#29 はんぶんこの休日
待ち合わせの二十分前に着いてしまった。
久世は駅前の時計と、端末に表示された時刻を見比べた。どちらも同じ数字を示している。乗り換えに余裕を見込みすぎたうえ、休日の電車が思っていたより空いていた。
映画館の入った商業施設は、駅から歩いて数分の場所にある。
広場には遮熱幕が張られ、その下を買い物客が行き交っていた。噴水の縁で子供が靴を濡らし、母親に呼び戻されている。久世は待ち合わせに指定された柱の傍らへ寄り、半袖のシャツの裾を軽く直した。
仕事用の装備はない。鞄に入っているのは財布と折り畳み傘、それに使う予定のないメモ帳だった。
榊から届いた最後のメッセージを確認する。
『中央口を出たところでお願いします。暑かったら、中で待っていてください』
到着したことを伝えようとして、指を止めた。
まだ時間がある。先に着いたと送れば、急がせてしまうかもしれない。
「久世さん?」
声のした方へ顔を向けると、榊が数歩離れたところに立っていた。
淡い青のブラウスに、薄手の白い上着を羽織っている。小さな肩掛けの鞄を持ち、肩の辺りで切り揃えた黒髪を、片側だけ耳に掛けていた。
局内で見慣れた姿との違いに、久世は一瞬、返事が遅れた。
「……おはよう」
「おはようございます。もう来てたんですね」
「今、着いたところ」
榊は時計を見上げ、少し笑った。
「私も早すぎるかなと思ったんですけど」
「電車が、すぐ来たから」
「私もです」
同じ理由に頷き合ったあと、二人とも黙った。
いつもなら、どちらかの手元に確認する資料や端末がある。今日は話を始めるための用件がない。久世が商業施設の方へ目を向けると、榊もそちらを見た。
「お昼のお店、もう開いていると思います。先に行きますか?」
「うん。そうしよう」
歩き出してから、榊が横目で久世を見た。
「そのシャツ、いいですね」
久世は自分の服へ視線を落とした。濃い灰色の、特に飾りのないシャツだった。
「これ?」
「はい。そういう格好、あまり見ないので」
「いつも、同じような服だけど」
「私が見る時は、大体その上に仕事のものを着てますから」
言われてみれば、その通りだった。
久世は隣を歩く榊へ目を戻した。
「榊も、いつもと違う」
「……変ですか?」
「いや。似合ってる」
榊の足が僅かに遅れた。
久世も歩調を緩めると、彼女は鞄の紐を持ち直して、前を向いた。
「ありがとうございます」
それ以上続けていいのか分からず、久世は店への経路を確認した。
画面を見る必要がなくなってからも、少しの間、端末を持ったままでいた。
*
選んだ店は、商業施設の裏手にある小さな洋食店だった。
軒先の木製看板には、店名と一緒に小さなフライパンの絵が描かれている。入口脇の黒板には、本日のおすすめとしてハンバーグとオムライスが並んでいた。
窓際の席に通されると、榊は鞄を隣に置き、冷たい水の入ったグラスを両手で持った。
「ここ、ちゃんと見つかってよかったです。表の通りからだと、看板が見えなかったですね」
「一度、通り過ぎたかと思った」
「私もです。でも久世さんが普通に歩いていたので、分かってるのかなって」
「地図では、この辺だったから」
榊は笑ってメニューを開いた。
「二人とも分かってなかったんですね」
久世もメニューを手に取る。
料理の写真を順番に見ていると、榊は既に二つのページを行ったり来たりしていた。
「決まりそう?」
「ハンバーグにしようと思って来たんですけど、こっちのオムライスも気になってきました」
「榊は、卵が好きなの?」
「好きです。あと、自分で作るとこんなふうにならないので」
写真の卵は、切り開かれて皿の上へ柔らかく広がっていた。
久世がそれを見ていると、榊は少し身を寄せた。
「家でやると、待ちすぎちゃうんです。もう少し固まってからと思っているうちに、普通の卵焼きになって」
「食べやすそうだけど」
「そうなんですけど、作りたかったのはこれなので」
久世は頷いた。榊が再びハンバーグのページへ戻る。
「……でも、こっちもおいしそうですね」
「俺はハンバーグにする」
「本当ですか?」
「うん」
「じゃあ、私はオムライスにします」
注文を終えると、榊はメニューを脇へ置いた。
「一口、交換してもらってもいいですか?」
「いいよ」
「ありがとうございます。これで両方食べられます」
満足そうな顔を見て、久世は自分も別の料理を食べられることに気づいた。
料理を待つ間、榊は上映時間を確かめた。
「まだ余裕ありますね」
「映画、よく観に行ってたの?」
「前は、今より行ってました。一人で観ることも多かったです」
「一人の方が、楽?」
榊は少し考えてから、端末を伏せた。
「時間を気にしなくていいのは楽ですね。でも、観終わったあとに誰かと話したい時もあります」
窓の外を、日傘を差した人が通り過ぎる。遮られていた光が戻り、テーブルの上を明るくした。
「自分では気づかなかったところを、相手が覚えていたりするので。同じものを観たのに、結構違うんですよ」
「俺は、うまく感想を言えないかもしれない」
「試験じゃないんですから。面白かったとか、眠かったとかで大丈夫です」
「寝ないとは思う」
榊が笑ったところで、料理が運ばれてきた。
彼女はオムライスを見て、僅かに背筋を伸ばした。皿の角度をそっと変え、卵へスプーンを入れる。
柔らかく開いた表面から湯気が上がると、小さく息を漏らした。
「……これです」
久世は自分の皿にナイフを入れながら、その声に顔を上げた。
装備の不具合を見つけた時とも、解析結果を説明している時とも違う顔だった。
*
店を出る頃には、入口に空席を待つ人が並んでいた。
榊はその列を避けて歩道へ出ると、鞄から端末を取り出した。
「早めに来てよかったですね」
「うん。オムライスも、おいしかった」
「でしょう? ハンバーグもよかったです。次はもっと迷いそうですけど」
次に来た時の話が、ごく自然に続いた。
久世は木製の看板を一度振り返り、榊に並んだ。
商業施設へ入ると、冷えた空気が首筋に触れた。
吹き抜けの上には上映作品の広告が並び、上階へ向かうエスカレーターから、売店の列が見える。
映画館のロビーには、古い旅客船を背景に、男女が背中合わせで立つポスターが掲げられていた。船尾では、実際に起これば二人とも無事では済みそうにない爆発が上がっている。
《デッドライン・クルーズ》
《今夜、俺たちは降りられない》
久世はポスターと、榊の端末に表示されたチケットを見比べた。
「……結構、派手なんだね」
「予告だと、もう少し落ち着いてましたよね」
榊も燃え上がる船を見上げたが、むしろ楽しそうだった。
「こういう映画、好きなの?」
「時々、無性に観たくなるんです。細かいことを考えずに楽しめそうで」
「船、沈みそうだけど」
「上映時間は二時間あるので、しばらくは大丈夫だと思います」
久世はもう一度ポスターを見て、小さく笑った。
売店へ近づくにつれ、甘い匂いが強くなった。
榊が頭上のメニューを見上げ、その視線が飲み物の欄から隣へ移る。
「……ポップコーンも、少し食べたいです」
久世も大きさの違う容器を見た。
「さっき、結構食べたけど」
「そうなんですけど。この匂いがすると、欲しくなりません?」
言われると、少し分かる気がした。
「半分なら、食べられると思う」
「じゃあ、一つだけ買いましょう」
塩とキャラメルで迷った末、両方入ったものを選んだ。
久世が容器を持ち、榊が二人分のチケットを係員に見せる。
通路へ入る直前、榊が小さく言った。
「両方食べたいって、今日はそればっかりですね」
「選ばなくて済むから、いいんじゃない」
「久世さんが一緒で助かりました」
久世は手元の容器を見てから、指定された扉の番号を探した。
*
席は、スクリーンの中央より少し後ろだった。
榊が先に座り、久世も隣へ腰を下ろす。
深く沈む座面に落ち着くと、彼女が二人の間へ小さく手を出した。
「こっち、置けますよ」
肘掛けに取り付けられた台へ容器を載せると、榊は鞄を膝に置き直した。
まだ明るい場内を見回し、それからスクリーンへ向き直る。
久世は端末の通知を切った。
局から追加の連絡は来ていなかった。
確認を終えてしまうと、ほかに急いで見るものもなく、そのままポケットへ収めた。
ほどなく照明が落ち、予告編が始まった。
雪に覆われた町を舞台にした作品や、見覚えのある俳優が出演する喜劇。
そのあとに鑑賞中の注意が流れ、場内がもう一段暗くなる。
夜の海が、スクリーンいっぱいに広がった。
波の音が背後まで回り込み、久世は背もたれへ身体を預けた。
物語は、古い旅客船から持ち出された荷物を巡る逃走劇だった。
運び屋の男が取り違えた荷物には、ある企業の不正を示す記録が入っている。追われる理由も分からず彼が逃げ込んだ先は、偶然にも、荷物の本来の持ち主である女の車だった。
女は記録を取り戻そうとし、男は面倒事から手を引こうとする。
目的の違う二人が協力するまでに、車が一台横転し、倉庫の窓が何枚も割れた。男はそのたび、自分には関係ないと言いながら女を追い掛けていた。
追手を避けて再び旅客船へ乗り込む頃には、逃げたい方向だけは同じになっていた。
男が格好をつけて開けた非常口の先が物置だった場面で、隣から抑えた笑い声が聞こえた。
榊は口元へ指を添え、肩を小さく揺らしていた。
彼女は扉を開ける前から、その先を予想していたらしい。
男が何事もなかったように扉を閉めると、今度は久世も笑った。
予告編にあった厨房の場面では、二人が調理台の下へ潜り込み、互いの足を邪魔だと押し合っていた。すぐ外では追手が捜しているのに、小声の言い争いは止まらない。
それでも、物語が進むにつれ、男が女を突き放す言葉には、危険から遠ざけようとする意図が混じり始めた。
終盤、炎の上がる船内で別行動を取った男は、救命艇へ続く出口に辿り着いた。
そこからなら、一人で逃げられた。
係員が乗船を促す中、男はポケットから小さな鍵を取り出した。追手に奪われないよう、女から預けられていた車の鍵だった。
久世は、男が踵を返すのを見て、膝の上に置いていた手を緩めた。
*
場内の照明が戻っても、榊はしばらく席を立たなかった。
最後の音楽が途切れ、スクリーンに配給会社の名前が出る。
そこまで見届けてから、彼女はゆっくり息を吐いた。
「……よかったです」
「うん」
「眠くなりませんでした?」
「ならなかった」
久世が答えると、榊は嬉しそうに笑った。
出口へ向かう列に入りながら、二人は飲み物の容器をまとめた。あれほど多く見えたポップコーンも、ほとんど残っていなかった。
「途中から、食べるの忘れてました」
「俺も」
「結局、船はああなるんですね」
「ポスター、間違ってなかった」
「そうですね。むしろ、まだ控えめでした」
ロビーには次の回を待つ人が集まっていた。
榊は壁のポスターをもう一度眺め、売店に並んだパンフレットへ目を向ける。
「少し見てもいいですか?」
「うん」
表紙を確かめ、彼女は一冊を取った。
購入を済ませると、その先にあるカフェの空席を見つけ、久世を振り返った。
「少し、話していきませんか?」
「俺も聞きたかった」
「何をですか?」
「最後、榊が笑ってたところ」
*
窓際の席へ落ち着くと、榊は買ったばかりのパンフレットを取り出した。
「男の人が戻るところですか?」
「その少し前。鍵を見てる時」
「ああ……あの鍵、最初は返そうとしてたんですよ」
久世は映画の序盤を思い返した。
「車の中で?」
「はい。自分は荷物を届けるだけだって言って。それなのに最後は、鍵を持ったまま戻るんです」
榊はパンフレットに載った二人の写真を指した。
「もう、預かり物だからじゃないんだなって思ったら、ちょっと嬉しくなって」
久世が覚えていたのは、追手の位置と、引き返して間に合うかどうかを測る男の視線だった。
同じ場面で、榊は手元の小さなものを見ていた。
「気づかなかった」
「私も、見逃したところはあると思います。久世さんは、どこが好きでした?」
答えを探す間も、榊は急かさなかった。
「戻ってきたあと」
「女の人が怒るところですか?」
「うん。助けに来たって言わずに、忘れ物だって」
「あそこ、よかったですね」
榊が身を乗り出す。
「最初からずっと、素直じゃない人でしたもんね」
「でも、戻ったから分かると思う」
榊は一度頷き、少し考えるように視線を落とした。
「そうですね。でも私は、言ってくれてもいいのになって思いました」
「助けに来たって?」
「はい。待っていた方には、戻ってきた理由を聞きたい気持ちもあると思うので」
久世はストローから指を離した。
自分は、戻ったという事実だけで十分だと思っていた。
それでも、あの場に残されていた女が、最初に怒った理由は少し分かった気がした。
「……そうか」
「すみません。結構、細かいところまで話してしまいました」
「いや。聞けてよかった」
榊は表情を和らげ、冷たい飲み物を一口飲んだ。
「感想、ちゃんと言えてますよ」
「榊に聞かれたから」
「じゃあ、聞いてよかったです」
そのあとで話題は、厨房の場面へ戻った。
榊は女が持っていた大きな鍋の使い道を最後まで気にしていたらしく、久世は、そこは覚えていないと正直に答えた。
「ずっと持っていたんですよ。逃げる時も、一回持ち直してました」
「何かに使った?」
「追手の足元へ転がしてました」
「……あれか」
「そうです。そこまで持っていたんだって思ったら、もう」
榊が笑い、久世にも、厨房の狭さと二人の困り果てた顔が浮かんだ。
同じ映画をもう一度観たら、今度は鍋を目で追ってしまいそうだった。
*
商業施設を出ると、日差しは少し傾いていた。
昼ほどではないが、舗道にはまだ熱が残っている。
駅へ向かう人の列を避け、二人は店先の日陰を選びながら歩いた。
榊はパンフレットの表紙をもう一度眺め、折れないよう鞄の背中側へ差し込んだ。
「いつも買うの?」
「気に入った時だけです。あとから読むと、撮影の話とかも載っているので」
「今日は、当たり?」
「はい。誘ってよかったです」
言ってから、榊は少しだけ久世を見た。
「……久世さんも、そうだったらいいんですけど」
「楽しかった」
久世は前を向いたまま答え、それでは映画だけの感想に聞こえるかもしれないと思い直した。
「昼も、そのあとも」
榊の足取りが、隣で僅かに緩んだ。
「それなら、よかったです」
駅前の信号が赤に変わり、二人は横断歩道の手前で止まった。
出かける前には、昼食と映画の時間だけが決まっていた。食事を交換することも、上映後にあんなに長く話すことも予定にはなかった。久世にとっては初めての経験な気がした。
信号が変わると、榊が先に半歩進み、久世が隣へ並ぶ。
「牧野に感想、聞かれますね」
「結末は話さない方がいい」
「分かってますよ。面白かったから観てって言います」
「鍋の話は?」
「……それも我慢します」
榊は少し残念そうに言い、久世も笑った。
*
駅へ入ると、二人の乗る路線は別だった。
改札へ続く通路の分岐で、榊が足を止める。昼間より人が増えていて、話し続けるには邪魔になる場所だった。久世が壁際へ寄ると、彼女もそちらへ移った。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。誘ってくれて、ありがとう」
「また、気になるのがあったら……声を掛けてもいいですか?」
「うん」
すぐに頷いてから、久世は少し考えた。
「俺も、探してみる」
「映画ですか?」
「うん。今日、予告でやってたのも、少し気になったから」
榊の顔が明るくなった。
「あの、雪の町の?」
「それ」
「私もです。公開、もう少し先でしたよね」
「調べておく」
「じゃあ、今度はお願いします」
榊は自分の改札へ目を向けた。それからもう一度、久世へ向き直る。
「それでは、また」
「うん。また」
榊が人の流れへ戻っていく。
改札の手前で彼女が振り返り、小さく手を振った。
久世も手を上げ、通り抜けるのを見届けてから、自分の乗り場へ向かった。
電車には、座れるだけの空きがあった。
窓際へ腰を下ろすと、端末に榊からメッセージが届いた。
昼に撮っていたオムライスの写真だった。
端には、久世が切り分けたハンバーグの小皿も写っている。
『写真、送っておきます。次は私もハンバーグにするかもしれません』
久世はしばらく写真を見てから、返事を打った。
『その時は、俺が別のものを頼む』
送信して間もなく、笑った顔の絵文字と短い言葉が返ってきた。
『また交換してくださいね』
久世は頷く代わりに、『うん』と送った。
電車が動き出す。窓の外を商業施設の建物がゆっくり離れていく中で、彼は検索欄を開き、予告編にあった雪の町の映画を探し始めた。




