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特殊公安執行局  作者: the 春


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36/49

#36 器

 救護区画へ運び込まれる担架の列が、ようやく途切れた。


 代わりに増えたのは、人の名前を呼ぶ声だった。治療を受けた者を所属部署へ戻すため、受付の職員が一人ずつ照合している。応答があれば一覧の表示が変わり、返事のない名前だけが白く残った。


 久世湊の欄には、まだ何の印も付いていなかった。


 榊美月は壁際の長椅子に座り、ひび割れた端末を膝に載せていた。右手首には処置用の薄い固定具が巻かれている。医療班からは安静にするよう言われたが、画面の操作に支障がないことを確かめると、彼女は第四執行部の記録にアクセスした。


 侵入者が消えた直前の映像は、何度見ても同じ場所で途切れる。


 久世がミカエルと呼ばれる男の腕に抱えられ、右手を下げている。そこまで確認できるのに、その先の映像がない。肩の位置、腕の向き、最後に計測された呼吸数。取り戻せるのは、すでに起きたことだけだった。


「榊」


 顔を上げると、御堂彰子が立っていた。

 ほかの任務から戻ったばかりらしく、上着の襟元には外気の冷たさが残っている。


「医療班には会ったか」


「はい。軽い打撲だそうです。牧野は麻痺が残っているので、再検査を受けています」


「お前の手首の話をしている」


 榊は小さく息を吐いた。


「診てもらいました。骨には異常ありません」


 御堂は向かいの椅子を引いた。廊下では、使用済みの搬送器具を運ぶ車輪の音が続いている。


「経緯は聞いた。映像も確認した。久世が連れ去られるところまでだ」


「……私が通信をつないだ時には、もう」


「報告はあとでいい」


 御堂は端末ではなく、榊の顔を見た。


「今、確認したいのは二つだ。久世の身体について、敵が知らないはずの情報を残せるか。それから、お前が無理をせず作業できるか」


 榊は割れた画面の端を親指でなぞった。


「オリオンを使った直後です。右腕への負荷は、訓練で確認した値を超えていました。病院に連れていかれていなければ、痛みも痺れも残っているはずです」


「その情報は、敵に渡っていないか」


「計測そのものは久世さんの装備で行われています。ただ、転移の直前までの記録が相手に読めるかは分かりません」


「分かった。東条と第五に共有してくれ。久世の健康に関わることを優先する。現在地が分からなくても、できることはある」


 榊は頷き、記録を転送した。


 送信を終えても、画面の右端には久世の識別番号が残っていた。榊はそれを見つめ、端末を伏せようとしたが、御堂に声を掛けられた。


「榊」


「はい」


「お前がそばにいたことと、守れなかったことは、同じ意味じゃない」


 榊はすぐには答えなかった。


 処置室の扉が開き、牧野征士郎が看護職員に付き添われて出てきた。前腕の包帯は巻き直され、指先を動かそうとしては、途中で手を止めている。


「榊さん、まだここにいたんすか」


「牧野こそ。検査はどうだった?」


「麻痺は少しずつ薄くなってるそうっす。今日すぐ現場に戻るのは、なしだって」


 明るく言おうとしたらしい声の末尾が、うまく上がらなかった。


 牧野は御堂へ姿勢を正した。


「班長、すみません。久世さんを――」


「謝罪は受け取らない。報告は受け取る」


 御堂は椅子から立つ。


「三人とも、先に生き残ったことを確認しろ。久世を探すのは、そのあともできる」


 それだけ告げて、第四執行部の指揮系統を立て直すため廊下へ向かった。


 牧野は空いた椅子へ座り、動かない方の手を膝に置いた。榊は端末を再び開いたが、さっきまでとは違う画面を選んだ。


 久世の最後の姿ではなく、負傷時に必要となる処置の記録だった。


 *


 特殊対応群の診療室では、久我静が胸の固定帯を緩めようとして医師に止められていた。


「あと半日はそのままでお願いします」


「動ける範囲を確かめたい」


「確かめる必要があるなら、こちらが確認します」


 医師の返答に、久我は短く頷いた。


 隣の寝台では鷺宮伊織が端末を操作している。脇腹に打撲を負い、立ち上がるたびに息が詰まるものの、監視記録を読むことまでは禁じられていなかった。


 神谷直人と白石志穂が訪れた時、二人はすでに中央搬送廊下の映像を見直していた。


「負傷中にすまない」


 神谷が言う。


「侵入者の特徴を聞きたい。記録はあるが、映像では分からないことも多い」


「問題ない」


 久我は上体を起こさず答えた。


「男は防壁を破壊したわけじゃない。展開する位置を変えさせ、空いたところを通った」


 白石が映像を確認する。搬送機が職員の方へ飛び、久我の防壁がそれを受け止める。その間にミカエルが近づき、久我の姿勢を崩していた。


「こちらが守る相手を、見ていたんですね」


「そうだ。逃げ遅れた職員がいなければ、別の戦い方ができた」


 久我はそこで言葉を区切った。


「だが、いた。あの場ではあれが最優先だった」


 鷺宮が別の画面を広げる。

 通路を挟んだ二つの監視器には、ミカエルが同じ時刻に別の角度から映っていた。


「速さだけでもないよ。私が通路の先を押さえようとした時、あいつは追いかけてこなかった。先へ進むために、どこを塞げばいいか選んでいた」


「戦闘の目的は、お二人を倒すことではなかった?」


 白石の問いに、久我が答える。


「少なくとも、私たちに執着はしていなかった」


 神谷は襲撃時の通報記録を開いた。


 侵入者が現れた直後から、第五の解析室、第三の監視系統、第四の作業室へ向かう経路が断続的に塞がれている。攻撃された場所には警備の要所も含まれていたが、すべての設備が破壊されたわけではなかった。


「中央で足止めをしている間に、別の侵入者が第四へ接近している。久世の所在を調べていた形跡もある」


 神谷は映像の端に表示された時刻を指した。


「最初の侵入が確認されたのは四時十二分。最後の消失が四時五十二分過ぎだ」


「四十分か」


 鷺宮は壁面に並ぶ監視記録をまとめた。


「偶然にしては、きれいな時間差だね。もっと早く消える機会はあった。なのに連中は、あの時刻まで残っていた」


「転移に待機時間がある可能性は?」


 白石が尋ねる。


「ある。ただし、四十分という数字だけで能力の条件までは分からない。使いたくなかったのか、使えなかったのか。それさえ、まだ断定できないよ」


 鷺宮の答えに、神谷が頷いた。


 別の記録が開かれる。最後の数秒だけ、廊下の映像に薄い光が走り、そこにいた人間と二体の動物、そして黒いコートの男が一度に消えていた。


「こいつらが久世を連れていった」


 神谷は停止画像を見た。


「同じ手で再び侵入されるわけにはいかない。侵入経路が特定できるまでは、局の全区画を安全だと思うな」


 白石は資料に手を伸ばした。


「蓮見の関係先を、もう一度洗い直します。駅の件で調べた場所に加えて、機械や生体の改変に使えそうな施設も」


「頼む。こちらは警備の抜け穴を塞ぐ。久世の捜索と、残った職員の保護を並行する」


 神谷が立ち上がると、久我が声を掛けた。


「白石」


「はい」


「襲撃者の男は、最後までこちらを見ていた。防壁を張り直す前に、どう動くかを予測していた」


「……はい」


「次に会う者へ伝えてくれ。強いだけの相手だと思わない方がいい」


 白石は頷いた。


 診療室を出たあとも、廊下には処置待ちの職員がいた。神谷が足を緩めると、白石は立ち止まりかけていた職員を先に通した。


 二人の端末には、指名手配された蓮見の写真が表示されている。だが、その隣にある久世の欄には、追跡先の住所を入力することすらできなかった。


 *


 久世が目を覚ました時、最初に聞こえたのは水の音だった。


 どこかで細い流れが途切れず、時折、管の内側を空気が通り抜ける。雨ではない。窓も見当たらない部屋で、天井の小さな照明が眠りを妨げない程度の明るさを保っていた。


 久世は身体を起こそうとして、右肩に痛みが走るのを感じた。


 反射的に腕をかばう。上腕から指先まで、厚い布で包まれたように感覚が鈍い。肘を曲げることはできるが、拳を作ろうとすると親指の付け根が震えた。


 腕には測定用の薄い帯が巻かれていた。手首の内側に医療用の印があり、ベッドの脇では心拍を示す小さな光が規則正しく動いている。衣服は替えられ、普段身につけている装備もない。AOFの表示は何も出なかった。


 久世はベッドから足を下ろした。


 冷たい床に裸足が触れる。立ち上がることはできたが、体重を移すたび脇腹が鈍く痛んだ。

 あの男に投げられ、背中を打った時のものだろう。


 部屋には扉が一枚。窓の代わりに、曇りガラスが壁の上部へはめ込まれている。扉の脇には呼出用と思われる小さな板があったが、文字はない。


 久世は板に触れず、扉へ近づいた。


 蝶番のある側へ身体を寄せる。隙間から風は入ってこない。外側で人の足音が二つ、近づいて通り過ぎた。扉が開かなくても、その向こうに廊下があることは分かる。


 足音が遠ざかってから、久世は手を掛けた。

 動かない。

 叩いても返事はなかった。久世は無理に体重を乗せず、ベッドへ戻る途中で部屋の隅を見た。

 天井の角に、小さな黒い半球が埋め込まれている。

 あれが監視器なら、扉を調べる様子も見られている。

 久世はベッドの端へ腰を下ろし、両足を床につけた。

 次に何かが起きるまで、目を閉じるつもりはなかった。


 しばらくして鍵の外れる音がした。

 現れたのは、あの男だった。


 男は久世の姿を認めると、満足そうに口元を上げた。


「起きたか。思ったより早えな」


 久世は立ち上がらなかった。


「ここはどこだ」


「知らねえ方がいいだろ。逃げる時に余計なこと考えずに済む」


「榊さんと牧野さんは」


「生きてたぜ。少なくとも、俺が出てきた時はな」


 久世は男の顔を見た。

 ミカエルは肩をすくめる。


「嘘ついて安心させる趣味はねえ。今どうしてるかまでは知らん」


「……そうか」


「もっと怒るかと思ったが」


「怒ってる」


 久世の声に、男の笑みが濃くなった。


「そりゃそうか。あと少しで俺を飛ばせたのにな」


「止められなかった」


「一度は飛ばした。そこは認めてやる」


 ミカエルが部屋の中央へ歩いてくる。久世は膝の位置を変え、男からの距離を取れるようにした。


「何の用だ」


「様子を見に来ただけだ。立てるなら、まだ死にそうにはねえ」


 ミカエルは久世の右腕を見たが、触れようとはしなかった。


「俺は、動けねえ相手を殴って楽しむ趣味はねえんだ。そいつが治ったら、また相手してくれよ」


「……断る」


「いい返事だ」


 男は声を上げて笑いかけ、思い直したように扉へ向かった。


「蓮見が来る。あいつの話は長いぞ」


「お前は、あいつの仲間なのか」


 ミカエルは振り返った。


「同じ用事で来ただけだ。あんな奴の指図で動くほど、俺は暇じゃねえ」


「じゃあ、誰の」


 久世の問いに、男は少しだけ目を細めた。


「それを知りたきゃ、まず生き残れ」


 扉が閉まり、鍵が掛かる。

 久世は廊下の足音が消えるまで待ち、右手を開いた。

 指はまだ震えている。

 それでもさっきより、わずかに動いた。


 *


 執行局の解析区画では、三つの部署の端末が同じ記録を表示していた。


 榊の持っていたAOFの計測結果。東条亮介が訓練中から集めていたORIONの発動記録。そして、襲撃者が消えた前後に警備装置が残した通信履歴だった。


「まず、分けよう」


 東条が画面を二つに切り替えた。


「久世の右腕がどうなったかと、転移の行き先を知る方法は別だ。片方からもう片方を無理に推測しても、何も見つからない」


 榊が頷いた。


「ORIONの発動中、久世さんの神経負荷は急激に上がっています。力場の停止は、稼働時間の上限ではありません。外から受けた衝撃と、本人の制御が続かなかったことが重なっています」


「身体への負担は?」


 九条紗良が訊いた。


「少なくとも右肩から指先まで、一時的な動作障害が出る可能性があります。過去の訓練記録より数値が大きいので、いつ回復するかは判断できません」


 九条は椅子の横に立つ前川胡桃へ目を向けた。


「前川ちゃん、医療班に渡した資料は?」


「確認を終えています。久世さんの最後の神経計測と、訓練中の記録をまとめました。医師が受け取ったことも確認済みです」


「よし。継続して共有して」


「はい」


 東条は別の画面を開いた。


「転移の方は、敵の動きが消えた瞬間を記録している。でも、消失した場所から、次に現れた場所を直接読み取れるデータはない」


「照合できるものはありますか」


 前川が尋ねる。


「施設側に残った異常な通信や、機械が触れたものを探す。それくらいかな。いまの時点では、空間の向こうまで線を引けない」


 九条が映像に残ったノイズを拡大した。


「このノイズも、転移装置だけのものとは限らない。鳥の光と音、局内で破損した設備、いろんなものが重なってる。都合のいい部分だけ抜き出して、転移先の座標だとは言えないね」


 榊は画面の端にある、久世の最後の生体記録へ目を戻した。


「……では、手掛かりは何もないんでしょうか」


 東条は首を振る。


「何もないとは言ってない。持ち出されたものが分かれば、動かす先を絞れる。装備、記録、何より久世本人だ。敵はわざわざ局へ来て、彼だけを連れ去った」


 前川が画面に新しい項目を作った。


「連れていった目的から、使える施設を探すということですね」


「そう。目的の全部が分からなくても、必要な条件は考えられる」


 榊は久世の装備一覧を開き、一つずつ確認した。最後の通信には、身につけていた装備の識別番号が残っている。だが、転移の直後から位置の応答はなくなっていた。


 位置情報の空欄へ、何かを入力することはできない。

 その時、扉が開き、鳴海冬真が入ってきた。後ろには新井香がいる。


「第四の隔壁、復旧してる。現場はまだ立入制限中だ」


 鳴海の報告に榊が頷いた。


「ありがとうございます。久世さんのいた通路は、記録の回収が終わるまで閉鎖します」


 新井は壁の資料を見た。


「久世の場所、まだ分かんない?」


「はい。今、手掛かりを分けて調べています」


 新井は机へ近づき、前川の画面を覗き込んだ。


「前川ちゃん、私にも何かできることある?」


「ありがとうございます。警備記録の中に、侵入者が避けていた通路があれば、教えてほしいです。目的があって選んだ道なのかもしれません」


「分かった。第二でも見てみる」


 鳴海は一度だけ頷き、扉へ戻った。出ていく前に、榊へ声を掛ける。


「久世が帰ってきたら、また訓練だな」


 榊が顔を上げる。


「……そうですね」


「だから、場所を見つける」


 鳴海はそれだけ言い、歩いていった。


 榊は机の上に残った久世の装備一覧を見た。右肩の保護具には、新しく交換したばかりの部品番号が記されている。訓練のたびに痛みの出た場所を確かめ、一緒に調整してきたものだった。


 彼が戻った時、その保護具が合うかどうかさえ、もう一度調べなければならない。

 榊は一覧に新しい欄を増やした。


 《帰還後の身体検査:要実施》


 入力を終えると、前川が隣から静かに尋ねた。


「榊さん、どうして帰還後の項目を?」


「戻ってきた時に、必要ですから」


 前川は短く頷き、自分の記録へ目を戻した。


 その頃、第一執行部の白石には、蓮見が関与した研究施設から押収された発注記録が届いていた。


 研究装置の部品は、いくつもの会社を経由して運び込まれている。製造元の名称はばらばらだったが、受取りを代行した業者が何度か重なっていた。昨夜の襲撃で目撃された機体も、どこかで整備を受けているはずだった。


「この業者の保管先、全部確認できるか」


 神谷は白石が示した資料を読み、そう尋ねた。


「登記上は五か所です。二か所はすでに使われていません。残りは順番に照会しています」


「蓮見の居場所と決めつけるな。搬入された物と日時を先に押さえよう」


「はい」


 白石は施設名を一つずつ写し取り、捜査担当へ振り分けた。

 どれも、今すぐ久世のもとへ駆けつけられる情報ではない。

 それでも、見過ごされてきた荷物の記録に、初めて捜索のための意味が与えられていった。


 *


 久世の部屋には、時間を示すものがなかった。


 水の音は相変わらず続き、壁の照明も明るさを変えない。

 ただ、廊下を通る足音の数から、交代で誰かが巡回していることだけは分かった。


 食事を運んできた職員は、顔の半分を薄い保護具で覆っていた。久世が声を掛けても、返事をせずに食器を置く。扉を開けていた時間は短かったが、その向こうに続く廊下の壁は白く、突き当たりで左へ曲がっていた。


 久世は出された水を一口飲み、食器を脇へ寄せた。何かを混ぜられている可能性は捨てられない。それでも水分を取らずに身体の回復を遅らせることは、得策ではなかった。


 右腕に残る感覚を確かめる。


 手首を返すと、肩の奥が痛む。だが、最初のように指がもつれることは少なくなってきた。完全に戻ってはいない。それでも、自分の身体がどう変わっているかは分かる。


 やがて、扉の向こうで二人分の足音が止まった。

 先ほどよりゆっくり鍵が外れる。


「失礼します、久世さん」


 聞き覚えのある声が、静かな部屋に入ってきた。

 蓮見は濃い色の上着を着て、薄い端末を片手に持っていた。

 背後の職員が扉を閉めると、部屋には二人だけが残る。


「ご気分はいかがです?」


「帰らせろ」


「いきなり本題ですねえ」


 蓮見は端末を机へ置いた。


「心配なさらなくても、ここでは必要な処置を受けられます。あなたの身体を壊してしまっては、何の意味もありませんから」


「意味?」


「ええ。創設者が、長いあいだ望んでいたことがあるんです」


 久世は蓮見から目を離さなかった。


「俺を連れてきたのは、そのためか」


「そのとおりです」


「俺に何をさせる」


 蓮見は答える前に、久世の右腕へ視線を落とした。


「正確には、あなたが何を持っているのか。それを確かめるところから始めたい」


「オリオンのことか」


「名前も、形も、まだ一部分でしょうね。あの力が現れた時の記録を、私たちは何度か見ています。でも映像だけでは分からないことがある」


「だから拉致したのか?」


「ええ。ただ、私自身の好奇心だけで済む話ではありません。創設者はあなたを『器』と呼んでいます」


 久世は黙った。


 蓮見が穏やかに続ける。


「言葉だけでは、気分が悪いかもしれませんね。ですが、代わりにできる方がいないと言われています」


「俺は、物じゃない」


「もちろん。人間です。だからこそ、何を選び、何を拒むかを見る価値がある」


 久世の指が膝の上で曲がる。


「瀬尾さんにも、そう言ったのか」


 蓮見の目が細くなった。


「……ああ。あの駅員さんですか」


「帰れると思ってた。お前が細工したせいで死んだ」


「あなた方は、あの方を救おうとされた。私が見たかったのは、その選択です」


 久世は椅子から立った。

 右腕を動かそうとした瞬間、肩の奥で熱が走る。それでも拳を下ろさず、蓮見の前へ進んだ。


「人の命を、選択の結果で片づけるな」


 蓮見は逃げず、久世を見上げた。


「そう怒ることも、あなたの大切な性質なのでしょうね」


 久世は手を伸ばしかけ、止めた。


 扉の外から、何人もの足音が近づいていた。目の前の男を掴んでも、その先に誰がいるか分からない。右腕も、まだ思うように動かない。


 久世は蓮見の上着ではなく、机の端末へ視線を移した。そこには何枚かの測定結果が並び、彼自身の名前が表示されている。


 蓮見はその目の動きを見逃さなかった。


「少し安心しましたよ。状況をよくご覧になっている」


「俺は協力しない」


「今すぐ納得していただこうとは思っていません」


 蓮見は端末を取り上げ、扉へ向かった。


「ただ、こちらにも期限があります。ずっとお待ちするわけにはいかないんです」


 外から錠前が外され、職員が入ってくる。薄い灰色の箱を抱え、無地の保護衣を着ていた。

 箱の上には医療用の封印が施されている。久世には、中身が見えなかった。


「お待たせしました。準備が整いましたよ」


「……何の準備だ」


 蓮見は箱を受け取り、机の中央へ置いた。


「あなたが本当に、創設者の望む器にふさわしいのか。それを確かめるための準備です」


 部屋の照明が少しだけ明るくなった。

 久世は右手をゆっくり開いた。薄く残っていた痺れが、指先から肩へと戻ってくる。

 扉は開いたままだった。けれどそこには、帰るための道がなかった。

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