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特殊公安執行局  作者: the 春


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49/49

#49 帰還

 轟の指先から落ちた雷が、藍沢の足元を白く焼いた。


 靴を引いた直後、床に溜まった水が弾け、破裂音が遅れて耳を打つ。

 藍沢は壁際の運搬車を蹴って身体を横へ滑らせた。雷はその車体を跳び越え、むき出しになった配線を伝って、天井から垂れる金具に青い火花を咲かせる。


「おっと。こりゃ相性が悪いな」


 軽口を叩きながらも、藍沢の目は轟ではなく、二人の間に張った黒い線を追っていた。


 《NULL CUSTOM SYSTEM/GLEIPNIR》


 藍沢が持つ警棒型の制御器から、高い引張強度を備えた拘束索を射出するシステムだ。

 索は単なる縄ではない。

 床や柱、壁の奥にある構造材を固定点として捕らえ、伸縮と張力を細かく調節する。

 相手の身体を直接押さえつける力ではなく、相手が動こうとした先に、動かせない線を用意する。

 それが《GLEIPNIR》の基本だった。


 ただし、固定する場所がなければ力は発揮できない。

 強固な柱に結んだ索と、脆い壁材に食い込ませた索とでは、耐えられる力が違う。

 そして何より、索自体が無傷でいられる保証もなかった。


 轟が指を鳴らすと、天井の金具から飛んだ火花が拘束索へ絡みついた。

 藍沢は瞬時に一本を切り離す。

 通電した索は床へ落ちる前に焼け焦げ、触れた水たまりから煙を上げた。


「その紐で俺を縛るつもりか」


「そういう予定だったんだけどな。あんた、いちいち焼くから困る」


「なら、近寄ってみろ」


 轟が踏み出した。足元の水は一歩ごとに青く光り、通路の両側にある手すりから次々と火花が跳ねた。


 藍沢は正面へ向かって警棒を振らなかった。

 狙ったのは、轟が足を置こうとした場所よりさらに奥、補強された支持柱の根元だった。


 《GLEIPNIR/BIND》


 乾いた射出音とともに黒い索が走り、柱に食い込んだ留め具が固定された。

 藍沢は警棒を手前へ返す。張った索が轟の脛に触れ、踏み出しかけた足を外側へ引いた。


 轟の身体が傾く。


 だが転ばない。男は膝を曲げて引き込みを受け流し、逆に索のかかった脚を強く踏み出した。

 固定具が柱の表面を削り、細かな砂が降る。藍沢の手首に激しい震動が返った。


 《BIND》は対象へ索を掛け、ひとつ以上の固定点との間で動きを制限する基本拘束である。

 相手が暴れれば張力は増すが、その力は索だけでなく固定点へもかかる。

 轟のような怪力の持ち主を一本で留めるには、固定する相手も場所も厳しすぎた。


 柱の縁が割れ、留め具が跳ねた。


「ほらな」


 轟が笑うより早く、久我が掌を下げる。


 男の右腕が不意に沈んだ。拳を上げようとしていた肩が、目に見えない重荷を背負わされたように下がる。《BASTION》の領域内で、久我の《GRAVITAS》が腕に追加の荷重を課していた。


「右が空いた!」


 霧島の声に藍沢は頭を下げ、轟の右脇を抜ける。

 すれ違いざま膝の裏を払ったが、轟は左手で藍沢の襟を掴み、背後へ投げ返した。


 藍沢は壊れた運搬車の上に背中から落ちる。空の金属箱が散乱し、乾いた音が何度も跳ねた。

 息が抜けたまま身体を起こしかけると、轟の左掌がこちらを向いていた。


「伏せて!」


 榊が叫ぶ。藍沢は頭を下げた。稲妻が髪のすぐ上を走り、背後の壁を焦がした。


 壁際では、牧野が久世を抱えたまま身を縮めていた。

 意識を失った青年の右腕は固定され、頭が牧野の肩へ傾いている。

 牧野の手袋は汗で滑り、抱き直すたびに肘が震えた。


「榊さん、向こう側、通れるんすか!」


「待って。手すりがまだ通電してるかも。久世さんの装備を触れさせたら危険!」


 榊は壁の制御盤に端末を接続していた。

 破損した画面の配線図から、通路に接続された補助電源を探し出す。

 轟が自ら発する雷を止めることはできなくても、通電する手すりや搬送レールを減らせば、少なくとも雷の行き先は狭められる。


「この系統を落とします。照明も一部消えますけど、動けますか」


「暗い方がありがたいくらいだ」


 藍沢が起き上がった。

 肘の皮膚が裂け、指先に痺れが残っている。

 それでも警棒を拾うと、袖で柄の血を拭った。


 切替器が倒され、壁の機械音が一斉に細くなった。

 誘導灯が消えるにつれて、轟の両腕を走る雷だけが暗い搬送路を照らし始める。


「小細工が多いな」


「正面から殴り合ったら、俺が負けるからさ」


 藍沢はあっさり答え、今度は二方向に索を射出した。

 一本は右側の支持柱へ。

 もう一本は、霧島が示した天井の保守用固定具へ伸びる。


 先ほどの索と違い、天井側には灰色の被覆が巻かれていた。

 被覆は古いが、露出した鉄骨に直接掛けるよりは電気を伝えにくい。

 ただし絶縁材も万能ではない。

 強い放電を受ければ焼損し、場合によっては火花が飛び越えてくる。


 藍沢は足元に広がる水を避け、乾いた補強板の縁へ移った。轟が追いかけてくる。


「久我さん、あの柱まで誘ってくれる?」


「捕捉できるのは領域の端までよ。それ以上は行かせないで」


「了解」


 藍沢は自ら前へ出て、男の顎を狙うふりをした。

 轟は構わず片腕を振り、藍沢の腕を払いのける。

 重たい打撃が肩をかすめ、関節の奥まで痛みが走った。

 その隙に轟が一歩前へ出たところで、久我は荷重を右足へ切り替えた。


 靴底が補強板を叩いた。轟の身体がほんの少し沈む。


 そのわずかな遅れが、藍沢には必要だった。


 《GLEIPNIR/CROSS LOCK》


 左右の固定点から引かれた索が、轟の進路で交差する。

 一方を引けばもう一方が張り、上体を起こせば腕の動きが制限される。

 相手の力を正面から受け止めるのではなく、互いに異なる方向の張力を競わせ、動ける角度を削っていく応用拘束だ。


 索が右手首と左肩に掛かった。

 轟は肩をねじり、片方の線を引きちぎろうとする。

 藍沢はその力を察知して巻き取り量を変え、反対側の索を張った。

 轟が右を向けば左が引き、左足を動かせば上体が傾く。


「……面倒なものを使う」


「気に入ってくれたか?」


「壊しがいがあると言っている」


 轟の身体から、青白い光が一気に噴き上がった。


 雷が右手首の索を伝い、天井の固定具へ飛ぶ。被覆板が焦げ、太い留め具の根元から火花が散った。《CROSS LOCK》の片側がわずかに緩む。

 轟はその瞬間を逃さず、右肩を回して拘束を外そうとした。


 藍沢が警棒を握り込むと、装置から鋭い警告音が鳴った。

 張力を増せば固定点がもたない。緩めれば轟の腕が自由になる。

 細い線の上で釣り合いを取るような制御に、指先の感覚が少しずつ削られていく。


「藍沢!」


 霧島の叫びが重なった。


 轟の右掌から伸びた雷が、索を這って藍沢へ向かっていた。

 藍沢は手元の接続を切り、燃えた部分を床へ捨てる。

 熱を帯びた黒い帯が蛇のように跳ね、近くの壁を焦がした。


 轟が自由になった腕で藍沢の胸を打つ。


 呼吸が止まった。

 藍沢は二歩下がって支持柱へ肩をぶつけ、辛うじて倒れずに踏みとどまった。

 唇の端を拭うと、手の甲に赤い線が残る。


「その程度か」


「いや……なかなか勉強になるよ、あんた」


 藍沢が笑い返すと、轟はつまらなそうに眉を寄せた。


 藍沢が探していたのは、雷を受けても切れない一本の索ではなかった。

 そんな都合のいいものがないことは、最初の数分で分かっている。

 必要なのは、一本が切れても別の線が拘束を引き継ぐ配置だった。


 久我の足元では、《BASTION》の光がまだ消えていない。

 だが彼女の額には汗が滲み、轟を捕捉した状態を維持するだけでも負担が増していた。

 榊の端末には、通路の電源を切り離した痕跡が赤い線で残っている。

 霧島は天井と床の補強材を交互に見ながら、藍沢へ指を二本立てた。


 そこなら二か所、まだ使える。


 藍沢は小さく頷いた。


「牧野、久世を連れて扉の前へ。榊さん、開いたらすぐ抜けられるようにしてくれ」


「でも、藍沢さんは?」


「すぐ行く。たぶん」


「その『たぶん』、全然信用できないっす」


「俺もだよ」


 轟が二人のやり取りを断ち切るように踏み込んだ。

 藍沢は男の拳を外へ逸らし、床に膝をつく。殴り返す代わりに、警棒の先を補強板の継ぎ目へ当てた。


 射出音が二つ。次いで、頭上でも小さな金属音が鳴った。


 《GLEIPNIR/WAR CAGE》


 それまでの《BIND》が一点を、《CROSS LOCK》が複数の動作方向を抑える拘束なら、《WAR CAGE》は固定点を立体的につなぎ、対象の周囲に逃げ道の少ない拘束域を組むものだった。


 索は身体を締めるためだけに使われるのではない。

 動ける空間そのものを格子状に区切り、どこへ力を逃がしても、別の線へ衝突するように配置される。


 轟の前に、黒い線が一本ずつ現れた。

 足元の補強材から腰の高さへ、そこから肩口へ。

 天井へ伸びる索は、露出した金属からできるだけ距離を取っている。

 藍沢が警棒を傾けるたび、それぞれの線が異なる速さで巻き取られ、網目の角度が変わった。


 轟は腕を振るった。最初の一本が千切れる。

 しかし、その腕は二本目に掛かり、肩を開けば三本目が張る。

 足で線を踏み潰そうとすれば、久我が脚に荷重を加え、踏み下ろす動きを鈍らせた。


 雷が走る。索の端が焼け、轟の周囲に焦げ臭い煙が立ち込める。


 網目の一角が崩れた。


 藍沢はそこへ新しい索を送る。

 今度は壁ではなく、床下を通る太い補強梁へ留め具を打ち込んだ。

 上からの張力を増やすと天井が悲鳴を上げたため、すぐに荷重の受け先を変える。

 拘束域を保つための操作は止まらず、警棒の握りには何度も熱と震動が返ってきた。


 轟は膝をついたまま上体を起こす。


「ここまでやっても、まだ足りんぞ」


「分かってるさ」


 藍沢の声が掠れた。左肘の傷は開き直し、握りを包む手袋の中まで血が回っている。


 轟が右腕を前へ突き出す。稲妻が広がり、最も近い拘束索を白く焼き切った。

 腕が自由になる。掌の向いた先には、久世を抱えた牧野がいた。


 轟の足に加わった荷重が、補強板を低く鳴らす。

 さらに肩を起こそうとした瞬間、藍沢が予備の拘束索を伸ばし、その肘を背後の柱へ引いた。

 男の放電は正面を外れ、誰もいない天井の梁へ命中する。


 衝撃で天井の化粧板が剥がれ、粉塵が降り注いだ。

 榊が扉の手動レバーを押し下げる。


「開きました! 今なら!」


 牧野は久世を抱え直し、先に扉を抜ける。霧島も続いたが、すぐには奥へ行かず、藍沢を振り返った。


「藍沢、もう十分よ!」


「あと、ちょっと……!」


 轟の背中が持ち上がる。

 藍沢が巻き取りを強めると、索の数本が張りつめて唸った。

 完全に沈めることはできない。

 固定点の強度も、装置の残りの索も限界に近い。

 それでも轟の両腕は別々の柱へ引かれ、脚は久我の荷重から逃れられなかった。


 藍沢は最後の固定操作を入れた。


 《WAR CAGE/ANCHOR HOLD》


 拘束索の基部が各固定点側で噛み合い、警棒からの制御を外しても、直前の張力をしばらく保持する。これも永続的な封印ではない。轟が力を掛け続ければ、いずれ索か固定点のどちらかが壊れるだろう。


 だが、それまでの時間があれば十分だった。


 藍沢は久我と目を合わせる。


「少しずつ抜いて。急に軽くすると全部こっちへ来る」


「分かっているわ」


 久我が加えた荷重を慎重に緩める。

 轟の身体が数センチ持ち上がり、拘束索が一斉に張った。

 床と柱が鈍く鳴ったものの、線はまだ切れない。


 轟は歯を食いしばり、こちらを睨んだ。


「逃げるのか」


「勝負は次の機会に取っといてくれ」


「次があると思うなよ」


「こわいこわい」


 藍沢は警棒を引き抜き、扉へ走った。

 久我が最後に《BASTION》を縮めて後を追う。

 分厚い隔壁が閉まり、向こう側で轟の放った雷が一度だけ白く光った。


 誰も轟を倒せなかった。だが、《GLEIPNIR》の拘束索が壁と床に食い込み、《GRAVITAS》の荷重が動きを奪ったわずかな間に、久世を運び出す道は開けた。


 扉の先で牧野が立ち止まり、久世の呼吸を確かめる。薄く開いた唇から、かすかな息が漏れた。


「……帰れるんすね」


 榊は牧野の腕の中を見た。

 彼女は喉の奥につかえていた息をようやく吐き出した。


「ええ。今度こそ、ちゃんと連れて帰りましょう」


 *


 地下搬送路は、さらに二つの曲がり角を抜けたところで広い荷捌き場へつながっていた。

 地上から伸びる非常階段の扉は開き、消えかけた誘導灯の下に、見覚えのある隊服があった。


「牧野!」


 八神が呼んだ。

 右腕は胸元に固定され、顔には疲れが濃く残っている。

 その隣でイヴがアダムの左肩を支えていた。

 アダムの歩き方はまだ不揃いで、左手の指もほとんど動いていない。

 二人の後ろには、簡易担架に横たわる鳴海がいた。


 八神の目が牧野の腕の中へ移る。


「……久世?」


「見つけたっす。まだ目を覚まさないんすけど、生きてるっすよ」


 八神は一度、短く息を吸った。

 すぐに久世の顔へ近づこうとしたが、つり上げた右腕に痛みが走ったらしく、足を止める。


「榊さん、状態は?」


「意識反応はありません。AOFとの接続も切れていないので、局へ戻ってから医療班に引き継ぎます」


 榊が説明する間に、天城が階段の方から下りてきた。

 壁に手をついて慎重に歩いており、顔には血と埃が残っている。

 先ほどまで廊下に満ちていた分身の気配は、もうほとんどなかった。


「双葉!」


 八神が声を上げる。


「平気。……平気じゃないけど、歩ける」


「ばか。もっと早く戻ってきなさいよ」


「八神さんだって、腕……」


 二人はそこで口をつぐんだ。

 互いの傷を見ていると、それ以上の文句が出てこなかった。


 鳴海を運んできた簡易担架の横では、アダムが何かを確かめるように首を動かしていた。

 イヴがその手を握ると、指先がぎこちなく返る。


「アダム、無理しないで」


「大丈夫です。移動はできます」


 霧島が二人のもとへ寄った。アダムの左腕を見て、すぐに表情を曇らせる。


「回路が傷んでるのね。帰ったら調整しないと」


「はい」


 牧野はその会話へ顔を向けたが、声をかける前に、藍沢がそばへ来た。


「久世、俺が運ぶよ」


「いや、大丈夫っす。ここまで抱えてきたんで」


「腕、もう限界だろ。階段もあるしな」


 言われて初めて、牧野は肘の震えに気づいた。

 久世を支えている手には、力を込めても感覚が戻ってこない。

 受け渡しをためらう牧野へ、榊がそっと頷いた。


「私が装備の状態を見ます。少しだけお願いできますか」


 藍沢は牧野から久世を受け取った。負傷した肩に痛みが走ったらしく顔をしかめたが、久世の頭を腕の内側へ収める動きだけは慎重だった。


「……軽いな」


 小さく漏れた言葉に、牧野が目を向ける。

 荷捌き場の壁に、突然短い電子音が響いた。

 非常階段へ通じる扉が、ゆっくりと閉まり始める。


「またかよ!」


 牧野が顔を上げた。榊は端末へ手を伸ばしかけたが、霧島がその手をそっと止める。


「違う。これは、こっちの合図」


 その声が終わるより早く、藍沢が口を開いた。


「アダム、イヴ。帰還する」


 イヴは一度だけ牧野たちを見た。

 アダムは右腕を動かし、負傷している左側をかばうように身体をひねる。


 八神の目つきが変わった。


「……どういうつもり?」


「悪い。こいつは連れていく」


 藍沢が答えた。

 牧野は動き出すまで一拍遅れた。


「何言ってんすか。久世さんは、俺たちの――」


 その声を遮って、床の上を黒い拘束索が走った。


 轟を捕らえたものと同じ素材の細い帯が牧野の足元へ巻きつき、前へ出ようとした脚を止める。

 

荷捌き場の柱には、久世を受け取る直前、藍沢が何気なく触れた場所に小さな留め具が光っていた。


「牧野!」


 久我が掌を上げようとする。しかし霧島が割って入った。


「お願い、今は追わないで」


「説明して。どうして久世を連れていくの」


「ここで話せることではないの」


「それじゃ通せないわ」


 久我の言葉に、霧島は唇を結んだ。

 答えを探す時間さえないらしく、扉の警告灯を見上げる。


 一方、八神は左手で装備を引き抜こうとした。

 右腕が使えない分だけ、動きにわずかな遅れが出る。その死角へ、イヴが滑り込んだ。


「ごめんなさい」


 イヴは刃を立てなかった。

 取り出した短い道具の平たい柄を、八神の首の付け根へ正確に当てる。

 身体を支える力が抜けた八神を、イヴが受け止めた。


「八神さん!」


 天城が駆け寄る。

 彼女は分身を呼び戻そうとしたが、指先を動かしたところで肩が強く震えた。

 《LEGION》の消耗はまだ抜けていない。


 天城の前にアダムが立った。


「退いてください」


「やだ。久世くんを返して」


 アダムは返事をしなかった。

 左腕は垂れたまま、右手だけを使って天城の攻撃を受け流す。

 天城が身をひねって横を抜けようとすると、アダムは彼女の腕を取り、近くの壁へ勢いを殺して押し当てた。左手の使えない身体で無理に組み合えば、アダム自身も倒れかねなかった。


 天城がもう一度起き上がろうとしたとき、アダムの右手が短く動いた。

 握っていた道具の平らな部分が肩口から首筋へ入る。

 天城は息を呑み、そのまま膝を折った。

 アダムは倒れ込む身体を受け止め、八神の隣へ静かに横たえた。


「二人とも、致命傷はありません」


 その言葉に牧野が激しく首を振った。


「そんな問題じゃないっすよ! 久世さんをどこへ連れてくつもりなんすか!」


 藍沢は久世を抱えたまま、牧野を見た。


「取り返したいのは、あんたらだけじゃない」


「だったら、一緒に帰ればいいじゃないっすか!」


 その声には、さっきまでの怒りよりも強いものがあった。

 牧野の胸元で通信端末が震え、御堂の途切れた呼びかけが雑音に混じって届く。


 藍沢は一瞬だけ視線を落とした。


「……無理なんだ」


 霧島が荷捌き場の奥の保守扉を開いた。

 先ほどまで壁に埋もれていた細い搬送路が現れ、暗い先に小さな昇降機が見える。

 四人はそこへ向かった。


 榊が藍沢の前へ出る。


「待ってください。久世さんのAOFは、まだ神経系に接続されています。勝手に外せば――」


「外さない」


 霧島が答えた。


「少なくとも、今は。あなたが心配していることは分かる」


「分かるなら、どうして……」


 榊の問いは最後まで形にならなかった。


 藍沢は一度、久世の顔を見下ろしてから、榊へ向き直る。


「生きて戻す。約束できるのは、それだけだ」


 言い終えると、昇降機へ足を乗せた。


 扉が閉じる寸前、牧野が叫んだ。


「久世さん!」


 返事はない。久世は藍沢の腕の中で、目を閉じたままだった。

 霧島の指が操作盤に触れる。昇降機は音を立てて降下し、やがて地下の奥へ消えていった。

 牧野の足元の拘束索が解けたのは、それから数秒後だった。


 降りた先は医療区画ではなかった。

 使われなくなった排水設備の脇に細い保守通路が延び、その先から、湿った土と夜風の匂いが流れ込んでくる。霧島は非常口の封印を外し、アダムとイヴを先に通した。藍沢は久世の頭をかばいながら身を屈め、最後に外へ出る。


 施設の外周柵から離れた斜面に、小さな出口が口を開けていた。

 暗い道路の端には、四人が乗ってきた車が停めてある。

 イヴが後部座席を倒し、アダムは不自由な左腕をかばいながら久世の身体を受け取った。


「……これでよかったの?」


 イヴの問いに、藍沢はすぐには答えなかった。


「分からん。でも、今ならまだ間に合う」


 車が発進すると、霧島は振り返って地下施設の方を見た。

 建物は暗い丘の向こうに隠れ、そこからはもう警報も聞こえなかった。

 藍沢は久世の呼吸を確かめてから、運転するイヴへ速度を上げるように伝えた。


 *


 御堂からの通信が戻ったとき、牧野はまだ閉じた昇降機の前にいた。


『牧野、応答して。全員の位置を確認したい』


「……久世さんが、連れてかれたっす」


『何?』


「俺たちが見つけたのに……別の連中が。今、地下の搬送路に……」


 返答が来るまでの短い間、牧野は自分の呼吸音だけを聞いていた。


『分かった。追跡は後。まず負傷者を連れて上がって。追加の人員を送ってある』


「でも!」


『牧野。今いる全員を失うわけにはいかない』


 少し遠くで、複数の足音が近づいてきた。


 開いた非常扉から現れたのは、鷺宮伊織と黒瀬凛華だった。

 二人とも現場装備を着け、鷺宮の腕には応急処置の跡が残っている。

 黒瀬は倒れている八神と天城を見ると、迷わず駆け寄った。


「二人とも意識がない。けど呼吸はある。運ぶよ」


「鳴海もいる」


 久我が担架を指した。

 鷺宮は短く頷き、腕の端末を開く。


「御堂さんから断続的に位置が届いていました。地下の開口部がいくつも変わっていて、ここに来るまで時間がかかった」


 彼は周囲の通路を見た。

 機械の位置と動きの痕跡を確かめるように、静かに視線を走らせる。


「状況を聞くのは出てからにしましょう。鳴海さんは私が運びます」


 黒瀬は八神を支え起こした。

 榊が天城のそばへ屈み、久我と牧野も担架に手を貸す。

 身動きの取れなかった仲間が、ようやく地上へ向けて動き出した。


 非常階段の途中で、頭上から低い震えが伝わってきた。

 誰かが足を止めると、鷺宮が振り返った。


「急いでください。上で何か起きています」


 *


 夜の空気は冷たかった。


 旧医療技術センターの敷地外へ出ると、路肩には執行局の救援車両が二台停まり、その間で医療班が搬送の準備を進めていた。八神、天城、鳴海が次々と担架へ移される。榊は久世のAOFに残っていた識別番号をもう一度確認しようとして、空いた手の中に端末しかないことに気づいた。


 牧野はその横で黙っていた。

 手袋の掌に久世の体温がまだ残っているようで、何度も指を曲げては開いた。


『現在地から十分離れて。全員、敷地の外周を越えて』


 御堂の声が、隊員たちの端末に重なって届く。


『地盤と通信に、同時に異常が出ている』


 地上の照明が、いっせいに細くなった。


 遠くから見れば、施設の上だけに薄い雲が垂れ込めたようだった。

 ところが雲は風に流れず、その下にある建物の縁をゆっくりとなぞっている。

 屋根の角が一瞬だけ二つに見え、次に一つへ戻る。

 敷地の外に生えた雑草まで、同じ方向へ傾いていた。


「……あれ、何っすか」


 牧野の声に、鷺宮が端末を上げる。


 測距表示は値を出さない。

 黒瀬が地面へ落ちた金具を拾って投げると、金具は施設へ向かって飛んだはずなのに、途中で軌跡を曲げ、手前の舗装へ落ちた。


「みんな、車に乗って!」


 久我が叫ぶ。


 敷地の中央で、建物の壁が内側へ折れた。


 崩落ではなかった。

 柱も窓も、形を保ったまま遠ざかっていく。

 道路の白線が伸び、フェンスの影が薄く引き延ばされる。

 空間の奥に別の空間が差し込まれたように、見えているもの同士の距離だけが狂い始めた。


 黒瀬は最後に乗り込む榊の背を押した。

 救援車両が走り出す。車輪が舗装を噛み、急な加速で車内の担架が揺れた。


 後ろから、音が追ってこなかった。


 代わりに、耳の奥が押し込まれるような感覚が生まれた。

 車窓の景色が一瞬だけ細長く歪み、戻ったときには、施設のあった場所から色が抜けていた。


 建物だけではない。


 駐車場も、周囲の道路も、外周の雑木林も、まとめて消えていた。


 そこには途切れたアスファルトの縁が残り、その先は深く抉り取られた暗がりへ続いている。

 崩れ落ちた瓦礫は見えない。

 粉塵も上がらない。

 巨大な何かが地図から一片を切り抜き、残された土地だけが、その形を覚えているようだった。


 救援車両は道路脇で停止した。

 牧野が窓へ額を寄せる。


「……基地が、なくなった……?」


 誰もすぐには答えなかった。

 通信端末に残された施設の座標だけが、何の意味も持たない数字として明滅している。


 *


 消失の数分前。


 施設の奥、地上の照明が届かない制御室で、ヘルメスは古い端末の前に立っていた。


 壁には、敷地の外周よりさらに広く、いくつもの固定点が打ち込まれている。

 地下の搬送路が侵入者を分けて運んでいたのと同じように、この施設には、空間の位置を指定するための仕組みがあらかじめ張り巡らされていた。


 端末に並ぶ固定点が、一つずつ閉じていく。


 通常の転送なら、対象の数に応じた再使用までの待ち時間が生じる。

 だが今、ヘルメスが動かしているのは人間の数ではない。

 長い時間をかけて境界を定めてきた、一つの場所そのものだった。


「……片づけるのも、俺の仕事か」


 独り言は誰にも届かなかった。


 ヘルメスは最後の固定点を選び、指を下ろす。


 閉じたはずの画面に、一瞬だけ別の表示が重なった。


 《AREA TRANSFER/EXECUTED》


 施設を包む空間が、静かに折り畳まれた。


 その向こうで何が残ったのかを、確かめる者はいなかった。

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