#32 訓練
午後の訓練区画には、三種類の警告音が順番に響いていた。
久世は腕の回復を待つ間久我に同行し、他の選抜者が受けていた最終確認を見学することになった。
見学席は各区画と遮音ガラスで隔てられ、音声だけが天井の小さなスピーカーから届く。
最初は新井香だった。
新井のいる指揮室には、窓がない。
机の前に三つの映像が並び、左は非常階段、中央は広間、右は避難用通路を映している。
『広間に避難者三十二名。軽傷者二名。誘導可能です』
第一班からの報告が入り、新井は指を二本立てた。
「第一班は広間で待機。人数をもう一度数えて。第二班、東側階段を見に行って。通れるかだけ教えて」
『第二班、了解』
右の画面で二人の隊員役が走る。壁の非常灯が一つずつ視界の外へ消えていった。
『東側階段、煙あり。足元は見えます』
「通過可能か、まだ分からない。煙の流れてくる向きは?」
『上からです。下階の視界は良好』
新井は地図を拡大した。
「第一班、東側へ動かす準備を――」
言葉が終わるより先に、中央の映像が揺れた。
訓練用の衝撃音。広間にいた避難者役が身を屈め、悲鳴を上げる。
天井のスピーカーがざらつき、第一班の声は途切れた。
『……階段……閉鎖……!』
「どっちの階段?」
返答はない。
新井は通信切替を押した。
「第一班、聞こえたら一回押して。話せるなら、閉まった階段の名前だけ教えて」
短い電子音が返る。
『西側。西側が閉鎖。人は動かしていません』
「了解。まだ動かさないで」
東側の映像では、第二班が踊り場で立ち止まっていた。
『このまま降りれば出口へ抜けられます。誘導を開始しますか』
新井が口を開きかける。
その時、右の画面に小さな影が映った。階段の上から、煙とは反対方向へ走ってくる隊員役だった。
『上階に取り残された四名を確認! 歩けない人がいます!』
新井の指が止まった。
第一班を動かせば、階段は三十二名で埋まる。第二班を上へ向かわせれば、広間の誘導が遅れる。
「第二班、上階の四名を東側の踊り場で保護。階下へ動かさないで。第一班は広間の人を二列にして待機」
『避難を始めなくていいんですか』
「まだ。東側階段の幅を教えて。担架は通る?」
『手すりの間が狭いです。担架を水平には運べません』
「分かった」
新井は数秒だけ目を閉じ、すぐに開いた。
「第一班、軽傷者二名を先頭。歩ける人は順番に東側へ。第二班、上階の四名は動かさず、安全を確保して。搬送要員を手配する」
『第一班、了解!』
画面の人影が動き始めた。列は一度長く伸び、角を曲がると折り畳まれた布のように整った。
最後の人影が非常口を抜けるまで、新井は声を荒らげなかった。
終了音が鳴る。
《避難完了:32名》
《上階保護:4名》
《負傷拡大:0》
避難者全員を外へ出せたわけではない。
けれど、上階の四名は安全な場所で確保され、必要な搬送情報も後続へ渡されていた。
新井が椅子の背へ寄りかかる。
「……途中、東側に流しかけた」
久我の声が指揮室へ届いた。
『そうだ。通路の幅も確認せず、避難指示を出しかけた』
「はい」
『だが、言い直せた。四名を置いていく理由も説明できている』
新井はしばらく画面を見つめた。
「後から聞かれたら、待たせた理由をちゃんと答えます」
『それができるならいい。次は最初の一言から頼む』
通信が切れたあと、新井は頬を膨らませた。
「厳しいなあ、ほんと」
見学席の久世と目が合うと、すぐに苦笑へ変わる。
*
鳴海冬真の区画は、照明の半分が落とされていた。
倉庫を模した室内では、金属棚が斜めに倒れ、荷物の隙間から白い訓練用の煙が這い出している。
その向こうに、負傷者役の人形が横たわっていた。
鳴海は入口で一度だけ膝を曲げ、通路を覗き込んだ。
正面には武装した標的。壁の反対側には、幅の狭い搬送路がある。
『訓練開始』
乾いた発射音が鳴った。
鳴海は身を低くし、棚の脚を遮蔽物に使って標的の死角へ回り込む。
上体を起こした標的の腕を、肘から外側へ流し、足首を払った。
床へ落ちた訓練用拳銃が、棚の下で跳ねる。
鳴海は相手の手首を固定し、拘束具を掛けた。
無駄のない動きだった。
『標的、制圧』
続いて後続班から通信が入る。
『担架搬入。入口を確保してください』
「待って」
鳴海が初めて声を出した。
担架が入り口の枠に差し掛かる。鳴海は床の印と倒れた棚の位置を見比べた。
「そのままでは通れない」
『経路を変えますか』
「いや。少し待って」
鳴海は人形の傍らへ行き、傾いた棚の支点を確かめた。
強引に持ち上げれば、上に載った箱が崩れ落ちる。
しかも棚は、標的を拘束している場所との間にあり、動かす方向を誤れば通路を塞ぐ。
鳴海は棚の底に残った車輪を見つけた。
「後続、入口で止まって。上の箱に触れないで」
身を屈め、棚の脚をゆっくり回す。金属が床を擦る音が伸びた。
棚はわずかに向きを変え、片方の端が壁へ近づく。
『そっちから支えます』
「右側だけ。左は動かさないで」
二人が支えると、棚の下に細い通路が生まれた。
鳴海は自分の肩幅を使って隙間を測り、続いて担架の幅を確かめた。まだ足りない。
「あと少し」
車輪が床の溝を乗り越え、かすかな音を立てた。
通路が開く。
後続班が人形へ到達すると、鳴海はその頭側に回った。
搬送時には先頭を取らず、もっとも狭い場所へ戻って棚を押さえた。
『搬送完了』
訓練終了の表示が点灯した。
鳴海は額の汗を拭ったあと、拘束した標的の位置をもう一度確認する。
見学席へ戻った久我が告げた。
「制圧は速い。だが、最初の進入経路を選ぶ時、帰りの担架幅まで見ていなかった」
「はい」
「気づいてから直せたのはいい。実戦なら、あの時間も負傷者には長い」
「次は、入口から測ります」
鳴海の返事は短かった。
隣にいた久世が言う。
「棚を全部どかさなかったのは、どうしてですか」
「倒すと、余計に塞ぐ。動かす場所だけ動かした」
鳴海は棚へ一度だけ目を向ける。
「最初にそれが分かってれば、もっと早かった」
褒められた直後にもかかわらず、その声には小さな悔しさが残っていた。
*
最後は前川胡桃だった。
透明な隔壁の向こうには、三日間で何度も見慣れた機材が据えられている。
作業台、記録端末、持ち運び用の測定器。
入口から退避口までは二枚の扉があり、その間に警告灯が一つずつ取り付けられていた。
『調査対象は、由来不明の電力制御装置。持ち帰れる情報を記録してください』
久我の指示に、前川は頷いた。
装置の外装へ計測器を近づけ、熱分布を記録する。
接続端子は左右で形が違い、固定具の一部には交換の痕跡があった。
「主電源には触れません。先に、外から読める範囲を確認します」
監督員が護衛役の退室を告げた。
前川は一瞬だけそちらを見たものの、手を止めなかった。
電源系統の記録を保存。装置に触れずに見える番号を撮影。
交換した部品の位置を図面へ書き込み、説明できない端子には小さな印をつける。
部屋の照明が一段暗くなった。
『警告。設備異常を検知。一次隔壁、閉鎖準備』
前川は退避口を見た。
まだ扉は開いている。追加の操作をすれば、内部の記録をもう一つ取得できる。
手にしていた測定器には、抽出までの残り時間が表示されていた。
《DATA EXTRACTION:00:28》
廊下側の表示が変わる。
《DOOR LOCK:00:20》
二十秒。
前川は接続を外した。
「調査を中断します」
『理由を』
「抽出が終わる前に、退避口が閉まります。戻る経路を確保できません」
『必要な記録です。途中までのデータでも持ち帰れませんか』
「できません。今ある分を先に守ります」
端末を胸元へ寄せ、工具箱を閉じる。
奥の機材に取り付けた測定器は残したまま、作業台から離れた。
第一の扉を抜ける。
背後で施錠音が響いた。
続いて、第二の扉。
通過した直後、隔壁の表示が赤へ変わる。
《AREA ISOLATED》
前川は息を整え、所持品を確認した。端末、記録媒体、撮影した図面。測定器一台が足りない。
報告画面へ、未回収の機材を記入する。
続いて、その下に一行を加えた。
《未確認事項:内部電源の接続先》
監督員が記録を受け取った。
「中へ戻れるなら、続きを調べますか」
「安全が確認できて、別の人と一緒に入れるなら」
「一人では?」
「戻りません」
前川は顔を上げた。
「まだ確かめられていないことがあるので、一人で行っても同じところで止まると思います」
久我は扉の向こうを見た。
「どこまで分かった」
「外装の交換箇所と、主電源に触れない範囲の回路配置です。異常の原因は特定できていません」
「では、失敗か?」
前川の視線が、自分の端末へ落ちる。
記録には空白があった。埋められたはずの欄も、まだいくつか残っている。
「……全部はできませんでした」
久我は続きを待った。
「でも、次に入る人は、最初から調べなくて済みます。少なくとも、触れていい場所と駄目な場所は伝えられます」
「それでいい」
前川は目を瞬いた。
「持ち帰った情報が、次の人を危険にさらさない。今回はそれを見た」
久我は手元の記録へ目を落とした。
「ただし、残した測定器の位置はもっと正確に書け。知らずに回収しようとする者が出る」
「はい。修正します」
前川はすぐに図面を開いた。
細いペン先が作業台の脇へ印を置き、その周囲へ注意書きを増やしていく。
久世は彼女の端末を覗き込みかけ、思い直して一歩退いた。
今は、その空白を埋める仕事を邪魔するべきではなかった。
*
全員が戻った頃には、訓練区画の照明が夕方の設定へ切り替わっていた。
見学席の窓の向こうで、模擬市街区が薄い橙に染まる。
ガラスへ映り込んだ四人の姿が、遠くの建物と重なった。
新井は首を回しながら椅子へ座り、前川は膝の上で報告を仕上げている。
鳴海は腕を組み、静かに立っていた。
「で、久世は?」
新井が口火を切った。
「出たんだって?」
久世が榊を見る。榊は困ったように笑った。
「訓練結果の概要は、選抜者間で共有されています。詳細な計測記録は別ですけど」
「一回だけです」
「一回でもすごいじゃない。あれ、最初は出せなかったんでしょ」
「まだ、できるとは言えない」
「慎重だねえ」
新井の声に鳴海が反応した。
「いいことだ」
「はい」
「出したあと、腕に痛みが残ったんだろう」
久世は頷いた。
「少しだけです。今はほとんど」
「なら、無理しない方がいい」
前川が報告を保存し、ようやく顔を上げた。
「久世さん、軌道を変えたんですよね」
「うん」
「もし、同じだけの力があっても、正面から止めていたら違う結果だったかもしれません」
「……そうだね」
前川はそれ以上、能力について尋ねなかった。
代わりに、先ほどの報告に抜けがないかを確認している。
久我が四人の前に立つ。
「評価結果は、各所属に正式に送る。ここでは一点だけ伝える」
室内が静かになった。
「新井は、動かす前に確かめた。鳴海は、通れるように作り直した。前川は、戻れなくなる前に引いた。久世は、止める以外の方法を選んだ」
久我が画面を切り替える。
そこには四人の得点ではなく、それぞれの課題で最後に残った図面だけが並んだ。
開かれた階段。ずらした棚。閉じた隔壁。二本に分かれた軌道。
「今までの仕事なら、誰かが補ってくれたかもしれない。だが、現場では、その誰かが来られないこともある」
久我は新井から順に視線を移した。
「できなかったところは、それぞれ違う。後で記録を読め。次に同じ場所へ立った時、同じ失敗をしなければいい」
説明はそれで終わった。
端末が一斉に震え、個別訓練の終了通知が届く。
連日、閉じた扉の向こうで続いていた機械音が、少しずつ消えていった。
久世は自分の記録を開いた。
《ORION:発動確認》
《再現条件:未確定》
《連続使用:未検証》
《使用許可:保留》
確かになったことより、空欄の方が多い。
その横で、新井が前川に何かを尋ね、鳴海が短く答えた。
違う部署から集められた四人の声が、ようやく同じ部屋の中で重なる。
久世は表示を閉じた。
掌を開いても、巨大な輪郭は現れない。
*
夜の海が、埠頭の灯りを細長く引き延ばしていた。
窓のない部屋では、海の音さえ聞こえない。
天井の送風機が同じ高さで唸り続け、壁面の記録装置は青白い光を床へ落としている。
蓮見は、停止した映像の前に立っていた。
崩れかけた隔壁。その向こうで、青年が右手を握る。映像はそこで途切れている。
「相変わらず、肝心なところが見えませんねえ」
背後の扉が開いた。
「記録にないものは、見えません」
振り返るより早く、蓮見は笑った。
「おや、誰かと思えばあなたでしたか。メタトロン」
「あなたが呼び出したのでしょう」
「ええ。ですが、呼べば必ず来る方でもありませんから」
メタトロンは机に置かれた装置の残骸へ目を向けた。
細長い金属片と、焼けた基板。蓮見が別件の研究から持ち込んだものだった。
「ヘルメスの修復は終わったはずです」
「終わりましたよ。これは別の玩具です」
「局との接触に使うつもりなら、やめてください」
「まだ何も言っていませんが」
「あなたは、興味を持った相手に近づきすぎる」
蓮見は小さく肩をすくめた。
「では、近づかなければよろしいのでしょう。離れた場所から眺めるだけなら」
「観測することと、干渉することは違います」
「境目は、案外曖昧なものですよ」
メタトロンは答えず、記録を閉じた。
暗くなった壁面へ、短い認証文字が浮かぶ。
《LIMEN》
蓮見がその文字を見上げる。指先が端末へ伸びたが、メタトロンが先に画面を消した。
「許可された範囲を越えないでください」
「その線を引いたのは、誰なんでしょうね」
「あなたが知る必要はありません」
電子音が一度だけ鳴り、扉が閉じた。
蓮見は黒い画面に映る自分の顔を眺めた。そこにはもう青年の姿も、組織の名もなかった。
「……つれない方だ」
机上の焼けた基板を裏返す。
失われた回路の先へ、細い金色の線が何本も伸びていた。




