#35 無慈悲
夜明け前の執行局は、昼間よりも多くの音を抱えていた。
床下の冷却設備が唸り、無人の搬送機が通路を横切る。
交代勤務の職員たちが行き交う廊下には、清掃直後の水の匂いが薄く残っていた。
その地下、警備区画の一角で、空間が音もなく裂けた。
初めに現れたのは、黒いコートの男だった。床へ降りた靴底が、乾いた音をひとつ立てる。
ヘルメス。
続いて蓮見透が姿を現し、白い床に片膝をついた。身体を起こすより先に、頭上を大きな影が横切る。禿鷹を模した鳥類型機械が翼を畳み、配管の間に爪を掛けた。
その下へ、虎の巨体を持つ機械が四肢を落とす。前脚の関節に組み込まれた金属が鈍く光った。
最後に現れたミカエルは、周囲を見渡して口角を上げた。
「思ったより、静かな場所だな」
「まだ、ですけどねえ」
蓮見が袖の皺を払う。
四人を一度に送り込んだヘルメスの視界では、転移機能の使用可能時刻が更新されていた。自身が短距離を移る場合とは異なり、他者を転送したあとは、次の転送まで対象一体につき十分の間隔を要する。
四人で、四十分。
その間、ヘルメスは転移を行えない。
「帰りの時間は、決まっています」
蓮見が言った。
「それまでに久世湊を確保する。実に分かりやすい予定でしょう?」
「四十分もありゃ十分だろ」
ミカエルは天井の監視器を見た。レンズの向きが変わり、侵入者たちを正面から捉える。
「ただ、あの人形には命令すんなよ。お前の言うことを聞いてるわけじゃねえんだからな」
「承知していますよ。創設者の指示は、すでに与えられています」
黒いコートの男は二人の会話へ加わらなかった。
壁の警備表示が黄色に変わる。
続いて赤。
鋭い警報が、地下の静けさを引き裂いた。
『緊急警報。局内に未登録の生命反応、ならびに機械反応を検知。全部署は指定の警戒手順へ移行してください』
隔壁が動き始める。廊下の奥で、重い金属音が連続した。
蓮見は腕時計へ目を落とした。
「では、始めましょうか」
*
特殊対応群の待機室では、端末の画面が一斉に赤く染まった。
鷺宮伊織は立ち上がると、廊下の監視映像を壁面へ展開した。施設各所の映像が小さな窓となって並び、通路を走る職員、閉鎖された扉、出動を始めた警備班の位置が浮かぶ。
「地下第三区画。侵入者は五つの反応。うち二つは人間の形をしていません」
久我静は装備を取った。
「退避経路は」
「東側は確保済み。中央の搬送廊下に六名残っています。侵入者の一人が、そちらへ向かっている」
画面の中で男がひとり歩いていた。
駆け出す様子も、身を隠す素振りもない。警備班の制止を受けると、ゆっくり両手を上げた。
次の瞬間、隊員が二人、別々の方向へ倒れた。
何が起きたかを確かめる前に、男は廊下を進み始めている。
「私が止める」
久我が言う。
「私も行く。監視を局内の系統へ接続しておく。現場からでも他の通路を確認できる」
二人は中央搬送廊下へ向かった。
そこには、退避できずにいた職員がいた。
装備ケースを抱えた若い隊員と、床へ転がった搬送機。その向こうで、ミカエルが首を回している。
「お。今度は少し違うな」
「そこから動くな」
久我が一歩前へ出た。
足元から淡い光が広がり、廊下の幅いっぱいに透明な防壁が立ち上がる。
職員たちが壁の後ろへ退くと、久我は短く避難の指示を出した。
ミカエルは防壁へ拳を当てた。
軽い音が返る。
次に肩を沈め、体重を乗せて打ち込んだ。床に低い振動が走ったものの、防壁は位置を変えない。
「へえ」
男の顔に、初めて喜色が浮かんだ。
「いいな。さっきの連中とは違う」
「鷺宮。職員の退避を」
「もう誘導してる。左の通路は閉鎖した。相手が逃げたら、追える」
鷺宮の視界には、壁の向こうの通路も表示されていた。
監視器の映像と複数の検知記録が重なり、ミカエルの移動先を追い続ける。
ミカエルが右へ跳んだ。
「右側!」
鷺宮の声と同時に、久我の防壁が向きを変える。男が突き出した脚は、そこで止められた。
だがミカエルは着地せず、防壁へ足裏を押し当てたまま身体を持ち上げた。
その勢いで、天井を走る搬送レールを掴む。
鷺宮が上方の映像へ切り替えるより早く、男は吊り下げられた空の搬送枠を蹴り飛ばした。
枠が、避難する職員の背中へ落ちる。
「伏せろ!」
久我の防壁が背後へ広がり、搬送枠を受け止めた。
その一瞬だけ、正面が空いた。
ミカエルは落下と同時に床を蹴り、久我の懐へ入った。
構え直そうとした腕の内側へ肩を差し込み、防具の継ぎ目へ掌底を打つ。
久我の身体が防壁から離れ、床を滑った。
「久我!」
鷺宮が間へ入る。壁面に残る監視映像から男の位置を読み、退路を塞ぐように動いた。
しかしミカエルは追い掛けず、傾いた搬送機へ片足を掛けた。
「見えてるから勝てるってわけじゃねえぞ」
男が搬送機を跳ね上げる。
鷺宮は直撃を避けたが、床を転がった装置が横の扉にぶつかり、通路を塞いだ。
退避経路と戦闘区域を結ぶ視界が一度途切れる。
久我が立ち上がり、防壁を再形成した。鷺宮も装備を持ち直す。
「奥の職員は全員出た」
「分かった」
久我が男を見据えた。
警報が鳴り始めてから、すでに十六分が経っていた。久我と鷺宮は防衛線を維持する間に、中央搬送廊下にいた職員を全員逃がしていた。
ミカエルは二人の間を交互に眺め、楽しそうに息を吐いた。
「いい動きだ。守るものがなけりゃ、もっと面白い勝負になったかもな」
「目的は何だ」
「お前らじゃねえよ」
男が答える。
「悪いな。時間を使いすぎた」
踏み出した足が、久我の防壁の縁を捉えた。真正面から壊すのではない。
防壁が展開する端を狙い、立て直すための足場ごと久我の姿勢を崩す。
鷺宮が横から制止しようとしたが、男はその腕を掴まず、肘の外側を打って武器の向きだけを逸らした。続けて身体を反転させ、鷺宮の脇腹へ膝を入れる。
短い呼気が漏れた。
鷺宮は壁に片手をつき、倒れるのを防ぐ。
それでも二度目の攻撃を受け止める姿勢までは作れなかった。
久我が再び防壁を広げた時には、ミカエルはすでに通路の先へ走り出していた。
「……待て!」
久我の声が追う。
男は振り返らなかった。
*
第四執行部の作業室に、警報が鳴り続けていた。
榊美月は端末の通信を切り替え、久世湊と牧野征士郎へ顔を上げた。
「正面の通路に負傷者がいます。避難を手伝います。装備を確認してください」
「分かった」
「久世さん、先に行きすぎないでくださいね」
「うん」
牧野が防護ベストの留め具を確かめる。
「久世さん、俺が先頭に出ます。榊さん、後ろをお願いします」
警報発令から二十分近くが経っていた。
各部署からの負傷者報告が増え、医療班の呼出表示は画面の端から端まで埋まりつつあった。
三人が廊下へ出ると、空調の風に薬品の匂いが混じっていた。
中央の吹き抜けから、翼の羽ばたく音が聞こえる。
久世が顔を上げた時、天井近くを巨大な鳥の影が横切った。
翼の裏に、不規則な光が散る。
次いで、耳の奥を擦るような低い音が押し寄せた。
「……っ」
廊下の端が遠ざかる。目の前の扉が、二枚あるように見えた。
榊が手すりに手を掛けた。
「映像と実際の距離が合いません。皆さん、光を見ないでください!」
ヒュプノスは吹き抜けの上空をゆっくり旋回していた。光に目を奪われた職員が歩みを止め、眠りに落ちるようにその場へ崩れる。床を這うほど低い声が、天井から降ってきた。
「ネムレ」
牧野は倒れた職員を引き寄せ、壁際へ移した。
「久世さん、こっちの二人を頼めますか!」
「分かった。榊さん、右の扉は使える?」
「使えます。そこから奥の区画へ抜けられます」
久世は視界の表示を絞り、壁の継ぎ目を頼りに進んだ。
AOFが拾う情報にも乱れが生じている。
目に見える距離を信じず、足裏に伝わる床の傾きを確かめながら負傷者を運ぶ。
その先で、低い唸りが響いた。
非常灯の下へ、巨大な虎が姿を現す。
タナトスの前脚は鋼の支柱のように太く、爪先が床へ触れるたびに細い傷が増えていった。
「ハイジョ」
虎が飛びかかる。
牧野は正面から受けず、横へ身体を滑らせた。背後の隔壁へ虎を誘導し、爪が壁へ向いたところで拘束具を放つ。帯状のワイヤーが前脚に絡んだ。
「榊さん! 閉鎖を!」
榊が制御盤へ命令を送る。
非常隔壁が下り始めたものの、虎は足首をひねって拘束具を外し、降り切る前に下を潜り抜けた。
その爪が牧野の前腕を浅く裂いた。
「……くそっ」
牧野はすぐに構え直そうとしたが、指が思うように動かない。
握ったはずの手から拘束具の操作器が落ちる。
「牧野さん!」
久世が駆け寄る。
「平気っす。腕がちょっと、言うこと聞かないだけで……!」
「無理しないで。そっちは俺が見る」
榊が牧野の傷を確認し、端末で警告を出す。
「麻痺の反応があります。牧野、いったん下がって。医療班を呼ぶから」
だが、虎は退かない。背後ではヒュプノスの低音が続き、廊下から人々の声が消えていく。
負傷者を退避させ、閉鎖できる扉を一つずつ閉じるうちに、警報から三十分余りが過ぎていた。
その静けさの奥から、拍手が聞こえた。
「いやあ。皆さん、よく動きますねえ」
久世は顔を上げた。
通路の向こうに、濃い色のスーツを着た男が立っていた。
蓮見透。
男は両手をゆっくり下ろした。
「またお会いしましたね、久世さん」
久世の視線が、蓮見の顔へ定まる。
「……瀬尾さんに、何をした」
「おや」
蓮見は軽く首を傾げた。
「その名前が最初に出てくるとは。随分と心に残ったようですね」
「答えろ」
「何を、とおっしゃられても。あの方は最後まで、ご自分の足で帰ろうとなさった。私は、ほんの少し条件を変えただけですよ」
牧野の表情が変わった。
「……お前が、あの事件を」
「人を守ろうとする行為は、とても興味深い結果を生むんです。特に、守る側が自分の判断を正しいと信じている時には」
久世はそれ以上聞かなかった。
右手が掌へ収まる。
次の瞬間、床を蹴っていた。
「久世さん!」
榊の声が背中に届く。
久世は蓮見の正面へ直進せず、壁に沿って位置を変えた。相手の背後には別の扉がある。逃走経路を塞ぎ、拘束できる位置へ回り込む。
蓮見が小さく笑った。
「なるほど。怒っていても、考えることはやめない」
久世の手が男の袖に触れる寸前、横から虎の尾が薙いだ。
上体を低くして避けた。蓮見の袖を離し、虎の脚が床へ着く先を見て方向を変える。
榊は背後の防火扉を閉じ、ヒュプノスの光が差し込む範囲を減らした。低い音はまだ残るものの、視界の二重像は薄れていく。
「久世さん、今なら右へ抜けられます!」
「榊さんは牧野さんを連れて下がって!」
「一人にはしません!」
牧野は麻痺していない手で床の操作器を拾い、ワイヤーの残りを引いた。虎の前脚がわずかに止まる。
「久世さん、今っす!」
久世はその隙に蓮見へ近づき、左腕を掴んだ。
ようやく捉えた感触が、指先に残る。
「瀬尾さんは、帰るつもりだった」
久世の声は低かった。
「お前の実験のために、死んだんじゃない」
蓮見は腕を振りほどこうとせず、久世の手元を見ていた。
「ええ。だから、価値があるのですよ。何も知らない方が、あれほど切実に出口を求めたのですから」
久世が拘束具へ手を伸ばす。
その直前、廊下の奥で足音が止まった。
「そいつが、久世か」
低い声。
振り返った久世の前に、ひとりの男が立っていた。
ミカエルだった。
*
「随分と時間が掛かったな」
蓮見が言うと、ミカエルは鼻で笑った。
「強いのが二人いた。お前よりは話が通じたぜ」
それから、久世の腕を見た。
「離してみろよ」
「……何?」
「俺はそいつを連れて帰る。邪魔するなら、先にお前から倒す」
言葉が終わる前に、久世は蓮見を押し離し、二人の間へ立った。
榊が側面へ移り、牧野も片腕をかばいながら後方を固める。
「久世さん、相手の動きが……」
榊の端末に、久我たちとの交戦記録が届いていた。
「分かってる」
久世が答える。
ミカエルは軽く手を振った。
「三人で来い。別に構わねえ」
牧野が先に動いた。床を滑った拘束具のワイヤーが、ミカエルの足首へ巻きつく。
男は引かれる力に逆らわず、むしろ一歩前へ出た。距離を詰められた牧野が左腕で顔を守った瞬間、その肩口へ硬い掌が入る。防護ベストの留め具が外れ、牧野は片膝をついた。
「牧野さん!」
久世が横から割って入る。
榊は通路の照明を落とし、久世のAOFと同期させて壁面の色を整えた。久世の姿が暗がりへ沈む。だがミカエルは、消えた位置を探さなかった。足元に残る浅い水たまりを見て、身体を斜めに開く。
「そこだ」
肘が腹部へ食い込んだ。
久世は息を詰まらせながらも、手すりを掴んで倒れるのを防いだ。反撃に移ろうとしたところで、ミカエルが足元の拘束具を蹴り上げる。操作器が榊の端末を打ち、画面に亀裂が走った。
「っ……!」
榊が後ずさる。落ちた端末を拾おうと身を屈めた彼女へ、ミカエルが向きを変えた。
久世は壁から手を離した。
「榊さん、下がって!」
男の長い腕が榊へ伸びる。その進路へ、久世は右手を差し入れた。
ただ受け止めるのではない。
相手の力がどちらへ向かい、どこを通れば榊に届かないのか。
久世の掌が、二人の間に斜めの面を描く。
肩の奥が熱を帯びた。
《NEURAL RESPONSE:DETECTED》
《ORION PROTOCOL》
《MODULE SLOT 01:ACTIVE》
透明な巨大な腕が、久世の右腕を包むように立ち上がった。
ミカエルの掌がその外縁へ触れた途端、打撃の向きが変わる。
伸びてきた腕は久世の脇を通り過ぎ、男自身の身体を横へ引いた。
ミカエルの靴が床を削り、肩が壁の防護板を打つ。
鈍い破砕音が廊下に響いた。
壁面の樹脂板に蜘蛛の巣のようなひびが走り、砕けた留め具が床を跳ねる。ミカエルは二歩目で踏みとどまったものの、頬には浅い傷ができていた。
「……へえ」
男が指で血を拭う。
「お前、面白いな」
先ほどまでの笑いとは違った。ミカエルは傷を確かめると、歯を見せて笑った。
「いいじゃねえか。そういうのを待ってた」
久世の視界に、稼働時間が刻まれる。
《ACTIVE DURATION:06.8 SEC》
《MAXIMUM DURATION:60.0 SEC》
「久世さん、オリオンが……!」
榊は割れた端末を抱え、久世の右肩を見た。
「無理に維持しないでください。前回より負荷が大きいかもしれません!」
「分かってる。榊さんは牧野さんを!」
牧野が立ち上がり、動く方の手で榊を後ろへ押しやった。
「久世さん、一人で受けないでください! 俺も――」
「牧野さん、榊さんと一緒に出口を確保して。ここは俺が引きつける!」
久世は右手を開いたまま、ミカエルの正面に立った。
男は一度だけ床を蹴った。
久世が腕を斜めに返す。正面から飛び込んできた身体が、力場の外側へ滑った。ミカエルの勢いは消えず、壁際まで運ばれる。久世はそこで追わず、榊たちと敵の間に立ち続けた。
ミカエルは壁に手をついて止まり、振り返った。
「押し返すんじゃねえ。流してんのか」
久世は答えなかった。
「なら、次はどうだ」
ミカエルが通路脇の転倒した搬送台へ片足を掛ける。
床に残っていた車輪が回り、台が久世の足元へ滑った。
久世は正面へ出した力場を下げ、台を人のいない壁際へ逸らす。
ぶつかった台が横倒しになり、車輪だけが空回りした。
その音に重なるように、ミカエルの靴が床を打つ。
右からの突進に備えて腕を上げる。だが男は直前で体勢を沈め、久世の左足の外側へ回った。
透明な腕が正面を覆っていても、背中までは守らない。
久世が向きを変えるより先に、脇腹へ膝が入った。
「ぐっ……!」
床を踏み直す。透明な腕はまだ消えていない。
久世が手首を返すと、追撃の拳が横へ流れ、男の拳は壁の角を打った。
それでもミカエルは止まらなかった。壁に当たった腕を支点に身体を翻し、久世の左肩へ手を掛ける。右腕を振り向ければ肩ごと押さえ込まれ、離そうとすれば脇腹が無防備になる位置だった。
「でかい腕だな」
久世は肩を沈め、押さえられた左側から抜けようとした。
ミカエルはそれを追って腕力で潰すのではなく、足を引いて進路を空けた。
勢いを失った久世の身体が半歩前へ流れる。
そこへ、男の掌が右肩の付け根へ届いた。
鋭い痛みが、肘の内側まで走った。
《ACTIVE DURATION:24.1 SEC》
表示がにじむ。久世は身体を捻り、巨大な腕の外縁を男へ向け直した。
ミカエルは防ごうともせず、一度後ろへ飛び退いた。
二人の間に、わずかな距離が戻る。
久世の右手が震えていた。掌を開こうとするたび、指の動きが半拍ずつ遅れる。透明な輪郭はその遅れに合わせて傾き、元の位置へ戻りきらない。
まだ、表示された上限には遠い。
「久世さん、もうやめてください!」
榊の声に、久世が横を向く。
その背後では牧野が倒れた搬送台を引きずり、避難用の扉を開こうとしていた。片腕が動かず、操作盤の上で指が滑っている。
ミカエルの目が、その二人へ移った。
「そっちが気になるか」
男は久世を通り越し、榊たちの方へ走った。
久世は反射的に追う。榊へ届く直前の軌道を捉え、右腕を突き出す。巨大な輪郭が廊下いっぱいに広がり、男の身体を横へ押し流した。
だがミカエルは、流された先にあった壁を自ら蹴った。
その反動で久世の懐へ戻ってくる。
正面へ広げた力場を、引き戻す時間はなかった。
ミカエルの肩が久世の胸元を捉えた。身体が持ち上がり、足元から床の感触が消える。続いて背中が手すりを打ち、肺に残った空気が押し出された。
透明な腕が大きく揺らぐ。
《ORION:OFFLINE》
光が消えても、男は目の前にいた。
最大六十秒を示していた表示が、視界から消える。
久世は痺れた指を一本ずつ開こうとしたが、五本が揃うより先にミカエルの靴が近づいてきた。
久世は左手で床を押し、右腕をもう一度持ち上げようとした。指先が痺れ、肩は自分のものではないように重い。それでも膝を立てたところへ、ミカエルが歩いてくる。
「お前、弱くはねえよ」
男の声は、先ほどより穏やかだった。
「俺の一撃を二度も逸らした。久しぶりに面白かったぜ」
久世は顔を上げた。
「……だったら、まだ――」
「ああ。まだ戦うつもりなんだろ」
ミカエルは笑った。
「だが、今はここまでだ」
伸びてきた手を左腕で払い、久世は立とうとした。しかし右脚へ体重を移した瞬間、足元を刈られた。膝が床につくより早く首の横へ短い打撃を受け、視界が暗く沈む。
「久世さん!」
榊が叫ぶ。
ミカエルは意識を失った久世を抱え上げた。右腕の外側には、もう力場の名残さえない。
「こいつは連れていく。創設者が欲しがってるんでな」
牧野が歯を食いしばって立ち上がる。麻痺した腕を身体へ寄せ、残った手で拘束具を掴んだ。
「久世さんを離してください!」
「そいつは無理だ」
ミカエルは久世を抱えたまま片足を払った。牧野は踏ん張れず、開きかけた扉へ肩から倒れ込んだ。
男は追撃しなかった。床に倒れた二人へ一度だけ目を向け、久世の身体を抱え直す。
「次に会うまでに、もう少し仕上げとけよ」
床の上に薄い光の筋が走った。
鷲の羽ばたきが止まり、虎の爪が床から離れる。蓮見のスーツの裾が空気のない場所でひるがえった。
榊が久世へ手を伸ばす。
指先には、何も触れなかった。
「それでは皆様、ごきげんよう」
次の瞬間には、侵入者たちも、久世も、そこにいなかった。
非常灯だけが赤く回り続けた。
*
侵入者の消失後も、執行局はすぐには警報を解除できなかった。
倒れた職員の搬送、破損した隔壁の点検、残留する催眠作用への対処。
連絡がつかない者の名前が、部署ごとに読み上げられた。
その名簿の一番下に、久世湊の名前があった。
第四執行部の作業室では、榊が通信記録を開いていた。転移の直前、わずかに残った映像。ミカエルの腕に抱えられた久世の姿は、途中からひどく乱れている。
榊は映像を止め、もう一度再生した。
最後の一画面だけ、久世の右手が映っていた。
牧野は隣の椅子に座り、処置を終えた腕を膝に載せていた。
医療班が巻いた包帯の先から、指が動こうとしている。
けれど、人差し指は途中で止まった。
「……俺が、あいつを止められてたら」
榊は画面から目を離さなかった。
「私も、敵の動きを最後まで追えなかった。久世さんがどこへ運ばれたのかも……」
「久世さん、俺たちをかばって前に出たんすよ」
牧野は動かない手を見た。
「それなのに、俺は立つこともできなかった」
扉が開いた。
鳴海冬真が姿を見せた。後ろには新井香と前川胡桃がいる。
三人とも、警報が鳴った区画とは別の持ち場から駆けつけていた。
「久世は」
鳴海が尋ねる。
榊は答えようとして、端末を握り直した。
「敵に連れ去られました。局内の監視は、転移したところで途切れています」
前川の表情が強張った。
「……生体信号は?」
「最後の記録では確認できています。でも、そのあとが分かりません」
前川は椅子の背に手を掛けた。指先が白くなる。
「追跡できるものは、何もないんですか」
「今、全部署で探しています」
新井は黙ったまま端末を開き、負傷者名簿を確認した。
画面を上へ送ってから、一度だけ強く息を吐く。
「……あいつ、訓練でやっと一つできるようになったばっかりなのに」
鳴海は壁際に置かれた久世の装備ケースを見た。
持ち手には彼の識別票がついたままだった。鳴海はそれに触れず、扉のそばへ立った。
やがて連絡が入り、特殊対応群の久我と鷺宮も負傷した状態で救護区画へ運ばれたことが伝えられた。
局内の防衛線は破られた。侵入者は一人の執行官を奪い、姿を消した。
榊は端末を閉じた。
「……久世さんの装備記録、私が管理していたんです」
誰も口を挟まなかった。
「AOFの癖も、身体への負担も、全部。なのに、あの時は……」
声が続かず、榊は机の上へ端末を置いた。
牧野が椅子から立ち上がる。
「榊さん。俺、医療班にもう一度状態を確認してもらってきます。動けるようになったら、捜索に戻ります」
「牧野……」
「久世さんを、あのままにはできないっす」
鳴海が小さく頷いた。
「俺も行く」
新井は負傷者名簿を閉じ、前川へ目を向けた。
「前川ちゃん、技術側で拾えそうなものがあったら教えて。こっちも探す」
「はい」
前川は震える指を組み直し、顔を上げた。
「今度は、分からないままで終わらせません」
部屋の外では、警戒を告げる赤い灯りがまだ点滅していた。
夜が明けても、執行局のどこにも、久世湊の姿はなかった。




