#31 新たな力
前川と商店街を歩いた日から七日。
夏季休暇を終えて通常勤務へ戻った翌朝、久世は訓練区画へ続く廊下にいた。
空調の風に、乾ききらない塗料の匂いが混じっている。増設された認証扉の周囲だけが白く、古い壁との境目には細い筋が残っていた。傷を塞ぐ手は早かったが、その跡を馴染ませる時間までは足りなかったらしい。
久世は身分証をかざし、装備ケースを読み取り台へ置いた。
照合を待つ間、小窓の向こうへ目を向ける。以前は見通せた通路が隔壁で分断され、奥の様子は分からなくなっていた。
執行試験の再日程は、まだ通知されていない。
施設の復旧と並行して、警備体制と人員配置の見直しが続いていた。何者が、何を求めて侵入したのか。答えのない問いを残したまま、局は再び人を集める準備を進めている。
表示が緑へ変わり、扉が開いた。
「久世も、呼ばれたんだ?」
「はい」
「私もさっき通ったところ。前より厳重になってるね」
その視線は、久世の背後で閉じる扉へ移った。施錠音を聞き届けてから、新井は区画の奥を示した。
「呼ばれたのは私たちだけじゃないっぽい」
鳴海は長椅子の前で訓練用の装備を点検していた。留め具の噛み合わせを指で確かめ、済んだものからケースへ戻していく。
「おはようございます」
久世が声をかけると、鳴海は顔を上げた。
「おはよう」
短く応じ、隣に置いていたケースを足元へ寄せる。
空いた場所に久世が荷物を下ろすと、鳴海は最後の留め具を閉じた。
前川は透明な隔壁の傍らに立ち、向こう側の設備を見ていた。
久世に気づくと会釈したが、その目はすぐに床へ走る配線と、区画の端にある扉へ戻った。
「何か気になる?」
「作業台から退避口まで、随分遠いんです」
前川が示した先には、危険機材を扱うための台が置かれていた。
そこへ辿り着くまでに、二枚の扉を通らなければならない。
「調べる人が、いちばん奥に入る配置になっています。途中で扉が閉じたら……」
「戻れなくなる」
「はい。どこで作業を諦めるかも、見られるのかもしれません」
久世は配置を見直した。
入口から眺めるだけなら整然とした部屋だった。
それが、奥から戻る自分を想像した途端、通路の幅まで違って見えた。
背後で扉が開き、二人は振り返った。
入ってきた人物を見て、新井が端末を下ろした。鳴海も点検を終え、静かに立ち上がる。
特殊対応群、特殊部隊第四班の久我静。
久我は四人の顔と携行装備を順に確かめ、壁面の操作盤へ向かった。誰かが姿勢を正すのを待つことも、声を張って注意を集めることもなかった。画面が点灯する頃には、四人ともその前へ集まっていた。
「今回の訓練を担当する久我だ。これまでの任務記録には目を通している。所属先の上長からも、話を聞かせてもらった」
画面に四人の名前が並んだ。
第四執行部の久世と鳴海、第二執行部の新井、第五執行部の前川。
「第一から第五まで、直近の活動を見直した。成績上位者の中から、今回の訓練を受けてもらいたい四人を選んでいる」
「合同試験とは、別ですか」
新井が尋ねると、久我は頷いた。
「別だ。再試験の日程はまだ調整している。ただ、その間にも現場へ出てもらうことはある。必要な訓練は、先に進める」
名簿の隣に、訓練区画の図面が表示された。
前川は自分の名前と、隔壁の向こうの作業台を見比べた。久我は四人へ視線を戻し、続けた。
「戦闘の成績だけで選んだわけではない。救助も、捜査も、機材の調査も見ている。それぞれ、任されている仕事で成果を上げてきた」
前川が抱えていた端末を僅かに下げた。
「これまでの任務で、誰かに助けられた場面を思い出してほしい」
榊の誘導、牧野の制圧、御堂の判断。装備の性能もあれば、偶然開いていた経路もある。
自分一人の動作を切り出しても、そこへ至る道筋までは説明できなかった。
「その人がいなかったら、という訓練ですか」
新井の問いに、久我は図面の一部を消した。通路の先に表示されていた支援要員の印がなくなる。
「そうだ。護衛が来られない。連絡が途切れる。戻るはずだった道が塞がる。そうなった時、どう動くかを見せてもらう」
久我の指が、消えた印の手前で止まった。
「我々も、呼ばれてすぐに着けるとは限らない」
平坦な声だった。その先を急がない僅かな間に、久世は、到着を待っていた誰かの姿を思った。
「到着するまでに、連れ出してもらわなければならない人もいる。救援を待つか、自分で動くか。その判断も含めて訓練する」
新井の名前の横に、三つの部屋が映った。
階段、通路、人の集まる広間。それぞれに小さな隊員の印がある。
「新井は、ここから避難の指示を出す。使える班は二つ。自分で現場を見に行くことはできない」
「報告を聞いて、動かすんですね」
「ただし、欲しい情報が全部届くとは限らない。足りなければ聞いてくれ。分からないまま動かすか、確認を待つかも任せる」
新井は三つの画面を順に見た。
「忙しくなりそうですね」
「困った時ほど、指示は短く頼む」
新井の口元が僅かに緩み、すぐに図面へ戻った。
鳴海の欄には、倒れた棚の奥に武装した標的と、負傷者役の人形が示された。
「鳴海は、奥の相手を制圧して負傷者を運び出す。後続が担架を持って入る」
「相手を倒しても、終わりじゃない」
「そうだ。君一人なら抜けられる隙間でも、担架は通らない。帰り道まで考えて動いてくれ」
鳴海は頷いた。その視線は標的を離れ、入口から負傷者までの床を辿っていた。
前川の課題が表示されると、画面には先ほど見ていた作業台が現れた。
「前川は、この機材を調べる。途中で護衛が離れるので、そのあとは自分で引き上げる時を決めてもらう」
「調査が終わっていなくても、ですか」
「終わるまで待てない状況も用意してある。持ち帰れるものを選んでくれ」
前川が端末に書き込むのを待ち、久我は続けた。
「戻ったら、分かったことと、調べられなかったことの両方を報告する。次に入る者が、君の続きを引き受けられるように」
「はい」
前川は短い覚え書きを加えた。画面を閉じる前に、退避口の位置をもう一度確かめている。
最後に、久世の課題が拡大された。
《特殊機能発現過程の検証》
《ORION》
右手の指が、ゆっくりと掌へ収まった。
見覚えのある文字だった。自分の視界に現れ、自分の右腕から生まれた力に付いていた名前。それでも、こうして画面へ移されると、自分だけが説明を受けていない装備のように見えた。
「久世。今、出そうと思って出せるか」
「できません」
「分かった。まずは、そこからだ」
久我は久世の右手から顔へ視線を上げた。
「技術担当が止めたら、そこで終えること。何か起きた時ほど、もう一度試したくなる。その一回は、腕の状態を確かめてからだ」
久世が頷くと、久我は画面を閉じた。
「各区画へ移動。最初は、普段どおりにやってもらう」
*
検証区画の扉を抜けると、久世は見覚えのある後ろ姿に足を止めた。
中央の計測台で機材を整えていた榊美月が、その気配に振り返る。傍らには第三執行部の東条亮介がおり、複数の記録を表示した端末を前に、忙しなく指を動かしていた。
「榊さんも、ここに?」
「はい。久世さんのAOFを管理しているのは私ですから。今日もよろしくお願いします」
いつもの調子で答える榊の姿に、久世は幾分肩の力が抜けるのを感じた。
しかし東条までいることは予想していなかったらしく、その視線が自然と操作卓へ向かう。
「東条さんも?」
「お前の腕を調べられる機会なんて滅多にないからな。今日は楽しみにしてたんだ」
「……そうですか」
「その反応、もうちょっと何かないのか」
東条は不満そうに口を曲げたが、すぐに手元の記録へ意識を戻した。
榊が小さく笑い、久世を計測台へ案内する。
区画の奥では九条紗良が負荷装置を点検しており、
その隣で久我静が停止機構の最終確認を行っていた。
見知った顔が揃っていることは心強かったが、それだけ自分の右腕が局内で関心を集めているのだと思うと、落ち着かない気持ちもあった。
榊が右腕へ計測器を取り付ける間、久世は正面に設置された金属製の直方体を眺めていた。天井から伸びる支持装置によって固定されたそれは、動力を与えれば任意の方向へ移動し、受け止める側に加わる荷重を再現できる仕組みらしい。
その重量を実際に身体で支えるわけではないと説明され、久世は頷いた。
過去に《ORION》が現れた時、右腕には巨大な何かが重なり、自分では到底受け止められない衝撃を退けていた。その現象を調べるため、研究担当者たちは発動前後の神経信号や装備の出力、身体に掛かっていた負荷を細かく比較していたが、肝心の起動条件は依然として分かっていない。
久世自身、あの感覚を忘れたわけではなかった。
ただ、思い出せることと再現できることは、驚くほど遠く隔たっていた。
検証は通常の筋活動計測から始まり、腕の角度や負荷を変えながら段階的に進められた。久世が身体を動かすたびに榊がAOFの同期状態を確かめ、東条が過去の発動記録と比較する。九条は身体への負担が安全域に収まっていることを確認し、久我は試験の進行を監督していた。
時間だけが過ぎていった。
久世は指示された動作を正確に繰り返したものの、右腕に異常な反応が現れることはなかった。負荷を強めても結果は変わらず、過去の発動時に近い姿勢を作ってみても、AOFは通常の制御を維持したままだった。
幾度目かの計測を終えたところで、榊が装置を停止させた。
「少し休憩しましょう。久世さん、右腕に違和感はありませんか?」
「大丈夫。何も感じない」
久世の返答を受け、榊は計測結果へ視線を戻した。
東条は過去の映像を繰り返し確認していたが、やがて画面を拡大し、落下した鋼材の動きを追い始めた。映像には所々で欠損が生じており、発動の瞬間を正確に捉えることはできないものの、鋼材が久世の右腕へ接近した直後、不自然に軌道を変えていることだけは読み取れた。
その変化を東条が指摘すると、榊も身を寄せた。
「止まったわけじゃないんですね」
「そう。落下速度は一度鈍ってるが、その後は横へ流れてる。力そのものが消えたわけじゃない」
東条は映像の一部を停止させ、鋼材が移動した方向へ細い線を引いた。
久世も画面を覗き込んだ。
そこには、あの日の自分がいた。
逃げ遅れた職員を庇い、落下してくる鋼材へ右腕を差し出している。映像の中の自分は何かを考える余裕もなかったはずなのに、今こうして眺めると、あの時の動作には奇妙なほど迷いがない。
久世は右手を開き、掌へ視線を落とした。
これまで自分は、あの鋼材を受け止めたのだと思っていた。
だから訓練でも、重いものを支える姿勢を作り、正面から加わる力に抵抗しようとしていた。
しかし映像の中では、鋼材は止まっていない。
人のいない方向へ倒れている。
その違いが、久世の中に小さな引っ掛かりを残した。
*
検証を含めた訓練二日目。
久世は計測台から少し離れた椅子へ腰を下ろした。
榊たちは記録を調べ直しており、操作卓の上では数本の波形が重なったり離れたりしている。そこに自分の身体の動きが細かく刻まれているのだと思うと、何とも不思議な気分だった。
右手を握り、ゆっくり開く。
何も変わらない。
以前にも、似たような行き詰まりを感じたことがあった。
まだAOFの扱いに慣れていなかった頃、久世は自分の姿をいかに完全に隠すか、そればかりを考えていた。輪郭を消し、音を抑え、周囲から存在を悟られないようにする。そのための技術なのだから、考え方としては間違っていなかったはずだ。
けれど、ある男は違う角度から物事を見ていた。
完全に姿を消すのではなく、周囲に馴染ませる。
そこにいても、相手が不自然だと感じなければいい。
難しい理屈ではなかった。言われてみれば当たり前のことで、だからこそ、それまで自分が一度も考えなかったことに驚いた。
久世はその時の感覚を思い返しながら、視線を上げた。
正面では金属製の直方体が静止している。
止めること、押し返すこと。
自分はその二つを、疑うことなく目的にしていた。
だが、もし目的が違うとしたら。
あの日、自分が守ろうとしたのは鋼材の落下を止めることではない。
その下に取り残された職員が、傷つかずに済むことだった。
そのためには、鋼材を受け止め続ける必要などなかったのかもしれない。
久世は立ち上がり、まだ画面を確認していた東条へ歩み寄った。
「東条さん」
「どうした?」
「次は、止めない方法を試したいです」
東条の指が止まった。
久世は画面に映る鋼材を示し、落下する力を正面から受けるのではなく、その進路を変えることを考えてみたいと伝えた。
東条はすぐには答えず、もう一度だけ映像を再生した。
その横で榊が久世の右腕を見たあと、記録へ視線を移す。
やがて東条が、画面の上に引かれていた力の方向を示す線を消し、新たな線を斜めへ描き直した。
「……なるほど。そっちはまだ試してないな」
榊も小さく頷いた。
「検証方法を変えれば、何か違う反応が見られるかもしれませんね」
久我は三人のやり取りを聞いてから九条へ向き直り、安全に再現できる条件を確認した。
九条が設備の設定を見直し始めると、検証区画には再び機械の低い駆動音が戻ってきた。
久世は右手を見つめた。
まだ、何も分かっていない。
けれど、同じものを見ているはずなのに、それまでとは違う景色が見え始めていた。
遠い昔に誰かが開けた小さな隙間から、ようやく光が差し込んだような気がした。
*
三日目。設備の変更やパターン変化の調整に時間を要した。
天井の可動フレームが低い駆動音を響かせ、金属製の直方体を区画の端へ移動させる。代わりに運び込まれたのは、人の胴ほどの大きさがある樹脂製の模擬材だった。内部には重量を調整するための錘が収められているが、今回使用するのは最も軽い仕様で、二重の保持ワイヤーによって落下しないよう固定されていた。
九条が移動範囲を確認し、久世の立ち位置から十分な安全距離を確保する。
模擬材は一定の速度で斜めに移動したあと、駆動力を失って慣性だけで進む。
その間に外部から何らかの力を受ければ、進路の変化が記録される仕組みだった。
これまでの試験とは異なり、久世が重量を支える必要はない。
求められるのは、移動する物体の方向を変えることだった。
「条件は変更したが、無理に何かを起こそうとする必要はない」
久我の説明を聞きながら、久世は目の前にある模擬材を見つめた。
「分かりました」
計測が始まると、頭上の支持装置が静かに動き出した。
模擬材は久世の正面を横切り、やがて設定された位置で駆動力を失う。
その先には障害物も人もなく、何もしなければ安全装置によって停止するだけだった。
久世は右腕を持ち上げ、動きに意識を集中させた。
目の前を通過する物体の向きを変える。
それだけを考えていたが、AOFの表示には何の変化も現れなかった。
東条が取得した記録にも、通常とは異なる反応は見つからない。
ただし、東条はそこで再び筋出力を高めようとはせず、久世が動作を始めた時刻と模擬材の位置関係を調べていた。榊も右腕の負荷が増えていないことを確認し、姿勢を少し変えた条件での計測を提案する。
久世は指示に従ったものの、結果は同じだった。
先ほどまでとは違う方法を試しているはずなのに、身体は何も応えてくれない。
久世は右腕を下ろし、支持装置へ視線を向けた。
何かが足りない。
そう思う一方で、何を加えればいいのか分からなかった。
そこで、ふと別の考えが浮かんだ。
足りないのではなく、余計なことをしているのかもしれない。
あの男にAOFの使い方を教えられた時も、そうだった。
完全に姿を消そうとすればするほど、周囲との違いを意識してしまう。
だが、人の視線や景色に馴染ませることを考えた途端、同じ装備の使い方が変わった。
特別な機能を追加したわけではない。
何を目的として装備を使うのか、その考え方が違っていただけだった。
久世はもう一度、模擬材を見た。
今度は、それを動かそうとは考えなかった。
自分の正面を通過する物体が、そのまま進めばどこへ辿り着くのか。
どの位置からなら、最も少ない力で進路を変えられるのか。
目の前にあるのは、押し返すべき障害物ではない。
一定の方向へ進み続けようとする、ただの物体だった。
久世は掌を開き、腕の力を抜いた。
重いものを受け止める時のように筋肉を固めるのではなく、進んでくる物体の横へ手を添えるように構える。
もしここに、見えない壁があったとしたら。
正面から衝突させるのではなく、斜めに触れさせる。
そうすれば、物体は壁に沿って別の方向へ進むはずだった。
「……もう一度、お願いします」
久世の声に、操作卓へ向かっていた東条が顔を上げる。
榊が計測器の状態を確認し、久我から許可が出ると、支持装置が再び起動した。
模擬材がゆっくりと移動を始める。
久世はそれを正面から捉えながらも、視線を物体の中心ではなく、その少し先へ向けた。
進行方向、速度、触れる位置。
頭の中で軌道を組み立てるうちに、久世は自分の右腕が、今までとは違う感覚で動こうとしていることに気づいた。
何かを押すためではない。
通り道を作るための動きだった。
模擬材が設定された位置へ差し掛かる。
久世は右腕を前へ出し、その進路に斜めの面を置くように、静かに手首を返した。
そこで、視界の端に見慣れない表示が浮かんだ。
《NEURAL RESPONSE:DETECTED》
久世の呼吸が一瞬止まる。
右肩の奥へ、微かな熱が生じた。
重いものを持ち上げた時とは違う。
筋肉そのものに力が入っている感覚は薄いのに、腕の外側へ何かが広がろうとしていた。
久世は思わず右手を握りかけたが、途中で動きを止めた。
今は、力を込める必要がない。
目の前の物体を、どこへ通せばいいのか。
それだけを考える。
次の瞬間、右腕の周囲に薄い歪みが生まれた。
《ORION PROTOCOL》
《MODULE SLOT 01:ACTIVE》
久世の目が見開かれる。
透明な輪郭が腕の外側へ重なり、指先からさらに先へ伸びていく。
以前は巨大な腕が突然現れたように感じられたが、今回は違っていた。
自分が右手を動かそうとする、その意図に合わせて輪郭が形を変えている。
久世は開いた掌を斜めに傾けた。
すると、進路上に形成された力場が模擬材の側面へ作用し、その軌道を静かに押し曲げた。
激しい衝撃音はなかった。
物体は速度を大きく失うことなく、本来の進路から外れ、横へ二十センチほどずれた位置を通過した。
駆動装置の設定にはない動きだった。
測定用の表示が変わり、操作卓で警告音が鳴る。
「……今の」
榊が画面から顔を上げた。
久世も、自分の右腕を見ていた。
そこには確かに、透明な巨大な輪郭が重なっている。
以前とは違う。
突然現れた力に身体を預けているのではなく、自分が動かした方向へ、その力がついてきていた。
「久世さん、維持時間を確認してください!」
榊の声が届く。
久世が視線を上げると、AOFの表示には起動からの経過時間が刻まれていた。
《ACTIVE DURATION:14.0 SEC》
《MAXIMUM DURATION:60.0 SEC》
久世は右腕をゆっくりと下ろした。
その動作に従うように、外側へ広がっていた輪郭が収縮していく。
《ORION:OFFLINE》
力場が消えた途端、肩から肘へ鈍い痛みが走った。
久世は反射的に左手で右腕を支えたが、立っていられないほどではなかった。
操作卓では東条が複数の記録を呼び出し、九条が装置の動作履歴を照合していた。
模擬材の進路は、予定された位置から明確に変化している。
支持ワイヤーの張力も、側面から力を受けたことを示していた。駆動装置の異常や制御の誤差だけでは説明できない数値だった。
「……出たな」
東条の声に、普段の軽さはなかった。
榊は久世のもとへ歩み寄り、右腕に接続された計測器を確認する。
「久世さん、今のは……」
「……うん」
久世は痛みの残る腕を見つめた。
「自分で、出せました」
言葉にしてから、ようやく実感が湧いてきた。
あれほど繰り返しても応えてくれなかった力が、ほんの少しだけ、自分の意思に従った。
東条は記録を保存しながら、何度も同じ箇所を確認していた。榊が神経負荷を調べる間、九条は起動時間と装備の保護機構を照合し、継続して実験できる状態かを慎重に判断している。
久我は久世の前へ来ると、右腕の様子を確かめた。
「どうやった」
久世は少し考えた。
これまでのように腕へ強い力を込めたわけではない。
危険な状況を作り出し、誰かを守らなければならないと自分に言い聞かせたわけでもなかった。
「止めようとするのを、やめました」
「それで?」
「力が向かう先を考えて……そこに、腕を置くような感じです」
久我は頷いたものの、すぐに結論を出すことはしなかった。
「分かった。ただし、今の一回で発動条件が確定したわけではない。記録を調べてから、次の段階を決めよう」
「はい」
その判断を聞いても、久世に不満はなかった。
もう一度試したい気持ちはある。
だが、今はそれ以上に、確かな手応えが残っていた。
右腕へ意識を向けると、普段とは違う重さがある。
指先には細かな痺れが残り、掌を握り込むにも少し時間が掛かった。
それでも久世は、その痛みを嫌なものだとは感じなかった。
能力を使った代償が、初めて自分の選択と結びついていたからだ。
ふと、以前に出会った男のことを思い出す。
自分の知らなかった装備の使い方を、何でもないことのように示してみせた、あの男。
彼が教えたのは、特別な技術ではなかった。
考え方を変えること。
当たり前だと思っていた方法を、一度疑ってみること。
久世は右手を開いた。
そこにはもう、巨大な腕の輪郭は残っていない。
自分が何を考え、どう動かしたのか。
少なくとも、その一部分だけは覚えている。
窓のない検証区画で、頭上の支持装置が静かに停止した。
東条たちが記録を調べる音を聞きながら、久世は掌へ残る微かな熱を確かめた。




