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特殊公安執行局  作者: the 春


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33/49

#33 帰路

 模擬市街区の信号が、赤から青へ変わった。

 久世湊は横断歩道の手前で足を止めた。車の代わりに走ってくるのは、床を滑る訓練用の搬送台だ。

 台上には人形が一体。進路の左側で非常扉が閉まり始め、頭上から退避を促す警報が降ってくる。


「久世さん、右じゃありません。左の通路は使えなくなりました」


 榊美月の声がイヤホンに届いた。


「見えてる。牧野さん、搬送台を止められる?」


「任せてください!」


 牧野征士郎が横手から現れ、搬送台の取っ手を掴んだ。

 車輪が一度跳ねたが、勢いを殺して歩道の縁へ寄せる。

 久世は人形の足元を支え、榊が確保した迂回路へ向きを変えた。

 それで訓練は終わるはずだった。

 警報が途切れ、代わりに短い着信音が三度鳴る。

 榊が端末を開いた。画面を追ううちに、口元から笑みが消えた。


「訓練を中断します。第四執行部に緊急出動要請です」


 牧野が搬送台のブレーキを掛ける。


「どこですか?」


「潮見駅の地下連絡路。排水設備の故障と、非常隔壁の誤作動が同時に発生しています。逃げ遅れた人がいるそうです」


 榊は局内へ応答を送り、二人に向き直った。


「今回は私が現場指揮を担当します。消防が先に到着していますので、合流してから入ります」


「了解」


「久世さんは避難者の確認と誘導をお願いします。牧野は通路の安全確保と、歩けない方の搬送を。私が設備側を見ます」


「分かりました。久世さん、装備を取りに行きましょう」


 牧野の声につられ、久世は訓練用の手袋を外した。

 窓の向こうには、雨が降っていた。

 整った訓練区画の白い床とは違い、現実の道路では水がどこへ流れるかも決まっていない。


 *


 駅前には消防車が二台停まり、黄色い規制線が歩道を横切っていた。

 雨は小降りになっていたが、地下へ続く階段から湿った空気が絶えず噴き上がっている。

 駅員の案内で外へ出た人々が、傘を持つのも忘れて救急隊員に事情を話していた。

 榊は消防の現場指揮者と地図を挟んで向かい合った。


「取り残された方は四人。地下の待合広場で確認されています」


 指揮者が青い線を引いた。

 駅の東口から西側の商業施設へ抜ける連絡路は、途中で非常隔壁に遮られている。


「西側は浸水が進んでいます。東側の隔壁も下りたままで、駅の制御室から開けられません。管理用の細い通路を使えば、広場の裏へ出られるはずです」


「水位は?」


「今のところ広場は足首程度です。ただ、排水が追いつかず、少しずつ上がっています」


 消防隊員の一人が苦い顔をした。


「それと、案内放送が妙なんです。閉まっている西口へ行けと繰り返す。駅側で止めても、しばらくすると戻るんですよ」


 階段の下から、明るい女性の声が聞こえた。


『安全な出口へご案内します。緑色の表示に従ってお進みください』


 間違った道を、少しも迷わず勧める声だった。

 榊は現場指揮者と通信系統を確認し、久世たちへ振り返った。


「通常の浸水事故ではない可能性があります。設備には勝手に触れないでください。まず人を見つけましょう」


「了解」


 牧野が先頭に立ち、懐中電灯を点けた。


「久世さん、足元が滑ります。俺の後ろへ」


「分かった」


 三人は消防隊員とともに、地下へ降りた。


 *


 階段を下りきると、駅の音が変わった。

 地上の雨音は遠ざかり、代わりに水の流れる音が壁の内側から聞こえてくる。

 天井の非常灯が水面に映り、床には青白い光の列ができていた。

 通路の中央には、厚い金属の隔壁が下りている。

 上端の機構が低く唸り、時折、閉まりきった扉をさらに押そうとするような音を立てた。


「これを動かすのは危険っすね」


 牧野が扉の縁を照らした。

 榊は頷いた。


「裏の管理通路から回りましょう。消防の方、そちらは通れますか?」


「先ほど確認しました。途中の扉は手動で開きます」


 狭い通路には配管が幾重にも走っていた。

 ところどころで頭を下げなければならず、靴の底が濡れた鉄板を踏むたび、薄い鈴のような音が続く。

 前方を行く牧野が足を止めた。


「久世さん、ここに段差があります」


「見えた。榊さん、通路の先は?」


「図面では右へ曲がった先です。ただ、映像が取れません。慎重に進みましょう」


 その時、壁の上に緑色の矢印が浮かんだ。

 古い避難図の上を、光だけが左へ滑っていく。

 だが、左の扉には『排水設備室・一般立入禁止』と書かれている。

 久世が光へ手をかざすと、指の影が壁に落ちた。


「投影されてる」


「はい。正規の表示装置ではありません」


 榊は端末で短い記録を取り、消防へ知らせた。


「後で調べます。今は目印にしないでください。地図と実際の扉を確認して進みます」


 牧野は緑の光を横切り、右の管理扉へ手を掛けた。


 *


 扉の向こうから、何かを引きずる音がした。


「聞こえますか! 特殊公安執行局です!」


 久世が呼びかける。


『こっちです! 開けます!』


 家具の脚が床を擦り、扉が少しずつ開いた。

 出迎えたのは、濡れた制服を着た若い駅員だった。

 名札には『瀬尾』とある。額には汗が浮かび、片手で胸元を押さえていた。


「すみません……中に三人います」


 待合広場には、親子と年配の男性がいた。

 女の子は母親にしがみつき、男性は足首を押さえたままベンチに座っている。

 広場の真ん中を、浅い水が静かに横切っていた。


「迎えに来ました。皆さん、出口は別の場所にあります」


 久世の声を聞くと、女の子が顔を上げた。


「緑の矢印の方じゃないの?」


「違うよ。あっちは通れない。俺たちについてきて」


 母親が女の子の背を撫でた。

 牧野は年配の男性へしゃがみ込む。


「足を見せてもらえますか。無理に歩かなくて大丈夫です」


「滑ってしまってね。情けない話だ」


「そんなことありませんよ。こちらで運びます」


 榊が経路を確かめ、指示を出した。


「親子は久世さんと消防の方で先に。牧野さんは負傷者の搬送をお願いします。私は瀬尾さんと後から出ます」


「分かった」


 駅員の瀬尾が頭を下げる。


「僕も手伝います。お客様を先にお願いします」


「瀬尾さんも救助対象です。今は座っていてください」


「でも……」


 返事の途中、瀬尾の顔が歪んだ。

 制服の襟を握った指が震える。息を吸おうとしても、胸の奥で何かにつかえるらしい。


「瀬尾さん?」


 榊が駆け寄る。


「いつから苦しいんですか?」


「つい先ほどからですかね」


 瀬尾は口を押さえ、膝をついた。

 榊は背を支え、携帯式の計測器を起動した。心拍、呼吸、体温。表示された数値は異常なほどではない。だが、その脇に、計測器の目的にない細い波が現れていた。


「……これは」


「榊さん?」


 久世が足を止める。


「久世さんは先に親子をお願いします。こちらは私が見ます」


 久世は瀬尾の様子を確かめ、母親へ手を差し出した。


「行こう。足元に気をつけて」


 広場に、女の子の靴が水を踏む音が響いた。


 *


 親子が地上へ出ると、駅前で待っていた消防隊員が毛布を掛けた。

 久世はすぐに地下へ戻った。途中で、負傷した男性を運ぶ牧野とすれ違う。


「久世さん、年配の方は俺が連れていきます。瀬尾さんのところへお願いします」


「分かった。無理しないで」


「大丈夫です。任せてください」


 待合広場では、瀬尾が壁際の椅子に座っていた。

 榊は携帯端末を何度も見直している。

 緑色の案内灯が点くたび、瀬尾の胸から検出される微弱な反応も大きくなっていた。


「原因は分かった?」


「いいえ。ただ、体調不良だけでは説明できません。駅の設備と、瀬尾さんの身体が反応し合っています」


 榊は久世の目を見た。


「第五執行部の前川さんに応援を要請しました。異常な機材や生体反応の調査に詳しいはず」


「それが良いかも」


「はい。事情を伝えたら、すぐに向かってくださるそうです」


 瀬尾は二人を見上げた。


「……僕、何か変なんですか」


「普通とは違う反応があります」


 榊は目線を合わせて答えた。


「まだ理由が分からないので、少しここで検査を続けさせてください」


「外へ出たら、駄目ですか」


 久世は、地上へ続く管理通路を見た。白い灯りが、途中の曲がり角まで届いている。


「今は待ってほしい。ほかの三人はもう安全だから、急ぐ必要はないよ」


「……そうですか」


 瀬尾は頷き、制服の袖を整えた。

 放送が再び流れた。


『緑色の表示に従ってお進みください』


 その声に、瀬尾の肩が小さく跳ねた。


 *


 前川胡桃が到着した時、待合広場の水はベンチの脚を半分ほど隠していた。

 彼女は大きな機材を運び込まなかった。

 肩に掛けたケースから小型の測定器を取り出し、榊の端末へ接続する。


「瀬尾さん、少しだけお身体を調べさせてください。痛みのない方法から始めます」


「お願いします」


 前川は瀬尾を中心に測定範囲を切り替えた。

 画面に淡い身体の輪郭が浮かぶ。心臓の近くに、細い糸を幾重にも編み込んだような影があった。

 周囲の組織と境目が曖昧で、普通の機械を埋め込んだ形とは違っていた。

 榊が身を乗り出す。


「これ、体の中にあるんですか?」


「はい。外から貼り付けたものではありません」


「病院で入れられるような装置?」


 久世の問いに、前川は首を横に振った。


「医療機器として登録されている形ではありません。組織そのものが、別の性質へ変化している部分もあります」


 瀬尾の膝から力が抜けかけた。久世が椅子の背を支える。


「それは……病気なんですか」


 前川は端末を握り直した。


「今の情報だけでは原因は分かりません。ただ、危険な働きをする構造が含まれています」


「危険って?」


 答えるより先に、画面の中央で赤い表示が灯った。

 前川は榊へ視線を向ける。榊もその意味を読み取り、唇を結んだ。


「……爆発物に近い反応です」


 瀬尾が小さく笑った。聞き間違いを正そうとするような笑いだった。


「何を、言ってるんですか」


「瀬尾さんの身体の中に、爆発を起こす機構が作られています」


 前川は言葉を区切った。


「これ以上は専門の医療班と爆発物処理班に調べてもらいます。今は動かないでください」


 瀬尾は胸元へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。


「……僕、今日はずっと、駅にいたんです。どこにも行ってない」


 榊は頷いた。


「分かっています。瀬尾さんが何かしたと決めつけているわけではありません」


 久世は椅子の横にしゃがんだ。


「俺たちが一緒にいます」


 その時、前川の端末が警告音を鳴らした。

 非常口の案内表示が緑に変わる。同じ瞬間、瀬尾の身体にある構造も強く反応した。

 前川は駅の図面を呼び出し、反応が増した位置を重ねた。

 瀬尾が体調を崩した場所は、いずれも駅舎の出口に近い。


「駅から離れようとした時に、反応が強くなっています」


「じゃあ、外に出ると……」


 久世の言葉を、前川が引き取った。


「駅の敷地を出た瞬間に、爆発するよう設定されていると考えられます。駅の内側と外側を、何らかの方法で区別しているんです。だから今は、絶対に外へ連れ出してはいけません」


 瀬尾は扉を見た。

 緑色の出口表示が、何も知らない顔で点滅していた。


 *


 現地の指揮は榊が引き受けた。

 消防は一般人を駅前から遠ざけ、地上の一角を封鎖する。

 榊は現場指揮者へ状況を説明し、爆発物処理班と医療班の出動を要請した。

 牧野は戻ってくると、瀬尾から十分に距離を置いた場所で待機についた。


「久世さん、ほかの救助者は全員、病院へ運ばれました」


「ありがとう。ここは榊さんたちが調べてる」


「瀬尾さんのことは聞きました。俺は通路を確保します。必要なことがあれば何でも言ってください」


「了解

」

 端末を閉じた榊が近づいた。


「久世さんは瀬尾さんのそばにいてください。私は処理班との連絡を続けます」


「榊さんは大丈夫?」


「はい」


 返事は短かったが、彼女の指が端末の縁を強く握っていた。

 瀬尾は何度も携帯電話の画面を点けていた。母親からの不在着信が並んでいる。


「今日、母が誕生日なんです」


 唐突に、瀬尾が言った。

 久世が顔を上げる。


「仕事の帰りにケーキを買って帰るって言ってて。少し遅くなるのは連絡したんですけど、こんなに遅くなるとは……」


 画面を消すと、瀬尾は指で携帯電話の角をなぞった。


「朝は、すぐ帰るって言ったんです」


「連絡しよう。今、話せるうちに」


 呼出音の間、地下では水が流れる音が続いていた。


「もしもし、母さん。ごめん、今日ちょっと帰れなくなって……うん、大丈夫。今、ちゃんと人が来てくれてる」


 返ってきた声は聞こえない。

 けれど瀬尾の眉がわずかに緩んだ。


「ケーキは……明日、買って帰るから」


 彼は電話を切ると、携帯電話を膝の上に置いた。


「すみません」


「謝ることじゃないですよ」


 その言葉を遮るように、地下の水が排水溝からあふれた。


 *


 爆発物処理班と医療班が到着した頃、待合広場は使えなくなっていた。

 瀬尾は専門班の監視を受けながら、駅構内の高い位置にある管理室へ移された。

 外へ出る扉は使わない。壁を一枚隔てた向こうには夜の道路があるが、窓は閉じられたままだ。

 処理班の責任者は榊と前川の記録を一つずつ確認した。


「体内の機構は残っている。だが、爆発を命じる信号がどこから来ているかは、ある程度絞れそうだ」


「駅の案内表示が動くたびに、大きく反応しています」


 前川が記録を示した。


「ただ、それとは別に、ごく小さな動きも残っています。まだ説明できません」


 責任者は二つの波形を見比べた。


「医療側の計測誤差とも重なっているな。そちらは継続監視しよう。まず、確認できている異常を止める」


 医療班の医師が頷く。


「ここでは体内の構造を取り除けません。安全に搬送できる状態を作り、専門設備のある施設へ移す必要があります」


 榊は、作業の前に全員の役割を整理した。

 消防は周囲の安全確保。

 専門班は危険機構の処置。

 医療班は瀬尾の容体確認。

 第四執行部は状況の共有と通路の維持に回る。

 誰も、成功を約束しなかった。

 駅の誤った案内放送が止まったのは、その少し後だった。

 白い壁から緑色の矢印が消え、続いて通路に残っていたチャイムも鳴らなくなった。

 まるで長いあいだ独りで喋り続けていた駅が、ようやく黙ったようだった。

 前川の端末から、大きな反応が消えた。


「……止まっています」


 榊も自分の画面を見る。


「こちらでも確認できました」


 瀬尾は胸に手を当てた。


「音が、しない」


「何の音ですか?」


「耳の中で、ずっと鳴ってたんです。それが……急に静かになって」


 処理班は時間を置いて何度も測定した。異常な熱も消え、心拍も落ち着いていた。

 専門班の表示から、危険を知らせる赤い項目が一つずつ消えていく。


 《起爆反応:検出なし》

 《外部信号:停止》


 瀬尾が榊を見上げた。


「これで、助かりますか」


「確認できていた危険な反応は止まりました」


 榊はそう答えたあと、前川へ視線を向けた。


「ただ、体内の異常が全部消えたわけではありません」


 前川は記録に残る細い波を示した。


「この小さな反応だけ、まだ残っています」


「これが爆発につながるものか?」


 処理班の責任者が尋ねる。


「分かりません。いまの検査では、心拍の影響と切り分けられなくて」


「記録は残しておこう。搬送先でも調べる必要がある」


 外では再び雨が強まっていた。

 駅の管理室は浸水こそ免れていたが、停電に備えて使える設備が減り始めている。

 医療班は瀬尾の体内の状態が今後変わる可能性を指摘し、専門施設への早い移送を求めた。

 残留反応は正体不明だった。それでも、繰り返した検査で強い危険反応は戻らず、医療班と処理班は協議の末、厳重な監視下での移送を認めた。

 榊は報告書の一行を読み上げた。


「『現在確認できる起爆反応は停止。ただし、体内に未解明の構造あり』……この条件で、移送するんですね」


「そうだ。安全を保証するという意味ではない。ここに残す危険も含めて判断した」


 責任者の答えに、榊は頷いた。

 前川は端末を閉じなかった。

 波形の下に、ごく薄い線がまだ残っている。


 *


 駅の地上口には、専用の搬送車が止められていた。

 雨は上がっていた。照明に照らされた濡れた石段が、白いガラスのように光っている。

 規制線の向こうで、赤い救急灯だけが規則正しく回っていた。

 瀬尾は車椅子に乗り、毛布を膝へ掛けていた。

 医療班がそばにつき、処理班が搬送路の周囲を再確認している。

 榊は通路の端で全体を見守っていた。


「私たちはここまでです。搬送は専門班に引き継ぎます」


 久世が頷く。

 瀬尾は車椅子から頭を下げた。


「本当に、ありがとうございました」


「病院でちゃんと診てもらってください」


「はい」


「帰ったら、ケーキも忘れずに」


 瀬尾は一瞬きょとんとしたあと、笑った。


「……覚えててくれたんですね」


「さっき聞いたばかりですよ」


「そうでした」


 他愛ない会話だった。

 ただ、その声には、少し前までの震えがなくなっていた。

 牧野が階段の外側から戻ってきた。


「久世さん、搬送路の安全確認が終わりました。あとは処理班の指示で移動します」


「分かった」


 瀬尾がもう一度手を上げた。


「皆さんも、気をつけて」


 車椅子がゆっくり動き始める。

 駅舎の屋根の下を抜ければ、搬送車までは数歩だった。

 瀬尾の胸に取り付けられた監視装置は静かなまま。

 緑の表示も、警告音もない。

 榊の端末には、移送許可を示す文字が残っていた。

 その横で前川が、別の画面を開いた。


 細い波が、いつもの心拍から外れている。


 一度。


 もう一度。


 わずかなずれが、同じ間隔で続いた。


「……榊さん」


 前川が声を上げる。


「この波、さっきと違います」


「どれですか?」


「心拍じゃありません。これ、ずっと――」


 前川は顔を上げた。

 車椅子の前輪が、駅舎と歩道を分ける石の継ぎ目へ差しかかっている。


「止めてください!」


 榊が無線へ手を伸ばす。


「搬送中止! 瀬尾さんを――」


 車椅子が、継ぎ目を越えた。

 瀬尾は雨上がりの空を見ていた。


「……あ、晴れてる」


 白い光が弾けた。


 音は、そのあとで来た。


 固いものが砕ける音。窓の震える音。誰かが叫び、消防車の警報がそれに重なる。


 久世は反射的に前へ出た。目の前を熱い風が過ぎ、足元を何かの破片が跳ねた。


「久世さん、下がってください!」


 牧野に腕を掴まれ、壁際へ引き戻される。


「瀬尾さんが!」


「まだ危険です! 専門班に任せてください!」


 久世は牧野の肩越しに外を見た。

 搬送車の赤い灯りが、白い煙の中で回っていた。

 瀬尾がいた場所には、もう車椅子の形がなかった。


 *


 救助活動は続いた。

 近くにいた医療隊員が負傷し、別の搬送車へ運ばれた。

 爆発物処理班が周囲の危険を調べ終えるまで、久世たちは規制線の内側へ入れなかった。

 やがて医師が出てきた。

 その表情を見て、榊は何も尋ねなかった。


「瀬尾さんの死亡を確認しました」


 駅の時計が、時刻を知らせる電子音を鳴らした。

 少し前まで繰り返していた避難放送とは違い、たった一度だけの短い音だった。

 前川は両手で端末を持っていた。爆発の直前に残った波形が、まだ画面に表示されている。


「……消えてなかった」


 榊が顔を向ける。


「止められたのは、大きい方の反応だけでした」


「前川さんのせいじゃないです。私も、同じ数字を見ていました」


「でも、記録してたんです。小さい方が分からないって」


 前川は画面を閉じようとして、指を止めた。


「分からないまま、外へ出してしまった」


 榊は唇を噛んだ。

 久世は階段の最後の一段を見つめていた。石の継ぎ目の向こうに、外の夜がある。

 さっきまで普通の出口だった場所を、消防隊員が黄色いテープで塞いでいた。


「瀬尾さん、ケーキを買うって言ってた」


 誰も返事をしない。


「明日、買って帰るって」


 久世の右手が、ゆっくりと握られた。

 指の間に雨水が残っている。

 牧野が隣に立った。


「久世さん。今は少し、離れましょう」


「……うん」


 久世は頷いたが、すぐには歩き出さなかった。

 やがて榊が端末を開く。


「現場の記録を、全部残します。何を止められたのか、何が残っていたのか。あとからでも、分かるように」


 前川は顔を上げた。


「私も手伝います」


 震えていた声が、そこでわずかに形を取り戻した。

 改札口の灯りだけが、何事もなかったように点いていた。

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