久世はベッドの端へ腰を下ろし、両足を床につけた。
次に何かが起きるまで、目を閉じるつもりはなかった。
しばらくして鍵の外れる音がした。
現れたのは、あの男だった。
男は久世の姿を認めると、満足そうに口元を上げた。
「起きたか。思ったより早えな」
久世は立ち上がらなかった。
「ここはどこだ」
「知らねえ方がいいだろ。逃げる時に余計なこと考えずに済む」
「榊さんと牧野さんは」
「生きてたぜ。少なくとも、俺が出てきた時はな」
久世は男の顔を見た。
ミカエルは肩をすくめる。
「嘘ついて安心させる趣味はねえ。今どうしてるかまでは知らん」
「……そうか」
「もっと怒るかと思ったが」
「怒ってる」
久世の声に、男の笑みが濃くなった。
「そりゃそうか。あと少しで俺を飛ばせたのにな」
「止められなかった」
「一度は飛ばした。そこは認めてやる」
ミカエルが部屋の中央へ歩いてくる。久世は膝の位置を変え、男からの距離を取れるようにした。
「何の用だ」
「様子を見に来ただけだ。立てるなら、まだ死にそうにはねえ」
ミカエルは久世の右腕を見たが、触れようとはしなかった。
「俺は、動けねえ相手を殴って楽しむ趣味はねえんだ。そいつが治ったら、また相手してくれよ」
「……断る」
「いい返事だ」
男は声を上げて笑いかけ、思い直したように扉へ向かった。
「蓮見が来る。あいつの話は長いぞ」
「お前は、あいつの仲間なのか」
ミカエルは振り返った。
「同じ用事で来ただけだ。あんな奴の指図で動くほど、俺は暇じゃねえ」
「じゃあ、誰の」
久世の問いに、男は少しだけ目を細めた。
「それを知りたきゃ、まず生き残れ」
扉が閉まり、鍵が掛かる。
久世は廊下の足音が消えるまで待ち、右手を開いた。
指はまだ震えている。
それでもさっきより、わずかに動いた。
*
執行局の解析区画では、三つの部署の端末が同じ記録を表示していた。
榊の持っていたAOFの計測結果。東条亮介が訓練中から集めていたORIONの発動記録。そして、襲撃者が消えた前後に警備装置が残した通信履歴だった。
「まず、分けよう」
東条が画面を二つに切り替えた。
「久世の右腕がどうなったかと、転移の行き先を知る方法は別だ。片方からもう片方を無理に推測しても、何も見つからない」
榊が頷いた。
「ORIONの発動中、久世さんの神経負荷は急激に上がっています。力場の停止は、稼働時間の上限ではありません。外から受けた衝撃と、本人の制御が続かなかったことが重なっています」
「身体への負担は?」
九条紗良が訊いた。
「少なくとも右肩から指先まで、一時的な動作障害が出る可能性があります。過去の訓練記録より数値が大きいので、いつ回復するかは判断できません」
九条は椅子の横に立つ前川胡桃へ目を向けた。
「前川ちゃん、医療班に渡した資料は?」
「確認を終えています。久世さんの最後の神経計測と、訓練中の記録をまとめました。医師が受け取ったことも確認済みです」
「よし。継続して共有して」
「はい」
東条は別の画面を開いた。
「転移の方は、敵の動きが消えた瞬間を記録している。でも、消失した場所から、次に現れた場所を直接読み取れるデータはない」
「照合できるものはありますか」
前川が尋ねる。
「施設側に残った異常な通信や、機械が触れたものを探す。それくらいかな。いまの時点では、空間の向こうまで線を引けない」
九条が映像に残ったノイズを拡大した。
「このノイズも、転移装置だけのものとは限らない。鳥の光と音、局内で破損した設備、いろんなものが重なってる。都合のいい部分だけ抜き出して、転移先の座標だとは言えないね」
榊は画面の端にある、久世の最後の生体記録へ目を戻した。
「……では、手掛かりは何もないんでしょうか」
東条は首を振る。
「何もないとは言ってない。持ち出されたものが分かれば、動かす先を絞れる。装備、記録、何より久世本人だ。敵はわざわざ局へ来て、彼だけを連れ去った」
前川が画面に新しい項目を作った。
「連れていった目的から、使える施設を探すということですね」
「そう。目的の全部が分からなくても、必要な条件は考えられる」
榊は久世の装備一覧を開き、一つずつ確認した。最後の通信には、身につけていた装備の識別番号が残っている。だが、転移の直後から位置の応答はなくなっていた。
位置情報の空欄へ、何かを入力することはできない。
その時、扉が開き、鳴海冬真が入ってきた。後ろには新井香がいる。
「第四の隔壁、復旧してる。現場はまだ立入制限中だ」
鳴海の報告に榊が頷いた。
「ありがとうございます。久世さんのいた通路は、記録の回収が終わるまで閉鎖します」
新井は壁の資料を見た。
「久世の場所、まだ分かんない?」
「はい。今、手掛かりを分けて調べています」
新井は机へ近づき、前川の画面を覗き込んだ。
「前川ちゃん、私にも何かできることある?」
「ありがとうございます。警備記録の中に、侵入者が避けていた通路があれば、教えてほしいです。目的があって選んだ道なのかもしれません」
「分かった。第二でも見てみる」
鳴海は一度だけ頷き、扉へ戻った。出ていく前に、榊へ声を掛ける。
「久世が帰ってきたら、また訓練だな」
榊が顔を上げる。
「……そうですね」
「だから、場所を見つける」
鳴海はそれだけ言い、歩いていった。
榊は机の上に残った久世の装備一覧を見た。右肩の保護具には、新しく交換したばかりの部品番号が記されている。訓練のたびに痛みの出た場所を確かめ、一緒に調整してきたものだった。
彼が戻った時、その保護具が合うかどうかさえ、もう一度調べなければならない。
榊は一覧に新しい欄を増やした。
《帰還後の身体検査:要実施》
入力を終えると、前川が隣から静かに尋ねた。
「榊さん、どうして帰還後の項目を?」
「戻ってきた時に、必要ですから」
前川は短く頷き、自分の記録へ目を戻した。
その頃、第一執行部の白石には、蓮見が関与した研究施設から押収された発注記録が届いていた。
研究装置の部品は、いくつもの会社を経由して運び込まれている。製造元の名称はばらばらだったが、受取りを代行した業者が何度か重なっていた。昨夜の襲撃で目撃された機体も、どこかで整備を受けているはずだった。
「この業者の保管先、全部確認できるか」
神谷は白石が示した資料を読み、そう尋ねた。
「登記上は五か所です。二か所はすでに使われていません。残りは順番に照会しています」
「蓮見の居場所と決めつけるな。搬入された物と日時を先に押さえよう」
「はい」
白石は施設名を一つずつ写し取り、捜査担当へ振り分けた。
どれも、今すぐ久世のもとへ駆けつけられる情報ではない。
それでも、見過ごされてきた荷物の記録に、初めて捜索のための意味が与えられていった。
*
久世の部屋には、時間を示すものがなかった。
水の音は相変わらず続き、壁の照明も明るさを変えない。
ただ、廊下を通る足音の数から、交代で誰かが巡回していることだけは分かった。
食事を運んできた職員は、顔の半分を薄い保護具で覆っていた。久世が声を掛けても、返事をせずに食器を置く。扉を開けていた時間は短かったが、その向こうに続く廊下の壁は白く、突き当たりで左へ曲がっていた。
久世は出された水を一口飲み、食器を脇へ寄せた。何かを混ぜられている可能性は捨てられない。それでも水分を取らずに身体の回復を遅らせることは、得策ではなかった。
右腕に残る感覚を確かめる。
手首を返すと、肩の奥が痛む。だが、最初のように指がもつれることは少なくなってきた。完全に戻ってはいない。それでも、自分の身体がどう変わっているかは分かる。
やがて、扉の向こうで二人分の足音が止まった。
先ほどよりゆっくり鍵が外れる。
「失礼します、久世さん」
聞き覚えのある声が、静かな部屋に入ってきた。
蓮見は濃い色の上着を着て、薄い端末を片手に持っていた。
背後の職員が扉を閉めると、部屋には二人だけが残る。
「ご気分はいかがです?」
「帰らせろ」
「いきなり本題ですねえ」
蓮見は端末を机へ置いた。
「心配なさらなくても、ここでは必要な処置を受けられます。あなたの身体を壊してしまっては、何の意味もありませんから」
「意味?」
「ええ。創設者が、長いあいだ望んでいたことがあるんです」
久世は蓮見から目を離さなかった。
「俺を連れてきたのは、そのためか」
「そのとおりです」
「俺に何をさせる」
蓮見は答える前に、久世の右腕へ視線を落とした。
「正確には、あなたが何を持っているのか。それを確かめるところから始めたい」
「オリオンのことか」
「名前も、形も、まだ一部分でしょうね。あの力が現れた時の記録を、私たちは何度か見ています。でも映像だけでは分からないことがある」
「だから拉致したのか?」
「ええ。ただ、私自身の好奇心だけで済む話ではありません。創設者はあなたを『器』と呼んでいます」
久世は黙った。
蓮見が穏やかに続ける。
「言葉だけでは、気分が悪いかもしれませんね。ですが、代わりにできる方がいないと言われています」
「俺は、物じゃない」
「もちろん。人間です。だからこそ、何を選び、何を拒むかを見る価値がある」
久世の指が膝の上で曲がる。
「瀬尾さんにも、そう言ったのか」
蓮見の目が細くなった。
「……ああ。あの駅員さんですか」
「帰れると思ってた。お前が細工したせいで死んだ」
「あなた方は、あの方を救おうとされた。私が見たかったのは、その選択です」
久世は椅子から立った。
右腕を動かそうとした瞬間、肩の奥で熱が走る。それでも拳を下ろさず、蓮見の前へ進んだ。
「人の命を、選択の結果で片づけるな」
蓮見は逃げず、久世を見上げた。
「そう怒ることも、あなたの大切な性質なのでしょうね」
久世は手を伸ばしかけ、止めた。
扉の外から、何人もの足音が近づいていた。目の前の男を掴んでも、その先に誰がいるか分からない。右腕も、まだ思うように動かない。
久世は蓮見の上着ではなく、机の端末へ視線を移した。そこには何枚かの測定結果が並び、彼自身の名前が表示されている。
蓮見はその目の動きを見逃さなかった。
「少し安心しましたよ。状況をよくご覧になっている」
「俺は協力しない」
「今すぐ納得していただこうとは思っていません」
蓮見は端末を取り上げ、扉へ向かった。
「ただ、こちらにも期限があります。ずっとお待ちするわけにはいかないんです」
外から錠前が外され、職員が入ってくる。薄い灰色の箱を抱え、無地の保護衣を着ていた。
箱の上には医療用の封印が施されている。久世には、中身が見えなかった。
「お待たせしました。準備が整いましたよ」
「……何の準備だ」
蓮見は箱を受け取り、机の中央へ置いた。
「あなたが本当に、創設者の望む器にふさわしいのか。それを確かめるための準備です」
部屋の照明が少しだけ明るくなった。
久世は右手をゆっくり開いた。薄く残っていた痺れが、指先から肩へと戻ってくる。
扉は開いたままだった。けれどそこには、帰るための道がなかった。




