#33 帰路
模擬市街区の信号が、赤から青へ変わった。
久世湊は横断歩道の手前で足を止めた。車の代わりに走ってくるのは、床を滑る訓練用の搬送台だ。
台上には人形が一体。進路の左側で非常扉が閉まり始め、頭上から退避を促す警報が降ってくる。
「久世さん、右じゃありません。左の通路は使えなくなりました」
榊美月の声がイヤホンに届いた。
「見えてる。牧野さん、搬送台を止められる?」
「任せてください!」
牧野征士郎が横手から現れ、搬送台の取っ手を掴んだ。
車輪が一度跳ねたが、勢いを殺して歩道の縁へ寄せる。
久世は人形の足元を支え、榊が確保した迂回路へ向きを変えた。
それで訓練は終わるはずだった。
警報が途切れ、代わりに短い着信音が三度鳴る。
榊が端末を開いた。画面を追ううちに、口元から笑みが消えた。
「訓練を中断します。第四執行部に緊急出動要請です」
牧野が搬送台のブレーキを掛ける。
「どこですか?」
「潮見駅の地下連絡路。排水設備の故障と、非常隔壁の誤作動が同時に発生しています。逃げ遅れた人がいるそうです」
榊は局内へ応答を送り、二人に向き直った。
「今回は私が現場指揮を担当します。消防が先に到着していますので、合流してから入ります」
「了解」
「久世さんは避難者の確認と誘導をお願いします。牧野は通路の安全確保と、歩けない方の搬送を。私が設備側を見ます」
「分かりました。久世さん、装備を取りに行きましょう」
牧野の声につられ、久世は訓練用の手袋を外した。
窓の向こうには、雨が降っていた。
整った訓練区画の白い床とは違い、現実の道路では水がどこへ流れるかも決まっていない。
*
駅前には消防車が二台停まり、黄色い規制線が歩道を横切っていた。
雨は小降りになっていたが、地下へ続く階段から湿った空気が絶えず噴き上がっている。
駅員の案内で外へ出た人々が、傘を持つのも忘れて救急隊員に事情を話していた。
榊は消防の現場指揮者と地図を挟んで向かい合った。
「取り残された方は四人。地下の待合広場で確認されています」
指揮者が青い線を引いた。
駅の東口から西側の商業施設へ抜ける連絡路は、途中で非常隔壁に遮られている。
「西側は浸水が進んでいます。東側の隔壁も下りたままで、駅の制御室から開けられません。管理用の細い通路を使えば、広場の裏へ出られるはずです」
「水位は?」
「今のところ広場は足首程度です。ただ、排水が追いつかず、少しずつ上がっています」
消防隊員の一人が苦い顔をした。
「それと、案内放送が妙なんです。閉まっている西口へ行けと繰り返す。駅側で止めても、しばらくすると戻るんですよ」
階段の下から、明るい女性の声が聞こえた。
『安全な出口へご案内します。緑色の表示に従ってお進みください』
間違った道を、少しも迷わず勧める声だった。
榊は現場指揮者と通信系統を確認し、久世たちへ振り返った。
「通常の浸水事故ではない可能性があります。設備には勝手に触れないでください。まず人を見つけましょう」
「了解」
牧野が先頭に立ち、懐中電灯を点けた。
「久世さん、足元が滑ります。俺の後ろへ」
「分かった」
三人は消防隊員とともに、地下へ降りた。
*
階段を下りきると、駅の音が変わった。
地上の雨音は遠ざかり、代わりに水の流れる音が壁の内側から聞こえてくる。
天井の非常灯が水面に映り、床には青白い光の列ができていた。
通路の中央には、厚い金属の隔壁が下りている。
上端の機構が低く唸り、時折、閉まりきった扉をさらに押そうとするような音を立てた。
「これを動かすのは危険っすね」
牧野が扉の縁を照らした。
榊は頷いた。
「裏の管理通路から回りましょう。消防の方、そちらは通れますか?」
「先ほど確認しました。途中の扉は手動で開きます」
狭い通路には配管が幾重にも走っていた。
ところどころで頭を下げなければならず、靴の底が濡れた鉄板を踏むたび、薄い鈴のような音が続く。
前方を行く牧野が足を止めた。
「久世さん、ここに段差があります」
「見えた。榊さん、通路の先は?」
「図面では右へ曲がった先です。ただ、映像が取れません。慎重に進みましょう」
その時、壁の上に緑色の矢印が浮かんだ。
古い避難図の上を、光だけが左へ滑っていく。
だが、左の扉には『排水設備室・一般立入禁止』と書かれている。
久世が光へ手をかざすと、指の影が壁に落ちた。
「投影されてる」
「はい。正規の表示装置ではありません」
榊は端末で短い記録を取り、消防へ知らせた。
「後で調べます。今は目印にしないでください。地図と実際の扉を確認して進みます」
牧野は緑の光を横切り、右の管理扉へ手を掛けた。
*
扉の向こうから、何かを引きずる音がした。
「聞こえますか! 特殊公安執行局です!」
久世が呼びかける。
『こっちです! 開けます!』
家具の脚が床を擦り、扉が少しずつ開いた。
出迎えたのは、濡れた制服を着た若い駅員だった。
名札には『瀬尾』とある。額には汗が浮かび、片手で胸元を押さえていた。
「すみません……中に三人います」
待合広場には、親子と年配の男性がいた。
女の子は母親にしがみつき、男性は足首を押さえたままベンチに座っている。
広場の真ん中を、浅い水が静かに横切っていた。
「迎えに来ました。皆さん、出口は別の場所にあります」
久世の声を聞くと、女の子が顔を上げた。
「緑の矢印の方じゃないの?」
「違うよ。あっちは通れない。俺たちについてきて」
母親が女の子の背を撫でた。
牧野は年配の男性へしゃがみ込む。
「足を見せてもらえますか。無理に歩かなくて大丈夫です」
「滑ってしまってね。情けない話だ」
「そんなことありませんよ。こちらで運びます」
榊が経路を確かめ、指示を出した。
「親子は久世さんと消防の方で先に。牧野さんは負傷者の搬送をお願いします。私は瀬尾さんと後から出ます」
「分かった」
駅員の瀬尾が頭を下げる。
「僕も手伝います。お客様を先にお願いします」
「瀬尾さんも救助対象です。今は座っていてください」
「でも……」
返事の途中、瀬尾の顔が歪んだ。
制服の襟を握った指が震える。息を吸おうとしても、胸の奥で何かにつかえるらしい。
「瀬尾さん?」
榊が駆け寄る。
「いつから苦しいんですか?」
「つい先ほどからですかね」
瀬尾は口を押さえ、膝をついた。
榊は背を支え、携帯式の計測器を起動した。心拍、呼吸、体温。表示された数値は異常なほどではない。だが、その脇に、計測器の目的にない細い波が現れていた。
「……これは」
「榊さん?」
久世が足を止める。
「久世さんは先に親子をお願いします。こちらは私が見ます」
久世は瀬尾の様子を確かめ、母親へ手を差し出した。
「行こう。足元に気をつけて」
広場に、女の子の靴が水を踏む音が響いた。
*
親子が地上へ出ると、駅前で待っていた消防隊員が毛布を掛けた。
久世はすぐに地下へ戻った。途中で、負傷した男性を運ぶ牧野とすれ違う。
「久世さん、年配の方は俺が連れていきます。瀬尾さんのところへお願いします」
「分かった。無理しないで」
「大丈夫です。任せてください」
待合広場では、瀬尾が壁際の椅子に座っていた。
榊は携帯端末を何度も見直している。
緑色の案内灯が点くたび、瀬尾の胸から検出される微弱な反応も大きくなっていた。
「原因は分かった?」
「いいえ。ただ、体調不良だけでは説明できません。駅の設備と、瀬尾さんの身体が反応し合っています」
榊は久世の目を見た。
「第五執行部の前川さんに応援を要請しました。異常な機材や生体反応の調査に詳しいはず」
「それが良いかも」
「はい。事情を伝えたら、すぐに向かってくださるそうです」
瀬尾は二人を見上げた。
「……僕、何か変なんですか」
「普通とは違う反応があります」
榊は目線を合わせて答えた。
「まだ理由が分からないので、少しここで検査を続けさせてください」
「外へ出たら、駄目ですか」
久世は、地上へ続く管理通路を見た。白い灯りが、途中の曲がり角まで届いている。
「今は待ってほしい。ほかの三人はもう安全だから、急ぐ必要はないよ」
「……そうですか」
瀬尾は頷き、制服の袖を整えた。
放送が再び流れた。
『緑色の表示に従ってお進みください』
その声に、瀬尾の肩が小さく跳ねた。
*
前川胡桃が到着した時、待合広場の水はベンチの脚を半分ほど隠していた。
彼女は大きな機材を運び込まなかった。
肩に掛けたケースから小型の測定器を取り出し、榊の端末へ接続する。
「瀬尾さん、少しだけお身体を調べさせてください。痛みのない方法から始めます」
「お願いします」
前川は瀬尾を中心に測定範囲を切り替えた。
画面に淡い身体の輪郭が浮かぶ。心臓の近くに、細い糸を幾重にも編み込んだような影があった。
周囲の組織と境目が曖昧で、普通の機械を埋め込んだ形とは違っていた。
榊が身を乗り出す。
「これ、体の中にあるんですか?」
「はい。外から貼り付けたものではありません」
「病院で入れられるような装置?」
久世の問いに、前川は首を横に振った。
「医療機器として登録されている形ではありません。組織そのものが、別の性質へ変化している部分もあります」
瀬尾の膝から力が抜けかけた。久世が椅子の背を支える。
「それは……病気なんですか」
前川は端末を握り直した。
「今の情報だけでは原因は分かりません。ただ、危険な働きをする構造が含まれています」
「危険って?」
答えるより先に、画面の中央で赤い表示が灯った。
前川は榊へ視線を向ける。榊もその意味を読み取り、唇を結んだ。
「……爆発物に近い反応です」
瀬尾が小さく笑った。聞き間違いを正そうとするような笑いだった。
「何を、言ってるんですか」
「瀬尾さんの身体の中に、爆発を起こす機構が作られています」
前川は言葉を区切った。
「これ以上は専門の医療班と爆発物処理班に調べてもらいます。今は動かないでください」
瀬尾は胸元へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「……僕、今日はずっと、駅にいたんです。どこにも行ってない」
榊は頷いた。
「分かっています。瀬尾さんが何かしたと決めつけているわけではありません」
久世は椅子の横にしゃがんだ。
「俺たちが一緒にいます」
その時、前川の端末が警告音を鳴らした。
非常口の案内表示が緑に変わる。同じ瞬間、瀬尾の身体にある構造も強く反応した。
前川は駅の図面を呼び出し、反応が増した位置を重ねた。
瀬尾が体調を崩した場所は、いずれも駅舎の出口に近い。
「駅から離れようとした時に、反応が強くなっています」
「じゃあ、外に出ると……」
久世の言葉を、前川が引き取った。
「駅の敷地を出た瞬間に、爆発するよう設定されていると考えられます。駅の内側と外側を、何らかの方法で区別しているんです。だから今は、絶対に外へ連れ出してはいけません」
瀬尾は扉を見た。
緑色の出口表示が、何も知らない顔で点滅していた。
*
現地の指揮は榊が引き受けた。
消防は一般人を駅前から遠ざけ、地上の一角を封鎖する。
榊は現場指揮者へ状況を説明し、爆発物処理班と医療班の出動を要請した。
牧野は戻ってくると、瀬尾から十分に距離を置いた場所で待機についた。
「久世さん、ほかの救助者は全員、病院へ運ばれました」
「ありがとう。ここは榊さんたちが調べてる」
「瀬尾さんのことは聞きました。俺は通路を確保します。必要なことがあれば何でも言ってください」
「了解
」
端末を閉じた榊が近づいた。
「久世さんは瀬尾さんのそばにいてください。私は処理班との連絡を続けます」
「榊さんは大丈夫?」
「はい」
返事は短かったが、彼女の指が端末の縁を強く握っていた。
瀬尾は何度も携帯電話の画面を点けていた。母親からの不在着信が並んでいる。
「今日、母が誕生日なんです」
唐突に、瀬尾が言った。
久世が顔を上げる。
「仕事の帰りにケーキを買って帰るって言ってて。少し遅くなるのは連絡したんですけど、こんなに遅くなるとは……」
画面を消すと、瀬尾は指で携帯電話の角をなぞった。
「朝は、すぐ帰るって言ったんです」
「連絡しよう。今、話せるうちに」
呼出音の間、地下では水が流れる音が続いていた。
「もしもし、母さん。ごめん、今日ちょっと帰れなくなって……うん、大丈夫。今、ちゃんと人が来てくれてる」
返ってきた声は聞こえない。
けれど瀬尾の眉がわずかに緩んだ。
「ケーキは……明日、買って帰るから」
彼は電話を切ると、携帯電話を膝の上に置いた。
「すみません」
「謝ることじゃないですよ」
その言葉を遮るように、地下の水が排水溝からあふれた。
*
爆発物処理班と医療班が到着した頃、待合広場は使えなくなっていた。
瀬尾は専門班の監視を受けながら、駅構内の高い位置にある管理室へ移された。
外へ出る扉は使わない。壁を一枚隔てた向こうには夜の道路があるが、窓は閉じられたままだ。
処理班の責任者は榊と前川の記録を一つずつ確認した。
「体内の機構は残っている。だが、爆発を命じる信号がどこから来ているかは、ある程度絞れそうだ」
「駅の案内表示が動くたびに、大きく反応しています」
前川が記録を示した。
「ただ、それとは別に、ごく小さな動きも残っています。まだ説明できません」
責任者は二つの波形を見比べた。
「医療側の計測誤差とも重なっているな。そちらは継続監視しよう。まず、確認できている異常を止める」
医療班の医師が頷く。
「ここでは体内の構造を取り除けません。安全に搬送できる状態を作り、専門設備のある施設へ移す必要があります」
榊は、作業の前に全員の役割を整理した。
消防は周囲の安全確保。
専門班は危険機構の処置。
医療班は瀬尾の容体確認。
第四執行部は状況の共有と通路の維持に回る。
誰も、成功を約束しなかった。
駅の誤った案内放送が止まったのは、その少し後だった。
白い壁から緑色の矢印が消え、続いて通路に残っていたチャイムも鳴らなくなった。
まるで長いあいだ独りで喋り続けていた駅が、ようやく黙ったようだった。
前川の端末から、大きな反応が消えた。
「……止まっています」
榊も自分の画面を見る。
「こちらでも確認できました」
瀬尾は胸に手を当てた。
「音が、しない」
「何の音ですか?」
「耳の中で、ずっと鳴ってたんです。それが……急に静かになって」
処理班は時間を置いて何度も測定した。異常な熱も消え、心拍も落ち着いていた。
専門班の表示から、危険を知らせる赤い項目が一つずつ消えていく。
《起爆反応:検出なし》
《外部信号:停止》
瀬尾が榊を見上げた。
「これで、助かりますか」
「確認できていた危険な反応は止まりました」
榊はそう答えたあと、前川へ視線を向けた。
「ただ、体内の異常が全部消えたわけではありません」
前川は記録に残る細い波を示した。
「この小さな反応だけ、まだ残っています」
「これが爆発につながるものか?」
処理班の責任者が尋ねる。
「分かりません。いまの検査では、心拍の影響と切り分けられなくて」
「記録は残しておこう。搬送先でも調べる必要がある」
外では再び雨が強まっていた。
駅の管理室は浸水こそ免れていたが、停電に備えて使える設備が減り始めている。
医療班は瀬尾の体内の状態が今後変わる可能性を指摘し、専門施設への早い移送を求めた。
残留反応は正体不明だった。それでも、繰り返した検査で強い危険反応は戻らず、医療班と処理班は協議の末、厳重な監視下での移送を認めた。
榊は報告書の一行を読み上げた。
「『現在確認できる起爆反応は停止。ただし、体内に未解明の構造あり』……この条件で、移送するんですね」
「そうだ。安全を保証するという意味ではない。ここに残す危険も含めて判断した」
責任者の答えに、榊は頷いた。
前川は端末を閉じなかった。
波形の下に、ごく薄い線がまだ残っている。
*
駅の地上口には、専用の搬送車が止められていた。
雨は上がっていた。照明に照らされた濡れた石段が、白いガラスのように光っている。
規制線の向こうで、赤い救急灯だけが規則正しく回っていた。
瀬尾は車椅子に乗り、毛布を膝へ掛けていた。
医療班がそばにつき、処理班が搬送路の周囲を再確認している。
榊は通路の端で全体を見守っていた。
「私たちはここまでです。搬送は専門班に引き継ぎます」
久世が頷く。
瀬尾は車椅子から頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「病院でちゃんと診てもらってください」
「はい」
「帰ったら、ケーキも忘れずに」
瀬尾は一瞬きょとんとしたあと、笑った。
「……覚えててくれたんですね」
「さっき聞いたばかりですよ」
「そうでした」
他愛ない会話だった。
ただ、その声には、少し前までの震えがなくなっていた。
牧野が階段の外側から戻ってきた。
「久世さん、搬送路の安全確認が終わりました。あとは処理班の指示で移動します」
「分かった」
瀬尾がもう一度手を上げた。
「皆さんも、気をつけて」
車椅子がゆっくり動き始める。
駅舎の屋根の下を抜ければ、搬送車までは数歩だった。
瀬尾の胸に取り付けられた監視装置は静かなまま。
緑の表示も、警告音もない。
榊の端末には、移送許可を示す文字が残っていた。
その横で前川が、別の画面を開いた。
細い波が、いつもの心拍から外れている。
一度。
もう一度。
わずかなずれが、同じ間隔で続いた。
「……榊さん」
前川が声を上げる。
「この波、さっきと違います」
「どれですか?」
「心拍じゃありません。これ、ずっと――」
前川は顔を上げた。
車椅子の前輪が、駅舎と歩道を分ける石の継ぎ目へ差しかかっている。
「止めてください!」
榊が無線へ手を伸ばす。
「搬送中止! 瀬尾さんを――」
車椅子が、継ぎ目を越えた。
瀬尾は雨上がりの空を見ていた。
「……あ、晴れてる」
白い光が弾けた。
音は、そのあとで来た。
固いものが砕ける音。窓の震える音。誰かが叫び、消防車の警報がそれに重なる。
久世は反射的に前へ出た。目の前を熱い風が過ぎ、足元を何かの破片が跳ねた。
「久世さん、下がってください!」
牧野に腕を掴まれ、壁際へ引き戻される。
「瀬尾さんが!」
「まだ危険です! 専門班に任せてください!」
久世は牧野の肩越しに外を見た。
搬送車の赤い灯りが、白い煙の中で回っていた。
瀬尾がいた場所には、もう車椅子の形がなかった。
*
救助活動は続いた。
近くにいた医療隊員が負傷し、別の搬送車へ運ばれた。
爆発物処理班が周囲の危険を調べ終えるまで、久世たちは規制線の内側へ入れなかった。
やがて医師が出てきた。
その表情を見て、榊は何も尋ねなかった。
「瀬尾さんの死亡を確認しました」
駅の時計が、時刻を知らせる電子音を鳴らした。
少し前まで繰り返していた避難放送とは違い、たった一度だけの短い音だった。
前川は両手で端末を持っていた。爆発の直前に残った波形が、まだ画面に表示されている。
「……消えてなかった」
榊が顔を向ける。
「止められたのは、大きい方の反応だけでした」
「前川さんのせいじゃないです。私も、同じ数字を見ていました」
「でも、記録してたんです。小さい方が分からないって」
前川は画面を閉じようとして、指を止めた。
「分からないまま、外へ出してしまった」
榊は唇を噛んだ。
久世は階段の最後の一段を見つめていた。石の継ぎ目の向こうに、外の夜がある。
さっきまで普通の出口だった場所を、消防隊員が黄色いテープで塞いでいた。
「瀬尾さん、ケーキを買うって言ってた」
誰も返事をしない。
「明日、買って帰るって」
久世の右手が、ゆっくりと握られた。
指の間に雨水が残っている。
牧野が隣に立った。
「久世さん。今は少し、離れましょう」
「……うん」
久世は頷いたが、すぐには歩き出さなかった。
やがて榊が端末を開く。
「現場の記録を、全部残します。何を止められたのか、何が残っていたのか。あとからでも、分かるように」
前川は顔を上げた。
「私も手伝います」
震えていた声が、そこでわずかに形を取り戻した。
改札口の灯りだけが、何事もなかったように点いていた。




