#30 青緑の表紙
前川から届いた案内には、駅から店までの地図と、入口の写真が添えられていた。
『看板が少し小さいので、この緑の扉が目印です』
その下には、もう一通。
『駅で待ち合わせでも大丈夫です』
久世は駅の方を選んでいた。
道順が難しそうだったからではない。
店まで一緒に歩けば、その間に少し話せると思ったからだった。
改札を抜けると、柱の傍らに前川が立っていた。
生成りの半袖ブラウスに、深い緑のロングスカートを合わせている。
長い髪はいつもより低い位置で片側にまとめられ、細いリボンが結ばれていた。
肩には布の鞄を掛け、両手で持ち手を握っている。
彼女は久世に気づくと背筋を伸ばした。
「おはようございます」
「おはよう。待った?」
「いえ、私もさっきです」
前川はそう答え、端末を鞄へしまった。歩き出す方向を示そうとして、一度だけ手を止める。
「あの……今日は、ありがとうございます」
「俺も来てみたかったから」
その返事を聞いてから、ようやく彼女は駅の出口へ向かった。
*
大通りを一本外れると、建物の高さが揃った、古い商店街へ出た。
店先の植木に水をやっている人がいて、濡れた舗道に日陰が映っている。軒先の配送端末には次の集荷時刻が表示されていたが、その下では、店主が段ボール箱へ太いペンで宛先を書いていた。
前川は通りを見渡しながら、少し先を指した。
「あそこです」
写真で見た緑の扉があった。
入口の上には、《文具と暮らし 余白》と書かれた小さな看板が掛かっている。
窓にはノートや便箋のほか、陶器のカップと、小さな木製の動物が並んでいた。
「前は、別のお店に行く途中で見つけたんです。外から見た時は、食器のお店だと思って」
「入ってみたら、文房具も?」
「はい。奥に、たくさん」
その言い方が少し嬉しそうだった。
扉を開けると、小さなベルが鳴った。
店内には木の棚が幾つも並び、紙と木材の匂いがした。入口近くにはカップや小皿があり、その奥へ進むにつれて、ペン立て、手帳、便箋と、棚に置かれるものが変わっていく。
前川は手前の棚で立ち止まった。
「この前の付箋、ここにあるんです」
丸い動物が、透明な袋の中から何匹も顔を出していた。
猫、犬、鳥。それぞれ身体の部分に短いメモを書けるようになっている。
久世が以前見たのは、そのうちの一つだった。
「種類、増えてます」
前川は新しく並んだものを見つけ、そっと袋を持ち上げた。
灰色の鳥が、紙の端へしがみつくように描かれている。
「これは、挟むとこうなるんです」
見本のノートを開き、前川がページの端へ付箋を貼る。閉じると、鳥の頭だけが上から覗いた。
「……見てる」
久世が言うと、前川は顔を上げた。
「え?」
「こっちを」
もう一度ノートを見た前川が、口元を緩めた。
「本当ですね。早く読んでって言われてるみたいです」
「溜めたら、増えるんだ」
「私の手帳、結構そうなってます」
前川は笑いながら見本を戻したが、鳥の付箋は棚へ返さなかった。
*
ノートの棚には、同じ大きさでも、表紙の色や紙質の違うものが並んでいた。
久世が一冊を手に取ると、前川は隣の見本を開いた。
「書き心地、試せますよ」
棚の端に小さな机があり、試し書き用の紙とペンが置かれていた。
前川は久世が持っているノートと同じ紙を探し、手前へ引き寄せる。
「普段は、どんなペンを使ってますか?」
「こういうの」
久世は鞄から、いつものボールペンを取り出した。
前川は頷き、紙の隅へ視線を向ける。
「持っているペンで試して大丈夫って書いてあります。いつも書くものの方が、分かりやすいと思います」
久世は何を書くか迷い、日付を書いた。
次に、自分の名前を書く。
「……署名みたいですね」
「ほかに、思いつかなくて」
前川は少し笑い、別の紙を隣へ並べた。
「こっちにも書いてみてもらえますか」
同じ文字を書いたのに、ペン先が進む感触が違った。
最初の紙には僅かな引っ掛かりがあり、次の紙は滑るように線が伸びる。
「こっちの方が、書きやすい」
「滑らかな方ですね。私は少し引っ掛かる方が好きなんですけど、急いで書くなら、そちらもよさそうです」
前川は久世の手元を見ながら話していた。
局内で機材について説明する時にも似ているが、今は結論を急いでいない。
久世がもう一度書くのを、隣で静かに待っていた。
「詳しいね」
声を掛けると、彼女は少しだけ肩をすくめた。
「好きなので、つい。細かいことばかり、すみません」
「いや。違いが分かった」
久世が二枚の紙を見比べると、前川もそちらを覗いた。
「同じペンでも、結構変わるんです」
「うん。教えてもらわなかったら、表紙で決めてた」
「表紙で選ぶのも、いいと思います。使う時に、好きな色だと嬉しいので」
久世は棚へ目を戻した。
先ほどまで同じように見えていたノートの中から、書きやすかった紙を使ったものを探す。
黒、紺、灰色。その隣に、落ち着いた青緑の表紙があった。
手に取って開くと、前川が少し嬉しそうに言った。
「その色、きれいですよね」
「うん」
久世は閉じた表紙をもう一度見た。
前川は急かさず、自分も別の一冊を手に取った。
店の奥で、誰かが引き出しを開ける音がした。
窓から入った光が、棚の端にあるガラスのペン立てを照らしている。
久世は二冊を見比べた末、青緑の方を残した。
「これにする」
「はい」
前川は、選んだのが自分のもののように微笑んだ。
*
前川は、二本のペンを交互に持ち替えていた。
久世がノートを決めたあとも、彼女の買い物はまだ終わっていなかった。
試し書きの紙には同じ短い文字が何度か並び、その横に、小さな丸が二つ描かれている。
「違うの?」
久世が尋ねると、前川は一本を少し持ち上げた。
「こっちは軽いんです。もう一本は、先の方に重さがあって……長く書くなら、どっちが楽かなって」
久世にも持たせてくれたが、片方ずつではよく分からなかった。
続けて持ち替えて、ようやく僅かな違いに気づく。
「重い方が、勝手に下がる感じがする」
「そうなんです。あまり押さえなくても書けるので」
説明する声には迷いがなかった。それでも、前川は軽い方も手放さず、指の間でゆっくり回した。
「こっちの色も好きで」
薄い乳白色の軸だった。もう一本は、つやのない銀色をしている。
「普段、長く書く?」
「そうですね。考えを整理していると、気づいたら何ページも」
「じゃあ、疲れない方かな」
前川は銀色のペンを見てから、乳白色の方へ視線を移した。
「……でも、こっちも。あっ、すみません。決めるの、遅いですよね」
「ゆっくり納得のいくものを選んだらいいよ」
久世が棚の脇へ寄ると、前川はもう一度、二本を机に並べた。
今度は少し長い文章を書く。書き終えて紙を眺め、それから乳白色のペンを手に取った。
「こっちにします」
「うん」
「持って帰って使うところを考えたら、こっちがいいなって」
久世は頷いた。
自分の選んだ青緑のノートも、使うだけならほかの色で困らなかった。
けれど、別の色へ交換しようとは思わなかった。
前川は鳥の付箋とペンを小さな籠へ入れ、もう一度だけ棚を見渡した。
「お待たせしました」
「ほかは、いい?」
「はい。今日は、これで」
レジへ向かう途中、彼女は何かを見つけて足を止めかけたが、すぐに前を向いた。
久世がその棚を見ると、細いガラスのペンが光を受けて並んでいた。
「見ていかないの?」
「……また、決まらなくなるので」
*
店の外へ出ると、冷房に慣れた頬へ昼の熱が戻ってきた。
前川は紙袋を鞄へ収めようとして、久世の方を見た。
「久世さん、重くないですか?」
「ノートだけだから、大丈夫」
扉の脇へ移動して端末を取り出す。その画面を開く前に、久世が声を掛けた。
「この近くに、菓子の店があるんだけど」
前川が顔を上げる。
「鳴海さんに教えてもらった。よかったら、寄らない?」
「鳴海さんが……?」
「うん。場所を見たら、ここから近かったから」
久世が地図を見せると、前川は少し身を寄せた。
「《菓子工房こはく》……あ、ここ、前を通ったことがあります。鳴海さん、こういうお店も知っているんですね」
「甘いもの、好きみたい」
「行ってみたいです」
地図に従って角を曲がると、通りの先に小さな庇が見えた。
店先には焼き菓子の写真と、冷たい飲み物の案内が置かれている。ガラス越しに見える陳列台には、金色に焼けた菓子が並び、奥には二人掛けの席が幾つかあった。
久世が扉へ手を伸ばしかけた時、背後から声がした。
「あれ、久世?」
振り返ると、新井が立っていた。
その隣には牧野がいる。二人とも私服で、牧野は手に持っていた端末から顔を上げたところだった。
「本当だ。奇遇っすね」
新井の視線が、久世から前川へ移った。
「ああ、買い物って今日だったんだ」
「はい」
前川が鞄の持ち手を握り直す。
新井はその様子に気づいたのか、それ以上二人を見比べず、店の看板へ顔を向けた。
「ここに入るところ?」
「鳴海さんに教えてもらって」
久世が答えると、牧野が納得したように頷いた。
「あの人の店なら、間違いなさそうっすね」
「二人は、食事ですか」
「そう。あの炭火焼きの店、この先なんだ」
新井が通りの向こうを示した。牧野は菓子店の窓を覗き込み、入口の写真へ目を留める。
「焼き立て、あるって」
「今からご飯でしょ」
「一個なら入るだろ」
「入るだろうけど。予約の時間、見て」
牧野が端末を確認し、残念そうに窓から離れた。
「今度買いにこよう、そうしよう」
「はいはい、そうしよそうしよ」
新井が答えると、前川が小さく口を開いた。
「持ち帰りも、できるみたいです」
店先の案内を指すと、牧野の顔が明るくなった。
「それなら家でも食えるな」
「買うのは決まってんのね」
新井は笑い、久世へ向き直った。
「何がおいしかったか、あとで教えて」
「はい」
「じゃあ、またね。前川さんも、ゆっくり楽しんで」
「ありがとうございます」
二人は並んで通りを進んでいった。
「びっくりしました」
「うん」
「お二人とも、普段から一緒に出かけたりするんですね」
久世も二人の消えた角を見た。
「職場だと、知らないことも多いね」
前川が頷いた。先ほどまで握っていた鞄の持ち手から片手を離し、店の窓へ目を戻す。
「……焼き立て、私も気になります」
「見てみよう」
扉を開けると、甘いバターの匂いが流れてきた。
陳列台の向こうで、店員が新しい天板を運んでいる。
前川は丸い焼き菓子と、端に並んだ四角いものを順に見つめた。
久世は鳴海から届いた店の名前を画面で確かめ、端末をしまった。
*
陳列台の手前に、小さな札が立っていた。
《焦がしバターのフィナンシェ 焼き上がりました》
久世が見ていると、天板を置いた店員が顔を上げた。
「店内でしたら、温かいものをお出しできますよ」
前川は隣の丸い菓子と見比べ、それから札へ目を戻した。
「これを、お願いします」
「俺も同じもので」
飲み物を選び、窓際の席へ通された。
前川は鞄を隣の椅子へ置き、外から見ていた陳列台を振り返った。透明な袋に包まれた菓子の向こうで、店員が手際よく箱を組み立てている。
「いい匂いですね」
「うん」
テーブルは二人で向かい合うと、それほど余裕がなかった。鞄から出した紙袋を膝へ移そうとする彼女に、久世は自分の方を少し空けた。
「ここに置けるよ」
「ありがとうございます」
文房具店の名前が入った袋が、二人の間に並んだ。
*
フィナンシェは、縁が濃いきつね色に焼けていた。
前川は一口かじり、すぐには何も言わなかった。表面が薄く割れ、中の柔らかい部分が見える。久世も食べてみると、バターの香りが口に広がった。
「……おいしい」
先に口にしたのは久世だった。
前川が顔を上げ、何度か小さく頷く。
「端のところ、少しサクサクしてます」
「中は、柔らかいね」
「これ、温かいうちに食べられてよかったです」
彼女は残りを皿へ置き、まだ食べていない部分を少し眺めた。
「持って帰る分も、買いたくなりますね」
久世は端末を取り出し、新井へ短いメッセージを送った。
焼き立てのフィナンシェがおいしかった、と伝えると、しばらくして返事が届く。
『ありがとう。牧野が明日行くってさ』
その下に、料理の写真が続いた。
鉄板いっぱいに肉と野菜が並び、端には取り分け用の皿が二枚見える。
前川に画面を向けると、彼女は少し身を寄せた。
「すごい量ですね」
「まだ頼むのかな」
「牧野さんなら、食べられそうですけど」
二人で写真を見ていると、もう一通届いた。
『これは最初の一皿』
前川が口元を押さえた。
久世も笑い、端末を伏せた。窓の外を人が通り過ぎ、そのたびにテーブルの上の影が短く動いた。
*
店を出る時、二人とも小さな菓子の袋を持っていた。
前川は焼き菓子をいくつか選び、久世はフィナンシェを買った。
温かいものとは食感が変わると店員に教わり、それも試してみたくなった。
商店街を駅へ戻る途中、前川が歩く速度を緩めた。
「今日は、ずっと私の買い物に付き合ってもらってしまいましたね」
「俺も買ったよ」
「そうですけど……文房具のところ、長かったので」
久世は手に持った袋へ目を落とした。
入った時には、紙の違いも、ペンの重さも知らなかった。
急いで一人で選んでいたら、たぶん別のものを買っていた。
「教えてもらえて、よかった」
前川は一度こちらを見て、それから前を向いた。
「好きなものの話になると、止まらなくなることがあって。あとで、喋りすぎたかなって考えるんです
」
「分からないことばかりだったから、助かった」
「……退屈じゃなかったですか?」
「うん」
久世は少し考えてから付け加えた。
「ガラスのペンも、気になった」
前川が顔を上げた。
「最後に見ていたものですか?」
「どうやって書くのか、知らないから」
「先にインクをつけるんです。溝にインクが溜まるので、見た目より長く書けて……」
そこまで言って、彼女は口を閉じた。
久世が続きを待っていると、前川は少し照れたように笑った。
「今、また始めるところでした」
「聞きたいけど」
信号の前で立ち止まると、前川は鞄から端末を出した。
店の写真を開き、ガラスのペンが並ぶ部分を拡大する。
信号が変わるまでの間、久世は彼女が示す細い溝を見ていた。
*
駅へ着くと、前川の乗る電車の方が先に来る時刻だった。
改札の手前で、彼女は紙袋を鞄へ収め直した。
菓子が潰れないよう位置を変え、それから久世へ向き直る。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「ノート、使っていて気になることがあったら、教えてください」
久世が頷くと、前川は少し迷ってから続けた。
「また、お買い物付き合ってくれますか?」
「うん。またいこう」
前川は嬉しそうに目を細め、鞄の持ち手を握り直した。
「では、また」
「うん。気をつけて」
前川は改札を通り、一度振り返って会釈した。久世も手を上げ、人の間へ姿が隠れるのを見送った。
自分の乗り場へ向かいながら、鳴海への連絡を忘れていたことに気づく。
『教えてもらった店に行ってきました。焼き立てのフィナンシェ、おいしかったです』
返事は、ホームで電車を待っている時に届いた。
『次はガレットも食べてみろ』
久世は文面を見て、小さく息を漏らした。
まだ別のおすすめがあったらしい。
電車に乗り、席へ落ち着いてからノートを手に取る。
青緑の表紙を開くと、白いページが窓からの光を受けた。
久世は鞄からペンを取り出し、今日の日付を書く。
その下に《文具と暮らし 余白》と《菓子工房こはく》を並べた。
店で試した時と同じように、ペン先は滑らかに進んだ。
紙を選ぶだけで書き心地が変わることを、今朝の自分は知らなかった。
少し考えてから、二つの店名の下へ書き足す。
――ガラスのペン。ガレット。
次に出かけた時、忘れずに見たいものと、食べたいものだった。
前川に連絡するのは、次の休みが分かってからにしよう。
久世はインクが乾くのを待ち、最初の一ページを閉じた。




